第3部:指標体系
本稿は、小節ごとの重心座標という一次データ(軌道)から、実際に算出・使用している指標群の定義と、それぞれの採否の根拠を記述する。第1部で述べた数理的基盤(五度圏重心のDFT的位置づけ)、第2部で述べた分析設計(サンプリング単位・コーパス構成)を前提とし、その上でどのような統計量を、どのような理論的動機に基づいて構成したかを扱う。
3.1 既存9指標の定義と相互関係
各分析単位(楽章または作品)について、以下の9つの指標を算出する。これらはいずれも、小節ごとの重心座標という一次データ(軌道)を、平均・標準偏差・角度差の平均といった形に要約した二次的な統計量である。これらは軌道の「形状の特徴」を数値化したものであり、軌道そのもの——すなわち、どの小節で、どの方向に、どれだけ急激に重心が動いたかという時間発展の具体的な経路——を保持していない。
ここで選択された9つの統計量は、軌道の要約統計量として一般的なもの(平均・分散・変化量の平均等)を機械的に採用したものではなく、自由エネルギー原理(FEP)の三層構造という理論的な問いに対応させる形で、各層に最低3つずつ、意味の異なる統計量を配置している。
層1:生成モデルの安定性(その曲は、自らの調的仮説にどれだけ確信を持ち続けているか)
Avg_r(平均重心半径):全小節を通じた重心半径の平均。生成モデルが平均してどれだけ強くコミットした予測(=特定の調的領域)を維持しているかの、いわば「デフォルトの確信度」に対応する。
SD_r(重心半径の標準偏差):Avg_rが曲内でどれだけ揺れ動くか。同じAvg_rでも、終始一定の精度水準を保ちながら予測を維持する曲と、精度を動的に上下させながら予測誤差に対する感受性を能動的に再調整する曲とは、FEP的には全く異なる主体のあり方を意味する。SD_rはこの精度変動の大きさそのものを測る。
Tonal_Focus(調的集中度):実装上の定義は、五度圏平面(xy座標)を10×10のグリッドに分割した2次元ヒストグラムにおいて、最も出現頻度の高いビンが全サンプル中に占める比率(最大ビン占有率)である。したがって厳密には、Tonal_Focusは「原点近傍への集中度」そのものを測る指標ではなく、軌道上で重心が最も頻繁に訪れる局所領域への集中度を測る指標である。多くの調性音楽では、重心が最も頻繁に滞在する領域は主調に対応する非原点の一点になるため、この局所集中は経験的に「調的な収束」と対応するが、両者が概念として同一ではない点には注意を要する。層1の中では、Avg_r・SD_rが軌道全体にわたる平均的な水準とその変動を捉えるのに対し、Tonal_Focusはこれらとは独立に、軌道が特定の一領域にどれだけ偏って滞留するかという、空間的な集中の程度を捉える指標として機能する。
層2:状態空間における行動パターン(重心はどう動き回るか)
Avg_Step(平均ステップ幅):隣接小節間の重心移動角度の平均。FEP的には、一歩ごとにどれだけ予測を更新しているかに対応する。値が大きいほど、調的な文脈の書き換えが頻繁であることを意味する。
Step_Rate_100(100小節あたりステップ量):Avg_Stepの曲長正規化版。作品によって長さが数倍異なる場合、正規化を行わないと総移動量が単に曲の長さに比例してしまい、作品固有の「動きの烈しさ」ではなく単なる長さの効果を測ることになる。この正規化は、作品間比較を可能にするための必須の設計である。
Spatial_Dispersion(空間分散度):重心が実際に訪れた領域の広がり(分散)。Avg_Stepとは独立の情報である。転調の歩幅(Avg_Step)が同程度であっても、五度圏上の特定領域を集中的に往復する動きと、広域にわたって分散しながら移動する動きとでは、Spatial_Dispersionの値は大きく異なる。FEP的には、前者は同一の調的仮説の周辺で予測誤差を局所的に微修正し続ける状態に、後者は生成モデルそのものが想定する調的仮説の範囲が広く、より根本的な書き換え(遠い調的領域への探索的飛躍)が生じやすい状態に対応すると解釈できる。
層3:感覚入力の複雑性(拍頭で実際に何が鳴っているか)
PC_Density(ピッチクラス密度):拍頭で同時に鳴っているピッチクラス数の平均。瞬間ごとの感覚入力そのものの複雑さを表す、最も直接的な指標である。
Texture_Volatility(テクスチュア揺らぎ):PC_Densityが小節ごとにどれだけ変動するか。同じ平均密度でも、常に一定の厚みで鳴り続ける曲と、薄い瞬間と厚い瞬間が激しく交代する曲とでは、感覚入力として与えられる「驚き」の量が異なる。これはPC_Densityの平均だけでは失われる情報である。
Harmonic_Coverage(和声被覆率):楽曲全体を通じて、三和音以上の有効和声が成立している小節の比率(=有効小節数/全小節数)。PC_Densityが「ある拍頭で何声部鳴っているか」という瞬間の密度を測るのに対し、Harmonic_Coverageは「そのような有効な和声が楽曲全体の何割の時間にわたって途切れずに存在しているか」という被覆の持続性を測る。FEP的には、生成モデルへの感覚入力が供給され続けている時間的割合に対応する。
まとめると、9指標は「平均・分散・広がり」という統計的操作を無差別に適用したものではなく、各層について「平均的な水準」「その水準の一貫性」「探索・変動の広がり」という異なる情報を最低限セットで揃えるという設計方針のもとに選ばれている。これにより、同じ平均値を持つ2曲でも、変動の仕方や探索範囲の違いによって、PCA空間上では異なる位置に配置されうるという分解能が確保されている。
3.2 9指標体系の冗長性・寄与度に関する検証
9指標のうち、寄与度が低い、ないし他指標と冗長な指標が存在しないかを検証するため、全拍サンプリングとの比較で得られたローディングの角度安定性・他指標との相関・PCA構造への寄与という3つの診断軸により、SD_r・Spatial_Dispersion・PC_Density・Texture_Volatilityの4指標を除外候補の初期スクリーニング対象として抽出した。
初期スクリーニングの結果:ローディングベクトルの角度(PC1軸寄りかPC2軸寄りか)が分析条件間でどれだけ安定しているかを見ると、Spatial_Dispersionが最も不安定であり(角度の標準偏差36.9°、PC1との相関の符号が分析条件によって反転する)、SD_rがこれに次いだ(22.3°)。一方、他の8指標との相関を見ると、SD_rはAvg_r(|r|=0.74〜0.80)・Tonal_Focus(|r|=0.61〜0.74)・Avg_Step/Step_Rate_100(|r|=0.56〜0.62)と高く相関しており、既存指標と情報が重複している可能性が示唆された。対照的にSpatial_Dispersionは他のどの指標とも弱い相関(|r|0.52)しか持たず、冗長性ではなく信号の弱さが問題である可能性が高いと判断された。
ブートストラップ安定性分析による追加検証:しかし、この結論はPC1・PC2という2次元へ射影した後の構造にのみ基づくものである。指標の除外がPCAによる射影を経る前の段階で分類結果そのものにどの程度影響するかを確認するため、標準化された9指標(または候補指標を除いた8指標)を直接クラスタリングに用いる検証を追加で行った。全50楽章データを用い、各候補指標を除いた8指標セットについて、既存の9指標セットと同一の手順(200回のリサンプリングによるブートストラップ安定性分析)でk=3の安定性を再計算したところ、以下の結果を得た。
SD_rを除いた場合にk=3の安定性が最も大きく悪化することが明らかになった。9指標によるk=3クラスタリングとSD_r除外後の8指標によるk=3クラスタリングを直接比較すると、両者の一致度はARI=0.784にとどまり、全50楽章中4楽章が異なるクラスタへ再配置された。
結論:PCA的な冗長性とクラスタリング上の寄与度は必ずしも一致しない。SD_rは、PC1・PC2という2次元の連続的構造に対しては他指標と重複した情報しか提供していないように見えたが、9次元(8次元)空間全体を用いる離散的なクラスタリング構造に対しては、無視できない固有の寄与を果たしていることが判明した。これは、相関の高さのみに基づいて指標の冗長性を判断することの危うさを示す一例であり、この検証結果自体は「相関構造に基づく指標の一見した冗長性」と「クラスタリングという離散的な分類課題における実際の寄与度」とが乖離しうるという方法論的知見として、それ自体価値を持つと判断する。以上より、現行の9指標セットをそのまま維持する。
3.3 採用しなかった指標:Winding_Rate_100
9指標とは別に、Winding_Rate_100(五度圏上での回転方向を考慮した累積移動量)という指標も試作したが、複数楽章を連結した際に楽章境界での人為的な接続が値を歪めやすいという性質があるため、9指標体系には含めていない。
この除外判断は、拍頭サンプリングと全拍サンプリングの比較検証によっても独立に裏付けられている。他の9指標のPC1・PC2相関がいずれも高水準(0.8〜0.99)を維持したのに対し、Winding_Rate_100の相関は全楽章分析で0.500、全曲分析で0.564にとどまり、主要楽章分析に至っては−0.305と符号そのものが逆転した。これは、この指標がサンプリング単位の変更に対して極めて脆弱であることを独立に裏付けており、9指標から除外した判断の妥当性を補強するものである。
3.4 方向性指標群・原点細分化指標群
既存9指標体系を拡張する形で開発された、方向性・滞留性・原点細分化に関わる指標群(Anisotropy_Ratio、Rbar_full、Attractor_Number、Origin_PCSet_Ratio、Exact_Triadic_Ratio等、計16指標)については、その開発経緯(3段階の探索プロセス)・数学的背景・検証手続きを、別稿「五度圏ピッチクラスセット重心の方向性指標拡張——方法論編(レポートI)」に詳述している。この16指標は既存9指標を置き換えるものではなく、両者は同一の一次データ(小節ごとの重心座標)に対する異なる要約統計量として並立する拡張体系である。9指標は軌道の基礎的な記述(水準・変動・広がり、および3.1節で述べたFEP三層構造への対応)を担う基盤体系として維持され、16指標はこれに、9指標では捉えられない別の幾何学的情報——重心が原点からどの方向に偏っているか(方向性)、特定の領域にどれだけ滞留するか(滞留性)、原点収束の内実がどの対称和音に由来するか(原点細分化)——を追加する。レポートI第2章は新指標群の開発経緯を、第3章はその妥当性・新規性・限界の検証方法論(新旧指標体系の整合性検証を含む)を扱っており、本稿と合わせて参照されたい。特に、新指標群のうち原点収束現象に関わる部分(レポートI第2.3節)の数理的基盤——なぜ回転対称性を持つ和音が必然的に原点に収束するか——については、本稿とは独立した基礎文書である「五度圏重心分析の方法論的基礎」第1部で、Lewin–Quinnの移調対称性定理に基づく完全な演繹的説明を与えている。
なお、レポートI第3.1〜3.4節で示されている通り、新指標群のうち複数(特に第1段階の異方性・方向集中指標群)は、既存のPC1・PC2(9指標体系のPCA平面)に対して高い相関を示すものが多く、真に新規の情報を持つのはOrigin_PCSet_Ratioを中心とする一部の指標に限られることが確認されている。この点も含めた詳細な検証結果は、レポートI第3章を参照されたい。
3.5 概念的独立性と経験的相関の区別という視座
新指標の検証にあたり、ある新指標が既存軸と強い相関を示した場合であっても、それは「その指標が測定する概念そのものが既存指標と同一である」ことを意味しない、という区別を方法論上の前提として採用している。たとえば方向集中度(Rbar_full)と調的集中度(Tonal_Focus)は、数学的には独立に振る舞いうる量である(半径方向に凝集しつつ全方位に均等に散らばる、あるいはその逆の組み合わせも原理上ありうる)。したがって、経験的に強い相関が観察されたこと自体が、両者が概念上偶然一致しているのではなく実質的な音楽的規則性を反映している可能性がある、という解釈上の余地を残す形で報告する方針を取っている。この視座は、3.2節で確認した「PCA的な冗長性とクラスタリング上の寄与度の乖離」という知見とも整合的であり、単一の統計的基準だけで指標の要否を機械的に判定することの危うさに対する、本研究全体を貫く一貫した警戒である。
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