これまで本ブログで断続的に実施・報告してきた、Webで公開されているマーラーの作品のMIDIファイルのデータを入力とした分析の続報として、「付加六は旋法性の現われか?:MIDIデータを入力とした分析続報:主和音形とその転回形・属七・属九・付加六の出現頻度分析」および、「2つの旋法性?:MIDIデータを入力とした分析続報(2):全音階・五音音階・全音音階を巡って」を公開しましたが、お読み頂いた方から、第8交響曲における五音音階性について確認のお問い合わせを頂きました。
第8交響曲は全音階的ではないかというご指摘で、お問い合わせ頂いてみて改めて記事を読み直すと、一つの理由として、2番目の記事のまとめにおいて、何らの注記なしに、第6,8交響曲について、「全音階-/五音音階+/全音音階-」という特徴づけをしたことがあると気づきました。ここでの整理は、あくまでも比較対象内の相対的な傾向を示すものであり、マーラーの作品の中では、全音階性が相対的に優越した前期作品とそれ以外の要素が相対的に優越した後期作品に分かれるという点を表したもので、かつ主成分分析結果のプロットの各象限を特徴づけるために恣意的に単純化した面があることは否定できません。全音階性は他の作曲家と比較した場合には寧ろマーラーを特徴づけるものですし、特に第6交響曲、第8交響曲については主和音形の出現頻度が下がっているわけではなく、全音階性を"-"とするのは明らかにミスリーディングでラベルとしては適切ではありませんでした。より適切なラベルに修正すべきかも知れませんが、適当なものが思い浮かばず、マーラーと他の作曲家の作品間の分類と併せ、属九和音優位というのを、飽くまでも今回の結果を要約するための便宜的なものとして採用して修正することとし、その旨を注記するとともに、分類の方も、主成分分析結果のプロットの各象限のラベルであることが明確になるように修正を加えました。
と同時に、一見したところ前期作品群への回帰の印象さえ受ける第8交響曲における五音音階性について、今回分析に用いたデータからわかることについて、個別に確認することは興味深い課題であると考え、改めて分析に用いたデータと分析結果の見直しを行い、更に、分析の元となった各拍頭毎・各小節の頭拍毎の和音パターン(ビッチクラスの集合)についても確認を行いましたので、その結果を以下に記します。
上記のような次第で、前の記事の訂正も本記事の執筆も、ご指摘をうけてのものであり、記事をお読み頂き、ご指摘とともに興味深い問題提起をして頂いたことにこの場を借りて御礼申し上げます。
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第8交響曲は、実は今回のデータについてだけ言えば、五音音階系の頻度が全交響曲中最大で、五音音階系2種(add6およびpenta)合計で、100拍につき8を超えます。次点は実は第6交響曲で、この結果には、この2曲のテクスチュアが分厚くて、厚い和音の頻度が相対的に高いという事情もあろうかと思います。特に「大地の歌」より割合が高いのはそのせいではないかと思います。最初の記事でも注記した通り、本分析での集計の仕方として、水平方向の旋律線にいわば「分散」しているものはカウントされず、あくまで垂直方向に同時に和音として響いているものだけを見ていることもあって、聴感と比べた時にテクスチュアが厚い方が高めに出る傾向があると思います。実は第6、第8とも属7和音形、属9和音形の頻度も高く、主和音形の頻度も当然のこととして他に比べて低くはないのですが、頻度の割合の相対的な比較ということになると、五音音階系の突出が際立っているという結果になっています。この点を踏まえれば、全音階性の+/-でラベルづけするよりは、他の作曲家も含めた特徴づけ同様、こちらも九の和音のような複雑な和音の優位として表現するのがより正確かも知れません。
第8交響曲を聴いた印象について言えば、私個人は第1部は全音階的、第2部は場所によって五音音階的な雰囲気が感じられることがしばしばあるというように感じてきました。従って第1部と第2部で傾向に違いがあるのだろうと思い込んでいたのですが、実は分析の元となった頻度のデータを見ると、両者に大きな違いはなく、いずれも五音音階系2種(add6およびpenta)合計で、100拍につき8を超えます。これは私自身、意外に感じた点です。理由を考えてみると、一つには第1部が、これも他の作曲家の作品と比べれば長大ではあるものの、マーラーの他の交響曲との比較においては、相対的には簡潔な印象さえあること、何より第2部がマーラーの作品中でも群を抜いて長大で、唯一1000小節を超える(あの第3交響曲第1楽章ですら875小節、第6交響曲のフィナーレでも822小節で900小節を超えることはありません)ことから、第2部のある部分で五音音階的なところが印象に残っても、全体の中での比率ということでは割合は大きくならない、つまり聴感は回数に拠る側面があると思われますが、ここでは割合を比較しているので、回数程は割合は高くないという事情もありそうです。
他方、この件に関連して少し確認してみたところでは、柴田南雄さんの岩波新書のモノグラフ『グスタフ・マーラー 現代音楽への道』(1984)での指摘に頷ける点が多いと感じます。柴田さんは第8交響曲について、第1部は第7のフィナーレの反映、第2部は「大地の歌」の予告と捉えています(同書, p.141)。この指摘のうち、前者は直観的には意外な感じもするのですが、そう思って振り返ってみると、前の記事で少しだけ触れたアドルノの「超長調」の指摘も恐らくは無関係ではないのだと思いますが、第7交響曲も総じて五音音階的な雰囲気はかなりあって、それはこれぞ初期交響曲の全音階的性への突然の回帰と目されることの多い(例えばマイケル・ケネディは『グスタフ・マーラー その生涯と作品』(中河原理訳, 芸術現代社, 1977)の中で、そこに「心を開いた陽気さがあり、「魔法の角笛」の素朴さへの、突然で極めて感動的な逆戻りがあ」ると指摘しています。(同書, p.189))、「悪名高い」ロンド・フィナーレについてもそのことは言えるのではないでしょうか。実際に頻度の割合のデータを見ても、五音音階系2種(add6およびpenta)合計で、100拍につき9.7強という、第8交響曲を上回る頻度であることが確認できます。第7交響曲全体の平均では5.4ですが、この曲は多様性に富んでいて、第3楽章の「影のような」スケルツォは2を切っていてこれがこの曲の中の最小、「超長調」の第1楽章は4.7、2つの「夜曲」はそれぞれ第2楽章3.6、第4楽章5.3なので、五音音階性に関しては、ロンド・フィナーレが極めて大きな寄与をしていることになります。つまり、前期作品の世界への回帰とは言っても、単純な逆行ではなく、五音音階性という後に繋がる傾向も併せ持っているということが見て取れるように思います。してみれば、柴田さんの第8交響曲第1部と第7交響曲第5楽章についての指摘は、こちらは五音音階性に陽に触れているわけではないのですが、その点についても妥当であるということが言えるのではないでしょうか。
一方第8交響曲第2部が「大地の歌」の予告という柴田さんの主張の方は、こちらはまさに五音音階性に関わっているのですが、特にその点について柴田さんが指摘しているのは2か所です。1つ目は少年合唱と女声合唱が入って、スケルツォ的な雰囲気に変わる部分(385小節、練習番号56のAllegro decisoからだと思います)。ここから「五音音階ふうのモティーフが時折、聞こえはじめる。」(柴田南雄, 上掲書, p.143)2つ目はずっと後、マグダラのマリア、サマリアの女、エジプトの女の三重唱(練習番号135 「とても流れるように、ほとんど急くように」以降)で、「この辺でも「大地の歌」を予告する東洋的異国情調の表現としての音音階を聴くことができる。」(同書, 同頁)と指摘されています。実際にデータを見ても、上記2か所は付加6が固まって出現する場所であることが確認できます。(余談ですが、特に後者を確認した時、エジプトやパレスチナもヨーロッパから見たら中近東、オリエント=「東洋」だというのを思い出しました。またゲーテも実は東洋への関心が強かったし、カトリックの聖歌でGloria Patriで終わる第1部はともかく、第2部はそもそもが東洋的な発想の影響が強いのではないかということも思いました。マリア崇拝自体、カトリックが浸透するに際して取り込んだ、基層の異教の信仰の名残なのでしょうし。)
ただ、私個人は上記2か所よりももっと決定的な箇所があると感じていて、それは大詰めの「神秘の合唱」の直前、練習番号199の、2/2に変わり、ハーモニウム、チェレスタ、ピアノ、木管とハープ、弦のフラジオレットによるやや飾り物めいた色彩のブロックがありますが、この手前とこの部分が一番顕著だと感じていて、実際にデータを眺めてもここも付加6が固まって出現する箇所です。楽器法的にも、チェレスタやハープの使用は「大地の歌」の全曲の末尾を思わせます。ピアノとハーモニウムが加わって、ちょっとコッテリした感じで、マイケル・ケネディはオーストリアバロックの教会の室内装飾を引き合いに出したり、クリスマスツリーの妖精を持ち出して批判的に指摘していますが(マイケル・ケネディ, 上掲書, p.201)ケネディの言わんとすることも良くわかるように思います。
また今回は和音パターン(ピッチクラスの集合)の分析なので、これは直接分析結果に繋がるわけではないのですが、例えば三重唱の旋律線の出だし部分はMater Gloriosaのモチーフと共通です。こちらはEs-C-B-A-Gで、これ自体は五音音階ではないですが、ちょっと変形すればそうなるし、和声付けの時にEs-C-Bという動機にEs-C-B-Gを裏打ちする箇所は、エキゾチックな雰囲気になるのではないか、というようにも思います。いってみれば、全音階的にも五音音階的にも扱えるということでしょうか?前の記事で参照したバーフォードのbasic shape(C-D-E-A-G)とも直接は一致しませんが、接点はあるように思います。実際、第2部のMater Gloriosaに因んだ箇所の旋律線はバーフォードのbasic shapeの変形と見ることができる要素を豊富に含むように思います。
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以上より、第8交響曲における五音音階性は「大地の歌」と比べても遜色ない程度には高く、第7交響曲のフィナーレがそうであるように、初期交響曲の全音階性への回帰の面とともに、後期作品の特徴の一つである五音音階性を含んでいる点で、単なる回帰には留まらない特徴も併せ備えていると言って良いのではないかと考えます。(2023.5.24公開、5.29第3交響曲第1楽章の小節数に関する誤記を訂正するとともに補足)
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