お詫びとお断り

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2008年5月27日火曜日

身辺雑記(1)

Nel mezzo del cammin di nostra vita
Mi ritrovai per una selva oscura,
Ché la diritta via era smarrita.

人生の半ば、私は暗い森のただなかにいた。
 有徳の正道は、もはや見失われて。(ダンテ「神曲」)

まさにそのような感覚を持つ。多分それは普遍的な感覚なのだ。生きる力と衰えの均衡点に居ることの齎す停滞感なのではないか。

人生の半ばを過ぎたことは確かだ。書き留めておくべきであったかも知れないが、今から1,2年程前のある時期に、はっきりとそのような感覚を持った。 そして、自分には何も残すものはなさそうであること、未だ神の衣を織ることあたわず、夢のまま終わるのかもしれないという漠とした感覚。 実際には、そうあっさりと思い切れるものでもない。だってまだ半分残っているのだから。 けれども、それが「どこ」にあるのか、わからなくなっている。

それと前後して、ある種の整理をする欲求。けれども、それは既になにものかを成し遂げた人間の、あの転回ではない。 そうではなくて、寧ろ、これまでの自分の跡を消し去りたいという欲求に近い。 かつてそうした欲求をある友人が語ったとき、自分はそれとは正反対のこと、永遠性を希求していた。 (事実は逆でそういう私の希求に対する異論として、友人はそう語ったのだ。) それは私の前半生のオブセッションであったと言ってよい。 整理をする欲求の一部は、自分が出会った価値あるものをきちんと確認しておきたいというそれに違いない。 大量に本とCDを処分したのも半分はそのためだ。 ことにCDは結果的に、多分この数十年で初めて一旦100枚を切るか切らないかまで減らしてしまった。 勿論、かつてはこの上なく重要であったのに、処分されてしまったものも多くある。 棚卸をして再吟味の末、否定したものも多い。

けれども自分はそれらに及ぶべくも無い、自分には何も無い。 或る日、それに近いことを突然感じた。

けれどもその時には寧ろ、そうした価値ある営みも含めて、結局永遠性というのは観念のうちにしかない、という感覚に支配されていたのだった。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、 その時には寧ろ過剰な自信に支えられていた筈のその理由は、今もそのまま、ただし別のニュアンスで有効であり続けている。 「どんなに立派であっても」「ましてや私は」なのだ。それは寧ろ人間の営み「一般」に対する絶望に由来していた。 知性という点では、そもそも人間を絶対視するという事に対する懐疑がある。 これはAIを齧った人間にとっては当然だ。 例えばレムのゴーレムXIVの展望は違和感の無いものだ。 人間はあまりに不完全なのだ。(そしてこれはXenakisの展望とも一致する。だがMahlerもまた、ゲーテを通じて、もしかしたらゲーテ=ニーチェの 奇妙な混交を通じて、そこからの脱出を希求するという仕方で認識してはいなかったか?ファウストはある仕方で超人ではないのか?)

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