マーラーとハイドン。ウィーンで活躍した交響曲作家という点では共通しても、それ以外にこの2人の作品に接点を見出すことは難しいように思われる。前古典期のマンハイム楽派のような先蹤はあるにしても、交響曲という形式が、長きに亘るハイドンの創作期間の中において、数にして100曲を超える作品を通して行われた様々な実験を経て完成されたという見方には一定の正当性はあるだろう。ハイドンはその創作期間のほとんどをハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷で過ごし、若き日を過したウィーンに戻ったのはようやく1790年代の初めのことだが、それ以前にもウィーンを訪れており、多大な刺激を受けた年少の天才モーツァルトとの出会いもウィーンにおいてであり、彼の交響曲創作の掉尾を飾る有名なザロモンセットは、その後にザロモンの招聘を受けて実現した2度のロンドン訪問のために書かれた作品であるから、彼の交響曲創作の頂点をウィーンという場所に結びつけることにも正当性はあろう。注意しなくてはならないのは、人の呼ぶ「交響曲の父」の創作の頂点をなす最後の作品の幾つかは、彼がロンドン訪問を決めると間もなく、第1回の訪問中の1791年12月に世を去ってしまうモーツァルトの没後に書かれた作品だということである。パリセットに刺激を受けたとされるモーツァルトの早すぎる晩年の傑作群に、今度はハイドンが刺激を受けるという往還を経ての到達であり、その後マーラーに至るまで1世紀に渉って試みられる様々な試行の先蹤となったベートーヴェンを前にして、彼等2人の手によって、古典派の交響曲は完成を見ると考えられてよいだろう。実際、ザロモンセットの第1期に含まれる変ロ長調の交響曲第98番は恐らくモーツァルトの死を知った直後の1792年初頭に作曲された作品だが、そこにはモーツァルトへの追憶が含まれると言われているし、翌1793年に戻ったウィーンで書かれた、第2期の最初を飾る変ホ長調の第99番におけるクラリネットの採用とともに、その序奏から同じ変ホ長調のモーツァルトの交響曲第39番のエコーを聞き取ることはそんなに突飛なこととは言えないだろう。
そして間違いなく彼の交響曲の中の頂点をなす交響曲第104番は1795年に旅行先のロンドンで作曲され、その年の4月ないし5月に同じロンドンで初演されたのである。(100年後のマーラーはその前年のハンス・フォン・ビューローの死を契機に年末に、彼が初めて交響曲として完成させたハ短調の第2交響曲を完成させ、1895年3月の最初の3楽章の試演を経て、12月には全曲初演に漕ぎ付けることになる。)既にフランスでは革命が起きており、その影響で歌手を大陸から招聘することが困難となってザロモンのコンサートは最終年に至って中止を余儀なくされ、それに替わって組織されたオペラ・コンサートがハイドンの最後の3曲の交響曲の発表の場となったのだが、その最後を飾る作品を聞くと、時代を超えた天才であるモーツァルトの作品とは異なって、まさに時代が産みだした、だが同時代の限定を超えて、そこに至るまでの西欧の伝統が達成した最高の音楽的知性の成果物を目の当たりにしているような感覚に捉われる。
ハイドンの場合は当時の趣味に合わせた側面というのが確実にあって、パリセットや第1期のザロモンセットが熱狂的に受け入れられたのはそういう側面が強く出ているからだと思われる。そしてそれゆえの限界というのがあるように思え、私見ではそれがザロモンセットの第1期の作品が外面的な効果とは裏腹に稍もすれば退屈に感じられてしまう理由なのだ。勿論それは別段とがめだてされるような側面ではなくて、実際第1期を第2期と同様に評価する向き、あるいはパリセットを或る意味で高く評価する人もいる訳だが、私はそれには与しない。当時はまた、ハイドンの亜流というのも大量生産されたわけだが、それはハイドン自身の発展と達成とは全く無関係の単なる後追いであり、流行の様式に過ぎず、ちょっと聞くと耳に快いけれど、さっぱり面白くない。21世紀の今日なら、AIによる自動作曲がそのレベルの作品であれば産み出しうるだろう。だが、モーツァルトの天才のみが達成できた「例外」は勿論、ハイドンの第104番のような作品も、現在のAIが(模倣することは可能であっても)創り出すことは不可能である。その作品によってのみようやく到達でき、実現した何かは、統計的には天才の「例外」に等しいから、それっぽい亜流のもどきを幾ら大量に作れても、偶然にそれを産み出す確率の低さは宇宙論的なレベルなものとなってしまう。第2期のザロモンセットの初演時には第1期の時程の熱狂はなかったということだが、それは丁度、ある時期のモーツァルトが大いに流行って、でも晩年に行くにつれて、そうでもなくなっていく、今聴いても、こんな音楽がいわば「消費」の対象として流行るわけはないと思ってしまうようなものになっていくのとの並行性を認めることができるだろう。
特にパリセットには顕著に感じられ、第1期ザロモンセットにも明らかに見てとれるのは、実のところハイドンの職人としての非凡さ、その創意の比類ない豊かさの発露に外ならないのかも知れない。委嘱元の管弦楽の編成や技量、聴き手の質や嗜好を踏まえた上で、聴き手を驚かせ、感動させるような工夫がそこかしこに見られ、楽式上の意外性の追求や、大胆な転調の頻出などにこそ、ハイドンの非凡さを見い出し、こちらにこそその本領を見出す見方にも分があるだろう。だが、もしそうならば、いわゆる「疾風怒濤期」の実験についてはどうなるだろうか?突飛な比較に見えるかも知れないが、ブルックナーの初期(といってもそれはハイドンの円熟と同様、50歳を超えてからの成果だが)の交響曲の改訂前の形態の方により多く独創性を、更には或る種の前衛性を見出すこととの並行性を見出すことができるように思われるのだが、私がパリセットや第1期ザロモンセットに感じる退屈さは、ーこれもブルックナーの場合と並行する面があるように感じられるがーまさにそうした創意の或る観点から見た場合の過剰に由来するのではないか、それが抑制されずに発揮されていることにあるのではないかという感じを持つのだ。そして第2期ザロモンセット、中でもその掉尾を飾る104番から受けるのは、それらとは位相を異にする、創意が別の秩序に対して奉仕するかのように、より高度な秩序の裡の調和の形成を目がけて、寧ろ抑制されて用いられているかの如き印象なのであって、それが「完璧」と形容する他ないような質を実現しているように思われるのである。それは最早、最初の一度の、或いは一期一会の驚異を目がけているのではなく、反復の度に累乗される充実を、揺るぎなさ、人間的な地平を超越した無限の可能性を目指していて、それが104番を聴く時に、ここにおいて何か例外的なことが達成されていると感じる理由であると言えば、その一面の説明になりえているだろうか?或る意味ではパリ・セットから第1ザロモン・セットまでの達成は、生物学的基盤の上での社会的知性の延長線上で説明しうるものであったのに対し、第2ザロモンセットに至って、そうした進化論的な基盤を離れ、効用の観点からすればもしかしたら「パンケーキ」(ピンカー)としか捉えられないような領域へ、ドイッチュの言うところの「無限」への飛躍を試みたと言ってもいいのかも知れない。
104番のような作品の完璧さもまた消費にはそぐわないし、ハイドン自身もそれはわかっていたのではなかろうか。第1期の時と違って、もう受けを狙うといった側面は、そもそも古典派のスタイル自体がそういう側面を初めから持っているが故に皆無という訳ではないにせよ大幅に後退していて、何か只管に神様が恵んでくださった才能を、それに相応しく行使することに専念しているといった趣さえ感じるのである。ハイドンのスコアをUrtext で見ると、 In Nomine Domini とか Fine Laus Deo といった言葉が付されているのを確認できるが、それが単に個人的な信仰心の発露を超えて、まさに作曲がそうした行為遂行であったことの証言として読むことができるように思う。こういうことが出来たことを本当に羨ましく思う一方で、そうした人が200年前の異郷の地にいて、その成果物を手に取ることができることは何と素晴らしいことかと思わずにはいられない。
それは寧ろニュートンの発見であるとか、ハイドンの同時代人といって良いカントの批判哲学のようなものに接した時の感動に近い。よく科学は、誰かがやらなければ他の人がやったという意味で、芸術とは異なると言われて、確かにモーツァルトとかマーラーについてはそうだと思う一方で、ハイドンはそういう意味では例外に近いのかも知れない。とはいえ、結局、彼が到達したのだし、そういう彼にしか104番のような完璧さは実現できなかった、それは逆に、或る意味で畸形的な側面のある天才にはできないことではないかとも思う。何かの場面を描写したり、風景を喚起するのではなく、特定の感情を呼び起こされるいうよりは、純粋な形態とリズム、運動と色彩の変化を追っていくうちに感じ取る深い愉悦の感覚は、絵画でいけば抽象絵画から受けるそれに近く、第104番こそは西欧の音楽的知性の頂点の一つと呼びたいように思うのである。それが200年の時間と地球半周分の場所の隔たり故の、聴く私の側の伝統の不在によるものであるとしてもそれは変わらない。そもそも哲学であれ文学であれ、或いは科学でさえも、私はそのように西欧のものを受容してきたのであって、普遍性と云う言葉は今やその使用に限りなく慎重であるべきだとしても、時代を超え、場所を超えた知性の働きをそこに見いだせるという事情に変わるところはない。
ハイドンには第104番以外でもそうした方向性を感じさせる作品の系列というのがあって、私見では、同時期の作品では第99番、第102番(と、その愛称が故に誤解されてしまっているが、その愛称の根拠となった当の第2楽章を除けば、第101番も)がそれに該当するし、少し遡って、エステルハージ宮廷の楽団員であったトストへの餞別として書かれた第88番あたりがそういう方向性での完成の画期であったのではないかと思う。99番は既述の通り変ホ長調、102番は98番に続いて変ロ長調で、これらは(色聴の私にとっては)金色から乳白色の暖色の色彩が実に美しいのに対し、ト長調である88番は色彩があまり感じられないこともあって、特に抽象度という点では際立っているように思われるのである。
ところで交響曲という形式を作り上げる途上で、ハイドンは様々な実験を行っているのであって、到達点のみを見て、それに先行する試みを過渡的なものであったり、登ったら捨ててしまわれる梯子のように見做すのは適切ではないだろう。勿論、104番の達成したものの高みは比類ないものであったから、作品の完成度のような尺度で、若き日の作品を比較の対象としておいて価値の転倒を試みるような近年の研究の動向は、意図は理解できても最終的には首肯しがたいものがあるし、若き日の作品の中には実験に留まった印象のものも含まれるけれど、比較を超えた固有の価値を見出しうる作品を見出すこともまた可能であろう。
後期交響曲の中で先ず思い浮かぶのが当時流行のトルコ軍楽を取り入れたとされる第100番「軍隊」であろう。大太鼓、トライアングル、シンバルといえばマーラーの作品の中ではお馴染みの楽器だが、それだけではなく、トランペットのファンファーレまで取り込まれているし、ト長調という調性にも関わらず、マーラーならば寧ろ第5番とか第6番を思わせるような、行進曲というものが持つある種強制的な性格をふと感じさせるかと思えば、あまりにコントラストが強すぎて深読みを誘う向きもあるメヌエットと、そのポピュラリティにも関わらず一筋縄ではいかない作品だ。マーラーのト長調交響曲である第4番を聴いて、さるウィーンの批評家が「それはあたかも白いかつらをかぶったパパ・ハイドンが、自動車に乗って、ガソリンの煙の中、我々のそばを通り過ぎるかのようだ」と評したらしいが、全く違う性格の作品とはいえ、ハイドン自身の実験精神は、批評家が勝手に被せ続けているかつらを尻目に、寧ろマーラーの精神に親和的な感じさえあるようだ。実際ハイドンは楽章構成から、楽章内の楽式、楽器法(様々な楽器での弱音器の利用、コルレーニョを含む)、引用の技法に至るまで、到達点だけから想像するのは困難な程の、様々な実験を行っているのであるから。
私見では103番はもっと興味深い。この作品は調性格論的には基準からの逸脱の著しい困った作品で、変ホ長調なのに色彩はくすんでしまっている。近年は色々と即興が施されることが多い、題名のもととなった冒頭の太鼓(ただしこれは普通のティンパニ)のロールに続く、ロマン派を通りこしてマーラー以降のモダニスムを思わせるような管弦楽法の序奏からか、色彩のくすみは寧ろ湿度を感じさせ、或る種の不安や予感、幽霊的なものが漂うのが異色で、さしずめアーノンクール風の絵解きならば、遠雷がして、雷雨の忍び寄る予兆を孕んだ空気の中、舞踏会が行われ、、、といったあたりなのだろうが、マーラーならばスケルツォに「影のように」という指示を持ち、若きシェルヒェン(彼がハイドンの交響曲録音のパイオニアであることを思い起こすべきだろうか)を魅惑した7番のような作品に繋がっていく部分があるように感じる。
だが、第104番を頂点とする完成に対する逸脱と言う点では、遡って、いわゆる「疾風怒濤期」と呼ばれる作品群に直接赴くべきであろう。実際第103番に感じるのは、時として感じられなくもない単調さもろとも、その遠い谺のようにも思えるのである。そしてその中で、知名度もさることながら、その異形性と、強烈な感情表現で際立つのは何といっても第45番、「告別」のニックネームを持つ交響曲だろう。今日風にはシアターピース的とでも言うべき趣向が凝らされた終楽章と、その成立に纏わるエピソードについては巷間に流布しているからここでは繰り返さない。寧ろここで注目したいのは、私の色聴が調性格論と関連があるということもあって、その破格の調的配置である。何とこの作品、嬰へ調という、古典期の作品としては稀な調性を持っているのである。
嬰へ調というのは、ハ音に対して悪魔の音程とも呼ばれた中全音にあたる嬰へが基音であり、平均律楽器であるピアノのような鍵盤楽器でこそその後の奏法の発展とともに黒鍵が多くて弾き易い調性として選択されるような例はあるけれど、調弦が固定されている弦楽器、基本的には倍音列に従った共振系を持ち、基音に対して変化記号が増えると正しいピッチの音を出すのが難しくなる管楽器が主体の管弦楽作品では、マーラーと同時代やそれ以降であれば他にも幾つか例はあるとはいえ、嬰へ調の作品はやはり比較的稀である。特に金管楽器が基音にたいする低次の倍音しか出せなかったハイドンの時代、嬰へ調の作品を創ろうものなら、楽器をそのために調達するということにもなりかねず、実際、第45番の場合もfis管のホルンをそのために調達したという真偽不明のエピソードがあるくらいで、少なくともハイドンの同時代にあっては極めて稀な調性に挑んだ破格の作品なのである。
勿論、破格なのは調性だけではなく、嵐のように激動するアレグロ楽章に対して、幽霊的な効果を持つ緩徐楽章での弦楽器における弱音器の使用、長調と短調の頻繁な交替、不協和音の頻用、メヌエットにおける「脱臼」したような奇矯なカデンツの拍節感と、強烈な、あるいは異様なアフェクトを備えており、それに加えてフィナーレの途中で音楽が途切れ嬰へ長調によるゆっくりとした「告別」の音楽が末尾を締めくくるという点も異形である。フィナーレは実質はアッタッカで繋がった2つの楽章と見做すべきで、5楽章形式の作品と見るべきだろう。
さて、マーラーにおける嬰へ調の作品といえば第10交響曲が該当する。勿論、ハイドンの第45番とは似てもにつかないし、影響関係を論じる時に決まって持ち出される引用などの手掛かりがあるわけではなく、寧ろ、両者はそれぞれが際立ってオリジナルな、異なった個性を持つ作品なのだが、にも関わらず、調性の共通性は決して実質のないものではない。マーラーはその同時代の他の作曲家に比べて和声法についてはアナクロニックなまでに全音階的であって、それ故に調性格論が有効な面があるのだが、嬰へ調をオーケストラが鳴らしても、例えばト長調やニ長調のような、ニュートラルだが輝きに満ちた芯のある響きは出ないのである。つまり調性格論は、ことオーケストラ作品においては、マーラーの時代においても(ということは、今日においてもだが)単なるこじつけやメタファーの類ではなく、楽器の音色という物理的な基盤上での認知的な根拠を備えていて、恐らく調性に結びついた色聴のうちの一部(私のそれもそれに属するが)は、そうした点に根拠を持つのではないかと思う。それは神経回路網の馴化と固定の結果(成長に伴う機能分化が途中で止まってしまったという見方があるようだ)なので、結果として絶対音感との対応づけも起きているようだ。その証拠に、私の場合、見える色はモダン・オーケストラのピッチの方が鮮明で、ピリオド奏法の演奏を急に聞くと、ーそのピッチはしばしば半音近く低いことすらあるー色が見えない。ただしばらくそのピッチに慣れれば、色の方も徐々に鮮明になっていくようだから(それでもモダンピッチのそれには及ばないようだ)、絶対的な周波数に対応づいているのではなく、調的組織と、楽器の音色の特性が媒介しているもののように思われるのである。その傍証として挙げられるのは、ピアノではそうした色彩が見えることがない点であり、管弦楽曲でも楽器法により、その鮮明さは随分と異なるのだ。
実は以前マーラーの第10番について考えていて、その調性の特異性に対して、交響曲の歴史の中でも先例のない、例外的なものと一瞬思い込んだ後、あっと思い当たったのが、交響曲の歴史の草創期のエピソードとして語られることの多い、ハイドンの疾風怒濤期の作品、第45番の存在であった。「告別」という内的なプログラムは、マーラーの場合、第10番ではなく、先行する第9番や「大地の歌」に関連づけられることが多いし(動機としての関連で言及されるのは、ベートーヴェンのピアノソナタ「告別」の冒頭の動機であったりする)、マーラーが(まさか知っていなかったとは思わないが)第10交響曲の創作にあたってハイドンの交響曲を参照したという外的な証拠があるわけでもなく、実証のレベルでの関連づけは恐らくは存在しないのであろう。そもそもがハイドンにおける「告別」は、文字通りの「葬送」である第44番とは異なって、マーラーの後期作品におけるそれとは意味が異なるという基本的な違いは無視できないだろうし、更に言えば、後年にはコルンゴルトの交響曲、そしてメシアンのトゥランガリーラー交響曲が嬰へ調の調性を持った作品として存在し、また嬰へ短調であれば、マーラーに先行して、既にリムスキー=コルサコフの「アンタール」のような例もあって、ハイドンの45番も開始の調性ということなら、寧ろこちらに属することになるだろう。(とはいえマーラーだって、出だしだけとればこれはほぼ無調であって、嬰へ長調は寧ろ終結の調性であろうが。)にも関わらず、交響曲の歴史の劈頭と掉尾に聳え、いずれも「告別」を内的なプログラムとして含むハイドンとマーラーの2つの嬰へ調の交響曲は、偶々同じ調性を持った他の作品とは異なって、見かけの様々なレベルの相違を超えて、響きあうものを備えているように感じられてならないのである。
なお私見では、嬰へ調に限らず、調性格論におけるマーラーと古典期の作品との対応は偶然では説明しきれないものがある。例えば変ホ長調を取り上げて、マーラーの8番や2番の末尾に対して、モーツァルトの「魔笛」やハイドンの「天地創造」におけるその扱いを考えてみれば良い。あるいは色彩的に変ホ長調と鮮明なコントラストを持つホ長調が、第4交響曲で、或いは第8交響曲でどういう性格を備えているかを、古典期以前の調性格論と比較しても良いだろう。マーラーの第10交響曲に関連した点に触れるならば、そのフィナーレの後半部分のスケッチには、クックが採用した嬰へ長調のバージョンと、変ロ長調のバージョンが存在するようなのだ。クックは嬰へ調への回帰を選択したが、変ロ調であれば、フィナーレの到達地点で観ることができる風景は些か異なったものになる筈である。勿論マーラーがいずれを選択したかを問うことは原理的に不可能であろうが、この2つの調性が選ばれたことは極めて興味深い。更にハイドンとの関連でもう2点だけ、ハイドンの「天地創造」において変ロ長調が象徴するものを考えてみること、更にモーツァルト追悼として書かれた第98番と同じ変ロ長調(これはモーツァルトにおいて最後のピアノ協奏曲第27番の調性でもある!)で書かれた交響曲第102番の弱音器つきのトランペットとティンパニと独奏チェロのオブリガートで特徴づけられる緩徐楽章の音楽が、「告別」交響曲と同じ嬰へ調で書かれたピアノトリオ第26番の嬰へ長調で書かれた緩徐楽章からの転用であること―ただし交響曲では、その独特の音色の選択に応ずるかのように、主調のドミナントであるヘ長調に移されているのだが―を指摘しておくことにしよう。
最後になるが、指揮者としてのマーラーのハイドンとの関わりは、時代の嗜好を考えれば決して希薄なものではなく、マルトナーの調査結果を信じるのであれば、ハンブルクで99番と101番、ウィーンでは103番と104番、ニューヨークでは「ヒストリカル・コンサート」のフレームにおいて集中的に104番を振っているようである。第104番と並んで(いやそれ以上に)、古典派音楽の頂点を極めたオラトリオ「天地創造」は、不思議なことにこの作品と縁の深いウィーンではなく、ハンブルクで6回指揮しているようだ(抜粋なら、ニューヨークでの「ヒストリカル・コンサート」でも取り上げた記録があるようだが)。だが寧ろ、ウィーンにおけるオラトリオの伝統でハイドンの「天地創造」に呼応してその掉尾を飾る作品は、フランツ・シュミットの黙示録に取材したオラトリオ「七つの封印を有する書」ではなかろうか。さしづめ聖書の劈頭に置かれた創世記に取材したハイドンのオラトリオが、その伝統の開始に位置し、古典派様式の完成を告げるという点でアルファなら、聖書の末尾に位置する黙示録を取り上げたシュミットのオラトリオは、それまでの音楽の歴史を回顧するように、様々な様式が盛り込まれたという点で、その伝統における奥津城たるオメガであろう。ハイドンの「告別」交響曲と第10交響曲に劣らずこちらの対峙も興味深いが、これについては指摘に留めることとして一旦筆を措く事としたい。(2018.11.24公開、25日補筆修正。2019.1.14加筆)
0 件のコメント:
コメントを投稿