20世紀初頭に作曲されて1世紀後の時間的な隔たりと、地球を1/3周分の空間的な隔たりを介して、21世紀の日本で接する時、『大地の歌』の音楽が喚起する、眼前に確かに広がると感じられる風景は、一体何処のものなのか?
マーラーの早すぎる晩年(あくまでも事後的にそう区分されるに過ぎないが)に、ドロミテ・アルプスの風景の中で作曲されたこの作品は、いつもの通り、初演を念頭においた出版の準備が進められていたものの、マーラーの突然の死によって、生前に楽譜が出版されることもなく、彼自身の指揮による初演も行われることがなかった。それゆえこの作品の後世による受容のプロセスは、マーラー没後半年を経た1911年11月20日にウィーンで行われたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、シャルル=カイエのアルト、ミラーのテノールによる初演の時から始まったのである。レコードへの録音は、1936年5月24日に収録されたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、アルト:トールボリ、テノール:クルマンの演奏を嚆矢とするが、そのSPレコードは戦前の日本にも輸入され、日本初演に先立って聴かれていたことが幾つかの文章で確認できる。その後LPレコードからCDを経て今日に至る迄の膨大なディスコグラフィーについては改めて言うまでもなかろう。ただしその特異な編成もあって、これだけマーラーが頻繁に演奏される今日となっては、実演に接する機会は寧ろ相対的に減っているように感じられる。
大地の歌の演奏記録の中で、1939年10月5日のアムステルダム、コンセルトへボウの演奏会の記録であるシューリヒト指揮、コンセルトへボウ管弦楽団、トールボリとエーマンの歌唱の記録は、まずもって、録音状態の悪さを超えて今尚説得力を喪わないその演奏の卓越について触れるべきだろうが、そればかりではなく、今日我々が耳にするのとは異なった、まさにマーラーの同時代の演奏様式を垣間見ることができる点で際立った記録でもあり、なおかつ演奏中(第6楽章の間奏が終わったタイミング)に発生したハプニングの記録でも有名であろう。実はこの演奏会、本来はメンゲルベルクが指揮する筈であったが、(メンゲルベルクにはしばしば起きたことのようだが、)病気のために指揮ができなくなり、急遽代役を探すことになったのだが、歌手達の意向もあって、ユトレヒトのオーケストラに客演していたシューリヒトが代役を務めることになったという経緯があるらしい。既に前年にオーストリアはナチス・ドイツにより併合され、ドイツ国内ではユダヤ人の音楽を演奏することが禁じられ、オランダの独立ももう間もなく喪われようというこの時期に、ユダヤ人により作曲された「大地の歌」という題名の作品を、ドイツ人の指揮者の指揮によりオランダのオーケストラが演奏するという状況の異様さが、くだんのハプニングを引き起こす原因であったに違いないが、後にはメンデルスゾーン、マイアベーアと並んで”3M”としてナチスより忌避されることになるユダヤ人の、中国の詩に取材した作品の演奏で件のハプニングが起きたことは、この曲の風景とどのように関係していたものだろうか?
日本での初演は1941年1月22日、日比谷公会堂におけるローゼンシュトック指揮新交響楽団(現在のNHK交響楽団)、 四家文子のアルト、木下保のテノールによる演奏であり、楽曲紹介を含む当時の新交響楽団の機関紙(音楽雑誌「フィルハーモニー」第15巻第1号 大地の歌)からは、同じ年の年末には太平洋戦争に突入することになる当時の日本の雰囲気が伝わってくる。ちなみに同年10月成立の東條英機内閣に外務大臣として入閣し、結果的に開戦時の外務大臣となり、そのために後に極東国際軍事裁判の被告となった東郷茂徳は、上記のワルターの演奏のレコード録音の数ヵ月後の1936年8月に、ナチスにより追われたローゼンシュトック(彼はユダヤ系であった)が新交響楽団の指揮者に就任するために来日した際に、当時のドイツの駐日臨時代理大使(大使館参事官)ネーベルが行った干渉に対し、当時の欧亜局長として断固として撥ね付けたという記録が残っている。なお、戦後最初に演奏されたマーラーの作品は恐らくは『大地の歌』ではなかったか。昭和21年(1946)5月1日というから、ポツダム宣言受諾からまだ1年と経過していない時期に、同じくNHK交響楽団の前身であった日響の定期で取り上げられているようなのである。(指揮は山田和男(のち一雄)で独唱者は日本初演時と同じ。)ちなみに奇しくも同じ日に、上述の東郷茂徳は戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されている。極東国際軍事裁判の開廷は2日後の5月3日である。東郷茂徳は薩摩・苗代川の陶工の家系の出、文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱で島津義弘により朝鮮から虜囚として連れてこられた人々の子孫の一人であり、外交官としては異例の、シラーの戯曲についての論考が残る独文学専攻出身であり、ユダヤ系ドイツ人を妻とした人である。そして同時に、前年の1945年9月11日の戦犯容疑者39名の逮捕命令の対象者に自分が含まれていることを知り、静養していた軽井沢を発って東京に赴く際に、陶淵明の「神釈詩」の末尾(「縱浪大化中/不喜亦不懼/應盡便須盡/無復獨多慮」)を墨書して家族に渡した人でもある。このような文脈を備えた彼がもし、自分が救ったローゼンシュトックの演奏する『大地の歌』を聴いたとしたら、そこにどのような風景を見出したであろうか?
一方で、管弦楽伴奏連作歌曲とも交響曲ともつかないこの作品に、ピアノ伴奏版の自筆譜があることが判明し、しかもその世界初演が日本で行われたことを記憶している人も少なくなかろう(1989年5月15日、国立音楽大学講堂において、サヴァリッシュのピアノ、 アルト:リポフシェク、テノール:ヴァンベリ)。それまで知られてきた管弦楽版と比べたとき、各楽章のタイトルや歌詞のみならず、小節数の違いさえ含むこのピアノ伴奏版は、作曲の過程において少なくとも1908年頃の段階までは、管弦楽版とピアノ伴奏版が、いわば並存するような形で存在していたことを告げているが、それだけではなく、現在所在不明になっている同じ時期の日付を持つ管弦楽版草稿の第1,2楽章を補うものとして重要だし、実際に国際マーラー協会のマーラー全集において補巻IIとして出版されただけでなく、1990年出版の管弦楽版の校訂作業のきっかけとなった。ちなみに、ピアノ伴奏版においても依然として題名には「交響曲」と書かれており、この作品について単純に交響曲か否かを論じてみても、ここでマーラーが達成したことの意義を測ることができないは言うまでもないことであろう。
だが何よりも『大地の歌』がハンス・ベトゲの「中国の笛」という漢詩のドイツ語による翻案(追創作:Nachdichtung)の中の幾つかの詩を歌詞として用いている点こそ、この曲が提示する風景を性格づけることにおいて決定的であることは衆目の一致するところだろう。こちらもまた、ドイツ文学の泰斗ハンス・マイヤーの挑発的な論文に対してアドルノが反論をするかと思えば、マーラーが(常に歌詞として用いた原作に対してそうであったように)ベトゲの詩を改変したプロセス(ここでもまた上記のピアノ伴奏版が大きな役割を果すのであるが)は勿論、エルヴェ・サン=ドニやユディット・ゴーチェの仏訳やハイルマンの独訳を経由したベトゲの追創作のプロセスまで追跡され、更には原作である漢詩の推定を音楽学者や中国文学者が試みるといったことが為されてきており、最早、論じつくされたかのような感すらある。
だが問題は単純な洋の東西といったものではない。日本から見れば中国も外国であり、但し非常に長期に渉り、非常に徹底した影響を受け、独特の受容をしてきたという経緯から、幾つかの面で西洋におけるオリエンタリズムと対偶の位置から中国に向き合っているということを先ずは認識すべきであろう。管見では中国文学者は、少なくとも前了解としてそのような姿勢を持っており、従ってオリジナルの漢詩とその西欧の言語への翻訳を比較する際に、単なる正確さの基準のみを以て「誤訳」であるかどうかを云々するといった水準に留まらず、まさに日本人がそうしてきたように、異文化を受容にするにあたり、固有の文脈に埋め込むための変換の作業が存在することを前提とし、その上で何が起きているのかを見極めようとしているように感じられる。
既に半世紀も前の1970年にNHK交響楽団が「大地の歌」をプログラムとしてとりあげた際、機関紙<フィルハーモニー>(同年10月号)に掲載すべく依頼したことによって書かれた、吉川幸次郎氏の『「大地の歌」の原詩について』において既に、オリジナルの盛唐の詩が「素材」に過ぎず、「いろいろと自由な変形をうけている」ことが指摘され、その上で、「西洋のことは耳学問の私には、はっきりとしたことはわからない」と留保つきながらも、「しかし、変形をうけながらも、その感情は依然として、中国的である。あるいは少なくとも唐詩的である。そうしてマーラーの作曲もそれを増幅する」と述べ、更に加えて「新しく接触し発見した異地域の異種の文明、その中にある特殊そうに見えて実は普遍なもの、それをより大きな普遍へと造型しようとするのが、マーラーの努力であったろう」と述べられているのである。
更に近年の例として、やはり中国文学者の市川桃子氏は『中國古典詩における植物描寫の研究―蓮の文化史―』(2007)所収の第三部『「採蓮曲」の系譜』の第三章「樂府詩「採蓮曲」の飛躍」において、李白の「採蓮曲」のマーラーの『大地の歌』の歌詞に至るまでの19世紀半ば以降の西欧での受容の経過を詳細に分析している。(甲斐貴也氏のご教示による。甲斐氏には、貴重な文献のご教示に対して此の場を借りて御礼申し上げる。)ここでは、マーラーの音楽では第4楽章の歌詞である「採蓮曲」一篇に限定してではあるが、ヨーロッパでの受容の過程で起きた変容に対して、「このようにして、李白「採蓮曲」に描かれる情景は歐州で始めて翻譯されたときに、歐州にある情景として無理のない設定に大きく變わったのである。ただし、場所や状況設定は變わっても、若く美しい乙女たちが夏の日差しを浴び、澄んだ水に姿を映して、樂しそうにおしゃべりをしている、その至福の光景を描くという本質的な點は、全く變わっていない。」という指摘がされている。そればかりではなく市川氏は、先行する第二章にて、李白の「採蓮曲」の最後の句に出現する「断腸」という表現に注目し、まずそれを「地上に再現されたこの天上世界から疎外された李白自身の氣持ちを投影したもの」とする解釈を踏まえ、「地上に再現された最上の美の世界は共通であるが、そこから生れた意味は李白とマーラーでは異なってい」るけれど、「しかし、どちらにも、生への、美への、切なる憧憬の念があり、どちらにも、それを手に入れられない絶望的な悲哀がある。地上の人間は、完全なる美の世界を手に入れることは出来なかったのである」との指摘をしているのである。マーラーの『大地の歌』の第4楽章の全曲での位置づけに関し、柴田南雄の「シンメトリー説」を引きつつも、それに対して留保をつけて「この第四楽章もまた『大地の歌』全體を覆っている悲哀に浸されている」という指摘をしている点と並んで、作品の持つ重層的な構造(それは歌詞が単に並置されているのではなく、語りレベルに応じて幾つかに層化された配置されていることに対応している)に対する把握を示しており、そのことによってこの第4楽章においてすら、語り手の哀傷に満ちた視線が潜んでいる点を正確に剔出されている点は見事というほかない。
それでは第1楽章の歌詞に登場する猿の啼声はどうだろうか。人口に膾炙した杜甫の『登高』(風急天高猿嘯哀/渚清沙白鳥飛廻)やら『碧巌録』(羸鶴寒木翹/狂猿古台嘯)をはじめとした漢詩における、特定の情緒の喚起するイメージというのがあって、そうしたものを背景に音楽を聴くことになるのだが、しかしマーラーの音楽によってそれは、所詮素材に過ぎないベトゲの詩の文学的価値とはとりあえず別に、こう言って良ければより「実存的」な、自己の存在なり生に対する人間の認識に深められているという点を見逃してはなるまい。
例えばそれをニーチェの『ツァラトゥストラ』のEinst wart ihr Affen, und auch jetzt ist der Mensch mehr Affe, als irgend ein Affe.を思い起こしつつ聴く人が居たとすれば(実際、甲斐貴也氏が私信でそのような指摘をされている)、其の人の把握にも理があることを認めざるを得ないだろう。ニーチェは当然ここで当時流行の進化論を背景にして書いているわけだが、ニュアンスの無視できない違いはあるものの、洋の東西を問わず、猿と人間が似ているというのは、或る意味では自然な理解なわけであり、だからこそ人間の運命の寓意にもなるのだろう。ショスタコーヴィチもまた、この作品における「猿」の形象に注目したことが知られているが、第14交響曲などから窺えるように、無神論者である彼の認識は寧ろニーチェ直系であると言って良かろう。他方、進化論については受け入れつつ、唯物論的な立場には懐疑的であったらしい、だが、ということはそうした立場を否定できないものと捉えてはいたらしいマーラー自身は、この「猿」をどのように捉えていたものか?
こうした点を考えたときに直ちに気付くことは、マーラーの側の文脈もまた、ベトゲの詩作のみを問題にするのはあまりに皮相であり、マーラーに少なからぬ影響を与えた『意志と表象としての世界』のショーペンハウアーや『ツァラトゥストラ』のニーチェ、更には『ゼンド・アヴェスタ』のフェヒナーにおける東洋を考えるべきだということだろう。(リュッケルトが東洋学者であったことや、ゲーテにおける東洋に思いを致してみても良いだろう。マーラーの思想圏なるものを想定したとき、それは単純なオリエンタリズムには収まらない拡がりを持っているのは間違いない。)
もう一つだけ例を挙げれば、終楽章の歌詞で語られる、行き先の「山」というのは、帰郷を意味しているのではない。(ハイデガーのヘルダーリン読解の問題点が何処にあったかを思い浮かべよ。)かなりの高官顕職に上り詰めたらしい王維も実際にそうしたようだが、「山」というのは陶淵明のような遁世、ただし桃源郷のような神仙思想とも結びついた場所、非在の場所としてのユートピアでもあるような場所のはずで、それはマーラーの音楽が最後に到達する(仮想の、実在しない)場所でもあるのではないか。もちろんマーラーの音楽の「場所」は、東洋思想の桃源郷のイメージそのものではありえないだろうが、ではそれを中国を軸に反対向きから見ている我々日本人が見ているものは、一体、どれくらい近くてどれくらい遠いものなのか。当時の地球に対する認識を踏まえたアドルノの「大地」=「地球」説の後、人工衛星に乗って地球を宇宙から眺めることができるようになって久しく、火星の地表の風景を、あたかもその場を訪れたかのように観察することができる時代に生きる人間、系外惑星の探索が進み、地球とにた条件を持った惑星の探索が行われるようになった時代に生きる人間、マーラーの同時代の1903年に初めて提唱された、生命の起源が地球外にあったかも知れないという「パンスペルミア説」が科学的な検証に耐えうる学説として検討されている時代に生きる人間にとって、「大地」とは、『大地の歌』の終曲が描き出す風景とは、一体どのようなものだろうか?
いずれにしても、以下のようなことは言えるのではなかろうか。『大地の歌』の音楽が指し示す場所、実在のどこかと結びつくわけではない精神的ランドスケープの中を逍遥することがまずは問題なのではないか。現在ではGoogle Street Viewを用いれば、現地を訪れることすらせずに、自宅でドロミテの風景を眺めることができるようになっているが、マーラーがドロミテの風景に、アドルノの言う「仮晶(Pseudomorphose)」として見たものが、そこにあると単純に言うことはできないだろう。
マーラーがワルターに第3交響曲を作曲した時に言ったとされる「もう作曲してしまったから、現実を見るのは及ばない」という言葉、「交響曲とは世界の構築である」という、大言壮語として受け止められがちな言葉は、後年アメリカに渡ったマーラーが、演奏旅行の折、ナイアガラの滝を訪れた後にバッファローでベートーヴェンの田園交響曲を指揮して妻のアルマに語ったとされる「漠然と訴えるばかりの自然よりも明確に訴える芸術の方が偉大だ」という言葉(アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー 回想と手紙」酒田健一訳, 1973, p.p.212~3)、一回性の出来事の構造を「作品」としてデジタル化し、再現可能にすることで世代を超え、個体の経験が遺伝することのないという生物学的基盤に対する反逆を可能にした人間の精神の営みの特異な在り方の把握を通して理解すべきであり、それはまた、マーラーが作品として遺してくれたものの質を正しく見極めるためにも必要なのではないか。
ジュリアン・ジェインズの「二院制の心」(bicameral mind)の理論が示唆するように、現在の意識の在り方が、人類史上のあるエポックに固有のものであり、「隠れたる神」が、まさにそうした意識の構造に由来する宿命的なものであるとして(カントが指摘する「理性の宿命」は、この文脈において捉えなおされるべきものに思われる)、そして未来方向には、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者が述べるように、技術的特異点の向こう側では、意識の形態自体が変容し、「人間」の概念自体が変わってしまうかも知れないとして、その手前で「隠れたる神」の状況下で生きる人間は、結局のところマーラーの世代の末裔なのだ。
であるとするならば、マーラーの作品を賞味期限切れの過去の遺物としてではなく、「今」、「此処」で受容し、それに応答しようとするならば、彼と彼の作品を彼が生きた時代と環境に還元して、歴史的・考古学的な対象として扱うのではなく、各自が取り組むべき「世界の構築」に向けての「無意識のエクササイズ」(グレゴリー・ベイトソン)として向き合わなくてはならないのではないかと思われてならないのである。『大地の歌』の場所は、実在のどこかと結びつくわけではなく、その意味では場所を持たず、仮想的で非在ではあるけれど、決して無ではない。無ではないどころか、自己の個体としての有限性の認識に裏打ちされたこの作品にこそ、自己の個体としての有限性を超える可能性が存するのではなかろうか。(2015.5.10)
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