この演奏もまた、第7交響曲の演奏と並んで大変な名演としてその存在を知られていながら
ようやく最近になってBBCによりリリースされたもの。EMIがベルリン・フィルとの同曲の
ライブの販売を検討したため、このハレ管弦楽団との演奏が日の目を見る機会を喪った
というエピソードがリーフレットに記されている。実際にはベルリン・フィルとの
演奏もお蔵入りになり、結局はハレ管弦楽団とのこの演奏に些か遅れてCDになった
ようであるが。
この曲はその異形ともいえる構成にも関わらず(もしかしたらそれゆえにか)
今日的な名演に恵まれた名曲ということになっている。
(ただし、数少ない実演を聴いた経験からすると、第2や第7もそうだが、こういう
「風呂敷を広げたような」曲の場合、実演で説得されるのはなかなか難しい。
マーラーなら第9ですら難しく、一番間違いのないのは第6交響曲ではないか。)
実際に聴いてみると、名演の噂というのは偽りでないことがすぐにわかる。
第1楽章は「マーラー的な」ポリフォニーの実現という点では、これまでに聴いた
どの演奏にも勝る。技巧的にはよほど確実で危なげない整然とした今日の名演の数々と
比べて、自由に歌う各パートがぎっしりとひしめく様は些か異様ですらあるが、
その肌触りの確かさは格別のものだ。ここではバルビローリの運びの巧さは際立っていて、
もはや弁証法的な展開とは隔たって、かわるがわる立ち現れる音楽達が形作る緩やかな布置が
これほど自然に、有機的に立ち現れる演奏を他に知らない。
中間楽章においても、その音楽の今そこで生まれたばかりのような瑞々しさと、
模様の移り変わりの巧みさが際立っている。個々の楽章の性格的な描き分けや、
微細な細部のバランスとかにおいて、今日の名演がより勝っているという見方もあるだろうが、
その響きの手応えという点で、これだけ実質的な演奏を思い浮かべるのは難しい。
どういうべきか、一つ一つの音の持つ次元が遥かに豊かな感じがするのだ。演奏の精度や
場面の描写の克明さにおいては一歩譲ることがあっても、ある種の経験の質の把握において
勝っているように思えるのである。
第5楽章においては、中間部の照明の変化が鮮やかである。解釈が同じベルリンでの
ライブでもそうだが、単にテンポが変動するのはない。寧ろ、突然口をあけて広がる
深淵のような暗礁を目前にして、歌い方から響きの質まで変わってしまう、その変化の
図式の逸脱をものともしない鋭さは、よりクリアだったり、シャープだったりする
近年の演奏では、なかなか出会うことができない質を備えていると思う。
第6楽章のアダージョについても同じことが言えるだろう。感覚的な美しさにおいて
今日より優れた演奏は幾らでもあるし、アダージョという楽章の性格を踏まえてもっと
ゆったりと、時間が停止してしまうように演奏をするのが普通であろう。
バルビローリの常で、決して停滞しない、しかも頻繁に変わるテンポは、しかし決して
「平安に満ちて、感動的に」というマーラーの指示を裏切らない。足早やなコーダの
歩みも平安と感動に満ちたものである。この演奏は、音楽の実質が決して感覚的な
平面「にのみとどまる」ものではないという、多分今やアナクロニックと呼ばれるで
あろう「内面性」への確固とした信頼に満ちている。
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