1952年4月2日のラジオ放送のエアチェックのCD化。放送音源のCD化ではない。また第1楽章冒頭の
7小節ばかりを欠く。「買ったばかりのテープデッキを試してみようと偶々エアチェックしたのが
この放送であった」という「いわく」もあって、CDのリリース時には大変に話題になったようである。
私は歴史的な記録としての価値によりCDを収集しているわけではないので、そうした経緯から
当然の事として推測される音質への不安と、何より冒頭の欠如のため、記録以上の価値はない
ものとして聴くのを永らく控えていた。しかし実際にはバルビローリ協会編集の生誕100年CDが
その原則を既に破ってしまっている(その証拠にこのCDを聴くことはない)し、この曲目と
演奏者の組み合わせであれば、記録としてであれ持っている価値があるものと考え、入手して
聴いてみることにしたのである。
結果的には、それは私にとっては「単なる記録」を超えるものであった。確かにノイズもあれば
音とびと思われる箇所もあり、音質的には内容を判断するのに慎重にならざるを得ない程度の
ものだろうし、とりわけ極端に狭められたダイナミックスは、本来演奏が持っていたであろう
ニュアンスを大きく損なっている。
しかし、演奏は「子供の死の歌」に続く連作歌曲集としてのアプローチでは
際立って説得力のあるものであるに違いないと想像させるだけのものがある。バルビローリ・
ベイカー(バルビローリの「夢」におけるフェリアーの後継者である)による後年の
「子供の死の歌」から受ける感触に極めて近い、というのが私の印象である。(勿論、
この「近さ」は例えば歌唱の質について言われているのではない。音楽に対する姿勢や、
聴こえてくる音の成り立ちに、構造的な同型性のようなものを感じる、といった程度の意味である。)
ここでは東洋趣味は影を潜め、楽音はきっちりとした実質を備えていて、感傷からは程遠く、かつまた
陶磁器のような人工的な儚さとは無縁である。また、多くこの曲に期待される世界観や人生観
「というもの」、恐らく西欧のフィロゾフィーの訳語としてではない語義で日本語でしばしば
「哲学」とか「思想」とか呼ばれるものを読み取ることもできない。従ってこの音楽に、ユーゲント
シュティル的な異国趣味といった時代的な要素を欲したり、あるいはまた、自己耽溺的な主観の哀傷の
ドラマや、ある種の世界観の表明を読み取ることを望むなら、この演奏はその期待にはそぐわない
だろう。
ここにあるのは、過ぎ去ったもの、あるいはかつて起こり得たかもしれないものに対する眼差しで
あり、それが過ぎ去ったものであり、今や(子供の死の歌についでまたもや)「もはやかつての
ようではない」という認識の感受なのだ。最終曲の管弦楽の間奏はその断絶の意識そのもの
であるかのようだ。そして、断定は控えたいが、この演奏の終結部は、感覚的に聴き手を
どこか余所の場所に連れて行かないように感じられる。どこかに還りつくこともない。
(もう一度第9交響曲においてそうであるように)もう自分が何処にいるかもわからず、
でも最後まで主観は「ここ」にあって、もともと永遠であるはずのないもの、はかなく、とるに
足らないもの、かつて確かに見た、もの言わぬきらきら輝く眼差しに対して、そのもう戻らない
経験に対して、それでもなお永遠たれ、と願うのではなかろうか。
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