1966年1月13日の演奏のライブ録音がCD化されたもの。モノラルであるが、既出の第2交響曲と
比較しても遥かに聴きやすく、私は気にならなかった。
この曲にはニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音があるが、それに比べて
推進力に勝った演奏だ。バルビローリは一般には粘液質の歌い方がトレードマークのように
思われているが、一方で音楽の進行については思いのほかストレートで、剛毅といってもいい
ような側面を持っている。この演奏は、その後者がよく現れているというべきか。
ただし、これはバルビローリの解釈の違いではなく、オーケストラの特性の違いに由来する
ものだと思う。勿論指揮者は、オーケストラの固有の響きを己の解釈を乗せる媒体として
最大限利用するわけで、バルビローリの解釈というのもその限りでは相対的というか、
流動的な部分が存在するが、この演奏はそうした幅のようなものをはっきりと感じさせる。
演奏は素晴らしい。大きなテンポの変化(マーラーの場合には特に顕著で、それに加えて管弦楽の
編成が大きいので合奏の精度はどうしても犠牲になる。でもこれは選択の問題で、
バルビローリは実演においても「安全運転」を取らなかったということなのだ。)、徹底したフレージング、
一つ一つの音に込められたニュアンスの深さ、どれをとってもバルビローリならではの特性の良く
現れた際立って優れた演奏だと思う。(とはいえ、繰り返し聴くには些かつらい事故もおきている。
例えば第1楽章、練習番号35から36にかけて―特にSostenuto, a tempoの変化とその後の
フレーズの頂点でのten.指示によるルバートが繰り返しかかる361小節にかけての部分などは、
アンサンブルが崩壊してしまっている。恐らく、テンポの変化に応じて振り方を変える可能性のあるところで、
客演ゆえにリハーサル時間が限られる限界が現れてしまったのではなかろうか。同様の、
テンポが変わる部分で振り方の変化の有無の判断に混乱が生じたとおぼしきケースは、
同じベルリン・フィルの第3交響曲のフィナーレなども聴かれる。それゆえ、こうした事故が気になって
観賞の妨げに感じられる人には、バルビローリの客演でのライブ録音はお勧めできない。)
第1楽章の展開部後半に置かれた、アドルノ言うところのSuspensionの表現は、これまで
聴いたどの実演にもまして際立っていて、音楽の持つ多層性というのを捉えていると思う。
テンポだけが変わるのではない。ひっくるめて「視界」が、照明が変わるのに応じて、
意識の流れが不連続に切り替わるのである。それは、形式原理からいけば、ある種の逸脱かも
知れないが、ここで音楽が求めているものに忠実ではないかと感じられる。
音楽がそうした逸脱を、不連続に断絶する経過を要求しているのだと思う。
第2楽章におかれたアンダンテは、例によって停滞しない。それは寧ろ自由に漂っている。
均質な意識の状態というのはなく、動機断片毎に固有の速度があるかのように、テンポは揺れる。
終曲間際、音楽は滑り出し、一気に流れてゆく、そして舞い上がったフレーズが旋回を繰り返しながら
着地する頃になって、流れもまたふと緩んで、静けさが戻る。その変化は壮絶な効果を持っている。
その後、第3楽章にイ短調のスケルツォが踏みつけるように進入してくるのもまた、そうした
アンダンテの道のりがあってこそ、一層戦慄的なのだ。
尚、第6交響曲については特にアンダンテとスケルツォの順序の問題について触れておくべきだろう。
どちらがマーラーの決定稿かという問題はおくとして、バルビローリの演奏における順序は
今日の標準とは異なり、スタジオ録音も含め、第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォである。
(スタジオ録音はリリースによってはこの順序を入れ換えた排列に編集しなおしたものが
存在するが、これは少なくともバルビローリの少なくともコンサートにおける解釈において
前提されている順序ではないのは確かなことのようだ。)
この順序の選択は、少なくともそのきっかけは、偶々バルビローリが参照した楽譜の
エディションがそうであったからという消極的なものかも知れないが、この楽章排列による
演奏は、逆の順序による演奏とその印象において大きな違いがある。(全集版で採用されている
打楽器パートの改変や、1907年1月7日にメンゲルベルクに書き送ったという第4楽章
407~414小節の弦パートの8va指示などにも従っていないことから、ここではバルビローリが
全集版を参照していない、という仮定にたって記述をした。ちなみにハンマーについても、
3度目を打たせているのがはっきりと確認できる。ただしエルヴィン・ラッツ校訂による
マーラー協会全集版の刊行は1963年であり、クロノロジカルには、バルビローリが全集版も
参照した上であえて第2楽章アンダンテの排列を選択した可能性もないとは言えない。
管弦楽法の修正の方は、パート譜の準備の問題もあるので、こちらはぐっと現実的な
判断をせざるを得なかっただろうと想像するのが自然に思えるが。
もしそうだとしたら、近年、マーラー協会がラッツの校訂をいわば「修正」し、楽章排列も
元に戻したことと考え合わせると、バルビローリがどのような理由により判断を下したか、
興味深いものがある。)
もともとの古典派交響曲の排列はアンダンテが先行するわけで、マーラー自身の構想の
方には、もしかしたらこの点についての意識が働いたのではと私は憶測しているが、
少なくともバルビローリの演奏においては、その事情はあまり関係がないように思える。
例えば、第1交響曲でもそうであるように、第6交響曲においてもまた、バルビローリはソナタ形式に
従って書かれた第1楽章の提示部反復を行っていない。もっともこれはマーラーに限った
ことではなく、より古典的な作品においても事情は同じであって、従ってそこには時代的な
傾向も与っているかも知れないが、いずれにせよ小説的な流れ、劇的な脈絡を
重視したバルビローリの解釈と提示部反復の省略は矛盾していないように感じられる。
それゆえ中間楽章の排列に関しても、寧ろ、心理的な流れとして、長調の第2主題素材により
終結する第1楽章の後に、遠隔調だが長調のアンダンテが続き、再びイ短調のスケルツォの後に、
アンダンテの並行短調のフィナーレ導入が来て、主部でイ短調に戻る、という調性配置の効果が
大きいように感じられる。通常排列のイ短調(コーダは長調)→イ短調→変ホ長調→ハ短調の
導入・イ短調の主部とは流れが全く異なることは明らかだろう。こちらの排列は、ラッツの校訂に
沿ってアドルノが賞賛した配置であり、こちらの「座りの良さ」を評価する意見も故なしとは
しないが、バルビローリの演奏は、ここでもまた、一見何時になく厳格な枠として存在しているかに
見えるソナタ形式からの逸脱を重視し、寧ろ枠がしっかりしているが故の断層に加わった力の大きさの
方により忠実なのだと思われる。
また、アンダンテ楽章のテンポ設定にも、楽章排列の違いが現れるに違いない。
それを心理的なものと考えるにせよ、様式的な把握の問題と見做すにせよ、
第2楽章におかれた場合の方が「軽く」、第3楽章におかれた場合の方が
「重く」演奏されることになる。(これは両方の排列いずれにおいても優れた演奏記録が存在し、
比較が可能なマーラー指揮者―例えば、クラウディオ・アバドの場合など―では明確に
確認できることだろう。)
バルビローリのテンポ設定は、明らかに第2楽章アンダンテの配置が前提となっている。
バルビローリのこの演奏は演奏会のライブであり、そうした調的な配置やテンポ設定による
流れはスタジオ録音に比べて一層はっきりしている。それゆえ第3楽章スケルツォの冒頭は、
ぞっとするような衝撃を持っている。その動機素材が第1楽章の冒頭と共通するだけに、
アンダンテ楽章を挟んで再開される効果には一段のものがある。
そしてスケルツォ楽章が不機嫌に沈黙した後、ハ短調でフィナーレが始まるのを聴くのは、
通常の排列でこの曲を聴くのとは全く異種の経験である。
スタジオ録音を自分で編集しなおして聴けばいいという意見もあるだろうが、
私個人としては、バルビローリの解釈というのはこの楽章排列が「前提に」なっている
ように感じられ、従って、その流れを自然に追うことができるこのライブ録音の価値は
極めて高いものがあると感じている。
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