例えば以下のような文章で探り当てられようとしているのは、まさに寧ろ交響曲の方が、オペラのような一見 ハイブリッドでマルチメディア的なジャンルよりも多声的であることについてに他ならない。
黒田「(...)面白いオペラをつくる人間というのは単純な人間なんではないかとかねてから思っているんです。 そのなかで錯綜としたものというのはないような気がするんです。ワーグナーでさえ例外ではないでしょう。(...) マーラーのようなかたちで複雑なものが入り混じっている人にとっては、どうもオペラはうまくいかないんじゃないか。」音楽史、文化史的な崩壊や解体の過程を想定するかのような視点はおいて、 マーラーの交響曲の(バフチン的な意味での)ポリフォニー的な性格を言い当てようとしていると考えれば、上記の やりとりは納得できる。オペラよりも交響曲の方が複雑でありうるのだ。
粟津「(...)ワーグナーの場合は劇に対する統一的な感覚があって、それがあればこそあの人のもってる俗っぽさも 崇高さも単純さも複雑さも、いろいろな役割を当てがわれて、みんな歌いはじめたということです。 ところがマーラーになると、そういう劇感覚がなくなっちゃってるんだな。いろんな要素が勝手気ままに彼の中で生きはじめる。 そして、彼はそれに耐えるしかない。(...)」 (粟津則雄、黒田恭一「対談 マーラーの世界、マーラーの現在」, in 「音楽の手帖 マーラー」青土社, 1980)
少し先でシュトラウスの恐らくは「ナクソス島のアリアドネ」を念頭に劇中劇への言及があるが、劇中劇よりも 交響曲の内部の多声性、己の内なる他者の声に耳を澄まし、それが「私に語ること」を音楽として定着させることの方がはるかに錯綜とした構造を必要とする。それは伝統的な形式論をはみ出てしまい、まさにアドルノの言うところの 唯名論的な、その都度の形式の鍛造が必要となるのだ。これもまた上記対談の中の「膨大な私オペラ」という規定や 「劇中劇の登場人物はひたすら自分のヘソを見つめつづけている」という指摘は、 それが複数の登場人物の対話によって繰り広げられる劇ではなく、 個人の自閉したモノローグであるという意味合いであればはっきりと間違いであるが、劇的統一の中に仕組まれた 対話とは別の次元にマーラーの音楽のポリフォニー性があるという事態を示唆しているという点では、全くの的外れという わけでもない。ひたすら自分のヘソを見つめつづけているのは作者自身であって、しかも彼は「物が私に語ること」を 聴き取り、それと対話をしようとしているというふうに考えることもできるだろう。
それというのも、アドルノが言うように、素材(マテリアル)としての他者の声が、「主観の自由な措定ではなく、本来の形ではない形の中で主観の支配要求に対抗して自己主張を行う」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 第5章「ヴァリアンテ―形式」, p.118)からなのだ。ここでのアドルノのヴァリアンテの理論は、 そのままバフチンの小説の理論に移行できるかのようだ。バフチン的な意味でのポリフォニー、対話が実現するジャンルとしての小説を念頭においてマーラーの交響曲に与えたアドルノの規定、小説-交響曲において可能となる時間性の効果が、複雑さをもたらすのだ。 それゆえ、そこには予めあてがわれた形式が保証する図式的な時間の賽の目に区切られた外的な枠組みではない、 力動的な時間の生成があるのだ。二度と同じ流れに乗ることはできないゆえに単純な反復は、それ自体が メタな意味を担う場合(第10交響曲のプルガトリオ楽章がもしかしたらそうであったかも知れないし、伝統的な提示部 反復に従う第6交響曲の第1楽章もそうだろう)を除けば、再現は単なる同じ事の反復ではなく、寧ろ、予告されたものが ようやく本当に実現するといった印象を与える。主題の提示は、とうとう第9交響曲の冒頭では本当にそうなるのだが、 初期の作品においてすら、未来完了的な位置づけを占めている。例えば第1交響曲の序奏から既にそうではないか。
上に引用した対談でのワーグナーとの対比ということでいけば、興味深いのはアドルノが、一方ではマーラー論でもその前奏曲の 転調のプロセスを引き合いに出し、他方では「パルジファルの総譜によせて」で今度はマーラーの固有名を呼び出しているといった 仕方で関係を示唆している「パルジファル」との相関である。直接にはアドルノが「パルジファル」との関連を示唆するのは 第3交響曲の第5楽章を除けば、もっぱら第9交響曲なのだが、マーラーの交響曲中、一般にオペラ的であるように 見えるのは、一見したところは寧ろ、第8交響曲の第2部だろう。アドルノのマーラー論において第8交響曲を論じた部分で参照されるのは 第1部に因んだ「マイスタージンガー」であるとはいえ(邦訳p.148)、第8交響曲における「ファウスト」劇の導入は舞台こそないが、 演奏会形式のオペラのように歌手や合唱には配役がある。その崇高さへの志向や祝祭的とでもいえるような内容からしても、 寧ろ第8交響曲こそがワーグナーの「舞台神聖祝典劇」のマーラーの交響曲における等価物であるのではないかと思えるのだが、 にも関わらず、舞台で演じられてしまう「パルジファル」には聴き取ることができない音調が第8交響曲の第2部には確かにあって、 もしかしたらそれは、逆説的にも、コンサートホールでよりも自宅のPCで夜遅くに音楽(三輪眞弘さんによれば「録楽」というのが 正確なのだが)を聴くときにこそ接近可能であるようなものなのかも知れないのだ。そしてそれは、夏の作曲家マーラーがある日、 作曲小屋での孤独の中で聴き取った何か、マーラーが作品として定着させようとした何かそのものであるに違いない。
マーラーの音楽で「ファウスト」第2部を聴くとき、寧ろこれが戯曲というジャンルに属していることの方が、あたかも不可能事を 捻じ伏せようとするかのような力業に感じられてならないのである。この劇を舞台で、その内実に相応しく上演することが可能なのかと 問わずにはいられない。少なくともマーラーが見出した時間性は、人間が語り演じる舞台という現実の制約に全く相応しくない もので、それは交響曲という形式によってのみ定着することが可能なものであったに違いない。実際、夙にルドルフ・シュテファンに よって指摘されている(「『ファウスト』最終場面の作曲をめぐって―「詩」対「音楽」」)とおり、 マーラーは科白に音楽をつけるという点では原典に忠実であることはなく、それは一見して予め存在するゲーテのテキストに 「合わせて」付曲されたかに見えるであろうこの第8交響曲第2部ですら例外ではないのだ。そしてそのことは、 その音楽の形式を規定する原理は別にあるということを告げている。
既成のオペラというジャンルではなく「舞台神聖祝典劇」を名乗り、他のオペラ 作品と同じ場での上演を嫌った挙句、バイロイト祝祭劇場での独占上演さえ企図された「パルジファル」が、しかしそれでも 現実の舞台での上演に向け、この上もない円熟した技量によって見事に統一されているのに対し、マーラー版の「ファウスト」は (マーラー自身が拒絶した「千人の交響曲」というキャッチコピーで売り込まれ、かつてマーラーが経験したことのない大成功を 納め、丁度「解禁」後の「パルジファル」がそうであったように、作曲者の没後しばらくは、膨大な準備の手間にも関わらず、 寧ろ他の曲を上回るかの如き頻度で上演されたにも関わらず、)現実に場を持つこと拒絶しているかのようなのである。 かつての「ハルモニア・ムンディ」たる惑星の運行が奏でる音が人間には聴き取れないとされたのに呼応するように、こちらもまた、 人間の持つ生物学的な制約からは自由であるべきではないのかという、冷静に考えればナンセンスな考えさえ振り切ることは困難である。 それはこの音楽はそれ自体が、人間が人間のままでは起こりえないこと、経験することのない瞬間から到来したものであるかの ような音調を備えていることと対応しているのであり、その音楽の持つ時間論的なスキーマ、まさに交響曲というジャンルにおいて しか可能でないようなそれにその原因を求めるべきなのだ。
オペラとの類比ということでいけば、「大地の歌」は歌曲集といいながら、構造はオペラ的であり、特に第6楽章は レシタティーヴォとアリアが交替する。第2交響曲や第3交響曲は声楽が導入されているということだけでなく、 器楽パートにおいても、レシタティーヴォ的、アリア的な要素をそこかしこに見つけることができるだろう。
だが、ここにもマーラー的な「交響曲」に相応しい分裂があり、天使と格闘する第2交響曲第4楽章のヤコブや 悔恨の涙を流す第3交響曲第5楽章のペテロが女声で歌われるのと対応して、「大地の歌」では男声と女声の交替か 男声の2つの声(テノールとバリトン)という選択肢が一方でありながら、同じ一人のテノールが歌うよう指定されている 筈の第1楽章と第3楽章では、まるで2つの質の異なる声が求められているかのようだ(カラヤンが実際に、2人の歌手に 歌わせたという例があるようだ)し、第6楽章の歌では対話する2人の男の声を、まるで謡曲や義太夫のように、 一人の女声の歌手が歌わなくてはならない。一部は2つの詩をつなぎ合わせたという事情に由来する2人の声の交錯は 微妙であり、角笛歌曲集の幾つかように、明確な歌い分けがあるわけでもないから、声色を使い分けることを忌避するとはいえ、 いわゆる音遣いによって性別や年齢を描き分けることへの関心を捨てきれない義太夫よりも、 そうした写実性を拒絶する能の謡の方が一層近いだろうか。いずれにしても統一原理が働く「単純な」オペラより、 節約された手法の中でポリフォニーを実現する能の方が一層マーラーのポリフォニーに近い。 楽器同士の、あるいは器楽と声楽のヘテロフォニーにしても同様である。初期の作品であるカンタータ「嘆きの歌」もまた、 マーラー自身が扱いかねて、後には上演の便宜もあって切り詰めてしまった語りの層の多層性があり、 一見するとオペラとの類比が最も容易であるかに見えて、その語りの多層性を損なわずに舞台での上演を考えることは 不可能であるという点において、既に小説的、(マーラー的な意味での)交響曲的な作品なのである。
第8交響曲と「大地の歌」ということであれば、ミッチェル(モノグラフの第3巻である"Gustav Mahler, Songs and Symphonies of Life and Death")を 参照すべきかも知れないが、いずれにせよ、 第8交響曲、大地の歌、第9交響曲という後期の3作がすべて「交響曲」であるという点に、 マーラーの「交響曲」のジャンル論的な位置づけを試みるにあたっての鍵が潜んでいる。 初期においては、「嘆きの歌」、二部からなる交響詩(「巨人」)、「さすらう若者の歌」であり、 2,3,4という歌つきの連作、5,6,7という歌なしの連作の間には「子供の死の歌」がある、といった構図を思い描くこともできるだろう。 いずれにしても、カンタータ、多楽章形式の交響詩、連作歌曲であったものが、後期においてはすべて交響曲となるのだ。 その間には最初は声楽付きの、次いで器楽のみよる2つの交響曲ツィクルスの経験が介在しているのだが。
マーラーの交響曲の多声的構造の中でレヴィストロース的なブリコラージュと他者の声のポリフォニーの関係を論じることも可能だろうし、 バフチン的なインターテクスチュアリティとの関係を問うこともできるだろう。 マーラーの音楽の「ポプリ」的な側面、様々なジャンルが多層的に織り込まれること、マーラーの言う(ゲーテの「ファウスト」第1部 の地霊の台詞に由来する)「神の衣を織る」という言葉や、第3交響曲に因んで述べたとされる「世界を構築すること」とは まさにこうしたポリフォニーを創りあげることであったというように捉えても良いのではなかろうか。そして「世界を構築すること」が、 世界の様々な物が語るのを聴くことであること、つまりモノローグではなく、対話的な仕方で為されていることに留意すべき ではなかろうか。更にそれはシュトックハウゼンがかつて示唆したように、かつての「人間」の解体と期を一にしているのだ、 という社会学的な視点もそれなりの妥当性があるのだろう。だがそれは、マーラーの音楽は境界線の向こう側からの最後の声 であるということではない。寧ろ逆に、アドルノが指摘したマーラーの交響曲における形式の唯名論的な性質は、 生物組織の複雑性をもった自己組織化サイバネティクスにおける絶えざるプログラムの作り直しに比するべきなのではないか。 マーラーの小説的な交響曲の成立を可能ならしめる系の条件は、寧ろ以下のような、アンリ・アトランの述べるそれ、 いかにして物質が自己組織化の場になりうるかについての理解を踏まえて記述可能なようなものではなかろうか。
(...), mais où nous pouvons nous reconnaître parce qu'elles peuvent nous parler. Au lieu d'un homme qui se prend pour l'origine absolue du discours et de l'action sur les choes, mais un réalité coupé d'elles et conduit inévitablement à un univers schizophrénique, ce sont des choses qui parlent et agissent en nous, à travers nous comme à travers d'autres systèmes bien que de façons différente et peut-être plus perfectionnée. Grâce à cela, si nous nous laissons pas étouffer par elles, c'est-à-dire si notre vouloir - faculté inconsciente d'auto-organisation sous l'effet des choses de l'environnement - arrive à s'inscrire suffisamment en mémoire, de telle sorte que nous en ayons un degré suffisant de conscience, et si celle-ci en retour peut interagir avec les processus auto-organisateurs sans toutefois qu'il y ait conflit entre ces deux formes d'interaction, alors, lorsque nous regardons autor de nous, nous pouvons nous sentir chez nous, parce que les choses nous parlent aussi. Après tout, si l'on peut nous démontrer comme des machines et remplacer des organes comme des pièces, est-ce que cela ne veut pas dire aussi que nous pouvons voir dans les machines, c'est-à-dire dans le monde qui nous entoure, quelque chose où nous pouvons nous retrouver, et avec qui nous pouvons, à la limite, dialoguer? Quand nous découvrons une structure dans les choses, n'est-ce pas retrouver, de façon renouvelée et épurée, un language que les choses peuvent nous parler?
「(...)しかしそこにおいては、たしかに、物が我々に語るから我々は自分を再確認できる。自分を物に対する 言説や行動の絶対的根源と考え、実際は物から切り離され、分裂症的世界におちいることが避けられない人間のかわりに、 我々のなかで我々をとおして語り(多分もっと完全な異なった方法による他のシステムをとおして語るように)、行動するのは物である。そのおかげで、我々は物によって窒息させられなければ、いいかえれば我々の願望――周囲の物の影響下の無意識的自己組織化能力 ――は十分に記憶にとどめられ、十分に意識され、そして意識が今度は自己組織化プロセスと相互作用し、しかし二つの相互作用形態の あいだで争いを起こさないならば、我々の周囲を見まわすとき、物が我々に語りかけるので、我々は自分の家にいるように感ずる。 それは、結局、もし機械のように分解して器官を交換することができるならば、機械のなかに(いいかえれば我々をとりまく世界のなかに)、 我々と同じものを見出し、究極的にそれと対話できる、ということを意味するのではないだろうか。我々が物のなかにひとつの構造を見出すという ことは、物が我々に語りかける言語を、新しい純粋な方法で我々が見出すことであろう。」 (アンリ・アトラン「自己組織化システムにおける意識と欲望」, in 「結晶と煙のあいだ 生物体の組織化について」(阪上脩訳, 法政大学出版局, 1992), p.161)
ここでアトランが、奇しくもマーラーが思いついた標題を思わせるように、「物が我々に語りかける」、あるいはシェーンベルクがプラハ講演で第9交響曲について述べた表現を思わせるように、「我々の中で我々を通して語る」という言い方をしているのは、単なる修辞上の偶然だろうか?否、決してそうではないだろう。そうではないどころか、上記のアトランの言葉は、マーラーの音楽をロマン主義的な「人間」についての見方の下で理解しようとすることが如何に不適切であるか、寧ろ、シュトックハウゼンの言う「かつての「人間」の解体」以後の新たな枠組み、サイバネティクス以降の認識の下で理解すべきであることを告げているように思われる。(なおここで、ハイデガーが、サイバネティクスが形而上学の終焉である、と述べていたことを、その言葉を軸に議論が展開され、その議論の帰趨を含めて、知る限り、近年の思考の中においてここでの論点と最も密接な関りを持つと思われる『再帰性と偶然性』を著したユク・ホイの名とともに思い起こしておくことは、後日の検討のためのメルクマールとして必須のことに感じられる。)
もう一言付け加えるならば、20世紀後半の半世紀にわたるサイバネティクス登場以降の潮流を踏まえつつも、「機械」と「生物」(「人間」含む)を対立的に位置付け、「機械」をフェルスターの言うノントリヴィアル・マシン迄のレベルに押し込めてしまい、更には昨今の人工知能のブレイクスルーを支える技術的・理論的な背景には統計的・確率的な発想が存在するというのに、人工知能もそちらに分類されるらしい「機械」を決定的な動作をするものと決めつけ、確率的過程を恣意的に「生物」の側のみに認めることまでして機械の複雑さと生物の自律性を根本的に異質なものとして対立させ、(なぜ不可能なのかを語ることなく)その対立が乗り越え不可能なものであるかのように語るような発想は(最近の「情報学」なる学問領域に属する主張に、「ネオ・サイバネティクス」を自称し、「人間非機械論」を唱導する、そうしたものが存在することを教えて頂いたのだが、それらが再帰性、オートポイエーシス、構成主義を重視するという基本的な立場の水準では異論なく賛成できるにしても、その帰結としての上述の枠組みには全く同意できないし)、結局のところアトランが述べる上記のような認識とは相容れないように思われる。
つまり上記のアトランの叙述中の「機械」という言葉は、修辞上の不正確さの結果などではなく、さりとて比喩の如きものでは更になく、正確に、文字通りに受け止めるべきなのであって、寧ろ、機械が生命と同レベルのメカニズムを持ち、従って本当に自律性を獲得するということが現実になりつつある一方で、「生命」なるものも「機械」で補綴することができ、「機械」のように交換できてしまう現実が到来しつつあるという点が今日の問題なのであれば、人間を、或いはまたオートポイエティックなシステムを、本当はそれらは「機械」に過ぎないのに、それらが機械ではないのに機械だとみなす態度が問題であるかのような認識、寧ろ正しくは人間も生命もオートポイエティックなシステムもまた(マトゥラーナ/ヴァレラが自らそのように明言しているように)「機械」(但し、それまでの素朴な了解におけるそれとは異なったメカニズムを備えたそれ)として捉えるべきなのに、それを非機械と規定してしまえば現実が変わるかの如き発想は、現実に起きていることの微妙さを、単なる議論の論理の上でだけ単純化することで取り逃しているようにしか思えない。またマトゥラーナ/ヴァレラのオートポイエーシスに限定して言えば、それまで無視されてきた内部からの見方の必要性という点で重要だけれども、だからといって全てがオートポイエーシスの見方で語りつくせるわけではなく、言ってみれば説明の仕方としては限定的であり、観察者の立場にある科学的な見方と相補的であるべきにも関わらず、そこに恣意的な二分法を持ち込み、両者には解決できない対立・矛盾があって、どちらかを選ばなければならないかの如き論理を展開するのは、却って問題の在り処を見えなくしてしまう懸念がある。
私見では上記のような議論の問題の一つは、それが極めて抽象的で、具体的な「現場」におけるディティールに無頓着に見えることで、具体的な対象を分析し、モデル化を試み、構成主義的な仕方でそれを検証していく中で微妙で繊細な問題に突き当たるという経験(それは例えば情報工学や制御工学等の現場においてはごく日常的で当たり前に起きていることであろう)を欠いていることに存すると思われる。そして本稿で参照したバフチンやアドルノの所説を念頭におきつつマーラーの音楽を具体的に分析していく中で、彼らの議論を単にパラフレーズするのではなく、サイバネティクスや情報論的な語彙で語りなおすことを目指しつつ、マーラーの作品についての認識を構成主義的に練り上げていくというのは、まさにそうした具体的な問題(しかもトリヴィアルではない問題)の一つに対するアプローチたりうるというのが、本論を通じて示唆したいことなのである。(「示唆する」という言い方を敢えてするのは、私の能力ではそれを解明することなど到底覚束なく、初歩的な取り組みをしていく中で予感し、示唆するのが精一杯であるというのが偽らざる現実だからであり、この後、それを解決する資格と能力のある優秀な方々が取り組み、解明することを期待しているからである。)
マーラーの音楽を今日、聴き、演奏することの意義は、それがマーラーの没後、20世紀も後半になって提唱されたサイバネティクスや自己組織化をはじめとする複雑性の理論によってようやく正当に記述し、理解することができるような対象であり、マーラーが彼の生きた時代と文化の制約の中で捉え、交響曲という形式に定着させようとした、世界について認識、主体についての認識は、今なお、適切な語彙による解明を待っている点に存するのだ。寧ろ、まだ我々はマーラーの作品をその複雑さと豊饒さに相応しい仕方で受け止めるための準備ができていないと考えるべきであり、「マーラーの時代が来た」という、最早使い古され、色褪せたコピーとは裏腹に、未だにマーラーの音楽は将来における解明を待つ謎なのである。(2012.11.11公開, 12.9加筆修正, 2024.1.2,7加筆, 2024.3.1加筆, 3.10加筆およびアトランの引用に原文を追加)
0 件のコメント:
コメントを投稿