2019年9月1日日曜日

「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ

 私は以前より「時の逆流」に関心を持ってきました。これはもともとは、ホワイトヘッドのプロセス哲学の拡張の議論の中で出てきたアイデアで、プロセス神学的な枠組みでフォードが提示したものを意識の場に移し、意識の解明に寄与すべく修正することを試みた遠藤弘「時の逆流について―フォード時間論の批判的考察―」で検討が行われているものです。これを出発点として、私が試みたいのは、自伝的自己のような高度な心性を備え、(やまだようこさんの質的心理学における意味において、或いはまた、藤井貞和さんの物語理論における意味において)「うたう」こと、「ものがたる」ことができる「人間」が経験する時間性の中における「時の逆流」を、超越とか創造性とかの経験、そしてそのその背後にある他者との出会いの経験に関わる時間的構造として提示することです。

一方で「時の逆流」を一般的に捉えれば、そうした自己意識のような高度な心性を想定せずとも、まずもってエントロピーによる時間の矢の向きの議論の場で考えることができるでしょう。時間の方向は、熱力学の第二法則におけるエントロピーの増大によって定義されますが、そこでは「時の逆流」はエントロピーの縮小として捉えることができます。直ちに思い浮かぶのは、今日、複雑系の理論を背景に深化が試みられている「生命」を巡る議論です。微視的に可逆な過程から、どのように巨視的な不可逆な過程が生じるかについては、カオスを媒介とする説明が試みられています(田崎秀一『カオスから見た時間の矢』)し、より「生命」を意識した議論なら、プリゴジーヌの「散逸構造」論であったり、アトランのノイズによる秩序の形成を「時間の逆行」として捉えた議論(『結晶と煙のあいだ』所収の「時間と不可逆性について」)といった、ゆらぎによる秩序形成についての理論にまずは関わると考えられます。

私は形而上学的な議論というのが苦手ですので、私にとっては時間とは常に、時間の経験(時間の「感じ」)が出発点となります。(そういう意味では、哲学では「現象学的」な志向なのだと思います。)直線的時間・円環的時間といった時間表象は、そこから出発して抽象を経て得られるもので、二次的なものです。多くの場合、遠近法的倒錯によって、既に手にした抽象から出発して、背後を覗き込もうとするから話が錯綜とするわけですが、私は(「発生論的」に、あるいは「構成論的」に)、ある系が時間の「感じ」をもつことが如何にして可能になるかを出発点にとりたいと思います。勿論「感じ」はホワイトヘッド的な意味合いにおけるfeeling(「感受」)として一般化されて、高度な意識を持つ主体限定のそれではなく、意識を持たないシステムの外部との相互作用をも記述する用語として類比的に拡張して用いられ、そのことによって「脱人間化」が可能となり、更には方法論上、数理を背景にした理論との関連付けの可能性も出てくると考えています。

大急ぎでそうした数理を背景にした理論で、いわばボトムアップに「生命」の時間に、果ては自己意識のような高度な心性を備えた「人間」の時間に辿り着くための基礎となるようなアイデアとして思いつくものを列挙すれば、まずは同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点となるでしょう。(脳の活動に関して、この方向から探求したものとしてブサーキ『脳のリズム』が挙げられると思います。)また、今、我々が現実に目の当たりにしている唯一の「生命」の事例たる地球上の生物の場合には、それがタンパク質を素材としている点に留意する必要が、こと時間を扱う場合には欠かせないと考えます。生物固有の(例えばシリコンチップによりできているデジタルコンピュータとは異なる)基本的な速度があり、例えば、抽象化されると無時間的に行われると前提される論理的な演算すら、有限時間で、遅延を伴って行われることにより生じてくる違いを無視することはできません(この方向性では津田一郎『複雑系脳理論』の中の「ステップ推論」が重要と考えます)。同じ理由で、同期/非同期性に注目すべきであるということにもなります(非常に単純な系でさえ、セル・オートマトンの計算・状態書換えを非同期的に行うことで、複雑系的な挙動を示す割合が増加するという実験結果が郡司幸夫さんにより示されています)。

永遠とか瞬間とかといった語彙で語られることの多い、「永劫回帰」とか「悟り」の瞬間とかにしても、私はそれらを高度な意識を持つ生物たる「人間」が含まれるシステムの構造の上に成り立つものと捉えたい。そしてそれがどのように可能になっているかは、「人間」の心の成立ちの理解を通してしかわからない。意識・無意識を始めとする語彙に基づき、論理的に矛盾しているとして性急に否定したり、逆にそこにパラドクスを見出して、そのパラドクスから理論を構築するといったアプローチはいずれも私には適切な道筋には感じられません。さりとて勿論、現象学的なアプローチ「のみ」では限界があり、脳神経科学でも、精神病理学でもいいですが、そうした知見を参照して、心のモデルを組み立てて(ヴァレラの「神経現象学」はそうしたアプローチの一例でしょう)、シミュレーションするといった形でしかアプローチできないと考えています。

ただし、そうしたシミュレーションが現時点での知見で一足とびにできるとは思えないので、構成主義的に現在でもトライすることが可能なのは、「感じ」を上記のように一般化した上で、意識を持たない非常に単純なシステムの外部との相互作用の中で、時間の「感じ」が出てくることをモデル化することだろうと思います。(そしてこれは、バクテリアの生物時計のような時間生物学的研究や、人工生命における時間発生のシミュレーションと繋がっていると考えます。)

一方で、もう一つのアプローチとして、音楽を(「人間」が)聴いてうける「感じ」から、音楽の構造の側に折り返すこと、音楽自体が、時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想をとって、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて、音楽の構造を分析することが考えられます。(単に「時間のシミュレータ」と呼んだ方がすっきりするのでしょうが、最初に述べた通り、私は時間を物象化したり、形而上学的な概念として、主体の経験としての時間の「感受」の相を抽象化することに抵抗感を覚えます。誰かが聴かない音楽というものがあり得ないように、体験されない時間というものもない、言い替えれば、時間というのは常に主体の構造や体験の内容に相関的なものであって、経験不可能な超越論的な時間というものはない、というのが私の立場です。抽象を経た時間の表象に関心があるのではなく、アウグスティヌス以来の時間のパラドクスも、それ自体には関心はなく、寧ろそれを疑似問題として解消する説明を探したいと思っています。)

音楽の構造を心理的な含意を持つ図式で捉える試み、或いは例えば詩学や物語論(ナラトロジー)の成果を応用して音楽の構造を捉える試みは、20世紀の音楽学の領域で試みられてきています。他方では、20世紀の言語学の大きな成果である生成文法理論を音楽の構造に適用するような試みも為されてきました。ただし管見では、それらはあくまでも音楽学者の分析の方法論として提案・実践されたものです。それが作品に対する卓越した理解を背景にした直観によって適用された場合には大きな成果に繋がる点を認めるに吝かでなくとも、そうした手法を、いわば天下りに押し付けるのではなく、楽曲そのものを或る切り口で眺めた時に対象の側が持っている数理的な構造を取り出すような、いわばボトムアップのアプローチの方が、ここでの方法論としては適切に思われるのです。そこで伝統的な楽曲分析手法でないやり方で、データの方からボトムアップに音楽を眺めてみようということになります。

冒頭の「時の逆流」に関連した側面のみに限定するならば、そのような分析を通して、恐らくは、なんらかの「特異点」のような構造が、音楽を三輪さんの定義する意味での「音楽」たらしめるものとして浮かび上がってくるような筋道が想定できますが、仮説と呼べるようなものすらない現時点で先に進むことは慎むべきと考え、これは今後に期することにし、ここでは最後に、手持ちのリソースを用いて先ずは感触を掴むためといったレベルのささやかな試み、仮説を立てる前段階の、一先ずは事象を眺めてみようといったレベルのアプローチの一つのサンプルを以下に示して終わりたいと思います。

データからのボトムアップの分析のとっかかりとして、例えば全音階的な和声法ベースで作曲された(20世紀的な意味合いでのいわゆる「現代音楽」ではないという意味で)伝統的な音楽の時間方向の変化を見ていくのに、調的中心のようなものを手掛かりにするようなことが考えられると思います。もっとも楽曲分析の真似事をすべく、ちょっと齧ってやってみるとすぐにわかることなのですが、自動的にプログラムで処理することを前提として調的中心の決定のためのアルゴリズムを書き出すことは簡単なことではありません。そこで差し当たりは簡単に取り出せる調的中心の類比物の時間経過における軌道を眺めてみて何かわかることがないだろうか、ということになります。

そもそも西洋音楽の和声学は、いみじくも「機能和声」と呼ばれるように、それを「人間」が利用するということを前提にした「美的規範」を目がけた合目的性のシステムであり、製作者の利便性に配慮した或る種のヒューリスティクスの集合であると見做せます。「音楽」に対してそうした合目的性を完全に排除できるかどうかという点については実は個人的に私は懐疑的なのですが、それでもなお、「音楽」をそうした「規範」に捉われることなく、一つのシステムとして眺めようとしたとき、前了解的に仮定されてしまっている「機能」を一旦括弧に入れて、音の集合の遷移パターンを眺めてみる、という操作を行ってみることには一定の価値があるように思えます。

そしてそれは、これがまだ初歩の初歩、第一歩に過ぎないとは認識しているものの、直観的には人間的なドラマとは相性が悪そうな「数理的なもの」を敢て用いて、「人間的なドラマ」側に分類されるような音楽の時間的な経過を見つけ出す、ささやかな試みと看做せないだろうか、ということでもあります。

その具体的な実践については(あまりに初歩的なものである上に、未だに最初の試行錯誤の段階にあって、ここでの議論に寄与するような何かが見えてきた訳ではないので)ここでは割愛させて頂きますが、個人的な能力や時間の制約の限界は措くとすれば、音楽的な時間に対するアプローチの仕方として、MIDIファイルを始めとしたデータを入力として、プログラムを用いた「アルゴリズミックな」分析を行うことが、いつの日か、音楽を聴く「主体」と「音楽」の間に生じているプロセスの記述を通じて、「音楽」を創り、演奏し、聴取する、高度な心性を備えた「人間」の構造を解明することに、翻って「音楽的時間」の解明に最終的には繋がると夢想することはできないものかと思わずにはいられません。それはまた副産物的に、「深層学習」などの技術的ブレイクスルーを背景に喧しく論じられている「AI芸術」なるものの現時点での水準での不可能性の説明にも資することになると思われます。

ただし現時点でやるべきは、手当たり次第の展望なきデータ分析ではなく、ここでこれまで書いてきた「思いつき」を仮説と呼べるレベルにするための理論的な枠組みの整備であるという指摘については、素直にその通りであるということを認めざるを得ません。また現時点において、具体的にどのようにデータを分析していけば、そうした構造が取り出せるのかについて私に見通しがあるわけではないし、限られた能力と時間を思えば、それを自分ができると考えているわけではありません。寧ろ、私が此処に思い描いた通りでなくても良いので、誰かが此処に記載した内容をきっかけにして、岩崎秀雄さんがその刺激に満ちた著作『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』で取り上げておられる「システム生物学」と類比されるような「システム音楽学」とでも呼べるような領域をまずは開拓して頂けたら、更にその先で「合成生物学」に対応するであろう「人文工学」へと歩みを進めて頂けたらというように願っているのです。(2019.9.1公開、9.7加筆)

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