2002年4月30日火曜日

バルビローリのマーラー:第6交響曲・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967)

どうやら巷ではこの演奏はテンポの遅さと粘着質の表現が特徴ということに なっているようだが、しかし、私が聴いた印象では、今日風にデジタルにクリアな 演奏ではないというだけで、バルビローリの狙いは、悲劇的なドラマの拡大鏡的な 再現ではなく、音楽の叙情性をぎりぎりまで追い詰めることにあったように 思えてならない。例えば、第1楽章の有名なモットーの鳴らし方も、強弱の対比 よりも音色のコントラストの方にウェイトがあるように思われ、悲劇によって 喪われるものよりも、その後に残るものに関心があるということを窺わせる。
あるいはまた、バルビローリの演奏についてしばしば言われる、「フィナーレの弱さ」なるものも、 ある規範の下での判断としては一理あるのかも知れないが、バルビローリがこの音楽に 何を読み取ったのかを思えば無条件で首肯しがたいものがあるように感じられる。 否、心理的、内容的な側面を捨象した平面においてすら、ラッツ=アドルノの― ということは、近年までのこの曲の恐らくは大半の解釈が前提としていた―「フィナーレ交響曲」の 構想が、中間楽章の配置に対する前提の変更によって、更により本質的にはそれに伴って 生じる調性配置の構想の再考によって一体どのような変化を受けるのかを検討することなく 第3楽章アンダンテ型の演奏と性急に比較することに、私は疑問を感じる。 (同じことは、例えばレークナーの演奏にも言える可能性はあるが、レークナーの演奏に ついては、私は判断ができるほど聴いているわけではないので断定は控えたい。)
もっとも、バルビローリは恐らく、このスタジオ録音に関してはラッツの校訂版を少なくとも 参考にはしているようだ。というのもベルリン・フィルとのコンサートでの演奏とフィルハーモニア管弦楽団との スタジオ録音には、多少の違いが聴かれるからである。 それが最も顕著なのは、ベルリン・フィルとのライブでは打たせている3度目のハンマーが フィルハーモニア管弦楽団の演奏では削除され、改訂版のチェレスタが聴かれること だろう。一方で終楽章の407小節以降の8vaについては採用されておらず、 従って、ラッツの校訂版を使用しているとも言い難いのである。 実はこのスタジオ録音がLPでリリースされた折のレコードでの収録順序は、バルビローリの慣習に反して、 第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテであったらしい。この点に関するバルビローリの 考えは詳らかにしないが、スタジオ録音の場合、コンサートでの 演奏とは異なって、録音セッションの順序は必ずしも楽章の排列の通りではないし、場合によっては 部分的な取り直しをしたりする可能性もあるだろうから、 ここで論じてきたような流れが相対的に希薄になることは考えられ、従って、 スタジオ録音であれば、どちらの順序をも許容するような側面があるということは いえるだろう。(更に言えば、こうした順序の任意性自体をマーラーの音楽の特徴として 検討してみることもできるかも知れない。恐らくマーラーの交響曲をポプリと見做す 皮相な態度にさえ、全く根拠がないものとは言えないかも知れないのだ。)
だが少なくとも基本的にはバルビローリは第2楽章アンダンテ・第3楽章スケルツォの配置を前提に 解釈を組み立てているのだし、それによって生じる調性配置がもたらす音の地形の 眺望は、並行短調で開始されるフィナーレとの対照のために、アンダンテ楽章が しばしばアダージョ的にたっぷりと演奏される時のそれと異なっているのは明らかだろう。 だが、そもそもマーラーの指示はあくまでアンダンテ・モデラートなのだし、バルビローリの 場合には、アンダンテが、動機的に大変に似ている第1楽章とスケルツォを隔てる 間奏曲のような位置づけになっているわけで、その時にハ短調で開始される― アンダンテの並行調であることを考えれば、こちらもまた、ある意味で「再開」される と言ってもいいのではと私には感じられる―フィナーレの序奏部分―アレグロ・モデラートで イ短調が確保されるまでのブロックがどのように扱われるべきか、 繰り返し再現する序奏の扱いをどうするのか、とりわけ、ショスタコーヴィチに恐らく影響を 与えたに違いない、再現部でのブリッジ型の主題排列―序奏再現に続いて先に 第2主題が再現される―をどのように扱うかについて、そうした脈絡を無視した 判断をすることが妥当とは思えないのである。ごく図式的な言い方をすれば、 ラッツの読み取った構想に比較して、こちらは複数の「層」の交代、形式に亀裂を 入れる流れの不連続性が前面に出たものになるに違いないのである。 勿論、私はバルビローリの解釈は―ラッツ校訂の協会版を参照して、代替案との 比較検討を行ったとしても、あるいはそうでなかったとしても、―そうした全体構想に従って、 説得力ある仕方で組み立てられていると思うし、 単に意図の水準に留まらず、このスタジオ録音においても、ベルリン・フィルとのライブにおいても、 その意図は十分に実現されていると感じている。
実際、演奏様式はバルビローリ晩年のエルガーと同様のもので、縦の線がきっちりと 揃わないのを意に介さないほどまでに、個々のパートを歌わせようとするスタイルも 共通のものだ。つまるところこの音楽はとことん意識の音楽で、最期まで主観は 没落することなく、目覚めているのだ。音楽はついに世界のものになりきることなく、 主観を苛む悪意ある攻撃性に転化してしまうこともない。その点を看過してこの 演奏をいわゆる今日的な演奏と比較するのはあまり意味があることとは思えない。
一方、こうした演奏が今日可能なのかどうかと問うことは、勿論意味のあることだろう。 いわゆる熱演とよばれる演奏が、バルビローリにおいてそうであったような主観性の 擁護ではなく、一見似ていながらそれとは裏腹に、主観を責め苛む悪意ある暴力との 同一化を惹き起こしていないかと考えてみるのは必要かもしれない。そうした行き方に 対してはバルビローリのこの演奏は距離をおいたままであり続けるだろうと思われる。

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