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2018年11月4日日曜日

尾野正晴「松本陽子の絵画」より

 (…)「原空間」とは、ありとある絵画空間が生き死にを繰り返す場所である。そこでは、生成する絵画空間もあれば、死滅する絵画空間もあるが、こうした生と死の果てしない交錯のために、「原空間」は、常に混沌としたものになっているのである。
 (…)
 拭い取られたり、取って代わられたりすることによって、不吉な輝きを増す色彩、あるいは、面を整えることなく、常にそれをもつれさせる色彩、そういった色彩が干渉し合うとき、「原空間」は、最も語り得ぬものとなる。かつて、ゲルハルト・リヒターは、自分の作品に、語り得ぬものだけがもつ希望を見出したが、それは、似て非なるものとはいえ、松本やフランケンサーラーの作品の希望でもあるだろう(もっとも、見方を変えれば、こうした希望は、今世紀の画家のものというより、十九世紀以前の画家―たとえば、フェルメールやセザンヌ―のものといえるかもしれない)。
 語り得ぬ「原空間」のもとで、ふたりの抽象絵画は、ただちに、固有のイメージを育みはじめる。いや、より正確にいえば、抽象絵画そのものが、ひとつのイメージとなってゆく。これまで、抽象絵画は、再現的な絵画の対極に位置づけられてきたが、ふたりの色画抽象にあっては、両者は相容れないものではない。抽象が、自らのうちに再現的なものを見出し得ることを、ふたりの絵画は、美しく例証しているからである。
 絵画空間を語ることの困難を諭したふたつの「原空間」を前にして、なおも、それらを語らなければならないとき、思い出す用語がある。それは、テオドール・W・アドルノがマーラーの音楽形式の特質を明かすために見出した三つの用語である。「発現」(Durchburch)、「停滞」(Suspension)、「充足」(Erfüllung)という三つの用語は、「原空間」のありようを示す数少ない言葉とはいえないだろうか。松本やフランケンサーラーの「原空間」も、たしかに「発現」と「停滞」と「充足」を繰り返している。それは、唐突に「発現」し、自由に「停滞」し、そしてまた、唐突に「充足」してゆくのである。」
尾野正晴「松本陽子の絵画」(光琳社, 1990)より


 いずれも所詮は「趣味」の範囲を超えないとはいえ、私の場合、美術と音楽とを較べれば、どちらかと言えば音楽との関わりが占める割合の方が大きく、これまたいずれも所詮は自分の嗜好に合ったもののみを恣意的に選択する摘まみ食いには違いなくても、まずは単純にそれに向きあってきた時間の長さの差に起因してであろう、自己が選択した中核となる対象の周辺の広がりについても、音楽の方が遥かに大きなものであることは否定し難い。簡単に言ってしまえば、音楽の方が一般的な意味でより系統的な聴き方を、それでもしてきたことになるだろう。

 こんな比較に意味がどこまであるか疑問なしとはしないが、それでもなお、例えば、音楽における演奏録音の記録媒体に相当するものを絵画における画集であるとしたならば、実演に接することは実作品に接するべく美術館を訪れることに対応しそうである。であるとしたら、音楽の側においてはマーラーでさえやっと全交響曲について実演に接しただけであるに過ぎないことを思えば、新作が出るのを待ちかねて画廊に足を運ぶべく自分で積極的に情報収集する程の熱心さはないけれど、美術館で企画される個展、回顧展であればほぼ必ず足を運び、或いは時折は、その作家の作品だけを目当てに、常設展であったりアンソロジー的な趣向の企画展であったりを訪れたりする美術作家が居るとしたら、自分の中での重要度としては決して劣ることはないのかも知れない。松本陽子さんは、そうした意味において自分にとって、難波田龍起さん、中西夏之さんと並んで特別な存在である。更に言えば、これは音楽の場合の適当な等価物が見出せないが、自分の身の丈に合ったレベルではあるけれど、その作品が手許にあるという点で上記の3人は別格ということになるだろうか。

 ある作品が産みだされた背景のようなものは寧ろ敢て等閑視すべしとは全く思わないが、さりとてそうした文脈に作品を還元してしまうような視点に対しては拒絶感があって、それ故マーラーが好き「だから」同時代のマーラーの周辺の音楽が好きであるということがないのと同様に、周辺の美術、例えばクリムトや分離派、或いはココシュカ、更にはロダン等についても、一応その存在は知ってはいても、特にそこにマーラーとの共通性を見出すということはない。そもそもマーラー自身、その苗字にも関わらず、そして当時の著名な画家の娘を妻とし、分離派の面々との交流があるのみならず、ロラーの舞台美術のようなコラボレーションさえあり、或いはまたアマチュアの画家でもあったシェーンベルクが描いた絵を匿名で購入したりはしていても、総じて言えば造形芸術への関心は限定的だし、哲学や自然科学に関しては同時代の最新の潮流への関心を怠らない一方で、これまた同時代の作家との交流はあっても、文学の嗜好は寧ろ保守的であることは良く知られている。要するに、マーラーを文化的な潮流の(最も重要なそれであれ)一齣に還元するのでないとしたら、同時代に拘るのはマーラーその人を知る上でさえ役に立たないし、ましてやマーラーの作品を今日、遠く離れた日本で受容することの意義を考える上でも役に立ちはすまい。そしてそれはマーラーに限らず、音楽作品に限らず、美術についても同様ではないだろうか。少なくとも私にとっては、一見時代を隔て、様式の違い、あるいはジャンルの違いがあっても、そうした壁を超えた繋がりを見出すことの方が、断然重要に感じられるのである。
 
 だがしかし、とは言うものの、上記の尾野さんの文章を手許にある松本陽子さんの画集の解説文に見つけた時には、正直に言えば、不意打ちを受け、酷く驚いた。自分の中では、マーラーの音楽と松本陽子さんの絵画というのは、とりあえずは別々の領域にあって、その間に意識的な関連を見出そうとは特段思っていなかったからである。いずれも抽象画家である上記三人の作品に、或る種音楽的なものを感じこそすれ、そして別のところで何度か触れているように、私には色聴があるので、その時に「見える」色の色調に類似のものを感じることは時折あっても、具体的、個別的に、マーラーの作品との構造把握における対応を考えたことがそもそもなかったので、松本陽子さんの絵画の本質にアプローチする上記のような文章の中で、アドルノのモノグラフの「性格」の章に提示される三カテゴリに遭遇することになるとは全く予期していなかったのだ。実際、尾野さんの文章は、ポロックと松本さんの比較から初めて、松本さんのそれが制作手法上「引き算」の絵画である点を指摘し、それが色彩抽象絵画共通のものであることを指摘して、フランケンサーラーを比較の対象に設定し、引用した「原空間」への言及に至るのであって、末尾のパラグラフを除けば、専ら絵画というジャンルの中にある。それも20世紀の抽象絵画の中で専ら論じられているのだ。そして最初の転調がまずフェルメールとセザンヌを例とした19世紀以前の作家への時代を遡行する形で起こるのは興味深い。しかもそれが、引用を割愛させていただいた「原空間」がもつ祝祭的/不吉な質の指摘から、語り得ないものに辿り着き、語り得ないものだけが持つ「希望」への指摘とともに起きている点は特に注目される。

 そして末尾においてアドルノのマーラーに関するモノグラフでのカテゴリ、つまり美術ではなく音楽の、しかもよりによってマーラーという個別の作家の作品の性格を規定するために用意された、唯名論的といって良いカテゴリが出てくるのだが、その急激な転調と突然の結びに一旦は驚きはしても、マーラーの音楽が、語り得ないものだけが持つ「希望」という点において親和的であることは疑いなく、一方で、松本さんの作品が極めて動的な質を帯びて、その中に際立って豊穣な多様性と奥行きをもって、描かれたものが出現した現場を遡行的に感じさせることもまた疑いないことに思い当たれば、尾野さんの指摘にはそれを導きの糸として松本さんの絵画を理解する重要なポイントが示されていることに気付かずにはいられない。とはいえ、その作業は専ら読み手に課された形となっているのであるけれど。

 従ってここでは上記の文章を紹介するにとどめ、その内容について分析・考察することは控えることにしたい。松本陽子さんの絵画について語りたいことはたくさんあるし、日々その作品に接することが、自分にとって貴重な糧となっている事に対する、或る種の御礼とか恩返しのような気持から、そうすることに義務感の如きものを感じているという点で、マーラーの場合と変わることはないのだが、それには稿を改めるべきであろうし、とりわけても尾野さんの分析については、それについて単なる印象レベルでの貧弱な比較を超えた、それなりに実質的な何か言うだけの準備が今の私にはまだ出来ていないと感じるからである。

 とはいうものの、尾野さんが指摘する「原空間」のありようを示す言葉として三つのカテゴリを考えたとき、それがより一般的な絵画と音楽というジャンルを超えた、より高い抽象度の把握の可能性を示唆していることも然り乍ら、他ならぬマーラーの音楽観相学のためのカテゴリが、他ならぬ松本陽子さんの絵画の或る種の「観相学」であろうものに適用される点に、自分でも意識的には気付いていなかった相関の存在が示唆されているように思われる点が非常に興味深く思われる。

 実際、松本陽子さんの絵画を見たときの驚き、その絵画から押し寄せてくる光の放射の、その波動のうねりの中に自分が包み込まれ、漂うような感覚、そしてその流れが己の奥底に達した時に、今度は自分の中から湧き上がってきて、自分の中に広がり、あたかも自分を越えて周囲に拡がっていくかにさえ感じられる充足感は、最初に見たとき以来、変わることがない。絵画は音楽のように時間に沿って展開していくものではないけれど、ある水準において絵画についても動力学を考えることは、自分のそうした経験に照らすなら全く自然なことにさえ感じられるのである。

 今の私に言えることと言えば、以下のように、自分の経験を拙く、洗練もされていない仕方で語ることくらいなのだが、それでも敢て一言だけ付言すれば、尾野さんの分析は、それが収められた画集が出版された時点までの作品、即ち、松本陽子さんのトレードマークとでもいうべき、ピンクとグレーが主体のアクリルによる絵画のみに恐らくは対象を限定しているという点は、今日以降、それについて語る時に確認しておくべきことであろう。画集に限定するならば、その後2007年に出版された「松本陽子作品集」(ヒノギャラリー,2007)、あるいは国立新美術館での野口里佳さんとの二人展の図録「光 松本陽子」(国立新美術館, 2009)を開けばわかるとおり、2005年以降、緑を基調とした油彩の作品が制作されており、画材も違えば、制作の過程も異なったものであるからだ。

 緑の絵画は、まずもって「引き算」の絵画とは言えないだろうし、並行して制作されているドローイングと同様に、遠目に一見してそう見えるのとは異なって、細かい線の積み重ねからなっていて(まるでカオス力学系におけるカオス的遍歴の軌道のようだ)、粗密はあっても隙間があって、異なった色彩のコントラストや緑の中での色調の微細な差異と相俟って、際立って複雑で豊かな空間を内包している。しかもそれは決して静的に析出するといったものではなく、際立って動的で、その前に立つとたじろぐ程なのだが、そうした印象の方は、尾野さんが対象としていた「引き算」の、ピンクの作品群と共通した点もある。とはいえ、アクリルによるピンクの絵画においては絵から放たれる光の散乱が、寧ろ宇宙空間の異なる場所のように、普段人間の意識がその中に埋まっている環境とは異なった空間を感じさせ、時として観る者を脅かすのとは異なって、油彩による緑の絵画はある意味では親しみのある、日常のすぐ隣にある感覚があって、寧ろ観る者をその空間の奥の方へと誘うかにさえ感じられる。ただしそれは一見してそう思われるような、起源としての「自然」への回帰といったベクトルは全く異なった、寧ろ逆向きの経験であるというのが私の偽らざる実感である。それは日常的な経験を一旦括弧入れした上で把握されているかのようであって、極めて意識的に獲得し直された印象を受ける。一見して素材に見える緑色も、実は素材というよりも寧ろ、制作を通じて意識的な仕方で再び獲得しなおされるものに見える。恐らくはそうした媒介性は、ピンクの絵画がキャンバスを床に置いて描かれているのに対し、緑の絵画の場合はキャンバスを垂直に立てて、それに正対して描かれるという制作手法と関係があるのだろうし、松本さんにとって油彩は、一旦離れた後に再び向き合った画材であるという事情も関係しているに違いない。そしてそれはマーラーの音楽が、工芸品的に細工された制作物としてのそれから遠く隔たって、一見、生の素材を「廃物利用」よろしく取り集めているように見えて、そうした素材が芸術音楽に取り込まれた古典派の時期とは異なって、素材との関係が屈折した、媒介を経たものであること、そして、そうした素材を用いて、もう一度新たにヴァーチャルな「世界」の制作であろうとするのとどこかで接しているように感じられるのだ。そしていずれもそうして意識的に掴まれ、定着された音や色の向うに「語り得ぬものだけが持つ希望」を垣間見させるという点において、ジャンルや時代の様式や意匠の違いを超えて、やはり通じるものがあるように感じられる。

 実際、松本陽子さんの緑の絵画を初めて見たとき、それがピンクの絵画がそうであるように、絵画としては全くユニークであって、前人未踏の場所に居ることを感じつつ、同時にその質が、どこか別の非日常的な経験において垣間見ることができる印象に通じる点においても共通しながら、より確乎とした仕方で提示されるような感覚に捉われて、深い充足感のようなものを覚えたのを覚えている。そして勿論、そうした感じは、作品に向き合う度に都度新たに、より確かなものとなっていくように感じられるのだ。まるで逍遥しているうちに、気付かずに、自分が朧気に予感していた場所に突然出たような感じと言えば良いだろうか。こうした経験をさせてくれる絵画というのは他になく、作者が「引き算」の、今なお作者のトレードマークのように語られるピンクの絵画の長く深い経験を経て辿り着いた境地に、畏敬の念を覚えずにいられない。これは危険な言い方かも知れないが、或る日、自分がその絵画の空間の中に踏み入って、そのまま消えてしまうといった想像を、緑の絵画を前にしてすることさえあるのだ。繰り返しになるが、勿論それは「回帰」といった類の動きではなく、寧ろ逆に、到達することのないかも知れない未来の彼方に、未だないけれど、今そこにある絵画を見ればこの上もなく確かなものと感じられる「希望」として予感されている(に過ぎない)のであるが。

 であるとするならばここでは寧ろ逆に、「原空間」を音楽に適用してみることはできないだろうか?つまるところ、「原空間」というのは、時間と空間が分離された後の空間の謂ではあるまい。そうであるとするならば、それは経験的なレベルで時間に沿って再現される音楽の時間性とは異なった水準の、現象の背後・意識の背後から音楽が湧き出してくる場を指し示しているのであって、その向かう先が、ジャンルを違いを超えて、やはりマーラーにおいても「語り得ぬものだけがもつ希望」に他ならないという構造のアナロジーは極めて確からしいものに思えるのである。(2018.11.3/4)

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