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2019年11月10日日曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて

 「マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_4.html)の末尾で、マーラーの音楽の音響態としての構造のどこに「物語性」を成立させる契機が含まれるのか、ひいては「意味」を見出す手掛りがあるのかについて、漠然とした予感ながら、音楽が時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想を採り、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて音楽の構造を分析すること、しかも完全に客観的なデータの分析というのは不可能であるという点は踏まえた上で、作曲のためのユーティリティに過ぎない規範、或いは先行する時代のモデルとなる作品を分析するために設定された規範(例えばシェンカーのモデルもそうしたものの一つであろう)からの逸脱の距離を測るのではなく、マーラーの楽曲のデータそのものから読み取れるものは何かを探るというアプローチについて述べた。

 一方、そうしたデータ分析の実践として、「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/09/midi.html)において、MIDIファイルを入力としたごく初歩的で予備的な分析について報告した際には、それまでに行った分析の具体的な問題点を思いつくままに述べたが、明らかなように、上記の中には、幾つか異なるレベルに理由が求められるものが混在しており、五度圏の円上の重心計算という方法に起因するものもあれば、それより手前の、相対的な音高の上下を捨象し、五度圏上での音の構成に限定してしまうことに起因するものもあった。

 前者の例としては、そこでの重心が西洋の和声学上の調的中心の近似としてはかなり粗いものに過ぎないこと、単純なところでは、同時になっている音が2つ以下の時は重心は五度圏の円周に近づく一方、中心からの方向が三和音(I)からずれていく点、言い替えれば、ある音の五度圏上の座標の円中心からの方向に対して、その音を主音とする調の主和音の座標の円中心からの方向がずれてしまうこと、更に、それが同時に鳴っている音の数に由ること、つまりトニカと空虚5度、根音のみの重心は、θがずれてしまうことが、伝統的な調的中心への近似としては問題がある点の他、和声→重心の写像がが一対一対応ではなく、逆写像が単射にならない。つまり幾つかの異なる音の組み合わせが同一の重心を持つことを挙げた。

 一方後者に属する問題点は、和声の推移のパターンの抽出をしようとすると、同一和声が複数時区間にわたって持続する情報はパターン抽出の邪魔(同じ音の連続というパターンとして扱ってもいいが、分類の観点からはノイズにすぎない)というような、単に重複を取り除くことで技術的には簡単に対応できるものは除くと、更に詳細に分類することが可能であり、根音や転回の有無の情報がなくなることは、五度圏に帰着させる際に音高を捨象してしまうというここでの方法論に起因するのに対して、以下の点は、寧ろ、このようなデータ分析をする上で、人間の分析者が、スキルやノウハウとして暗黙の裡に身に着けている処理が明示化されることが必要となるという、人間の作業の一部を機械化する情報処理システムの構築の際に起きる事態、特にAIの領域においては、かつて「知識工学」の課題として捉えられたようなレベルのものと考えられる。
・サンプリングする時刻において同時に1音、2音しか鳴っていない時、1音、2音で重心計算した結果を、3つ以上の場合と混在させることの問題。伝統的な発想では、1音、2音の時も常に3和音のどれかに帰着させるはず。
・上記を考慮しなくても、3つ以上の音の重なりの和声機能の候補は常に複数あり、調的文脈なしでは決定できないこと。長調・短調の区別すら文脈なしではできないこと。
 ここではこの問題を、データ処理における具体的なデータ構造に関連付けつつ、もう一度振り返ることによって、ありうべきデータ分析についてのイメージを示すことを目指したい。それは「マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ」末尾で述べたような、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことによって、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることへの試みであり、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となることを目論んでいる。

 そしてそれを出発点として、データ分析を進めていく際の、さしあたりの目標、サブゴールのようなものとして掲げた、発展的調性を力学系として扱うことへ向けての第一歩として、Dika Newlin 以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhaus の言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまた Paul Bekker 以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することにより、マーラーの音楽の時間性の特徴である「物語性」にアプローチするための第一歩となればと考えている。

まずMIDIデータから抽出した、小節頭拍に鳴っている五度圏上音の集合を、12音各音を1ビットとする12ビットのベクトルで表現することを考える。ビットが立っている(=その桁の値が1である)場合に、そのビットに対応する音が鳴っていること、ビットが立っていない(=その桁の値が0である)場合は、そのビットに対応する音が鳴っていないことを表すとする。この時、調的遷移の過程は、このベクトル列上のビットの遷移パターンの系列で表され、その変化の過程を力学系として考えることができる。ただし遷移規則は今のところ未知であり、また遷移規則が求める付加的なデータ構造(典型的には直前ではない、過去の状態の記憶であったり、ビット列以外の外部的なデータであったりするだろう)については、その必要の有無も含めて、現実のマーラーの楽曲のデータからボトムアップに推定されるものと考えたい。遷移規則自体も伝統的な和声学や対位法、楽式論のような既成の規範に基いて天下りに与えるのではなく(そうしてしまうと規則からの逸脱を測るといった発想から逃れることは困難だ)、実際の作品が描き出す軌道から法則性を抽出するといった方法をとることにしたい。この枠組みだと機械学習で規則を学習させるというのも可能であろう。だがここではそうした先走った議論は一先ず措いて、上記のベクトル表現と、その上での遷移規則が具体的にどんな性質を持つことになるのかを、少し細かく見ていくことしよう。

 12ビットのビット列のどの桁に五度圏上のどの音を割り当てるかは任意だが、例えば下から6ビット目がCであり、かつその左隣、つまり1桁上が五度高いGを表すというように定めれば、隣接ビットが五度圏上でも隣接する音となる。 000001100000 と隣接ビットに1が立つ。あるビットに対応する音に対して左隣が5度上の音、右隣が5度下の音となる。また一番左のビットの更左隣は一番右のビットとなるという巡回的な構造となっている。つまり 100000000001 では、最上位桁と最下位の桁が隣接しており、五度圏の円を、丁度、最上位桁に対応する音と最下位桁に対応する音の間で切断して、直線に移したような具合になっている。注意すべきは、ここで定義したビット列上では転回形の区別がなく、五度と四度というのはビットパターンとしては区別がつかないことになることである。即ちCに対してGは五度上の音でもあり、四度下の音でもある。逆にCに対してFは四度上の音でもあり、五度下の音でもある。

 同様にして、長二度(短七度)は1ビット離れて 000010100000 、短三度(長六度)は2ビット離れて 000100100000 、長三度(短六度)は3ビット離れて 001000100000 、短二度(長七度)は4ビット離れて 010000100000 、最後に増四度は5ビット離れて、 100000100000 となる。最後のケースでは、左右いずれの側からも5ビット離れており、これは五度圏の円の反対側に位置していることに対応する。そして上記で同時に2音が鳴るケースの全パターンを網羅していることになる。
 同時に3音が鳴る、いわゆる三和音の場合に進むと、C音を主音とする長調のIの和音(ミソド)は 001001100000 のように表現され、ここでも転回形は区別されない。ドミナントもサブドミナントも、上記のベクトルを左右に1ビットシフトさせるだけでできるから、ビットパターンとしては区別がつかないことになる。一方で同主短調は、000001100100 平行短調は 001100100000 でビットパターンとしては長調の左右対称形になっていることがわかる。そして、いわゆる全音階の基本的な三和音は、ビットパターンとしては上記の2パターンに帰着されることになる。
 四音が同時になる七の和音、五音が同時になる九の和音も同様に、
001001101000、001011101000 となり、付加6の和音は 001101100000 で、後の2つのビットパターンは自己対称性を持つ。

 次に、こうしたビット表現に対してビット列とビット列の変換を定めると、典型的な変換としては以下のような操作が基本操作として考えられる。
(1)左シフト・右シフト(5度・4度転調)
(2)左右反転(長調・短調の転調)
(3)ビットを立てる(音を増やす)・ビットをクリアする(音を減らす)
常に3声体を前提にすれば(3)は不要になって楽だが、現実のデータはそうはなっていない以上、(3)の操作はパターンの遷移を記述する上で省略することができない。更には、同時に1つの音のみが鳴っている場合、2つの音のみが鳴っている場合に、それを三和音に帰着させるためには、ビット列の遷移以外の情報が必要となることがわかる。

 そしてこれらの操作のそれぞれについて操作にかかるコスト(必要とされるエネルギーの量)を考えることができるだろう。例えばドミナントやサブドミナントへの遷移は、(1)の操作1回で済むのに対して、それ以外の操作は(1)を複数回繰り返す必要があるので、その分コストがかかるといった測度が導入できることになる。同様にして、3度の転調でも短三度と長三度を比べると前者より後者の方が「意外感」が大きいのは、シフト操作の移動量が大きいからという説明が可能になるように思われる。同様に、ビットを立てるにしても、空虚5度から三和音なら1ビットの追加で済むように、三和音の構成音を抜いたり足したりのコストは小さいことになりそうだ。

  (1)(2)(3)の操作の間のコストの大小については何らかのやり方で決めてやる必要があるが、コスト関数が文化依存か物理的な一般性があるのかは今は問わないことにしよう。とにかく操作コストで距離空間を張ることができて、距離により意外性のようなものが測れると同時に、例えば転調の移行の際のピボットやドッペルドミナントとかサブドミナントマイナーのような借用和音も、やや大きいが一定のコストの範囲内で収まる操作として定義づけることができることから、「多少の捻りを加えることによって変化を与えつつ、比較的自然な推移を実現する」といったヒューリスティクスの根拠を、ある程度自然なかたちで定義することが期待できそうである。

 これまでの説明は、通常五度圏上で行われる議論を、ある場所で円環を切り開いて作られる巡回ビット列(一番左の左は一番右に繋がっている)の操作に置き換えているだけなので、当たり前のことを説明しているだけに見えるかも知れないが、逆に問題が起きる場合には、五度圏での説明自体が妥当でない可能性があることを念頭においておきべきだろう。或いはまた、ここでの五度圏の使い方が誤っていて、本来適用すべきでない事柄に不当に適用していることが原因である場合もあるだろう。例えば、既に例示したように、ここでのビット列での表現では音高の情報が落ちてしまい、和声においては転回形の区別がつかなくなっている。そしてこのことがビット列の遷移の規則を推定するにあたって問題を引き起こしている可能性がある。特に三和音の第2転回形である四六の和音は、単独の機能を持たず、前後の文脈に依存するという説明の仕方が為されることがあることに留意すべきだろう。ただし、音高の情報を喪うことが規則の推定にどの程度影響するかは明らかではないし、個別のケースに依存する可能性も考えられる。ここでも和声学は規範として第2転回形を使う際の制約条件を与えるが、データ分析において禁則が出現した場合に、それがどのような力学を持つかの説明はしてくれない(少なくとも私が知る限り)。上記の例で行けば、第2転回形についてだけ制限がつくのは何故なのかの説明はないし、第1転回形は形の上では異なるにも関わらず基本形と機能上の違いが無いのは何故なのかの説明もまたない。勿論、和音の並べ方の規範としては、まさに「単独の機能を持たない」ことが禁則の「理由」に他ならないのだろうが。序でに言えば、ビットの付加・削除の操作に相当するのは、声部の増加・減少だが、これも上で触れたように、和声学の規範の上では例外としての扱いを受けるもののように見える。特に声部が1つないし2つになった場合の力学は明らかではない。だが現実のデータではそれなりの頻度で出現するわけだし、規範からすればそこには不決定性や曖昧さがあるということであればあったで、力学系としてはそれも含めて記述したいのである。当然、ここでの音高を落としたビット列での表現が必要にして十分であるということを主張するつもりはなく、実際に分析をしてみて、それが致命的な問題を引き起こすのであれば、データ表現を音高を保存する形に修正すべきなのだが、一方で、ここでのビット列の情報だけで何が出て来るのかを見てみることも全くの無意味というわけではないだろうから、とりあえずはこのデータ表現を前提に議論を進めることにする。

 その一方でここのビット列での説明を、以前に行った五度圏上での重心計算および重心間の距離に基づく分析のモデルと比較した場合、両者には共通点がある一方で、重心計算では上記の(1)(2)(3)の操作が、重心による距離の空間で一元的に表現されるのに対して、こちらのビット列に対する操作については、ビットの左右反転操作(長調・短調間の移行)や音の数の増減が、ビットのシフトや反転とは異なる操作によって表現されることから、前者において生じたような角度上の捻じれが起きるような問題や移動距離が不自然(一度に鳴る音の数が増えれば増える程、円の中心に密集して、単純な距離定義では直感に反することになるなど)は気にせずに済ませることが期待できそうに思われる。(ちなみに調性の数学的モデルというのはそれだけで研究テーマとなるようで、例えば、Elaine Chew, Towards a Mathematical Model of Tonality, MIT, 1998 など幾つかの文献にあたっているが、五度圏園上の重心表示の方は多少接点があるものの、ここでのビット列の状態遷移の力学の方は目的が異なるため、ここでは参照は行わない。)

 さて、上記の説明は和声学の基本との対応づけを意識し、それをなぞるようにしているが、あくまでも説明の便宜上そうしているだけであって、ビット列の時系列上の並びが、実は和声学のような規範を意識して作られた作品から抽象されたものであることを一旦括弧入れしてしまえば、抽象的なビット列の遷移の系列について、ビット列に対すする幾つかの基本操作とその組み合わせによって遷移の力学を推定するという一般的な問題として扱うことができる。そのような見方をした場合には、ビット列上では区別がつかないある和音を或る場合には主和音と分析し、別の場合には属和音、下属和音と分析できるのが何故なのかを逆に問うこともまた可能になるだろう。だが、ここではそれはあくまでも後付けの説明であり、あくまでもデータをしたは或るビット列によって表現される同時に鳴らされる音の集合があり、それがある規則により変化するありさまが時系列に並んでいるという捉え方を一旦してみたいのである。些か極端に見えたとしても、主音、調的中心といた概念は、音楽のある側面を表現しているデータの系列がアプリオリに備えているものではなく、あくまでも分析者=聴取者が、そのデータの系列から読み取り抽出するものであると考えたいのだ。ことにマーラーの音楽のように、古典的な調的図式からの逸脱が指摘され、発展的調性のような代替図式が提案されるような場合には、主音の決定が保留の状態や、2つの調的極を揺れ動くようなことが遷移過程の中で生じており、その様相を明らかにしようとすると、主音や調的中心というのがアプリオリに存在するとするよりも、或る条件の下で形成されるアトラクタのようなものとして捉えた方が適切に思われるのである。

 ある社会的・文化的環境の下では、そうした系列を聴くと、そこには主音や調的中心があるように聴き取り、それに基づく和声の変化の分析をすることが、あたかも自然で当然のことのように出来てしまうし、マーラーの作品もそこに含まれる調性音楽の場合には一般に、そもそも作曲の際にそうした規範が参照されているのは事実に属することなのだが、例えば、既にある程度は社会的・文化的環境の中に予め組み込まれつつも、少なくともそうした規範を十分に意識された形では自覚していない、その限りでは規範を知らないと言って良い子供、或いはド・ラ・グランジュのマーラー伝への序文においてシュトックハウゼンが想定した宇宙人が、上記のような特性を持ったマーラーの音楽を初めて聴くといった状況を考えたり、更には今日ではAIが当該データを分析するといったケースを考えた時、上記のような捉え方をすることに一定の意義が認められると私は考えたいのである。

 和声学でのカデンツは局所的な遷移のテンプレートだし、転調であれば移行した後の調性の確立(これ自体カデンツが使われるわけだが)の方法というのがヒューリスティクスとして確立して、稍もするとそれが規範というよりは客観的な法則、絶対的な規則であるかの如き様相を呈するのだが、それは時代の嗜好に応じて変遷するものであることから明らかなように、一定の物理的・心理的な合理性に基づくものではあっても、物理的客観でも心理的客観でもないのだから、ここではそれらを天下りにルールとして外から与えるのではなく、力学系の遷移の過程で形成されていく地形として考えたいのである。恐らくトニカに「解決」するというのは、そこが力学系でいけばアトラクタなのだ、ということなのだろうし、カデンツはベイスンに沿った軌道を描けるように用意されているのであろう。文脈が作られて、それがトニカであると判定ができるというのも、ビット列の変化が描き出す軌道が動き回る空間におけるポテンシャルの地形に応じて、どっちには行きやすい、どっちには行きにくいというのが出来てくる、或いは場合によっては、それが一本道ではなく、サドル上で分岐が生じることもある、というふうに考えたいのある。

 そうした立場をとると、或る意味では素朴で、もしかしたら非常に原理的な疑問が直ちに幾つか浮かんでくる。例えばシェンカー分析の前提となっている理論を取り上げてみよう。シェンカーが分析の前提とする I→V→I という原則は確かに上記のビット列の力学系でもコスト的には小さく、経済的であるように見える。だが一方で同じ力学系をベースに先入観なく考えれば、素朴な疑問として、例えば以下のようなものが直ちに出て来ることになるように思われる。
(1)V→IというのはVが不安定でIが安定だという前提をおけば自然だが、ではVが不安定なのは何によるのか?ビット列としては同じバターンが右に1ビットシフトするのだが、そのことがアトラクタとなるのはなぜか?明らかにここでいう安定性はビット列自体が客観的に備えている性質ではないようだ。
(2)左1ビットシフトIV→Iもアトラクタの資格を持っている(プラガル終止)が、これはI→Vとビット操作上は区別がつかない。このことから、それはビット列自体の性質でないだけでなく、ビット列の局所的な遷移が持つ性質でもないことになる。では何が区別を可能にしているのか?
(3)V→Iが何かの理由でアトラクタであることを認めたとする。だがこのとき、そもそも一旦はI→Vというポテンシャル地形上は山登りとなるようなコストの大きな動きがなぜ起こるのか?物理学では、ここで温度の上昇でゆらぎが大きくなるというような話になるのだが、是非は一旦措いて、そのアナロジーを適用するならば、ここで温度に相当するものは何か?また、山登りは偶然に起きるものではないし、山登りの経路というものも(場合によっては複数)想定できるだろうが、それを定めるものは何か?
(1)と(2)は、上で触れた地形の形成の問題だが、最後の一つは少し水準が違った問題、音楽はそもそも何故始まるのか?もっと言えば、何もないのではなく、音楽があるのは何故なのか?という問題に帰着するようにも思える。自律主義的な美学というのは音楽の内部に、その力学の根拠が内在するという立場なのだろうが、それは既に不安定な状態にあるものが安定な状態に移行することは説明できても、何故そもそも不安定な状態になったのかを最後のところで説明できないのではなかろうかという疑いが残る。その一方で、さりとてそれを Nattiez が物語論的分析の妥当性について述べたような「語りの衝動」のようなものを外部から持ち込むことによって解決しようとするのは、今度は音楽が自律的に描く軌道の可能性を十分に汲み尽くさずに済ませてしまう危険を孕んでいるように思われる。さりとてシェンカー分析を含めたのような或る種の規範を前提とする分析は、結局のところ、ある作品が持っている軌道を、予め用意された規則や規範、テンプレートを用いて説明し、それに従わないところは「逸脱」として説明することになり、その軌道が備えている固有の力学を捉えそこなってしまう惧れがあるのではなかろうか。

 以下では、上記のような予備的な検討から導き出されるマーラー作品のありうべきデータ分析についての予想をラフスケッチしておきたい。結論を先取りして言えば、それは標題にあるように、発展的調性を力学系として扱うこと、もっと踏み込んで言えば、高次元のカオス力学系のようなもの(ただし差し当たり離散的なものという制限はつくが)として扱うことになるのではなかろうか、ということになる。その当否は、具体的なデータ分析によって今後得られる展望により判断されるものであるべきだろう。そして、それだけで判断ができるわけではないだろうが、少なくとも判断の条件の一部としてデータ分析の裏付けが含まれるべきではあろうと考える。

 マーラーの調的遷移の特徴として、一方では古典的なドミナント優位の遷移があるかと思えば、特に準備なしで3度を始めとする遠隔調への転調が頻繁に用いられるように、しばしばコストが大きい遷移が敢て選択されることがある。古典派とロマン派と対比という枠組みでは、専ら後者が「逸脱」として記述されて注目されることが多いようだが、現実にはマーラーの調的プロセスは、非ドミナント系の転調における移行過程の入念さ、繊細さや巧妙さそのものにあるというよりは(実際、そうした技巧に関しては、他の同時代の作曲家と比べたとき、マーラーは寧ろ素朴にさえ見える)、複数のシステムの併存と、その結果として起きる競合に特徴があるように思われる。一方ではごくオーソドックスなプロセスがあるかと思えば、一瞬にして別の領域に足を踏み込むかのような急激な変化があり、ある調的領域をあっという間に通り過ぎたかと思えば、最初は仮初めに見えた領域に長いこと留まってみたりという具合に、その多様性こそが特徴なのではないかと思われる。

 しばしば発展的調性と一括りにされる調的プロセスも、個々に見ればその様相は多様なのだが、共通するのは、どこに辿り着くかが事前に決まっているのではなく、複数の調的な極の間で競合があって、そのどちらかが選ばれるかについて、事前に定められた経路に従って予定調和的に進んでいくのではなく、ある時には開始の調性に回帰し、ある時には関係調に、ある時には遠隔調に辿り着くということが起きるという不決定性のように思われるのだ。つまり「発展」というのは寧ろ実態を正しく言い当てておらず、偶々曲頭の調性に回帰しなかったことを以て遡及的にそう述べているに過ぎないというのが実態に近いようにさえ感じられるのである。他方で、曲頭の調性に回帰するが故に発展的調性の枠組みから除外される作品(第1交響曲、第6交響曲、第8交響曲、そして第10交響曲)についても、その調的遷移の過程は作品ごとに固有であり、まさにアドルノの言う「唯名論的」という形容が当て嵌まるし、その一方では発展的調性の側に分類される作品と力学において共通な側面もあるであろう。要するに、外面的に曲頭の調性と末尾の調性の一致・不一致による分類よりも、マーラーの作品全体を通して共通する固有の力学を、実現された作品の具体的なプロセスの多様性を説明できるような仕方で見出すことが目標とされるべきなのではなかろうか。

 そこでは古典的なシステムにおけるような意味合いでの真のアトラクタは存在せず、しばしば何が主音であるかについて複数の候補の間での競合状態が続いたり、調的領域が曖昧な状態が起きたりもするし、寧ろ準安定点が複数あってそれらが形作る複数の領域(ベイスン)の間を遍歴するかのような挙動を示しているように見えるのである。

 そのような系の挙動の定性的特徴から連想されるのは、まさにカオス的遍歴という疑似アトラクター間の遷移を挙動上の特徴として持つ高次元カオス力学系のような複雑系であろう。一般に複雑系というのは散逸系で動的不均衡で準安定なわけだが、マーラーの音楽は上記のビット列の力学系の挙動という点に関しては、比喩ではなく文字通りに複雑系的な挙動をするような系であるということはないのだろうかと思えてならないのである。上述の発展的調性についても、エネルギーの流入で系の変化の自由度が増した結果、局所的にゆらぎが起きたときに、系がどちらの方向に発展するかについて必ずしも決定的ではなく、これもカオス力学系で観測される分岐現象が起きていると考えることはできないだろうか。

 今日、脳の活動をカオス力学系と見做してモデルを構築する試みが為されているが、あたかも「意識の流れ」の如き「小説」に類比される時間性を持つマーラーの音楽が或る側面に注目した場合にカオス力学系のような複雑系としてモデル化できるというのは、必ずしも突飛な思いつきではないだろう。ただし、あくまでモデルはビット列の状態遷移であり、離散力学系である点には留意する必要がある。和声学の規則をルールとして実装することを例にとっても良いが、自然なモデル化としてまず思いつくのは1次元セル・オートマトンのような状態遷移システムであろう。もっとも近傍の定義は明らかでなく、セル・オートマトンで通常用いられるとは異なるものを用いなければならないかも知れず、ビット列の置換規則がどのようなものになるのかは、寧ろ機械学習の恰好の課題かも知れないが。いずれにしても必要なのは、音楽に対してメタな立場から、メタファーとしてラベルを宛がうことではなく、その音楽の持っている構造自体を分析することによって、その振舞を適切な語彙で説明することなのではなかろうか。実際にマーラーの音楽の調的遷移のプロセスがどのような数理で記述できるのかは、今後の課題ではあるのだが、それはアドルノが半世紀前にマーラーに関するモノグラフ冒頭で喝破した通り、伝統的な楽曲分析によってでもなく、さりとて今日なら記号論的アプローチを用いることによって洗練されたものになったとはいえ、音楽を外部の何者かの「記号」として扱う点では昔ながらの「標題性」についての議論と変わるところのない方法によってでもなく、それら両者がいずれも背負っている文化的伝統の重荷からは自由な立場で、個別の楽曲のデータ分析し、モデル化することによって明らかにされるものなのではなかろうか。或いはその結果、まだ極めて肌理の粗い直観に過ぎない上記のような予想が誤りであることがわかるかも知れないが、仮にそうなったとしても、曖昧なメタファーを隠れ蓑にした、捕らえ処のない議論に終始するよりは遥かにましであると考えたい。そしてそこに向けての果てしない道程の最初の一歩として、ここでごく初歩的な検討を試みた、マーラーの作品の各時点において鳴っている音をビット列で表現し、そのビット列の状態遷移過程を力学系として記述する試みを位置づけてみたく思っているのである。

 分析の稚拙さ、記述の不正確さについては、もとよりそれ意図したものである筈はなく、海容を乞う他なく、あわよくばその意を汲んで頂き、ここでは初歩的なレベルに過ぎない分析を議論に耐えるようなレベルにまで進展させて下さる方が現れるのであれば、この拙い文章の意図は十分に達成されたことになる。(2019.11.10-11未定稿, 14,16加筆)

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