2007年12月31日月曜日

備忘:組曲形式

何故、第9交響曲の第2楽章と第3楽章に居心地の悪さを感じるか? 
それは、「そういう音楽」だからだ! 
でも第1楽章,第4楽章と第2,3楽章のバランスの悪さは? 
いくつかの曲をつなげるという曲の構成法(組曲形式)の問題。 内部の小説的な脈絡と、曲同士の接続の分裂。 ヴェーベルンはそれのうち特に前半を、シベリウスと(多分)ペッティションは後者を問題にした。ヴェーベルンは叙事的な広がりを拒否したため、内部の構造の支えを喪った。シベリウスやペッティションは 単一楽章形式に行き着いた。(恐らくある意味では晩年のショスタコーヴィチも。) マーラーなら『大地の歌』はそれに成功している。恐らく第9交響曲よりも。

楽章配置、組曲的な構成と「ロマン」(必ずしも対立しない、カフカの審判の例を考えよ) ここでも連作歌曲と交響曲を同時に捉えること。 ミッチェル的な生成史も併せて問題にすること。

楽章数の任意性(第3交響曲と第4交響曲の生成史。交響詩「巨人」から第1交響曲への改訂, 嘆きの歌の改訂、さすらう若者の歌の生成史)
楽章配置の任意性(第5交響曲,第6交響曲(中間楽章),第3交響曲(第7楽章としての第4交響曲フィナーレ))
作曲の順序(第2交響曲のケースと第7交響曲のケース)
Teilの導入(第3交響曲,第5交響曲,第8交響曲,交響詩「巨人」も第2交響曲の5分間の休止も)
楽章の一部が歌曲として独立(第3交響曲(第4楽章、第5楽章),第4交響曲(第4楽章),第2交響曲(第4楽章))
楽章の一部が交響詩として独立(第2交響曲第1楽章、ごく初期の構想としては第3交響曲第1楽章も(交響詩「パン」))

マーラー:過去と歴史的(?)未来(己のものではない)。未来が非人称
ショスタコーヴィチ:歴史的過去と未来(到来するものとしての)。過去が非人称

アドルノの誤り、第10交響曲の「ゴング」と消防隊に関して。 ただしプルガトリオを閉じるゴングは、この世の営みや魚に説教するパドヴァの聖アントニウスに基づく第2交響曲同様、 死後の世界への到着を告げるものではあるだろうから、それ自体は正しい。誤っているのは消防隊の連想と、事実関係の誤認だけだ。

Tam-tam 第10交響曲第3楽章, 第2交響曲第3楽章, 大地の歌の「告別」は?
越境? 第6交響曲のフィナーレでハンマーの打撃とともに打ち鳴らされていることに注意。特に音の強さのバランスの推移に注意。ハンマーが2回か、3回かは現実の現場の処理では問題になるだろうが、少なくとも音楽の論理としてはどちらでも大きな違いはない。寧ろ、ゴングの音の強さにおいてこそ、解釈が浮かび上がるとさえ感じられることも多い。(例えばレヴァインの例。)

第10交響曲第3楽章 ザンデルリンク版では最終音でゴングが強い音で鳴る。第2交響曲第3楽章との対比は少なくともこの版では間違いではないだろう。

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