2005年7月31日日曜日

マーラーと永遠性についてのメモ

永遠を欲するのは、作品自体でもある。マーラーの時代、録音・録画の技術はまだその黎明期にあったから、 彼の指揮者としての営みは、エフェメールなものであるという宿命を帯びていた。恐らくマーラー自身、そのことに自覚的だっただろう。
では作曲はどうなのか?

マーラー自身は自身の担体としての有限性に自覚的であったし、それだけになお一層、自分を介して生まれてくる作品が、 自分の死後も残ることに拘っていたように思える。そして、実際、永遠を欲するのは人間だけではない。 ミームとしての作品もまた、なんら変わることはないのではないか?

マーラーは、自ら何かを語りたくて作曲をしたのではない。勿論、語るべき何かが己の裡に存在していることへの自覚はあった。 だが、それは「私が語ること」ではない。マーラーが不完全な直観から捻り出した陳腐な標題すら「何かが私に語ること」なのだ。 マーラーその人は、ある種の媒体に過ぎないことをはっきりと自覚している発言も残されている。そしてまたシェーンベルクの第9交響曲に関する コメント、即ちそれが非人称的で、主体はそこでは「メガホン」でしかない、と言っている言葉は比喩などではなく、「文字通り」に受け取られるべきなのだ。

微妙なのは、こうした姿勢が、マーラーが職業的な作曲家でなかったことと無関係ではなさそうなことだ。 職業的な作曲家なら、もしかしたら語るべき何かが己の裡になくても、委嘱を受ければ、あるいは生活の糧を得るために、曲を書くだろう。 勿論、「集団的主観」の方は、そういう作曲においても健在であって、同じように観相学が成立すると言ってよいのかも知れない。 けれども、主観的な契機や衝動を欠いた作品は、それを経由する個人が希薄であるが故に、そしてそれが何かの社会的な目的や機会を意識している割合が大きいゆえに、逆説的にそうした「何か」の声を、つまり「集団的主観」の語りかけに関して貧弱である可能性が高いということにはならないだろうか? マーラーは無意識にその危険を感じていたのかも知れない。耳を澄ます自由を得るために、マーラーは職業として作曲を行わない。

いつでも歴史は敗者のものではなく、勝者のものであるがゆえに、文化のドキュメントは同時に野蛮のドキュメントである、というような考え方は、ベンヤミンに由来するものであったか、それともアドルノに由来するものであったか?(レヴィナスもまた、作品と歴史に関して類比して検討することが可能なことを語っている。)

マーラーの不思議は、ユダヤ人であることの疎外はあったかも知れないものの、彼が生涯を通して、ほぼ一貫して勝者であったにも関わらず、敗者のための音楽を書いたように思われるという、逆説的な状況にある。 一方で、マーラーの音楽をはしたない、みっともないものとして拒絶する態度が存在する。マーラーその人にもどうやらあったらしい自己劇化、「私の声」を大管弦楽を用いて表出することに無節操を感じる人がいるのは別段不思議でもなんでもない。 けれども、決して「立派」とはいえないその内容の語り手が、ウィーンの宮廷歌劇場に君臨した監督その人であることの落差の方が私にとっては大きい。

要するに、歴史に残ったからマーラーが勝者である、という以前に、すでに生前のマーラーは勝者の側にいた、というのが客観的な事実ではないか。 歴史の審判が劇的な逆転を演出し、生前不遇であった天才を一躍、勝者に仕立てたというストーリーは、マーラーの場合には全くあてはまらない。 確かに指揮者としての成功に比べて、作曲家としての成功は全面的とまでは言いがたいだろうが、少なくとも第2交響曲、第3交響曲、そして何より第8交響曲は掛け値なしの成功を収めている。こういう言い方は、これはこれで公平を欠くし、不謹慎の謗りを免れないだろうが、マーラーの生涯の悲劇と呼ばれているものだって、一歩距離をおいてみれば別段、異常なものではない。彼の生きた時代が、例えばその直後のヴェーベルンや、さらにその後のショスタコーヴィチに比べて、遥かに平和な時代であったことは否定しがたいだろうし、幼年の兄弟の早逝、長女の死、妻の不倫、自分の病(誤診であったというのが通説になりつつあるようだが)の自覚、それらは勿論、経験したものにとっては悲劇に他ならないとはいえ、あえて言えば、特に異様で常軌を逸した出来事とは言えないだろう。

もっとも、マーラーの音楽は決して個人の悲劇についての音楽ではない。
マーラーの音楽に固着しているといって良い、悲劇と厭世のイメージはさすがに最近は色褪せてきたとはいえ、なかなか根強いものがあるようだが、例えば第6交響曲を聞いて感じるのは、寧ろ強烈な活力の方で、人によっては、その力の氾濫に閉口するのではないかと思えるくらいだ。悲劇と同じくらい、個人の方も適切でないのは、例えば角笛歌曲集を聴けば明らかだ。否、交響曲においても、語り手と登場人物の分離は明らかであって、これを体験記のように受け止めるのは無理があるだろう。 だから問題は、勝者であるマーラーが何故、弱者を主人公とする小説のような交響曲を、あるいは歌曲を書いたのか、という構造をとるというのが正しいだろう。

だが、多分実際にはそうした観点はそもそも全くの見当違いなのだろう。
世間的にみて勝者であることと、個人の心象は別のものであるし、その経験が(他の人間でもしばしば経験することであるという点で)ありふれたものであるというのなら、それは個人的な経験への沈潜が普遍的なものに転化する契機を形作っているというように考えるべきなのであろう。 私は、マーラーの音楽が歴史上の重要な出来事を予言したといったような捉え方には全く共鳴できないし、一方でマーラーの音楽が扱っている経験があまりに卑小であるが故に、それを大管弦楽を用いて音楽に形作ることをはしたないことだとも思わない。 そもそも、オペラにせよ、歌曲の詩にしろ、あるいは標題音楽のプログラムにしろ、そんなに高尚で立派なことを扱っているとも私には思えない。 問題なのは勿論、素材ではなく、形作られた音楽の方なのだ。

けれども、何故マーラーがこのような音楽を、という謎がそれで解けたことにはならない。歴史のドキュメントは野蛮のドキュメントであるとしたら、歴史の審判を生き延びた(ように少なくとも今のところは思われる)マーラーの音楽における野蛮とは何なのか、に対する答も出ていない。 マーラーの音楽は弱者の音楽「だから」、決して野蛮なわけではない、という論法も、あまり説得力があるようには感じられない。 (野蛮を暴力と読み替えれば、これはレヴィナスにも通じるテーマだ。どっちみち暴力なしには済まないのか?だとしたら「ましな」暴力というのがあるのか、などなど、、、)

マーラーの音楽には、慰めがある。結局生きる勇気を与える音楽なのだ。
聴き手を癒し、生きる力を取り戻させる音楽。 そして、どこかでこの音楽は永遠を信じている。 こどもたちはちょっと出かけただけだ、、、この音楽が永遠を信じる仕方はちょうど、そういうような具合なのだ。そのように、単純で素朴な仕方であたかも忘れ去られていたけれども、気付いてみたらまるで当たり前のことであるかのような自然さ。 それは勿論、幸福が仮象に過ぎず、生は結局有限に過ぎないという意識に裏打ちされている。そういう意味では、この音楽は信仰の産物ではない。 一見して矛盾しているようではあっても、生の有限性と、永遠を信じることとは両立するのだ。

作品自体が投壜通信のごときものだからなのだろうか? この世の成り行きの愚かしさ、情け容赦無さに対するあんなにシビアな認識にも関わらず、あの辛辣極まりないイロニーにも関わらず、何故か、子供のように単純な永遠性への確信は損なわれていないようなのだ。

その懐疑の深さと、現実認識の透徹と、永遠性へのほとんど確信めいた憧憬。その共存は私には、あるときには耐え難い矛盾に感じられるし、 別の時には、その両極端に引き裂かれた意識のありように深い共感を感じずに居られない。

100年が経ち、意識を、生命を、永遠性を巡っての風景はかなり変わってしまった。
進化論は洗練され人間の存在を盲目的なシステムの試行錯誤の産物であり、それは生存のための戦略として取りうる選択肢の一つに過ぎないことが 明らかになった。目的論的なパースペクティヴの遠近法的な錯誤が明らかになり、人間は己が進化の力学系の中の単なる通過点に過ぎないことを 自覚することになった。

一方で心や意識は、行動主義的な括弧入れを経て、いよいよ御伽噺の対象ではなく、科学的な検討の対象に なった。神経科学的な知見は意識が如何に頼りない生物学的基盤に依った儚い存在であるかを明らかにしたし、人工知能研究によって、知性や意識に ついての意識の自己認識は一層深まった。

現代ではマーラーの「世界観」は時代錯誤な骨董でしかない。それに気づかずに、それによって生じるギャップを我が事として引き受けずに、まるで 自分が時代も社会的文化的環境も超越したかのようにその音楽を聴くことができる人も恐らくは居るだろう。否、それどころか、音楽を評論する場では 寧ろそうした姿勢の方が優勢であるかのようだ。そうした距離感がないまま、マーラーを同時代人のベッカーが論じたような「世界観音楽」として捉えられると する立場がどうしたら可能なのか、私には見当がつかないのだけれども。

けれどもだからといって、マーラーの音楽の一見したところ力を喪ったかに見える側面、すでに50年も前にアドルノが懐疑の眼差しを向けたあの 肯定的なものが、全くの意義を喪ったと断言することもまた、私にはできない。ショスタコーヴィチの晩年の認識の方が遙かに自分にとって違和感のない ものであるとは感じつつ、マーラーの音楽の反動的なまでに素朴な、だけれども堅固で決して損なわれることのないようにみえる心の動きが、 冷静に考えれば、あるいは客観的にはそれが「思い込み」に過ぎないものであるとしても、私にとって「不要なもの」とは言い切れないのだ。

風景の変化に無関心であることはできない。だけれども、意識が己の有限性を意識した時に一体何を為しうるのかという問いは、既にマーラーのものであったし、 その問題が解決されることはない。なぜならそれは社会的なものである以上に、生物学的なものだからだ。マーラーの音楽はそうした意識の自己反省の 産物であり、その作品はそれ自体、世界観の表明である以前に、かつまたそうである以上に、そうした自己参照的な系なのだ。私はそこに社会が 映り込む様を見たいとは思わない。そこにマーラーが生きた社会が反映していること自体は間違いではないだろうが、私が関心があるのは結局のところ そうした映りこみを可能にした、と同時にそうした映りこみによってもたらされた主体の側の様態の特殊性にあるからだ。

クオリアに拘り、主体の様態に拘ること、マーラーの音楽を「意識の音楽」「主体性の擁護」として捉えることは、かの「主体の死」の、主体概念の解体の 後に如何にして可能なのかという問いには、確かに傾聴すべきものがある。風景の変化に無関心であることはできない、というのは、そうした主体性への 懐疑の過程と結果を、まるでなかったかのようにマーラーを聴くことはできない、ということなのだ。だけれども、そうした主体概念の問い直しの後に、この私に、 儚くちっぽけな意識に一体どのような展望がありうるのかを問うことは可能だし、少なくとも私はせずには居られない。そして実際のところマーラーこそ、 そうした「主体の死」を引き受けて、その上で何を為しうるかを示した先駆ではなかったか。意識は擁護されねばならない。なぜならそれは取るに足らない、 あまりに儚いものだからだ。

例えばバルビローリの第9交響曲の演奏から聴き取ることができるのは、そうした認識であるように思える。この演奏に対して、 今日の演奏技術の高さや、マーラー演奏の経験の蓄積をもって、あるいはまた、録音技術の進歩をもって、かつて持ちえた価値は既に喪われていると 評価するような意見は、音楽の、そして演奏のもつ個別性をどのように考えているのだろう。否、他人のことはどうでもいい。少なくとも私はこの演奏にこそ、 意識自身による己れの儚さと有限性に対する認識と、それゆえ一層切実でかつ説得力に満ちた擁護を見出すのだ。 ここにはマーラーが書いた音楽の実質と、バルビローリの解釈の志向のほとんど奇跡と呼びたくなるような一致がある。 バルビローリとベルリン・フィルのこのかけがえのない記録の特質は、音楽への主観的な没入ではなく、冷静な認識に媒介された深い共感の質の例外性 にあるように思われるだ。そしてそれゆえ、この演奏を聴くにあたって必要なのもまた同じ、瞬間の音響に埋没することない、音楽の構造についての把握と、 まさにそれによって可能になる、音楽が提示する或る種の「姿勢」に対する同調なのではないか。

そのような「感受の伝達」の連鎖は可能だし、それなくして音楽を聴くことに如何程の意味があるとも思えない。ここでは音楽は娯楽ではないし、 演奏を聴き比べて、巧拙を論じ、評価の序列付けを行う批評的な聴き方は、私がこの演奏に接する際には最も疎遠なものだ。 ここでは音楽を聴くことは、まさに自分の(無)起源を認識する行為に他ならないのだと思われる。(2005.7/2007.12)

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