1936年2月にトスカニーニの後任としてニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者の候補にあがったフルトヴェングラーが、 ヒンデミット事件後のナチスとの紆余曲折などの影響もあってのことであろう、ニューヨーク・フィル内部からあがった反対意見などに 嫌気して就任を断った結果、いわばピンチヒッターとして呼ばれたのがバルビローリであったが、ほんの四半世紀前にはマーラー その人が指揮をしたこのオーケストラに在任中にはバルビローリはわずかに第5交響曲のアダージェットのみしか演奏していないようである。 そのバルビローリがイギリスに戻ってからマーラーを「発見」し、マーラーにとってもバルビローリにとっても「古巣」であるオーケストラで マーラーを指揮したのは2回、1959年1月8,9,10,11日の第1交響曲と、1962年12月6,7,8,9日の第9交響曲であった。
1962年12月の公演のうち12月8日の演奏は放送用に録音され、その記録が残っている。モノラルで残響に乏しい録音だが、 演奏はニューヨーク・フィルの個性もあって、非常にユニークなものだと思う。まずもってベルリン・フィルと比べても、基本的な 技術水準においてひけをとらないだけではなく、ヨーロッパでは一旦途絶えかかったマーラー演奏の伝統を2度の戦争にも 関わらず継承し続けたオーケストラにとってマーラーの音楽が自分の手の内に入っていることを感じさせる、非常に安定感のある 演奏であることが印象的だ。トリノのオーケストラのそれや、別の曲でのハレ管弦楽団の演奏でのような、各声部が 歌いきろうとするあまりに縦の線が曖昧になることはここではほとんどなく、バルビローリ独特の徹底的なフレージングはそのままに、 寧ろ巨視的な流れの方を鮮明に浮かび上がらせるのである。アンサンブルの安定度はあちこちでマーラーに不慣れな ベルリン・フィルを凌駕しており、バルビローリが事前に準備したテンポの変動の設計の実現の点では、こちらの方が 優る部分も少なくないと私には感じられる。
バルビローリは情緒纏綿、カンタービレの指揮者というイメージがあり、勿論それは決して間違いではないのだが、決して即興的に 解釈を変えるタイプではない。一方で当然のことながらオーケストラの個性によって、解釈の実現の方はその都度変動する。勿論、ライブと セッション録音の違いもあるが、複数の異なるオーケストラによる演奏が残っている場合には、寧ろオーケストラの特性とあいまって 少しずつその個性のどの部分が現れるのかが変わってくることが多いと思うが、この演奏もまさにそうした点で印象的な記録で、 バルビローリの音楽の巨視的な流れの把握の卓越、大きな構造を見据えたテンポの設定が圧倒的な説得力をもたらす 顕著な実例たりえていると思う。
印象に残る部分は枚挙に暇がないが、思いつくままに例を挙げれば、第1楽章をソナタと見做した場合の提示部後半の Allegro moderatoのテンポ設計と末尾での句読点の打ち方の鮮やかさ、展開部の最初の部分の空気が徐々に 変わっていく感覚の生々しさ(142小節以降の バーンスタインがスル・ポインティチェロ気味にヴァイオリンを弾かせるあの部分は、だが、このバルビローリの演奏の方が 雰囲気に富んでいるように私には感じられる)、160小節あたりから一気に音楽が流れ始めるその変化の聴き手に 生理的・身体的に働きかけ、眩暈を起こさせるような激しさといった具合に音楽的なイベントがそれまでの脈絡から準備され、 予感され潜在的であったものが現実となる過程を克明にリアライズしていくいつものバルビローリの手際が、 この演奏では特に際立っている。楽章末尾の434小節のWieder a tempo (aber viel langsamer als zu Anfang)が、まさにこれだといったテンポの設定で第1楽章の音楽を停止にもたらすのに 立ち会うのは鳥肌が立つような経験である。ここでも単にテンポが変わるのではない。異なる層が露出して、 不連続に意識が切り替わるのだ。(突飛な連想だが、ここでのバルビローリの手つきは、エルガーの第1交響曲の 第1楽章を扱うそれを思わせる。幾つかの意識の層が交代し、潜ったり、浮かび上がったりするが、背景には 冒頭の流れがずっと伏在している。だがここではエルガーの場合とは異なって、最後に至って冒頭のレベルそのものが 更に括弧に入れられ、振り返られる。この音楽は元には戻らない。一つ上に上がって終わるのだ。これは回想そのものではなく、 回想する意識の音楽なのである。バルビローリに聞けば(第1交響曲コーダでのホルン奏者の起立に対してある評で 揶揄された折に投書によって返答したときと同様、)「マーラーの指示に従ったまでです」と答えるかも知れないが、 いずれの場合でも作品の核心をそれによって確実に演奏として実現しているのである。)
聴き手は音楽の聴取の裡に、まさに生きられた時間を経験するのだ。 それは単なる音響の継起などではなく、作品として記録された「生」、個別的な経験の追体験の如きものであって、 こうして録音記録という媒体を介して、聴き手は記憶の継承に与るのである。バルビローリの解釈は的確にそうした 個別的なものの記憶を生き生きと甦らせる点で際立っているが、この演奏や1959年の第1交響曲の演奏などは そうした点では最も印象に残る記録に数えられるだろう。更に言えば第9交響曲は第1交響曲と異なって、マーラーが生前、 それが現実の音として実現されるのを聴くことのなかった作品であり、大指揮者マーラーその人の解釈もまた 伝わらない。だが、事実関係からはマーラーの伝統の「外」に位置することになるバルビローリは、極めて意識的に、テクニカルに、 解釈という作業を通じて、記憶されたもの新たに経験しなおすことに成功している。「普遍的」という言葉を不用意に 使うのは慎むべきだろうが、バルビローリの解釈が何かを探り当てていることは確かだし、その方法と、その結果は、 もし用いるとしたら、「普遍的」という言葉に相応しいものであると思う。それは21世紀の極東の聴き手にすら 何かを確実に受け取ったと確信させるような類のものなのである。そしてそれは他の演奏について為されるような、 ユダヤの血を強調したり、ボヘミヤなり中欧なりの風土、ウィーンの音楽の伝統によって正統性を主張する挙措よりも、 その非正統性によって、マーラーの音楽のよるべなさに寧ろ相応しいとさえ言いたくなる程なのである。少なくとも そうした「伝統」を身体化していない私のようなアウトサイダーにとって、バルビローリの演奏は寧ろアクセスしやすい、生理的に わかってしまうような何か備えているように思われる。そして一見逆説的にも見えるが、恐らくはその受容の様態のギャップに 由来したものか、自分が属しているはずの日本のマーラー演奏の「伝統」の方がかえって私にとっては疎遠に感じられる程なのである。
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