1. はじめに
本稿は、カール・フリストンの自由エネルギー原理を中心とした現代の意識理論と、音楽、特にマーラーの交響曲における時間構造との関係を考察し、アドルノの音楽分析における「未来完了性」概念およびVarianteの技法を重要な分析視点として、意識と音楽の構造的類似性の探究の方向性を示すことを目的としています。
2. フリストンの自由エネルギー原理と意識理論
2.1 基本概念
自由エネルギー原理は、生物システムが環境との相互作用において、予測誤差(サプライズ)を最小化しようとする基本的な動作原理を示しています。脳は常に感覚入力を予測し、その予測と実際の入力との差異を最小化することで、世界の内部モデルを更新し続けます。
2.2 意識との関連
予測処理と意識 フリストンの理論では、意識は階層的な予測処理システムの産物として捉えられます。脳の異なる階層レベルで行われる予測とその更新プロセスが、私たちの主観的体験を生み出すとされています。
注意と意識の関係 予測誤差が大きい情報に注意が向けられ、それが意識的な経験として現れる仕組みも、この原理で説明されます。予測できない、つまり情報価値の高い刺激が意識の前景に現れやすいのです。
2.3 情動と自由エネルギー原理の統合
内受容感覚と予測処理 ソームズが重視する内受容感覚(体内からの感覚)は、フリストンの枠組みでは身体状態の予測処理として理解できます。脳は常に身体の内部状態を予測し、その予測誤差を最小化することで恒常性を維持します。この過程で生じる予測誤差が「感じ」として体験される可能性があります。
情動の予測符号化 パンクセップの情動システム理論で言う基本情動(恐怖、怒り、探索など)も、進化的に重要な状況における予測処理システムとして再解釈できます。これらの情動は、環境や身体状態の変化を予測し、適応的な行動を準備するための古い神経システムです。
2.4.意識の階層構造
原始意識と高次意識 両者の理論は、意識の階層性について補完的な視点を提供します。パンクセップの「原始意識」(情動的意識)は、フリストンの枠組みでは低次の予測処理レベルに対応し、ソームズの言う「感じ」は身体状態の予測誤差として説明されます。
脳幹から皮質への情報流 ソームズが強調する脳幹の重要性は、フリストンのモデルでは身体調節的な予測の最下層として位置づけられます。脳幹での予測処理が上位の皮質レベルに影響を与え、複雑な意識体験を形成するという統合的な理解が可能になります。
価値と動機の統合 パンクセップの情動システムが示す「欲求」や「価値」は、フリストンの能動的推論において、行動選択の基準となる事前期待として組み込まれます。生物は単に予測誤差を最小化するだけでなく、進化的に重要な状態を求める傾向があります。
この統合的アプローチは、意識を純粋に計算論的な現象としてではなく、身体に根ざした情動的・評価的なプロセスとして理解する新しい枠組みを提供することから、意識の構造と音楽との間の橋渡しをする可能性を持つものと考えられます。
階層的な音楽構造 音楽の構造は意識と同様に階層的です。音高、リズム、フレーズ、楽章といった異なるレベルで同時に予測処理が行われ、それぞれが相互作用しながら統合された音楽体験を生み出します。これは意識の階層的な予測処理モデルと驚くほど類似しています。
基本情動システムの活性化 パンクセップの基本情動(探索、遊び、恐怖、愛着など)は、音楽の異なる要素によって直接的に喚起されます。上行するメロディーは探索システムを、不協和音は警戒システムを、反復的なリズムは愛着システムを活性化する可能性があります。
時間意識の構造化 音楽は時間の流れを構造化し、意識の時間的展開パターンを調整します。拍子やテンポは時間予測のリズムを設定し、フレーズ構造は意識の注意サイクルと同期します。
能動的推論としての作曲・演奏 音楽の創造は、内的な音楽モデルと実際の音響出力との間の予測誤差を最小化する能動的推論プロセスとして理解できます。演奏者は意図した音楽表現を実現するために、身体動作を通じて環境(楽器)を制御します。
集合的意識としてのアンサンブル 複数の演奏者によるアンサンブルは、個々の予測処理システムが相互作用し、より大きな予測システムを形成する例として興味深いモデルを提供します。これは意識の社会的側面や集合的認知の理解にも役立ちます。
同時進行する複数の時間スケール マーラーの交響曲では、短いモチーフ、中規模なフレーズ、長大な楽章、そして全体の交響曲という異なる時間スケールが同時に展開されます。これは意識における多層的な予測処理そのものです。私たちの意識も、瞬間的な知覚、短期記憶、長期的な目標や人生の物語といった異なる時間軸で同時に機能しています。
階層間の相互作用 マーラーの音楽では、小さなモチーフが楽章全体の構造を決定し、同時に全体の流れが局所的な展開に意味を与えます。これは意識の階層的予測処理において、上位レベルの予測が下位レベルの知覚を制約し、下位レベルの予測誤差が上位レベルの信念を更新するプロセスと対応しています。
内受容感覚の精緻化 マーラーの音楽は聴き手の呼吸、心拍、筋緊張を微細にコントロールします。長大な弦楽器のクレッシェンドは交感神経系を段階的に活性化し、突然の静寂は副交感神経系への急激な切り替えを促します。これは意識における身体状態の予測処理の複雑さを反映しています。
循環的な時間構造 マーラーは同一の主題を異なる文脈で繰り返し登場させ、それぞれに新たな意味を付与します。これは意識における記憶の働き—過去の経験が現在の知覚を予測的に形作り、同時に現在の経験が過去の記憶に新たな意味を与えるプロセス—と同一の構造です。
遠大な予期と局所的サプライズ 交響曲全体を通じて、聴き手は遠い未来の解決(例えば終楽章の勝利的な結末)を予期しながら、局所的には予想外の転調や楽器法に驚かされ続けます。これは人生における長期的な目標設定と日常的な予期の裏切りという、意識の時間的構造そのものです。
複数の視点の同時存在 マーラーの音楽では、異なる楽器群が異なる「声」や「視点」を表現し、それらが対話し、競合し、最終的に統合されます。これは意識における複数の心的内容の競合と統合、そして統合情報理論で言うところの意識の統一性の動的な実現過程と対応しています。
意識の流れの音楽化 ウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」概念は、マーラーの音楽において具現化されています。絶え間ない変化の中にある継続性、断絶のない移行、過去・現在・未来の融合といった意識の基本特性が、音楽的時間として展開されています。
マーラーの交響曲は、単に美的体験を提供するだけでなく、意識の構造そのものを時間芸術として展開した、意識の現象学的地図とも呼べる存在なのです。聴き手はその音楽的体験を通じて、自らの意識の複雑な構造を内側から体験し、理解することができるのです。
メタ認知としての階層化 自己言及性は、予測処理の階層構造において上位レベルが下位レベルの予測プロセス自体を予測することとして理解できます。「私は今何を考えているか」「私はなぜこう感じるのか」といった内省は、認知プロセスについての予測処理として機能します。
5.2.能動的推論における自己
自己実現的予測 フリストンの能動的推論では、生物は世界を変化させることで自分の予測を実現しようとします。自己言及的な場合、これは「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動となります。アイデンティティの形成や維持は、自己についての予測を能動的に実現するプロセスとして理解できます。
循環的因果性 自己言及系では、システムが自分自身を参照し、その参照が再びシステム自体を変化させるという循環が生じます。フリストンのモデルでは、これは予測と行動の循環として表現され、自己モデルの更新が新たな自己モデルの予測を生み出す無限の再帰として展開されます。
5.3 マーラーの音楽における自己言及性
音楽的自己意識 マーラーの交響曲で見られる「音楽について語る音楽」は、フリストンの枠組みでは音楽システムが自分自身の構造を予測し、その予測を音楽的に実現するプロセスとして理解できます。作曲家は音楽の効果を予測し、その予測を音楽そのものに組み込むことで、自己言及的な構造を創造します。
聴取における再帰的体験 聴き手がマーラーの音楽で体験する自己言及性は、音楽が聴き手の予測プロセスについての予測を誘発することです。「この音楽は私にどう感じさせようとしているのか」という意識が、実際にその感情体験を変化させる循環的なプロセスが生まれます。
創発的複雑性 自己言及的な予測処理システムでは、単純な規則から複雑で予測困難な行動パターンが創発します。これは意識の豊かさや創造性の源泉となり、同時に完全な自己理解の不可能性の根拠ともなります。
5.5.意識の統合と分裂
統合情報としての自己言及 統合情報理論との関連で言えば、自己言及性は意識システム内での情報統合の特殊なケースです。システムが自分自身についての情報を統合することで、より高次の統合情報が生成され、それが自己意識の基盤となります。
自己の境界の動的構成 フリストンのモデルでは、「自己」の境界は固定的ではなく、マルコフブランケット(システムと環境の境界)として動的に構成されます。自己言及性は、この境界の内側で自分自身を予測するプロセスとして、自己の境界設定そのものに影響を与えます。
この自己言及的な予測処理の循環こそが、意識の最も特徴的な性質—自分自身について意識する能力—を生み出し、同時にその完全な理解を永続的に困難にする源泉となっているのです。マーラーの音楽はこの循環の美的な表現として、意識の自己言及的な構造を時間芸術として具現化している可能性があり、その検証は大きなチャレンジであると考えられます。
変形としての主題認識 通常のソナタ形式では「主題提示→展開→再現」という線形的な時間が想定されますが、マーラーのVariante技法では、最初に現れるものは実は「変形」であり、「真の主題」は後に現れます。これは予測処理において、最初の知覚が実は「予測の変形」であり、後にその「元となる予測モデル」が明らかになるプロセスと対応しています。
予告としての最初の提示 フリストンの枠組みでは、脳は常に階層的な予測を行いますが、マーラーの技法では音楽的な「予測」が時間的に逆転します。最初に聞こえるのは結果(変形)であり、原因(主題)は後から明らかになる。これは予測誤差の解決が遡及的に行われる特殊なケースです。
既知感の創出 Variante技法により、聴き手は「初めて聞くはずの主題」を「既に知っている」かのように体験します。これは予測処理システムが、まだ完全には提示されていない情報に対して「記憶的親和性」を感じる現象です。脳は断片的な情報から全体像を予測し、その予測が後に確認される構造です。
遡及的な意味付与 主題の「実現」が起こったとき、それまでの変形部分が遡及的に新しい意味を獲得します。これはフリストンの理論における「事後的な予測更新」の音楽的実現です。新しい情報(真の主題)が過去の体験(変形部分)の解釈を根本的に変更するのです。
予測モデルの自己生成 マーラーの音楽では、主題が自分自身の変形から生まれ出るという自己言及的構造が生じます。これは予測処理システムが自分自身の予測誤差から新しい予測モデルを生成するプロセスの音楽的な表現です。
循環的な因果関係 変形(Variante)→主題(実現)→新たな変形という循環において、どこが「始まり」でどこが「終わり」かが不明確になります。これは自由エネルギー原理における予測と更新の循環的プロセスが、時間軸上で複雑に折り畳まれた状態として理解できます。
6,4 意識の未来完了性との対応
体験の事前構造化 この技法は、意識が体験を事前に構造化する仕組みを音楽的に実現しています。私たちは出来事を体験する前に、すでにその出来事の「型」や「枠組み」を持っており、実際の体験はその予期された枠組みの「実現」として経験されます。
自己実現的予測の音楽化 マーラーのVariante技法は、フリストンの「能動的推論」における自己実現的予測の音楽的表現でもあります。予告された主題は、その予告によって実現へと向かう必然性を獲得し、音楽自体が自分の予測を実現していくプロセスとなります。
この「予告—実現」構造は、単なる音楽技法を超えて、意識が時間を体験し、記憶と予測を統合する根本的なメカニズムの芸術的な開示なのです。マーラーは、私たちの意識が持つ「未来を既に知っている」かのような時間体験を、音楽的時間として具現化している可能性があります。
7. マーラーの作品における具体的な音楽体験での実現例
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