2010年6月27日日曜日

戦前の日本におけるマーラー受容との断絶

 戦前の日本におけるマーラー受容が広く知られるようになってきたのは、1980年代のマーラー・ブームの頃ではなかろうか。手元にある文献では、 サントリー美術館で1989年4月4日~5月14日に開催された展覧会のカタログ「サントリー音楽文化展 '89 マーラー」中に含まれる森泰彦「オーケストラ演奏記録が語るもの -日本のマーラー受容1924~1985」が挙げられるだろう。これは、まずカタログ自体がTBSブリタニカより市販された他、根岸一美/渡辺裕(編)「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍,1993)にも 追記がされた上で再録された。英語の文献なら、Donald Mitchell,とAndrew Nicholsonが編んだThe Mahler Companion(Oxford Unversity Press, 1999)に他の国での受容と並ぶ仕方で Kenji Aoyagi, "Mahler and Japan"が収められていて、その1章が戦前のマーラー受容に充てられている。
 
 だが記録や概観ではなく、より証言に近いものをということになれば、岩波新書に収められた柴田南雄『グスタフ・マーラー:現代音楽への道』(1984)を挙げなければなるまい。序論にあたる 「はじめに-われわれとマーラー」の第2節が「戦前の日本におけるマーラー」というタイトルを持っていて、10ページ強の中に手際よく受容史がまとめられているのだが、1916年生まれの著者の 回想が含まれていて、寧ろその点が強い印象に残る。この本の刊行当時、日本マーラー協会の事務局長であった桜井健二さんの『マーラー万華鏡』(芸術現代社, 1991)の中のV章を占める 山田一雄との対談 「マーラー演奏半世紀」やVI章のうちの最初の3つの文章「日本人とマーラー」、「現世と幻想の交錯する魔境/マーラーと小栗虫太郎」「マーラー時代のマスコミとマスコミ時代のマーラー」は、 戦前の受容に関わりのある記述を含んでいるし、同じ著者の『マーラーとヒトラー:生の歌 死の歌』(二見書房, 1988)でも近衛秀麿やプリングスハイムの記述など、日本国内での受容に関する記述が 含まれていた。
 
 けれども、もっと断片的なものを含めれば、それより以前にも上述のような文章でより包括的に記述される状況を窺わせるような文章がなかったわけではない。私がマーラーを 聴き始めた頃に刊行された青土社の『音楽の手帖 マーラー』(1980)には、戦前や戦後間もなくの時期の回想を含む文章が幾つか含まれていて、小栗虫太郎の「完全犯罪」、ワルターの 「大地の歌」(当然これは戦前にSPで出た1936年の演奏)、レーケンパーの「亡き児を偲ぶ歌」(1928年演奏でやはりSPで戦前の日本で入手できた)あたりへの言及が目立つ。 「大地の歌」の日本初演(昭和16年1月22日)への言及もあるが、何といっても既にこの中に柴田南雄「マーラー演奏のディスコロジー」が収められており、おしなべて戦前のマーラー受容の回想の 様子をある程度知ることはできたのである。
 
 もちろん、上記の文献で言及されている往時の状況を直接に、同時代の文献にあたって確認することも不可能ではない。現在のNHK交響楽団の前身にあたる新交響楽団の機関紙、 音楽雑誌『フィルハーモニー』第12巻第3号(1938)はグスタフ・マーラー特集号で、ローゼンシュトック指揮による第3交響曲の公演の折のもの、同じく『フィルハーモニー』第15巻第1号 (1941)は「大地の歌」の日本初演の公演の折のものである。プリングスハイムの文章があったかと思えば、ベッカーの『グスタフマーラーの交響曲』の部分訳が収められたり、橋本国彦の手になる、マーラー没後25年にあたる1936年にウィーンを訪れた際の体験やら、第10交響曲の1924年の出版への言及やら、既に刊行されていた書簡集(1925)、ロラーの回想(1922)、 ベッカーの著作への言及もあり、自分が撮ったものも含めた写真の説明もありといった非常に情報量の多い文章も収められていて、大変に興味深い記録である。
 
 上記以外にも、これはまだマーラーを聴き始めたばかりの頃であったろうか、戦争中のニュース映画のBGMにマーラーの第1交響曲の第4楽章の冒頭が用いられているのを耳にして驚いた記憶がある。 マーラーがユダヤ人であり、第2次世界大戦中に特にドイツにおいてその音楽が蒙った受難を知らないではなかったから、1941年時点ではまだユダヤ人であるローゼンシュトックがマーラーの「大地の歌」を 初演することができたといった、もう少し微妙な状況についてその時点では知らなかった私には、ドイツの同盟国であったはずの日本で戦争中のニュース映画のBGMにマーラーの 音楽が使われていたというのが腑に落ちなかったのである。
 
 戦後間もなくも含めれば、パウル・ベッカー『ベートーヴェンよりマーラーまでの交響曲』が武川寛海訳で日本音楽雑誌より 出版されたのは1947年、石倉小三郎の『グスターフ・マーラー』が音楽之友社より音楽文庫の1冊として出たのは1952年である。特に後者はシュペヒトの著作に依拠する部分が多いが、 第9交響曲における奇妙な記述など、音楽を耳にするか、せめてスコアを手にすればありえない誤りも含まれており、それはそれで状況を証言するものとして興味深い。
 
*   *   *

 だがしかし、それらを読んだ私が受け止めることを余儀なくされるのは、自分のマーラー受容が、実際にはそうした受容の末端に連なるものであるはずであり、現実に異なる展望の下、例えば私が聴いたマーラーの 実演を演奏した方々の側では確かにそれらと繋がっているものである筈であるにも関わらず、それらがまるで他人事のように疎遠に感じられるという事実である。私は別段音楽的な 環境に育ったわけではないが、それでも若い頃にはフルートを嗜んだらしい父親が祖父から継いだ家業をやめ、会社に就職して郊外の田園地帯で借家住まいを始めると同時に楽器は止めてしまい、 その代わりにポータブルのラジカセでFM放送をエアチェックしつつカセット・テープに録音したクラシック音楽を聴き返すのを耳にしながら育った。しかしそれにも関わらず、マーラーの音楽は、 文字通り一から自分で発見したものだった。父はマーラーの名前を知っていたにも関わらず、 マーラーを決して自分から聴こうとはしなかったからである。もっとも父のライブラリに含まれる音楽で今尚私が、特定の作曲者への拘りを持ちながら聴き続けているのはセザール・フランクくらいなものであって、だからこの事実は単に父と私のそれぞれの個人の嗜好の差異に還元してしまえるものかも知れない。だが例えば学校の音楽室に貼られていた作曲家の肖像画の複製にもマーラーは含まれなかったし、音楽の教科書の年表にも、 「国民楽派の作曲家」シベリウスはあっても、あるいはバルトーク、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチ(あるいは「教育的作品」の作曲者であるという理由でプロコフィエフやブリテンは載っていても)、更には武満の「ノヴェンバー・ステップス」は載っていても、マーラーの名前は なかったのである。
 
 そもそも父の音楽の嗜好は、それではどのようにして水路づけられたのであろうか。父亡き今はそれを確認する術もないし、生前とて寡黙で自分のことを語ることのほとんどなかった 父からそうした話を聞き出せたとも思えないが、例えば父のカセット・ライブラリには含まれない音楽でも、ドビュッシーであったりブルックナーであったりについて父が語った言葉は記憶に残っているし、 そもそもバルトークの音楽(弦楽四重奏曲第四番)やストラヴィンスキーの音楽(ペトルーシュカ)は父のライブラリにも含まれていた。否、中心はバッハから古典派、シューベルトやシューマンなどのロマン派のピアノ曲や室内楽だったとはいえ、 ワグナーやチャイコフスキー、グリーグやスメタナすら含まれていたわけで、マーラーだって名前は勿論知っていたのだから、そこには選択が働いていたに違いなく、その背景には父が生きた時代の 音楽観のなかの或る種のもの、父が共感したタイプのものの反映があるに違いないのだ。
 
 ちなみに私はその後マーラーやシベリウスから始まって、ラヴェルやらヴェーベルンやら武満、果てはスクリャービンといった作曲家のレコードを買い、アイヴズやらクセナキスやらショスタコーヴィチに興味を示すようになっていき、父の嗜好とは全く異なる方向に進んでいった。父は勿論批難こそしなかったけれども随分な趣味だと内心思っていたに違いない。その父が亡くなった後、 父の遺品から件のカセット・ライブラリを引き取った私は、その中に私が世帯を別にした後に父が追加したカセット・テープが含まれ、その追加されたテープにうちにマーラーの第6交響曲と 第4交響曲が含まれているのを見つけて大変に驚いたものである。それは父が「趣味の悪い」息子に対して示した唯一の歩み寄りであったのだろう。一時期の私にとってマーラーが どんな存在であるかを父は傍で見て知っていたに違いないのだから。そしてそうであるならば、父はあのマーラー・ブームを一体どのような気持ちで眺めていたのだろうか。
 
 勿論、個人的な状況を根拠にして言い得ることは権利上はほとんど何も無いには違いない。現実問題としても日本におけるマーラーの作品の演奏は戦後間もなくの時期から私が知らないところで 行われ続けていたわけで、その後のブームも、今日のおけるマーラー受容もそうした継続性の上に成り立っているのは間違いないことであり、それをあたかも無かったかの如くに言い募るのはどのみち不当なのである。 だけれども、それでもなお、同じ文化的・歴史的伝統の裡にいるはずの自分の先達のマーラーの受容のあり方に全くといっていいほど接点を見出せず、共感もできないことに私はやはり 戸惑ってしまう。フィルハーモニー誌の文章やら、青土社の音楽の手帖所収の文章やらに記録された「マーラー経験」は、私のそれとは凡そ共通点を見つけることが困難なものなのだ。 ろくに西欧のクラシック音楽の伝統に身を浸さぬ裡に、遠近感がない状態でマーラーの音楽を聴くことになったという点では、私の置かれていた状況はむしろ戦前に初めてマーラーが 日本で演奏された際に平均的な日本の聴衆が置かれていたであろう状況に近く、その一方でマーラーと地続きであった時代は遠く去ってしまった時点で突然マーラーの音楽に出会った私にとって、 自分が生まれる少し前のマーラー生誕100年の頃から生じていたはずのマーラー・ルネサンスの恩恵をそれと気付かずに蒙りつつも、少なくとも主観的にはそうしたパースペクティヴには全く気付かないままに、 子供ながら徐々に形作りつつあった奇妙な文化的な圏の中に、だがその文脈では違和感なくその中央に位置づけられる存在としてマーラーが突然出現したというのが事態の端的な記述なのだ。
 
 漢詩を読みあさり、カントに魅惑され、ショーペンハウアーを齧り、シェイクスピアを読み散らし、ヘルダーリンに惹かれ、『カラマーゾフの兄弟』にどっぷりはまった中学生にとってマーラーの音楽はあまりに直截に、 その圏の中に響きわたったのである。マーラーのよるべなさ、マージナリティは少し考えれば己のそれとは全く異なるものであるのは明らかだというのに、そんなことにはお構い無しに、そこに自分の周囲の地形と 同相なものを見つけ出し、勝手に自分の同伴者と決め付けてしまったのだ。マーラーより少し前に聴くようになっていたシベリウスや、マーラーと相前後して聴くようになったヴェーベルンの音楽が 自分の波長に合い、琴線に直接響くものをであると感じつつも、でもそれらは自分の外側の、風景の側の響きであると思われたのに対し、マーラーの音楽は自分の中で響くものとして 呑み込んでしまったのである。風景ではなく風景の認識の、感受の様態そのもの、外界の事象への反応の様式そのものとして、マーラーの音楽は比喩でも何でもなく、文字通り自分の一部となったといって良い。
 
*   *   *

 そしてそういう私にはマーラーを一緒に聴く同伴者は不在であった。実は戦前より日本ではマーラーが受容されてきたことを知り、それが世界的に見ても比較的早いものであって、 そこには日本の置かれた特殊な位置のようなものが関係しているということがわかった後でも、だからといって、そうした受容の中に自分を位置づけることはできなかったし、今でも そうすることが出来ずにいる。今や、こんな異郷の過去の音楽に何故関わらざるを得ないのかの方が寧ろ疑問視されて然るべきだと客観的には認識されても、だからといって主観的には済んだものとして 無かったことにするわけにはいかない。そちらの方がアナクロニスムであるとは思っても、現実問題として私にとって現在の「世の成り行き」をやり過すためには無くてはならないものなのである。 私はそこに過去の時代へのノスタルジーを感じることなどできない。それは骨董として賞玩するような「美」とは更に何の関係もない。勘違いや思い込みと嘲笑されようが、あるいはそれは単に 愚かなだけだと一蹴されようが、あいにく頭の悪い私にとっては、マーラーの問題は未だ自分の問題であり続けているし、それは決して解決済みな訳でもない。そしてそういう視界狭窄の 中から眺める日本におけるマーラーの受容史は、それ自体が異国のどこかの過去の出来事のようにしか感じられない。かくして私の前には深い断絶が聳えているのである。
 
 例えば、私がマーラーより前に、シベリウスより前に聴きはじめ、特定の作曲家に関心を持つ最初のケースであったセザール・フランクの場合には、上述の通り父親のコレクションの中に フランクの作品が数曲(交響曲二短調、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ五重奏曲の3曲に過ぎないが)含まれることもあり、事実問題として過去への辿る経路が存在した。また フランクの音楽が学校の音楽室に響くことはなくても、音楽史の中でフランクは確固たる存在だった。勿論フランクについての情報は今もそうだが、その当時も極めて乏しいもので、 辛うじてビュアンゾのフランク伝を田辺保が訳したものが読めたくらいだったのだが、それは過去への遡行を妨げるものでは決してない。実際に調べてみれば寧ろ最近よりも戦前の方が フランクの音楽は真摯に受容されていたらしい節も窺われるのだ。例えばダンディのフランク伝が(一部抄訳とはいえ)翻訳されたのは昭和7年のことだし、フランクの音楽のうちの何曲かはすでに昭和の初期に 来日した演奏家のリサイタルで、あるいはレコードによって日本で聞くことができたようだ。つい最近になって知ったことだが、例えば河上徹太郎のフランク論は、私が別のところに書いているような自己の経験とは 直接には違った文脈でではあるかもしれなくても、数十年後にそれと知らずにフランクの音楽を聴いた子供が確かに聴き取った音調と類似した何かを確かに聴きとっていたことを告げているように 感じられるが、それもまた昭和の初期に書かれているのである(「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」の初出は昭和5年)。河上と親しかった堀辰雄の文章にもセザール・フランクの ヴァイオリン・ソナタに言及したものがあるのは随分前から知っていたが、河上徹太郎の文章を読んだのは最近、ふとした偶然によるもので、だから河上の文章を読んだときには非常に驚いた。 彼も言っているが、そのようなことを言っている人を私もまた他に知らなかったし、彼が聴き取ったあるものを、確かに私も聴き取っているのは確かだからだ。だが、この点については別に主題的に論じる価値があるので、 稿を改めて扱うことにしたい。河上徹太郎に関連して更に言えば小林秀雄はフランクを聞いて吐いた経験を河上の全集によせた跋文で披露しているそうだし、こちらは河上の回想によれば、 小林秀雄の有名なモーツァルト論の背後にもフランクの音楽の影があり、更にはそれが晩年に至るまで伸びているにも関わらず、小林秀雄はそれをある意味では抑圧し続けたらしいことをこれまた最近知ったが、 このことは、河上徹太郎のフランク受容のある側面と照らし合わせるに、小林秀雄の音楽論に私が非常に強い反発を覚える点と密接に関係しているようで腑に落ちてしまった。 だが、マーラーに関しては寡聞にしてこうした話は聞かない。小栗虫太郎の小説は私には疎遠で何の感興も呼び起さないし、戦後マーラーといえば決まって言及されるのが(マンの原作ならまだしも) ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」なのだから、私には取り付く島がないのである。是非はおいて、とにかく事実としてそうしたマーラー受容と私のそれとは全く相容れないのだ。 フランクの音楽もまた、戦時中のニュース映画のBGMになっていたことに気付いて、戸惑いを覚えた(フランクは正確にはベルギーの生まれではあるけれど、敵国であるフランスの音楽の筈だが、これまたヴィシー政権などとの関連で微妙な部分が あったのかも知れないが、そんなことはわからないから、不思議に思う訳である)という点で実はマーラーと共通しているのだが、マーラーの音楽が同じような状況で響いた事実は知りえても、どのようにそれが響き、 どのような反応を起こしたのかはマーラーの側については杳として知れないのである。
 
 それとも、私が未だ知らない日本のどこかに同伴者がいたのだろうか。その人の声が届く圏域に私がいないだけなのだろうか。アドルノが見事に指摘したとおり、カフカの「審判」のヨーゼフ・Kの 代弁者であるマーラーには投壜通信は如何にも相応しい。マーラーその人が投げた壜は確かに手元にあるけれど、それはあまりに重過ぎて、自分の手に余り、受け取っただけのものを 自分が誰かに伝達する自信などありはしない。その重みを受け止めるに相応しい人が過去の日本には必ずやいたに違いないのだが、その人からの壜は私の岸辺には未だ辿り着いていないだけなのだろうか。 いずれにしても、それゆえ私にとって「マーラーの時代」は既に去ったものであるか、未だに到来していないものに留まっているのである。ともあれ私はまだ、自分の壜を流す作業を止めることはしばらくできそうにない。 或る種の自己中毒、手段と目的の転倒と嘲笑されようと、このような文章を書かずには私は生きていないのだ。そしてこのような無価値で拙い文章であっても、ごく稀に拾い上げてくれる方がいらっしゃる。 そう、今、ここにおいてなら私には確かに同伴者がいるというのはこれまた紛れもない事実である。私は多分、戦前・戦後の日本のマーラー受容のメイン・ストリームからは遠く離れたところにいるのだろう。 だけれども、そんな私の声も、時折は微かに響くことがあるらしい。だからそうした響きを聞きつけて下さる方々に感謝の気持ちを篭めつつ、やはり書き続けていこうと思うのだ。(2010.6.27)

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