アドルノのマーラー論は全編にわたって具体的な楽曲への言及がされているが、
それらは全て注の形をとっている。そしてその指示は、アドルノが参照した研究用スコアの
ページとページ相対の小節数によっている場合が多い。この方式の問題点は、
アドルノが参照したものと同一の版でないと指示している場所が確定できないことである。
(練習番号で指示がされている場合もあり、こちらは版に拠らないので問題はない。)
実際には、訳注で述べられている通り、第4交響曲の場合が問題で、現在一般に使用されている
マーラー協会による決定版は1963年の出版で、1960年出版の著作を執筆するにあたって
アドルノが参照した旧版と組み方が全く異なるようだ。そのため、旧版を参照することが
できなければアドルノの本文の言及から対応箇所を推定するほかない。この作業が
必ずしも常に容易なわけではないのは、訳注に書かれている通りである。
私はただの(しかも実際にはそんなに熱心とはいえない)聴き手に過ぎないのだが、
それでもなお、アドルノの文章を読み、マーラーの楽譜を対照した限りで、新訳の訳者と
異なる見解に達した場所が幾つかあったので、それをここに記載したい。
ただし私はアドルノにせよ、マーラーにせよ専門の研究者でも専門の演奏者でもないし、
自分の見解の正当性を殊更に主張するつもりは全くない。勿論、画期的な訳業である
新訳にけちを付けようとしている訳では全くない。新訳はアドルノに対する理解に基づいた
原文の解釈を背景とした仕事であるばかりか、別のところで書いたように、移動中の
電車の中で読めるほど日本語としてこなれた翻訳なのである。私も含めて多くのマーラー音楽の
聴き手が、訳者の解釈を通じてアドルノの主張をようやく把握できるようになったわけで、
こうした優れた翻訳なしには、ドイツ語が不自由な私のような人間がアドルノの考えに接することなど
不可能なのである。しかし一方で、それだけに、他のところでは明晰な新訳を読まれて、
私同様、第4交響曲に関する部分について、戸惑いを覚える方がいらっしゃるのではないかと
想像される。本項はそうした場合に、新訳の読者が自分で検討を行う一助になること、かつまた
私の疑問や勘違いを公表することで、マーラーを、またアドルノを良くご存知の方の
ご教示を乞いたいと考えて公表することにしたに過ぎない。寧ろ、これは新訳の訳者があとがき
で奨められている「対峙」の(不十分な)試みの記録であり、グループで討論することの
できる環境にない人間が、その代わりにそれを公開するのだというようにお考えいただけるよう
御願いしたい。
以下、各章毎に訳書のページをまず掲げ、対照の便を図るために括弧の中に手元にある
原書(Taschenbuch版全集第13巻による)のページを掲げる。その後で私の見解を記述し、
それが訳書と異なる場合には、それを記載した。利便のために、見解が異なる箇所については、
その箇所をボールド体にすることにした。一読していただければ明らかな通り、解釈の違いは
箇所としてはわずかなものだが、その中には文章の解釈そのものに関わる部分も含まれる。
従って、単にアドルノが参照した楽譜にあたって、原注の対応箇所の記述のみ修正すれば
ことたれりというわけにはいかないと考える。(もしそうであれば、そうした文献にあたれる
方が調査をされた結果があれば十分であり、本項はわざわざ推測に推測を重ねる愚を犯して
いることになるだろうが。)
なお、厳密には注による楽譜の言及がない箇所でも第4交響曲について言及されている
ケースはあるが、とりあえずそれらは対象外とする。
I.天幕とファンファーレ
8頁(154頁)、原注(3):第4楽章17,18小節。ここは歌詞への言及があるので曖昧さはないだろう。
13頁(158頁)、原注(13):第2楽章練習番号11(254小節)。訳書では注の位置が間違っていて、
アドルノの言及している"Sich noch mehr ausbreitend"という指示との対応がとれないためか、
訳書では小節数の同定がなされていない。
III.性格的要素
60頁(193頁)、原注(1):第1楽章練習番号7(91小節)。参照箇所として第1楽章323小節。前者は
練習番号があるし、後者は"Ruhig und immer ruhiger werden"という指示が手がかりになるので、
曖昧さはない。
61頁(193頁)、原注(2):第3楽章62小節、および67小節。前者は"klagend"と指示された第2主題の
前半を、後者は"singend"と指示された後半を指示しており、曖昧さはない。
73頁(203頁)、原注(18):第1楽章126小節。練習番号10の1小節後と書かれていて曖昧さはない。
74頁(203頁)、原注(19):第3楽章78小節。練習番号3の2小節前から始まると書かれていて曖昧さはない。
74頁(203頁)、原注(20):第1楽章225小節、アウフタクトを持つトランペットのファンファーレを
指していると素直に考えるべきではないか。これはまさに第5交響曲冒頭のファンファーレそのもの
であり、その後の中期交響曲とカフカの巣穴の地下道のように結びついているという指摘とも
対応する。訳書の解釈はクライマックスである練習番号17より前の216小節だが、思うにこれは、
(漢数字で記載されているがゆえの、226小節の誤植である可能性を除外するとしたら)
訳書75頁末近くのファンファーレについての文章を考慮してのことと忖度される。(Eine Fanfare
nun ist nicht weiter zu entwickeln; nur zu repetieren, ...)ここを前の文章との繋がりなどから
原注23の「故意に子供じみた、騒がしく楽しげな領域」(absichtsvoll infantiles,
lärmend lustiges Feld)の再現部での繰り返し(原注24)についての記述と考えれば、
そこで「それ以上展開しようがなく」「ただ繰り返されるだけ」のファンファーレというのは、
その「領域」で奏されるもので、かつ再現部の繰り返しでも繰り返されるだけのものでなくては
ならないからだ。しかしそれでも、216小節のどのパートの音形がファンファーレと呼びうるのか、
あるいはそれが第5交響曲に見られるのか、私にはわからないし、再現部の繰り返しで216小節に
相当する257小節は寧ろ、移行部(第1楽章練習番号2)との親縁関係を証言する部分であって、
ファンファーレの記述とはやはり一致しないように思える。私見では訳書75頁末近くの
ファンファーレについての文章は、その(実際には存在しない)再現についてではなく、
展開部の末尾の、再現部への移行に現れるそれ、つまり上記の225小節以下のファンファーレそのものの
ことを述べているのである。ファンファーレというのは「一般に」そもそも展開しようがなく、
繰り返されるほかないし、実際、この第4交響曲第1楽章の展開部末尾のみならず、第5交響曲
第1楽章においても、否、マーラーのその他の交響曲のファンファーレについてもそれは言える
のではないか。
75頁(203頁)、原注(21):第1楽章20小節の第1,2クラリネットと第1,2ファゴットによって奏される音型の
ことを指しているのであろう。訳注では第25,27,29小節を指定しているが、その後の対応する
第94小節のチェロの音型と第95小節における解決(原注22については正しい箇所を
参照している)についての言及などを考慮した結果、私の見解は異なる。従って「クラリネットとファゴットの
うち1つが即興的に奏される。」という該当部分の訳も少なくとも楽譜とは辻褄があっていない。
(もっとも、この箇所の訳については、仮に原注(21)の指示が訳注どおりとしても楽譜との辻褄の
問題は残ると思うが。「(主題複合のうちの)一つがクラリネットとファゴットによって即興的に奏される」
とでも訳すべきなのではなかろうか。)
75頁(204頁)、原注(22):第1楽章95小節。上述の通りであり訳注が参照している箇所を指していると考える。
75頁(204頁)、原注(23):第1楽章209小節、練習番号16。練習番号指定があるので曖昧さはない。
75頁(204頁)、原注(24):第1楽章251小節、練習番号19。同上。
75頁(204頁)、原注(25):第1楽章32小節、練習番号2。同上。なお原注20についての記述を参照のこと。
この脈絡で問題になるのは、訳書75頁から76頁にわたる文章の意味するところであろう。
「遠く離れたものを暖め直」(ein weiter Entferntes aufzuwärmen)すというのは、
単純に32小節を再現することも含め、いわゆる型どおりの再現部を形作ることを意味しているのであろう。
次の「展開部で充分に示されたものをむなしくただ繰り返すだけの力動性をもう一度再現部で動かす」
(in der Reprise abermals eine Dynamik anzudrehen, welche die sehr ausführliche der Durchführung
vergebens nur duplizierte.)というくだりと、それに続く甘んじて選ばれた「不規則性ゆえに
印象の強い同一性」(durch Unregelmäßigkeit eindringliche Identität)というのは、
「故意に子供じみた、騒がしく楽しげな領域」の再現部における繰り返し、
つまり原注24で指示された箇所のことを言っているように思われる。要するに、単純な再現もありえないが、
実に念入りな展開部がファンファーレでいわばご破算にされてしまい、展開のダイナミズムが堰き止め
られてしまったからには、しばしばあるように再現部を第2の展開部として更なる展開を行うわけにもまた
行かない。そこで、ほんの数十小節しか離れていないのだが、展開部の終わり近くで扱った、移行部の
素材の変形を、もう一度嵌め込んでみた、というふうに考えているのであれば、私の聴取の印象とも一致し、
実に的確な指摘であると思うのだが。
76頁(204頁)、原注(26):第1楽章239小節、練習番号18。練習番号指定があるので曖昧さはない。
76頁(204頁)、原注(27):第1楽章6小節。訳注は17小節から21小節を指示しているが、アドルノの指定
通りかどうかをおけば、訳注の指示している箇所の方が参照先としてはより適切のように思われる。
しかしながら、アドルノの指定は他の注での参照箇所との整合性などを考えれば、主題の最初の提示に
おける対応箇所であるのはほぼ間違いがないと思う。
78頁(207頁)、原注(29):第1楽章9小節。ホルンが高音で旋律を吹き、かつアウフタクトを伴うということで、
確実だろう。
79頁(207頁)、原注(30):第4楽章105小節~111小節。歌詞による指示なので曖昧さはない。
79頁(207頁)、原注(31):第1楽章340小節。「第1楽章のコーダ」(der Coda des ersten Satzes)で
「最後のグラツィオーソ・アインザッツの前の「非常に控え目に」という記号のついた3つの四分音符」(die drei
"sehr zurückhaltenden" Viertel vorm letzen Grazioso-Einsatz)とあれば、確実であろう。
寧ろこの部分で気になるのは、「パロディーで有名な」(durch Parodien berühmte)という形容である。どの(あるいは誰の?)
パロディーでどのように有名なのか、この箇所がパロディーの対象になっているのか、それともこの箇所自体が
何かのパロディーなのかも含め、私にはよくわからない。ご存知の方がいらしたら、是非ご教示いただきたい。
IV.小説
92頁(216頁)、原注(7):第1楽章99小節~101小節。練習番号8の前という指示があり、曖昧さはない。
V.ヴァリアンテ-形式
120頁(237頁)、原注(5):第1楽章5小節。訳書では3小節となっている。確かに主題そのものは3小節から
から始まるが、後述のように、ここで問題のジョーカー動機、ヴァリアンテの対象となるオリジナルの部分と
いうのは5小節の部分に限定されると考えられるし、他の参照箇所との整合性から考えても、ここでは
アドルノは5小節を指示していると考えたい。
120頁(237頁)、原注(6):第1楽章9小節。「その最後の音形」(Sein Endglied)とは、5小節の後半の16分音符の音形であり、
これの変形が出現する箇所だから確実と思われる。ただし、後述のように、原注7の指示している箇所の
ことを考えると、この変形は例えば11小節のバスの音形をも含めているかも知れない。
120頁(237頁)、原注(7):第1楽章13小節。訳注では9,10小節としている。私見ではこの部分には2つの問題が
ある。まずは簡単な方からいくと、原注の翻訳についてだが、"zweites System, Takt 3"が「第3小節、後半」に
なっていて、原文を確認するまで、どういう意味なのか理解できずに困惑した。他の章の原注の翻訳では、
「第2部分」(VIII.原注51他)のように訳されていることもあれば、「後半、第3小節」(VI.原注(4))のように
なっている場所もあり、統一が取れていないが、それぞれ意味は誤解無くとれるのに対し、いずれにせよ「第3小節、
後半」では素直に訳書を読めば、全く誤解してしまいかねないと思う。Systemというのはここでは勿論、鳴っている
楽器が限定されている箇所で、スコアが1ページ内で複数ブロックに折り返されることがある、その1ブロックのことを
言っている。
次に見解の違いについてだが、これはどちらかといえば、原注5から始まり、原注11まで続く一連のヴァリアンテの
技法の例示のうち、特に訳書120頁に相当する前半部分の解釈の問題である。
まず、細かいが、「下属音に伴われている」(von der Unterdominante)のは主題ではなく、ヴァリアンテの対象の「部分」でなくては
ならない。(これ自体は当たり前のことなので、別にどちらでも良さそうなものだが、この後の解釈の違いに
基づくものであるかも知れないので、特に注記することにする。)
次に「その上に第1のヴァリアンテがすぐに続く。」(eine erste Variante folgt unmittelbar darauf.)が、9小節から「すぐに続く」のだから、
9,10小節のことと解釈されているが、これには疑問がある。この文脈ではオリジナルは5小節、第1のヴァリアンテは
13小節、第2のヴァリアンテは15小節のことなのだ。それは、少し後の「このようにして、最初のヴァリアンテ
においては強められる傾向と弱められる傾向とが互いに交錯している。第2の2小節後のヴァリアンテでは、明白に
緊張感の中でこの両者の傾向の均衡が図られる。和声の一時的転調は、原調とは異質なバスの変ロ音、すなわち
強い二度上声音でより強められる。」(In der ersten Variante wirken demnach eine verstärkende und eine abschwächende
Tendenz gegeneinander. Die zweite, zwei Takite später, sorgt für deren Ausgleich in entschieden fortschreitender Intensität.
Die harmonische Ausweichung wird stärker durch den tonartfremden Baßton b, eine kräftige Nebenstufe.)
の箇所から明らかである。そして、原注7の箇所から、上記の箇所までの
記述はひたすら第1のヴァリアンテ、即ち13小節についてだけ書いているのではないだろうか。従って、
原注7の後の「それは次の小節のはじめも下属音に触れるが、すぐに第2小節でイ短調...へと一時転じる。」には
同意できない。訳文は原注7が9,10小節である以上、恐らく10,11小節か、11,12小節のことを指していると
いう解釈なのだろうが、これも楽譜を参照して考えて納得できず、止む無く原文にあたった箇所である。
「次の小節のはじめ」というのは原文では"...auf dem guten Taktteil"であって、単にその
小節の強拍、つまり13小節の1拍目のことのように思える。同様に「すぐに第2小節で」の原文
"... schon mit dem zweiten ..."はzweiten Taktteil"のこと、13小節2拍目のことに違いない。実際、
イ短調の和音が現れるのは13小節の2拍目のことである。(ここは聴くと音楽がちょっとだけ歪むような感覚の
箇所で、それゆえ私の立場では、アドルノの指摘は、その歪みの謎解きをしてくれているわけである。)
また、それに続く、「前半部分の特徴ある二度の上行形が同じリズムの上で逆行され」(Bei identischen Rhythmus wird
die charakteristische Aufwärtsbewegung der Sekund in der ersten Hälfte umgekehrt)というのが
(原注7を9,10小節とするなら妥当ともいえるが)12小節の付点4分音符と16部音符の音形の下行のこととされているが、
これも私見では、13小節の「前半部分」のことでなくてはならない。実際、オリジナルの形にたいして、
13小節の第1のヴァリアンテでは、「特徴ある二度の上行形が同じリズムの上で逆行されている」のだから。
なお、その後の「主題それ自体の変形であるこの旋律の冒頭部分」(das vorausgehende Anfangsmotiv nämlich,
welches das des Hauptthemas selbst variiert)は訳の指示の通り、11小節のことと思われる。要するに第11小節からはじまる楽節が冒頭
主題の変形と見なされていて、その冒頭の変形と13小節のジョーカー動機の変形が一貫しているというのがアドルノの
指摘であろう。であればこそ、それに先立つ「前半部分の特徴ある二度の上行形が同じリズムの上で逆行され」は、
やはりジョーカー動機の第1のヴァリアンテである13小節の前半のことでなくてはならない、というのが私の見解である。
121頁(238頁)、原注(8):第1楽章27小節。文脈から確実だろう。
121頁(238頁)、原注(9):第1楽章29小節。同上。
121頁(238頁)、原注(10):第1楽章246小節。ここの原注の翻訳も原注7同様、zweites Systemを「後半」と
しているので注意が必要である。
121頁(239頁)、原注(11):第1楽章320小節、比較参照箇所は第1楽章315,316小節、練習番号23とその1小節後。
本文の記述が具体的なので確実であろう。なお些細なことで恐縮だが、ここでも原注の訳には首を捻った。
原文ではcf.になっているのが「さらに」で順接に訳されていただけなのだが、思わず原文にあたって
しまった箇所である。もっともアドルノにも問題があって、原注のつけられているのは「旋律的にも、
和声的にも新しく装いながら」(melodisch und durch Neuharmonisierung)だから、寧ろcf.で指定されている
箇所で、アドルノが指示する頂点のイ音への言及の箇所ではないのである。
VI.技術の次元
139頁(253頁)、原注(1):第2楽章185小節、練習番号8。練習番号の指定があるので、曖昧さはない。
154頁(264頁)、原注(24):第3楽章55~61小節。練習番号2まで、とあり、本文の記述も具体的なので確実だろう。
VIII.長きまなざし
191頁(291頁)、原注(7):第2楽章22小節(オーボエの音形)。ただしこの箇所については率直なところ、
そのような気がするといった程度のものである。(訳注も、「のことと思われる」という書き方で、
推測であることを明らかにしている。)幾つかの観点から、私見では訳注の指示する94~103小節では
ありえないとは思うのだが、それではどれが「ユダヤ教会的な」(Synagogale)もしくは「世俗的・ユダヤ的な」
(profan-jüdischen)旋律なのか、私には確信をもって
判断することはできない。マーラーのユダヤ性というのは格好の研究テーマに違いないので、恐らくは
この箇所を問題にしている文献もあるだろう。(けれども例えばWebで見ることができたそうした論文の
一つは、第1交響曲の第3楽章の旋律をひたすら問題にしつづけ、アドルノのこの本の引用もされているのに、
この箇所のアドルノの言及には全く触れていなかった。当然、読んでいないはずはないだろうから、
意識的に無視したのかもしれないが、これには吃驚してしまった。)いずれにせよ、そういう
わけで、この箇所の「正解」についてはご存知の方のご教示を待つほかない。是非、下記宛てにご連絡
いただけるよう御願いする次第である。
(2005.6一部公開、2005.7.1現在の形態で公開, 2007.2.4引用箇所にアドルノの原文を比較のために追加)
0 件のコメント:
コメントを投稿