LPでのリリースが知られていながらCD化されていなかったものをバルビローリ協会が 復刻したもの。1957年6月11,12日にハレ管弦楽団の本拠地であるマンチェスターの 自由貿易ホールで録音され、Pye Recordsからリリースされたものである。
この曲は、マーラー演奏が「普通」になる以前でも相対的に演奏・録音の機会が多 かったのだが、今日ではかえって取り上げられる頻度が減少している感すらある。 恐らくその音楽があまりにナイーブに過ぎて、耳がすっかり肥えてしまい、 マーラーに対してソフィスティケートされたスタンスで対することができる現代の 聴き手には些か気恥ずかしくも鬱陶しくも感じられるのがその理由ではないかと想像される。 或る意味では正当なことだと思うが、もはやこの曲が例えば第6交響曲や第9交響曲と 同列に論じられることはないかのようだ。
こうしてようやくCDで聴けるようになったバルビローリの演奏も、さながら時代遅れの 演奏の典型のように扱われるかも知れない。端的に言えば、マーラーがスコアに指示して いるブラス奏者の起立が違和感無く行われるタイプの演奏だ。ここでもバルビローリは、 マーラーの交響曲の小説的な脈絡を、心理的な流れを重視した演奏を行っている。 第1楽章提示部の反復もまた、バルビローリの常の流儀で採用されていない。
私はこの演奏を聴いて、昔聴いたアバド・シカゴ交響楽団の演奏のことを思い浮かべた。 これは大変に優れた演奏であったが、奏者の起立のような「スタンドプレイ」は凡そ 似つかわしくない、造形的で引き締まった解釈だった。勿論、第1楽章提示部の反復も きちんと行われていた。シカゴ交響楽団の演奏の精度は瞠目するものがあって、 有名な第1楽章再現部のあのアドルノのいう「突破」の部分の 音響的な鮮明さは特に印象的であったのを思い出したのである。 皮肉なことに、20年以上前の演奏を20年後に聴くことになったわけだが、 バルビローリの演奏のその「突破」の部分は(当然ながら)随分と異なっているようだ。 それは場面の転換・視界の変容というよりは、ある種の眩暈のような、より身体的な 事象のように感じられる。
けれども、バルビローリの演奏の頂点は明らかにフィナーレの、あの「突破」の再現と それに続くコーダにある。演奏の精度や録音技術の限界を超えて、むき出しで飼い馴ら されていない力を感じさせるその音楽は、恐らく、晩年にニューヨークでこの若書きの 自作を指揮した作曲者自身が聴き取ったそれに通じるものがあったに違いないと 思わせるものを持っている。第9交響曲のようなエピソードに彩られているわけでも ないし、第6交響曲のように目立った特長もない、そして楽曲のあまりの素朴さの代償に 色々と施されるかもしれない細工もない演奏ではあるが、にもかかわらずこの演奏は ある種の極限であって、必ずしも出来の良いとは言えないこの作品の理想的な解釈で あるように思える。もうこの曲を頻繁に聴くこともないのだが、この曲に関しては この演奏があれば充分、他の演奏を敢えて聴こうとは思わない。
なおこのバルビローリの演奏で興味深いのは、1957年の録音にも関わらず第4楽章冒頭の主題提示の
開始部分でトランペットによる補強が確認できることである。これは全集版での演奏が定着した
現在では当然のことのように思われるかも知れないが、1906年版では存在しないし、従って全集版
以前の演奏では木管とホルンだけで演奏される場合も珍しくないのである。
同じことは練習番号56番からのホルンの旋律の補強が全集版によっているように聞こえることからもいえるだろう。
バルビローリの演奏でもう1点興味深いのは1906年版にない練習番号44のシンバルの一撃が採られているだけでなく、
その3小節前の頭拍にもシンバルが打たれているのが確認できることで、これが使用楽譜によるのか、
「現場の判断」によるのかはわからない。いずれにせよそうしたところにもバルビローリの準備の入念さと
解釈の徹底が窺えるし、それは実現された演奏の比類ない質に貢献しているに違いないのである。
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