第6部:データの信頼性と限界
6.1 MIDI出典管理と信頼性差
MIDIデータの制作経路に起因する信頼性の問題、およびそれに対する対策(前後幅を持たせたサンプリング、複数ソースの比較による採用データの選定)については、第2部6節で詳述した。要点のみ再掲すると、本研究のコーパスは作曲家ごとに信頼性の水準が異なり(マーラーは加藤隆太郎氏コレクションにより最高水準、ペッテションは信頼できる単一ソース、ブルックナーはソースによって信頼性に差があり、シベリウスは部分的クロスバリデーション済み)、この非一様性は作曲家間比較を行う際の留保事項として常に意識される必要がある。特にショスタコーヴィチ(n=2)のような小標本の作曲家については、個別の傾向を安易に一般化しないよう注意を要する。
6.2 非原点における偶発的衝突の可能性
第1部1.4節で導出した通り、五度圏重心(f5係数)の原点への収束は、回転対称性を持つ和音について理論的に保証された必然である。しかし、原点以外の点においても、和音の構成が厳密に一致する——すなわち異なる和音が同一の重心座標を持つ——事態が理論上排除できないことが、検証の過程で明らかになった。
具体的には、12ピッチクラスの全ての空でない部分集合(4095通り)を網羅的に計算した結果、重心が一致する点(4桁丸め後)は1705点存在し、そのうち49点で異なる同時発音数の和音が同一の重心を共有していた。ただし、この49点はいずれも、少なくとも一方が6音以上の密集和音(hexachord以上)であることを条件としている。実務上想定される同時発音数の範囲(2〜5音程度、大半の調的〜後期ロマン派音楽をカバーする範囲)に限定すると、この種の衝突は原点においてのみ生じ、それ以外の点では生じないことが確認されている。
この事実は、密集した同時発音(6音以上)を伴う作品——後期ペッテションの厚いオーケストレーションや、マーラーの大規模な総奏部分など——については、原点以外の点についても、重心の一致が複数の異なる和声内容に由来する可能性を完全には排除できないことを意味する。現状の分析では、この種の非原点衝突について、原点で実施したような体系的なpc集合細分化(レポートI第2.3節)は行っていない。今後、同時発音数6以上の頻度が高い楽章・区間を対象に、同様の細分化検証を行う余地がある。
6.3 方法論的限界のまとめ
以上の各部で述べてきた内容を踏まえ、本研究全体が抱える方法論的限界を以下にまとめる。
分析単位の粒度に起因する限界:9指標体系は楽章・作品単位の集計統計量であり、軌道の時間発展そのもの(どの小節で、どの方向に、どれだけ急激に重心が動いたか)を保持しない。これにより、カタストロフィー理論が本来対象とするような、楽章内部の急激な転換点の検出(第4部4.2節)は、現行の指標体系では直接には行えない。
理論的解釈枠組みの性格:FEP三層構造、カスプカタストロフィーモデル、「交響曲的主体」類型(第4部)は、いずれも証明された事実ではなく、本研究が採用する作業仮説としての解釈的枠組みである。これらの枠組みが提供する説明力は、定量指標との整合性という形で検証可能ではあるが、対立仮説を排除する意味での反証可能性を十分に備えているとは言い切れない点には留意が必要である。
比較対象の選択:Krumhansl-Schmuckler、Chewのスパイラル・アレイに対する五度圏重心の優位性(第5部)は、本研究の目的(複数作曲家を横断する理論負荷最小の軌道追跡)に照らした相対的な優位性であり、これら既存手法が全ての目的において劣るという主張ではない。特にK-S型の手法は、本研究が意図的に避けた「機能和声的な調性推定」を必要とする分析には、依然として有効でありうる。
コーパスの代表性:8作曲家・55楽章というコーパスは、19世紀後半から20世紀にかけての交響曲的伝統の一部を代表するに過ぎず、より広い時代・地域・様式への一般化には慎重を要する。
6.4 今後の課題
以下の課題は、現行の分析設計の延長線上にありながら、追加のデータ処理・分析手法の導入を要するため、今後の検討課題として位置づける。
カタストロフィー的不連続点の時系列検出:第4部4.2節で述べた限界に対応する課題として、和声的緊張度・テクスチュア密度・Tonal_Focus等の小節単位時系列に対し、変化点検出アルゴリズム(PELT法またはベイズ的変化点検出)を適用し、不連続点(潜在的カタストロフィー点)の数・強度・分布を定量化することが考えられる。これにより、例えばマーラー第6交響曲終楽章(少数の大きな不連続点によるfold型カタストロフィーが予測される)と第9交響曲第1楽章(多数の小さな不連続点の反復によるcusp型の連鎖が予測される)のような、fold型・cusp型の形式的区別を定量的に検証できる可能性がある。
ソナタ形式における自己相似性の計量:提示部と再現部の対応区間について、動的時間伸縮法(DTW)またはピッチクラスベクトルのコサイン類似度を用いた類似度計量により、「形式の緩さ」(再現部が提示部からどれだけ変容しているか)を定量化する課題。
調的推定の時系列変化率:Krumhansl-Kesslerのキープロファイルを小節単位で適用した調性推定の時系列を別途生成し、その変化率(フレーム間距離の分布)および調的曖昧性スコア(主要調との相関が全体的に低い区間の割合)を、既存の五度圏重心軌道と比較検証する課題。これは第5部で述べたK-S不採用の理由(カテゴリカルな出力形式が調的曖昧さを表現しにくいこと)を踏まえつつ、両手法を補完的に併用する可能性を探るものである。
非原点における密集和音衝突の系統的検証:6.2節で述べた限界に対応し、同時発音数6以上が高頻度で出現する楽章・作曲家(後期ペッテション、マーラーの総奏部等)を対象に、原点細分化と同様の手法でpc集合の系統的な照合を行う課題。
レポートIが挙げる今後の課題:方向性指標・原点細分化指標に関する今後の課題(ブルックナー第9番の質的断絶の検証、マーラーにおける楽章類型パターンの検討、DSCHコーパスの拡張、新旧指標体系対応関係の精査、DFT係数への理論的拡張)については、レポートI第7章に詳述されているため、本稿では重複を避け参照に留める。
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