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一方ロマン派というのは或る意味では、「うたう」ことへの回帰といった面があるのでは、と思えるのです。といってもそれは跛行的なものに見えます。他の作曲家について何か断定的なことがいえる程の知見もないので、またもやマーラーを例に出させて頂きますが、この場合、外面的に目立つのは、交響曲への声楽の導入です。但し私がマーラーに「うたう」ことへの回帰を見出すのは、そこではなく、寧ろ器楽が担う旋律、長く長くひき延ばされて白熱するまでになる旋律、ある楽器の「鳴らない」音域をあえて弾かせることによる効果、特殊奏法を含めた音色の拡大、あるいはオクターブを超えるような跳躍音程といった、個々にはマーラーだけの特徴というわけでもないかも知れない、しかもそれ自体は寧ろ人間の声からは離れていくともとらえうるベクトルに、「うたう」ことへの回帰を感じてしまうのです。これは一面で、アドルノがマーラーの「表情豊かに」に関して語っていることと重なるのだと思います。
でもマーラーの「うたう」ことへの執着はそれに留まらない。マーラーは線的な、対位法の作曲家、但し伝統的なカノニカルなテクニックに秀でたというのではなく、もっと土着的にというか、体質的に多声的な作曲家で、これはマーラーが後期ロマン派の、肥大しきった自我の自己耽溺と見做されたことを思えば奇妙ですらあるのですが、寧ろ、マーラーが好んだドストエフスキーの小説のように、バフチン的にポリフォニックだと感じます。しかもそのポリフォニーは、器楽的というよりは「うた」の交錯といった印象が強く感じられるように思います。
いや、もっと素朴な印象に立ち戻れば、まずマーラーの主題は時にあざとさを嗅ぎ付ける人がいる程までに素朴に「歌謡的」で、うたうことができる。そればアリアのように、或いはロマン派の歌謡的な楽章のような意味で「うたえる」わけではないのですが、それでも音楽の脈絡は、物語がリニアと言われるのと類比的な意味で筋が追える。実際には、それは古典的な図式を逸脱して、しかもポリフォニックに入り混じるのですが、それでもトータルな印象として、マーラーは「うたう」ことができるように感じてしまいます(かなり長い楽章を頭の中でリプレイできるのも、そのことが与かっているような気がします。自己を物語として構成する「意識」の構造がそこに潜んでいるように感じます)。
時としてその旋律は通俗的で、高尚な聴き手を鼻白ませるもののようですが、極東の異なる伝統に属する、だが今や表面的には相当程度雑種的な文化に浸かり、西洋の音楽に魅了された子供にとってはそんなことはおかまいなしだったと思います。例えば第7交響曲ではティンパニすら動機とか旋律の断片くらいは「うたって」しまう。更には調律されていない打楽器も含めて普通には「うたう」属性が付与されないものまで、悉く「うたう」存在となってしまうように見えます。神話の世界では動物と人間が自由に交換可能な存在だったりしますが、別に第3交響曲の「森の動物たち」でなくても、とにかく「うた」が累積し、充満して溢れて流れていくように感じられます。まさに「自然」が、「世界」が「うたう」のです。
マーラーにおいて歌っている主体はマーラーじゃないし、それは肥大したロマン派的主体の自己中心的な独白という(もはや過去の?)通念とはあまりに隔たっていると思います。たとえ標題としては撤回され、陳腐なものであるとしても、創作現場の状況証拠の如きものとして「Xが私に語る」とマーラー自身言っています。(撤回された標題の意味に振り回されるより、そこに構造こそを読み取るべきではないかという気がしてなりません。)
それは(シュトックハウゼンがそう言ったように、かつては十全な形で存在しえた)「人間」なのでしょうか?そういう意味では、マーラーの「人間」は、十分に畸形的だし、分裂もしていて、ただ、その多様性の広がりを横断する能力において際立っていたという方が適切ではないか、と言う気がします。そしてその横断する能力、多様化する能力において、それは「人間」を超えている、というか「人間」から「非人間」へと広がっていくことを惧れないし、厭わない。マーラーの自然は(「庭」に例えた作家がいましたが)、制禦され、囲い込まれた公園などではなく、寧ろ、人類学的・民俗学的対象、ただし、エスノサントリスムが暗黙の裡に依拠できる「出自」を持たない、雑種的で根無し草の、「佯りの」「ありえたかもしれない」民族のそれと見立てるのが最も適切に感じられます。
マーラーの時代は、観光というものが確立し、リゾード開発がされ、サイクリングが流行りといった時代だったようだし、都市計画による都市の再開発の時代でもあったようです。でも、そういう時代をマーラーに読み込むことは私には興味がないですし、マーラーが生きた土地を訪れたことのないからか、私にとって、マーラーの音楽は、例えば自分が子供時代を過ごした都市の郊外の田園地帯の風景と結びついてしまったりしています。ファンファーレが鳴るわけでもない、レントラーが聴こえるわけではなく、学校のチャイムと、かなり簡略化しながら未だ存続している地域の祭があって、でも土地に土着していない根無し草にとって、それは「自分固有」のものでは全然なく寧ろ自分を疎外するものであることを皮膚感覚で感じているという状況で、100年前の異郷の音楽が些かもエギゾチックな側面なしに「風景」に馴染んでいたように思います。特にマーラーの場合は「大地の歌」の中国が厄介な筈で、いわば反対側から見ている筈なのに、万葉集とともに李白や杜甫の詩を読んでいた子供にとって、あのいかがわしい東洋趣味は、勿論、気付かないはずなくても、それゆえに拒絶の対象となることはなかった。子供は未開人のように、本来ある筈の距離感などお構いなしに平気で横断してしまうのかも知れません。
(その一方で、マーラーの音楽に対してそういう姿勢でいながら、それが属する伝統におけるいかがわしさ、通俗性とか、感傷性とか、悪趣味といったものに対しては無頓着で、それが本来の文脈で聴かれたようには、決して聴いていなかったし、実は今なおそうに違いないことは認めざるを得ないのですが、そうしたパースペクティヴの錯誤があってなお、その音楽に惹き込まれてしまうのは何故なのか?そこには恐らく何か「構造」が潜んでいて、それが遭遇を可能にしているのではないか、というように思えてならないのです。そもそも、極東の異なる伝統に属する100年後の子供にとって、他者に過ぎない音楽とそれ以外の出遭い方が出来る筈もないと思います。論理的には出遭いは不可能で、誤解や妄想、思い込みの類に過ぎない筈なのです。だけれども、そうした論理に逆らって抵抗する何かがある。それは自分でひねり出した屁理屈であるというより、向こう側から音楽と一緒に降ってきてしまった何かで、だから寧ろ、そこにこそ何かが潜んでいると考えるべきなのでないかとも思えるのです。)
だけれどもマーラーその人もまた、そういう子供のような存在ではなかったか、とも思うのです。そして、そうしたあり方、世界認識のモードのようなものと「うたう」ことに対する姿勢とに、何某か関連があるように私には思えるのです。民俗的なものに対するマーラーの屈折した、或る種疎外された関わり方は、一見したところ、そうした民俗をよそよそしいもの、自分にとって他なるものとして捉えることに繋がるように見えるが故に、マーラーを週末の民俗学者、自然観察者に見立てるといったことも為されてきたようですが、私見では、それは転倒していて、寧ろマーラーの音楽は人類学や民俗学の対象の側にいる他者のように感じられます。マーラーを通して、他者との出合い方を、新しい認識の様態を学ぶ、というのが私のマーラー受容の端的な要約のような気もいたします。
レヴィ=ストロースはオランダの人類学の構造主義について、オランダ人が構造主義者であったと同時に分析対象のインドネシア人が構造主義者であったからだ、といったことをどこかで言っていたと記憶しますが、人類学も、そうした地平にあるものとして捉えるのであれば、必ずしも、前のメールで書いたように「考古学」的と捉えることもないように思えます。それは共時的な構造の分析でもあり、しかもそこには過程が入り込んだ、動的で不均衡な過程的構造とでも言うべきものであって、そこでは分析するものと分析されるものが入れ替わることもありうるような分析のあり方としてみれば、マーラーの音楽は、人類学が分析の対象とする資料体と見做してしまっても差支えない。そこから分析によって読みだされるものは、だけれどもどこかで、分析をしている対象の側からこちら側を分析することによって、自分の構造の分析に(も)なっている。そしてそれは「うたう」ことが「人間」の(もしかしたら超越論的な)基盤であるからこそ成立している、というような関係にあるのではないかというように思うのです。人文学的な対象はどこかで自己参照、自己言及を含んでいて、それは人文学の方法が解釈学的循環を含んでいたり、還元主義的なアプローチに限界があったりということと通じているようにも思います。
何となく自分の子供の頃からの思い込みを正当化して開き直っているだけな感じもしますし、きちんと整理できていない部分もありますが、最初に戻れば、「音楽」の断念の契機がずっと手前から存在していた一方で、「うたう」(それはまたしてもbeschwörenに繋がるはずと思います)ことへの拘りもまた、マーラーのようなアウトサイダーの介在をその一つの例としてしつこく伏流しているとは言えまいか? それともそれは単にマーラーが、そして私もまたアウトサイダー、非西欧人、非人間なので「音楽」の断念に対して無頓着でいられるということなのでしょうか? いや、これは流石に些か単純化し過ぎだと思いますが、いずれにしても、そうした流れにこそ未来への道筋の可能性が含まれるのではないか?ということになるかと存じます。
(…)
(2019.6.26)
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