宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。
端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。
私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。
祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。
私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。
そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。
彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)
ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。
同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。
もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)
否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。
否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
「私は、かれが宗教的精神をもち、ときにその高揚があったとはいえ、かれを敬虔な信仰者と呼ぶことはできない。 かれの感動の高揚は、かれを信仰の高みに登らせはしたが、信仰の確固たる安息の保証はえられなかった。 かれの心はあまりに痛ましく、生きるものの苦悩を感じた。動物相互の殺戮、人間同志の悪徳、疾病に対する 肉体の敏感性、間断なき脅威、それらすべてが、いくたびとなくかれの信仰の基底をゆるがせ、そして、 この世の悲哀と悪徳とをいかにして神の親愛と全能との調和せるむるか、それがかれの自覚し、又かれの 一生涯にわたってますます強くなった問題であった。」(村田武雄訳)マーラーは「神を探していた」という評言こそが適切で、彼にとって神は丸山桂介が言う通り 「隠れたる神」であったのだと思います。しかし、それは1世紀後の極東に生きる我々に とってもそうではないかと思うし、少なくとも私にとってはそうなのです。 「隠れたる神」は非存在です。だけれども存在しないものはただちに無であるわけではなく、 仮想的なもの、想像的なものにして創造的なもの、理念的なもの、かつて存在して今はないという形でその記憶が存続しているもの、 言ってみれば「幽霊的なもの」の領域が「在る」のです。勿論、そうした構造を無意識的に、そうとは 気付かずに生きることと、それを意識しつつ生きることは同じことではありません。そしてマーラーは 明らかに後者のタイプに属しているのだと思います。(ちなみに、マーラーの同時代の日本で、この 構造に気づいた先駆者こそ、北村透谷であると私は考えています(彼は文学者であり、ジャンルは異なりますが)。 良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継ぎませんでした。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは到底思えません。 彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題はそのまま残っていると私には感じられます。 そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、 作曲家でメディア・アーティストの三輪眞弘さんであると思います。)
音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。
恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。
漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。(2015.5.9)
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