2002年4月30日火曜日

バルビローリのマーラー:第5交響曲・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1969)

第5交響曲は、かつてのいわゆる「マーラー・ルネサンス」において頻繁に取り上げられ、 今や代表曲の一つとして定着した感じがあり、演奏の数も録音の数も大変に多く、 すっかり「現代的な」演奏の型のようなものができあがった観のある曲であり、 それゆえこの演奏を最初に聴いた時には、ある意味ではあまりに「危なっかしい」 テンポの揺れ、とことん各声部が歌いきろうとするあまりにともすれば曖昧になる 縦の線に驚いたのだった。
しかし結論から言えば、この演奏はこの曲の最高の演奏、決定盤だと思う。 実際のところ、他の曲は他の演奏スタイルもありうるかと思わないでもないのだが、 この曲は(そして恐らく第1交響曲もだが)他の演奏を聴く必要がないと感じさせるような 説得力がある。バルビローリの演奏は、この曲の解釈の中では最も叙情的なタイプに 属するのであろうが、そもそもこの曲が構造的には借用しているベートーヴェン的な 構想がその実質においても実現されうると考える立場には私が懐疑的なこともあり、 音楽の実質に見合っているという意味でこれに勝る演奏はないように感じている。 (この曲は作曲技法の観点は措くとして、その実質においては寧ろ後ろ 向きで回顧的な色合いが強いように私は考えている。マーラー作品中のある種の折り 返し点、停泊地のような作品ではないだろうか。例えばブラームスやブルックナーと 比べるまでもなく、マーラーは精神的にはベートーヴェンの後継者でありえたかも知れないが しかし、実際にはその音楽の実質はあまりに脆いものだ。そしてその脆さは寧ろ晩年の シューベルトに通じているように思える。)そしてそれゆえ印象的な部分にも 事欠かない。例えば、第2楽章の終わりにまるでブロッケンのように浮かび上がっては 霞んでいくコラールの朧な輝き、描写音楽ではないかと思うほど強烈な雰囲気を 持つスケルツォのホルンパート、そして、バルビローリの常で決して停滞しない アダージェットの静まり返る瞬間に広がる空間。第5楽章冒頭の(多くの場合 アダージェットからのテンポの変化で片付けられてしまう)空気の変化の鮮やかさ、 そしてこれ見よがしに合奏能力を誇示することなく、寧ろ、冒頭の木管の音色の 変奏であるかのようなその後の経過など、枚挙に暇が無いほどだ。
勿論、この演奏の特に終楽章の解釈は今日的な、オーケストラの合奏能力を最大限に 発揮させるタイプのものとは全く異なるが故に、受け入れ難い向きも多いだろう。 一方で、他の演奏で何となく第5交響曲に違和感を感じたり、説得力の欠如を感じる のであれば、この演奏がその回答になる可能性があるように思える。

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