2019年7月6日土曜日

続・マーラーにおける「うたう」ことについて:ある音楽学者への手紙より

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私が「うたう」ことを持ち出した、その拘りの由縁をもう少し書かせて頂きたく思います。主旨としては「うたう」ことの回帰は、「器楽の歌化」なのか?個別には少しずつ異なるのではないか?というような気がするということになるかと思います。

マーラーについては、今回は簡単にします。端的に、彼の場合には人「も」歌うことに目くばせをしたいと思います。しかも、天使と争うヤコブも、悔恨の涙を流すペテロも、女声がうたう。「大地の歌」には、アルトとバリトンの選択肢が用意されていますが、一般にアルトが好まれるのは、コントラストのためだけではなく、「誰」が歌うのかについてのマーラーにおける或る種の異化作用とでも言うべきものに、そちらの方が合致しているからだと思います。バリトンの歌唱での優れた演奏記録が存在することを少しも否定する気はないけれど、バリトンでやれば、それはアウトサイダーとしての、「非人間」への、外への歩みの契機を一つ手放すことになるのでは、と思います。

これもまたアドルノが言っていますが、マーラーはドイツリートの系譜に属していない(新ウィーン楽派の方が正統的)し、バルトーク、ヤナーチェクの土着性・民俗性に対して、マーラーの民謡は紛い物(「魔法の角笛」自体が紛い物に加えて、3重の疎外を抱えたさまよえるユダヤ人が取り上げるのは、ナショナリズム的な観点からは何とも不当な越権行為に見えたであろうことは、「独創性の欠如」「カペルマイスタームジーク」「文化の簒奪者」というレッテルから窺い知ることができると思います。)これまたアドルノの「仮晶」で言い当てられていますが「中国」は初めから紛い物でした。ベトゲの詩も悪名高い紛い物nachdichtungだが、マーラーも、そういう意味でnachkomponierenではないかという見立ても成り立つでしょう。でも、そもそもマーラーの作曲は、第3交響曲でも「大地の歌」でも、否、全作品において一貫して、カペルマイスターの日曜仕事、ブリコラージュではなかったでしょうか?第3交響曲の作曲の折のあの有名な発言は、まさにブリコラージュの証言そのものであるように思えます。nachkomponierenの価値はかくして転倒するように思えます。あえてアドルノに引き付けるならば、それは彼が「唯名論的」と呼ぶ行き方に外ならないのではないでしょうか?

このように、マーラーにおいて「うたう」は何重もの屈折を帯びます。だけれども、その行く先は、人声と器楽ということに拘った例示ということであれば、「大地の歌」の「告別」のあのフルートとアルトのレシタティーヴォのように、別の例ならば、第9交響曲のアダージョの対比群の、あの大きく乖離した二声の対位法のように、「人間」と「自然」といった対立を解消してしまって、シェーンベルクの「非人称」へと赴くといったものではなかったかと思えてなりません。「Esがうたう」は、確かにマーラーにおいて真だと思いますが、そのEsは一体何でしょうか?それはフロイトの心的装置論の構成要素という限定を超えて、さりとて集団的無意識のような、暗黙裡に「人間」概念が忍び込んでいるようなものでもない。互盛央さんに『エスの系譜』という優れた思想史の著作があって、そこではマーラーが愛読したらしい、ショーペンハウアーの「意志」も、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」も登場しますが、そこで扱われているようなものではなく、寧ろ、今日の展望に立てば、通常は環境とか外部と呼ばれるものへの生態学的な、行為・実践的な関与の様相(ギブソンのアフォーダンスを思い浮かべています)に近接するものではないか、マーラーにおいての「うたう」ことは、そういう意味において人と器楽を区別しない、だが他方で「うたう」ことが「人間」の条件である限りにおいて、人間によって演奏されるものであるとは言えまいかというように考えます。

私見では、寧ろEsの概念の方を改訂・更新する必要があるのではないかと思います。そのために、一先ずはEsを自然化する必要があるように思うのです。脳神経科学的説明でもいい、最近、構成主義的な認知ロボティックスで試みられているようなアフォーダンスの構造のカオス理論によるモデル化でもいい。そこまで科学的な記述に行かないまでも、例えば「二分心」とその崩壊による意識の発生の仮説を科学的な知見で裏付けることによって、Esとは何かを語りなおす必要があると考えます。

これは藤井貞和さんの『古日本文学発生論』のような文学の起源、生成の過程に関する卓越した成果と突き合わせる必要があると思うのですが、「うたう」ことにbeschwörenを突き合わせると、リズムの周期的な反復の呪術的効果が視界に入ってきます。そして、反復を嫌うマーラー、或いはシューマン以降のロマン派のDurchkomponierte Formに対して、Strophen Form、韻律といったものの対立が浮かび上がります。そういう意味では、マーラーの「うたう」はリズムの周期的な反復という狭い意味合いでのbeschwörenからは遠ざかるように見える。にも関わらず、「うたう」ことは放棄されていないし、beschwörenは存続しているように見える。それは一体どういうことなのか?ジュリアン・ジェインズの「二分心」の仮説を踏まえるならば、「二分心」に遡る古い層(ヘルダリンにおいては、晩年のスカルダネリ詩篇群に相当)と、「二分心」崩壊後の、「隠れたる神」の時代の「意識」の新しい層(ヘルダリンであれば、後期のあの空前にして絶後の自由律の讃歌群に相当)を考えるべきなのか、といった話にも繋がってくるかと思います。そしてそれは、レヴィ=ストロースにおいては双分制と三分観の問題として取り上げられていることとの関わりにおいて考えてみるべきかとも思っています。

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ところで、自殺を思い止まるきっかけ、精神的ショックのあの麻痺状態から脱出するきっかけ、といった文脈では、単なる偶然かも知れませんが、不思議とブラームスの、しかも声楽曲が出てくるように思います。私自身、東日本大震災の際、親しくしていた知人が被災された後にお会いした折、お見舞いというわけでもなかったのですが、シュタイン指揮バンベルク交響楽団の交響曲全集のCDを差し上げた際の経験があります。ブラームス自身は旋律が書けないと悩んでいて、ドヴォルザークやヨハン・シュトラウスを羨ましがったらしいことを思えば、ブラームスの「うた」は、これもまた一つの大きな謎に見えます。

東日本大震災以来、「ヒーリング・ミュージック」が世間を席巻し、「がんばろう日本」ともども、そうした現象に対する高所からの、冷静で怜悧な批判が為されてきたことを知らないではありませんが、一見すると音楽を自己治療の道具としている点では同じに見える上記の2つのケースは、本当に分離不可能なのか?

正直に言えば、私が音楽なしにやっていけないのには、明らかに自己治癒的な使い方をしている側面があるのは否定できず、アドルノの聴取の類型論でなら、寧ろ批難されるタイプの聴き手であることを白状せざるを得ません。でも、マーラーの場合、作曲が自己治癒であり、特に「大地の歌」が「喪」の状態からの脱出のドキュメントであることは寧ろ事実に属するものだし、アドルノに抗して開き直ってみたい気持ちも正直ありますが(苦笑)。

その当時、レクイエムの不可能性の認識にたって三輪眞弘さんがLux aeternaを作曲され、その初演に立ち会って、その辺りのことはその感想に記しましたし、ここでは繰り返しませんが、「がんばれ」という言葉に対して、それを控えるべきだとの正論を書かれた文章に、私は心底反撥したのでした。被害に直面して、でもとにかく何とかしなくてはならなかった、頑張った(いや過去形で書くのはおかしい、まだ続いているし、終わる見通しは立っていないのですから)人達がいたことを訴えたかったのです。「がんばれ」はやめようという主張には理論的にも裏付けがあるようだし、実際頑張れと言われて折れてしまう人だっていたでしょう。が、現実に、復旧に携わられた「現場」で、それこそブリコラージュの繰り返しによって日々格闘された方々の思いは別だと訴えたかったのでした。それが高所から見てどのように批判的に扱われようと、そうした行為なしには現実は立ち行かない訳ですし。

ちなみに私の場合、東日本大震災直後の麻痺状態からの脱出は、或る日の朝、出勤の時にオフィスの近くを歩いていた時に、頭の中に突然流れ出した、マーラーの第9交響曲の第1楽章、場所は練習番号8番の10小節手前、Noch etwas zögernd, allmählich übergehen zu ... Tempo I の部分でした。もっと正確には、更にその5小節前あたり、ホルンのシグナルが途切れて、ヴィオラに導かれてヴァイオリンが入ってくるところ以降、バーンスタインがスル・ポンティチェロで弾かせることで有名な部分です。(最初に聴いたのが、あの伝説的なベルリン・フィルライブのFM放送で、これが長らく唯一の音源だったのに、私の頭の中では、スル・ポンティチェロでは鳴りませんが。)

これは先生がお書きになられた、マーラーの後期作品にも残っているBildungsroman的な契機と関わりがあると思います。それはヘーゲル的な「世の成り行き」への回帰だったのでしょうか?第9交響曲は非常に遠心的な構造を持っていて、第1楽章を取り囲むように残りの3楽章が配置され、中間楽章では明らかに「世の成り行き」が回帰して、だから私はしばしば第1楽章で聴くのを止めてしまう程なのですが、近年多くの方が、その第1楽章こそ、例えばその主題を取り上げて、甘ったるくて懐旧的、感傷的であるという言い方をされるようです。

確かにそうかも知れません。でも、それならそれで、寧ろ私はそこにこそ「うたう」ことへの回帰を見てとりたい気持ちがあるのです。「大地の歌」が「喪」からの回復過程のドキュメントである限りで、観方によってはそれもまたヘーゲル的な「世の成り行き」への回帰なのかも知れません。だけど、回帰するとき、もはや「うた」は同じじゃなく、元と同じようには「うた」えないのではないでしょうか?それでも回帰する「うた」がマーラーの「うた」ではないでしょうか?この件の最初の手紙で私が記したマーラーの「うた」の様々な特徴は、「うた」の不可能性の中での「うた」の回帰という状況に構造的に見合ったものに思えます。

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(2019.7.6)

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