その音楽に関する分析の中で個人的に興味深く感じられる方向性をもったものとしては、現象学的な アプローチからマーラーの音楽に迫ろうとしたGreeneの著作「マーラー、意識と時間性」(1984)が挙げられる。 その内容の詳細について同意できると考えているわけではないが、マーラーの音楽を聴いて感じ取る ことのできる「質」を捉えようとする場合に、基本的に楽曲の構造に注目しながら、解釈のためのデヴァイスと して意識の分析の成果を用いるという発想は、妥当な姿勢だと思う。より厳密に認知心理学的な立場に たつことも勿論考えられるだろうが、ことマーラーの音楽についていえば、もう少しレヴェル的に上位の抽象も あって良いと思う。
だが、期待に反して、具体的なその内容には失望を禁じえない。哲学サイドの議論については摘み食いにしか見えないし、 具体的な音楽の「時間性」(と呼ばれているもの)を分析する道具立てがあまりに貧困なため、それは分析というよりは 単なる主張の羅列、しかもあまり意味があるとは思えない主張の羅列にしか見えない。
以下は読書メモで、あまりに目に余った部分を備忘のために書き留めたもの。
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①positiveであれnegativeであれ、他人を傍証に出すとおかしくなる。
p.166 Part2の出だし、IとII~VIの間の休止について、Bekkerをひいているが、この休止をIの終結性と結びつけるのはおかしい。
II~VUだって同じように完結しているのなら、休止をおくべきことがIの完結性の傍証にはならない。
少なくともこれは不適切だ。
しばしば、その分析は楽曲に従っている限りで正しいと思われるのに、そこから離れて何かを論じると間違いに陥るのは、結局方法論的には破綻している証拠だ。
②p.163もひどい。折角の楽曲の構造の分析をbanalなマーラー自身の譬えの例証にしか使えないとすれば、興味は薄れてしまうだろう。 標題的なもの以上のものを析出できなければ、単に事前に誂えられたプログラムという答えに合わせて分析を構成するだけでは、このような方法論の価値はない。
Greeneは自らの方法を裏切っているのだ。
③時間論といいながら、その時間分析のスキーマは貧しくないか?因果性と自由意志を繰り返して 用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として無意味なことが起こる。
それでいて突然、HeideggerのWiederholungを突然持ち出すのは不自然だ。
もしWiederholungを出してくるなら、予期/瞬視/忘却といったセット、 あるいは本来性、非本来性という点を踏まえなければ意味がない。
memory of memoryやfulfillnessから一息にWiederholungに飛躍するのは、 全くご都合主義的という他ない。(p.130)
認知に基づく例証理論
マクロな構造よりもミクロなアコーギグ?
また、音色、音量etc.のパラメータに言及せずに、時間性を語れるのか?
一面的―あるいは結局「内容の側」の説明―文学的なそれと権利上は同じもの―ではないのか?
p.232.
通常のループ、リニアの時間意識、というか、これは単なる時間の「表象」に過ぎない。
confusedかどうかはだから、表象のレヴェルだろう。時間意識はむしろ、整序をしようとする。流れを 反復を構成するのだ。
Greeneの説明はそんなに間違っていないのかも知れないが、ずれがある。
説明するものと、説明されるもの、例証するものとされるものの間の混乱、あるいは時間意識と 時間表象についての混乱。
例えばGreeneはHusserlの把持と記憶、想起、予期とのレヴェルの違いを理解しているだろうか?
認知理論風に言えば、LTM/STM、リハーサル、想起etc.といった機能レヴェルの違いを理解しているか?
聴取の意識から、Greeneの説明は離れすぎる。その距離は、examplifyの一言で乗り越えられる。
これはおかしい。
しかも構造の分析はしても、それはマクロに過ぎるのだ。ミクロな認知のレベルで起きていることを捉えずに マーラーの音楽の持つ「質」が捉えられるのか?
Adorno風のミクロロギーをやりたくなる。構造の分析も、あまりに一足跳びに心理的(心理学的とはいえない) なメタファーに依りすぎている。これではそのメタファーが楽曲の構造上のどのパラメータに対応するのかの 説明がもう1レベル必要になってしまう。
Greeneの議論においても、またもや因果性、自由意志の問題が生じている。
それが問題があるなら、因果性の定義を変えれば良いのだ。
因果性にこだわる必然性はどこにあるか?
更に言えば、因果性と自由意志との間の関係だって決着がついているわけではないのに、ここではそれは 素通りしてしまって、どちらでもない、confusedな状態と通常でないtransfiguredな状態が区別される。
groundnessが問題になるが、そもそも意識に受動性を認めない立場はありえないし、新しさを認めない立場もありえない。
だからGreeneのdeviceはあまりに杜撰なのだ。
Heideggerを引くのであれば、あるいはHusserlにしても、あまりに表面的に過ぎる様に思える。
方向性は多分正しいが、実現は全く不十分ではないか?
むしろ現象学的なアプローチを取るのであれば、そうした概念がどのように位置づけを得るのか、一般的な(folk psychologyでの) 了解との違いを明らかにした上で論じるべきだ。
また、狭義での認識の水準を超えたLevinasやHeideggerの方向性についても考慮すべきだ。
超越論的自我の問題をここで持ち出すのは適切だろうか?
一般にどのVersionの現象学を用いるのかを明らかにしないで単にHusserlやHeideggerの著作から都合良く利用できるところだけ 引用するのは安易にすぎる。これだから音楽学のレベルが低いと言われるのだ。
少なくとも―採用しなくても―現象学的還元に対する立場、自然的態度と現象学的記述が区別されるという点に触れずに、 Husserlをfolkpsychologyの変種のように捉えるのは不当だ。
自己言及性については、信念、信念の信念、、、というレベルを設ければ済む。多分一度やれば済むことだ。 またIIIでもVIIIでもいいが、Sartre的な即自存在を引き合いに出す意味はどこにあるのか?
体験の分析と、音楽で表現されている内容の「記述」のどちらなのか。examplify理論をIntroで援用した 割には、具体的な記述は怪しい。一見そうでないように見えても、結局Greeneの分析は、一方では 楽曲の形式の分析、他方では内容の(哲学的な概念を動員した)記述―しかもそれはGreeneが聴き取ったもので 一般性はないらしい―哲学者しかやりそうになり独我論に頗る近い―に過ぎず、両者を結びつける肝心の 部分はちっとも明確ではない。
部分的にフレーズの分析があってこれはこれで妥当かもしれないが、結論めいたことを述べる段になると 内容の記述が一人歩きを始める。記述に使った概念という、分析の道具や素材の側の論理で話が進んでしまい 音楽にはちっとも帰ってこない。
これがAdorno的であれ、非Adorno的であれ、社会批判、あるいは単なる文化史的なアプローチであれば、 そうした外部の論理を確かめることに意味がある―それが作品に何らかの形で投影されていると考えるのだから― が、Greeneは内在的な形式分析から出発しているのだから、それは反則、ルール違反ではないか?
Greeneの分析は時折、単に既成の哲学的意識経験の概念の適用に過ぎなかったり、ややもすると 単なるメタファーになってしまっている。都合良く色々な哲学者の装置を(それらの間の関係に ついての見解の表明無しに)アドホックに適用することは、事態を明らかにするよりも、混乱させている ことにしかならない。
Greeneの分析が、楽曲の聴取の体験に基づくというのであれば、その結果はオリジナルなものであるよりは、 工学的に広い妥当性を持つものであるべきだ。だから個別の分析でGreeneが様々な評者のコメントを 否定しているのは(内容の当否はともかく)スタンスとして矛盾していると言わざるを得ない。
ある評者が―自らの聴取の経験から―ある内容を読み取った結果が、―それを間違いといいたてるなら― 何故「間違っている」のかを説明すべきなのであって、単に否定するのは自分の分析の一般的妥当性を 自ら否定することにしかならない。
体験の分析を行う際の様々な学説の「つまみ食い」もまた、Greene自身の分析の寄与のありかを 見えにくくしている。
transfiguredという言葉はそれを繰り返すだけなら空虚だし、自己撞着的な記述 (groundness/ungroundness, directedness etc.)は説明になっていない。
むしろ、それではなく、別の用語を使うべきなのではないか?
「~でもなく、~でもない」は、神学や形而上学ならいざ知らず、具体的な経験の分析では単なる怠慢であり、 不毛だ。
本来的自己に対するGreeneの解釈は正しいのか?
非本来的自己と自然的態度―folk psychologyを信じるものとしてのを単純に同一視していいのか?
Husserlの超越論的自我とHeideggerのDaseinを区別することは正しいだろうが、Husserlの読み方としてはこれはおかしい。
「反復」についてのGreeneの理解はどうだろうか?(p.129 etc.)
日常の自己が連続性について持っている仮定からすれば、マーラーの音楽はナンセンスになるというのは「おかしい」。
日常性、自然的態度、還元、その他についてひどい混乱があるのではないか?
・p.24における図と地の反転についての論も、少なくとも表面上はナンセンスに近い。 何故これがニュートン的な古典物理学的描像と対立するのか、不明だ。 マーラーに図と地のambiguityや反転があるのは確かだが、そしてこれがマーラーの特徴であるというのも多分正しいが、 そこから先の議論はでたらめにしか見えない。
少なくとも日常的自我とfolk psychologyの主体とを混同することが現象学の(そしてHeideggerの)批判の対象に なっているのだが、Greeneはその点について全く理解できていないようだ。
・temporalityを問題にするなら、音楽の始まりと終わり、音楽の内部と外部を問題にすべきだ。
マーラーの場合ならersterbendの問題があるだろう。
あるいはKLやIの開始―主題の出現(Brucknerと異なって「生成」ではない?だがIXがある。)を音楽の経過に 持ち込むことも、同じように問題にされるべきだ。
一般にはベートーヴェン型の動機や主題の労作に対して、歌謡旋律の導入は異質のものだと言われる。 だが一方で、いわゆる楽段の4小節単位の構成というのがあって、それがさらに8小節の楽節に発展したのに対して それに対する逸脱という形で特殊性が言われることもある。(cf.シェーンベルクのVI-3の主題の分析) ところでそもそも、楽段はそれ自体、歌曲に由来する。 むしろ、歌曲の様な構成ではソナタは作曲できない、ということが無視されるべきではない (シューベルトへの批判を考えてもよい。) また変奏形式についても―こちらは主題は歌謡形式のものでも良い―そこで問題なのはマーラーにおける 形式をどう考えるか、どう特徴づけるか、ということだ。 楽節構成を韻律法的に読んでいくGreeneのやり方は、一つの方法ではあるが、あまりに一面的過ぎて それだけで何かが語れるとは思えない。 方法論があまりにも貧しいので、議論はその方法の結果のみからは出発できず果ては哲学者の概念装置のつまみ食いになる。
フレーズの非完結性はそれ自体興味深いが、韻律法的な楽節分析とどう関係するかは少しも明らかにされない。 普通に素朴に考えればフレーズが完結しないで次から次へと受け渡されてゆくことは、マーラーのような大きな形式を 構成するのには自然に見える。何が普通で何が普通でないのか? (動機による労作は、フレーズの完結性という観点からいけば、更に完結性が低くなる可能性があるのでは? だとすると、歌謡形式がここでは暗黙の前提になっている?結局、予断が含まれるのだ。)
例えば、GreeneのBekker批判は人を驚かすようなものだ(p.32)
そこではフレーズの構成という形式的・統語的レベルの議論が、いきなり常識的な意識の概念からの 逸脱に飛躍する。その間の関係付けについての正当化は全く行われない。Goodmanのexemplification theoryが あればOKなのだそうだ。
Adornoの弁証法と時間性の関係も、注で述べられているほど簡単なものではないだろう。 Adornoの弁証法とは、異なる時間性とは何か?そもそも、Adornoの弁証法の時間性とは何なのか? groundlessnessが「不可能でない」―Greeneが良く使う言い回しだ―というのがAdornoでは全く考慮されていない というのか?「新しい」「異なった」時間性、「変形された」時間性、という言い回しが頻出するわりには、 その実質はちっとも明らかにならない。 私の立場はAdornoとは違う、と叫んでいるだけにしか聞こえない。
ベートーヴェンをmodelとしてしまうことの危険。
実はAdornoはそうだし(中期ベートーヴェン)、Greeneについてもベートーヴェンを典型として マーラーをそれからの逸脱とするような見方がある。 だが、例えばソナタ形式の「標準」があったとして、それが中期ベートーヴェンなのかHaydnなのかは 問題だ。何故ベートーヴェンなのか?そもそもソナタの「標準」とは何か?
とりわけ時間論的分析においての規範の意味は? ベートーヴェンの時間性の方がマーラーより分析しやすい などということがあるだろうか?意識の流れに近い、小説のようなマーラーの音楽ならではの近寄りやすさ というのはないのか?
マーラーをいつも逸脱として例外として捉えるのはどうか(対比自体がいけないと言う訳ではないが、 評価上、バイアスがかかる)
もっと(実際には多くの日本人がしているように)端的にその作品に接したらどうなのか?
意識の音楽、無意識の音楽の定義
Greeneによれば、III-3は無意識、6は意識なのか?
*そもそも意味不明だ。無意識を「描写した」ということ?6が意識の描写である、というはもっと わからない。マーラーのつけた標題を密輸するから、こんな訳の分からないことになるのでは?
どういう点で、無意識の、意識の描写になりえているかの説明がせめて必要だろう。
Greeneの主張を救い出すこと
Heideggerはおくとして、反復を検討すること
Iの4における反復は有名だ(どちらの重点をおくかでAlmaが異議を唱えたエピソードがある。)
IIの5における合唱の入りも繰り返される(拍子が大きく変わっているが)
そしてVの5における反復。
より一般には「再現部」の問題が、各曲のソナタ楽章に存在する。勿論、文字通りの再現はないが、 だが、反復には違いない。反復はどういう意味合いを持つのか?
あるいは舞曲楽章のDa Capoも含めるべきかもしれない。
Greene p.14 音楽が現象学的還元をする、と考えて良い。意識の様相を自然的態度におけるドクサから引き離して 記述する―現象学とマーラーは並行している。
一方で、「ありうべき」―実際には体験できない意識を音楽が示しうる、というのは興味深い。
(cf. VIIIおよびIX)この主張については批判的に検討すべき。
ただ、私の経験していないものでマーラーが経験したものの表現と享受(伝達)は可能だし、音の流れの操作により 通常起こり得ない様態を「例証する」―シミュレーションに近い―ことは原理的には可能だろう。
一般論としては、充分に可能でナンセンスではない。
だからtransfiguredという言い方には注意が必要だ。
もっとも、もう一つの可能性がある。それは、感受の伝達(Whitehead的な意味で)しかも、不完全な伝達という考えに基づく。
だが、これはまだ作曲者の内部事象と音楽と聴取者の内部事象の3項図式に戻ることになる。
(これが間違っているとは思わないが。だが、感受の「結果」は音楽の「表現としての出来」だけでなく、聴取者の 内部状態にも依存するだろう。)
またGreeneは(実際にはよりマーラーに「近い」のかも知れないが)宗教的なものについての 自分の立場があるだろう。
多分妥当なのは、W.Jamesがとった様な立場なのだろう。
例えばハンス・マイヤーの様な読み取りは多分誤ってはいないのだろう。
だが、宗教性というのを心理的なカテゴリーとして捉えたら、マーラーの音楽がそうであることは 多分間違いない。だが、それが意識の様態としてどのようにであるのかを言わなければ 「~の気がする」というレベルに戻る。それこそマイヤーの言う装飾に目が眩んでついつい騙された、 ということになる。だからGreeneのいうtransfiguredというのの実質が問題なのだ。
それは「経験不可能」だが「可能である筈の」例外的な経験なのか?
ここにも「表現される対象」と「表現」の分裂があるようだ。
表現される対象としては「例外的な」ことがあろうが、表現は結局のところ可能なものの 範囲でしか可能ではない。それが「例外的」というのは日常ではそのような意識なり志向性なりが 生じることがない、という以上のものは無い筈なのだ。―それは他の音楽でも起きるだろう。
(また、アドルノの言う「ねえ、よくきいて」という叙事の姿勢も参照のこと)
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