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2013年7月14日日曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第10回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第10回定期演奏会
2013年7月13日 ミューザ川崎シンフォニーホール

マーラー 交響曲第4番ト長調

井上喜惟(指揮)
蔵野蘭子(ソプラノ)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ


ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの定期演奏会は第5回以降ミューザ川崎で開催されてきた。前回の第9回は東日本大震災による被災のため、 1年延期になり、2012年6月24日に文京シビックホール大ホールで行われたが、第10回の今回は修復を終えたミューザ川崎にいわば「戻って」の開催となった。 曲目は第4交響曲の後、休憩を挟んでワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の抜粋。ワーグナー作品について語るのは私には荷が勝ちすぎている故、 前半の第4交響曲の演奏のみについて感想を書き留めて置きたい。
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実は私にとって第4交響曲をその本来あるべき姿で、即ちコンサートホールでの実演で聴くのは今回が初めてである。勿論、第4交響曲にはメンゲルベルクが指揮する コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏記録から始まって、膨大な録音の蓄積がある。人によってはこの曲の最初の録音が1930年に近衛秀麿の指揮する新交響楽団 の演奏のものであり、日本で行われたことを思い浮かべるかも知れない。楽譜を読むことと併せ、そうした録音を聴くことにより作品の構造と細部の音響像を 自分の中に定着させて後、実演に接するのは、この作品にコンサートホールで初めて接するのとは全く異なった経験である。ましてや文化的・社会的文脈において 全く異なるといって良い1世紀後の日本で、この作品がかつて(たとえばマーラーの同時代に)どのように響いたかを想像することは難しい。 仮に楽器や奏法について、いわゆるピリオド的なアプローチをとったところで、演奏者も聴き手も、演奏会が置かれている環境もそっくり異なるのである。 そういう意味では、上述の戦前の日本での録音とて同じことで、同じ日本だからという理由だけで、そこに連続性を見出すことは、少なくとも私個人には不可能である。 だが、その一方で、全く文脈のない聴取というのはありえない。コンサートの一回性による様々な 制約(私にとっての最大の問題は、自分自身の体調や心理状態である)もあるし、人間が演奏して再現することが前提となっている以上、誰がどこで演奏するのか、 ということもある。かくして、それが本来想定された上演の形態であるとは言いながら、幾重にも屈折してその「本来」に辿り着かねばならない人間にとっては、 その理由の如何を問わず、演奏者を聴き手が信頼することは(少なくとも私にとって)、「音楽そのもの」と呼ばれるものに虚心坦懐に接するための 必須の条件なのである。例えば特定の演奏家の録音を繰り返し聴くというのは、そうした信頼関係の退化した形態なのだ。ジャパン・グスタフ・マーラー・ オーケストラの定期演奏会に足を運ぶのは、こと私に関して言えば、そうした「本来」に辿り着くことを可能にしてくれる貴重な場であるからに他ならない。
この演奏会の感想を記すにあたりまず書き留めておきたいのは、そうしたことを踏まえた上で、この演奏会において、隅々まで馴染んでいるとはいえ、初めて実演に接する作品に 対して、安心して、素直に接し、没入することができたという点である。勿論、技術的に不安定な箇所や、はっきりとわかる細部におけるミスも皆無ではなかったし、 リアライズの難しさを感じる部分がなかったわけではない。だが、そうしたことすら、私にとってはこの作品を理解することの妨げになることはなく、全体として、実演に 接しなければわからない多くの経験を得ることができた貴重な機会となった。クルト・ブラウコップフが音楽社会学者的な視点で行った、長時間録音媒体が可能にした マーラーの受容の変化についての指摘の中では、コンサートホールでは聴き取れない音が録音では聴き取れることが挙げられていたが、数多くの録音に接した上でコンサートホールでの 実演に接すると、逆に録音で聴こえない音が如何に多いかに驚かされることになる。今回は大規模な室内管弦楽という形容矛盾こそ寧ろ適切な形容とさえ感じられる、 音色の微妙な変化や対比、対位法的な 線の対話、音楽が静まり、背後にある沈黙が浮かび上がる瞬間、あるいはフレーズの切れ目の音の鳴らない瞬間のホールの残響をも一つの楽器としたかのような第4交響曲が 演奏されたこともあり、楽音が鳴り響く空間の中に自分がいることによって獲られる新しさの経験は圧倒的なものであった。勿論それは、聴き手たる自分が 作品の構造と脈絡を身体化した形で、次に起こる音響的イヴェントを予期していることが前提としてあって、だが、指揮者の形式構造に対する把握の確かさとそれに基づく 適切なテンポの設定があればこそのことである。第7交響曲、第9交響曲でもはっきりとそう認識できたが、この第4交響曲においても、そうした巨視的な構造の把握の確かさを 感じることができればこそ、聴き手は作品に安心して、素直に接し、没入することができるのだ。
その一方で、音楽がその場に全く相応しく自然に流れ出てくるような印象は、細部の積み重ねにも因っているのは間違いない。トロンボーンとチューバを省いた 編成の管弦楽の楽器法は、金管楽器を木管楽器の一種として扱うことを求めている(トランペットすら、音色のパレットの上で、クラリネットの少し先に位置づけられる)が、 特に様々な管を持ち替え、更には頻繁なベルアップ(Schalltrichter auf!の指示)をきちんと実践することで、多様な音色の立体的なコントラストを実現したクラリネット属と、 音域や音価・強弱の大きなコントラストによって、同様に音色の多様性を実現したファゴット属のパートの活躍が印象的であった他、それが導入されることではっきりと音調が変わり、 異なる領域に音楽が入ることを告げる打楽器群、フラジオレット等も用い、他の楽器の音色との混合により、別の楽器を産み出すことが求められることがあるかと思えば、 ある場所でははっきりと音楽の流れを主導する役割を担ったハープ、先行する作品に比べても際立って線的に精密に書かれた音楽にあって重要なコントラバスのパートの 安定感といったところが全体として印象的だった。
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当初第3交響曲第7楽章に予定されていた歌曲がいわば押し出されてしまい、第4交響曲第4楽章に収まることになった成立史は良く知られていることだが、 そうした紆余曲折の中にあって、終曲に管弦楽伴奏歌曲1曲を持ってくるという着想自体の方は結局最後まで残り、のみならず、その前に三幅対(triptyque)の絵のような 3つの楽章が置かれるという第4交響曲の楽章設計のいわば原点になっている点は見逃すべきではなかろう。第2交響曲や第3交響曲における独唱を伴う楽章の 機能は、ここでのそれとは全く別のものなのだ。そして時系列的に独立に先行していたという事実はあり、確かにそこから逆算するように前の楽章が配置されたとはいえ、 前の楽章と終曲の歌曲の間にマーラーが設定した連関は軽視すべきではない。中期交響曲への橋渡しは、単に第5交響曲第1楽章のファンファーレが予示される といった皮相な点にのみあるのではなく、とりわけ第1楽章に著しく、実際アドルノがマーラーに関するモノグラフの中でも例外的に非常に細かく楽譜を追って 例示するほどの(Variante)の技法、恰も小説の登場人物が、小説の時間を生きることで変容していくような主題の操作の仕方や音楽的時間の構築の仕方こそが、 中期交響曲の前哨としての意義の裏づけとなっているのである。この辺りの事情や、更にマーラーが述べたとされる第9交響曲との関連については別のところに 覚えを記しているのでここではその内容を繰り返すことはしないが、私見では、陳腐な標題性の議論に終始することは論外としても、アドルノのコメントすら、 この交響曲については誤解を招来しかねないような側面があり、音楽自体の持つ決して損なってはならない契機を捉え損ねている。この日の演奏において、私は そのことをはっきりと確認したように思う。
そしてそうした巨視的な設計への配慮は、繰り返しになるが、今回も指揮者によって的確に準備され、実現していたと思う。経過の一部を取り出すのは適切ではないかも 知れないが、それでも強いて取り立てたいのは、例のアドルノ言うところの「夢のオカリナ」から始まって、第1楽章の展開部後半、 「わざとらしく子供じみた、騒々しくも楽しげな部分」(absichtsvoll infantiles, lärmend lustiges Feldとアドルノが呼ぶ練習番号16を経て、 中期交響曲とカフカの巣穴の地下道のように結びついているという指摘を俟つまでもなく明らかな第5交響曲第1楽章への暗示へ至る音調の変化 (頂点ではタムタムが強打され、全く違う領域に音楽が転げ落ちてしまったことが明らかにされる)、そして明確に音楽が停止して、何事もなかったかのように突然に フレーズの途中から再現部に入り、だがそうした軌道の力学で堰き止められてしまったものを補償するかのようにもう一度「わざとらしく子供じみた、 騒々しくも楽しげな部分」をブリッジして第1主題部再現を閉じる辺りまでの音楽的時間の流れであり、あるいは第3楽章の終り近く、練習番号12のあの有名な「突破」(Durchbruch) 以降、静まっていき、Gänzlich ersterbendで停止して第4楽章の天国に至る部分である。そして更にそれに続く第4楽章の全体、そこにおいてパート毎のテンポの入れ替わりが 聴くものに圧倒的な印象を与えたのは、この歌曲を中核として設計された交響曲全体の大きな構造の把握に裏づけされたテンポ設計あってのものに違いないのだ。
今回の演奏は、途中のチューニングなしで行われたが、 それが作品の長さが可能にしたものであるとしても、そのことによって獲られる効果が損なわれるわけでもない。三幅対(triptyque)の絵は決して遠心的に置かれているわけではなく、 楽章相互の明暗のコントラストも含め、寧ろ第4楽章の歌曲に寄り添うようにして置かれていることが自然に理解できるのである。とりわけ第3楽章末尾のGänzlich ersterbendに 関して言えば、第2交響曲の後半3楽章とは異なってattaccaの指示こそないが、音楽的時間は楽章間の中断をいわば跨いでしまっているのである。 第3楽章の「突破」の後、音楽が静まってからコーダに至るまでの和声進行のプロセスはまるで一旦、回り道をしてからようやくゆっくり、ゆっくりと状態を元に戻すような感覚がある。 でも実は戻ったと見える場所は出発点ではなく、決して元に戻ることなく、実は既に決定的に異なる相にいるのだが、その挙句に最後は何とニ長調に到達する プロセスが停止し、時間が止まったときには後続する歌曲のト長調が用意されているのである。この日の演奏おいては、 第4楽章の歌曲は序奏が始まってから登場し、歌い始めまでに定位置に移動する歌手によって歌われたが、これもまた楽章の合間も含めた音楽的時間を損なうことが ないような配慮に基づくものと忖度され、適切なものと感じられた。
この作品の第4楽章で初めて人間の声が響く瞬間というのは、それ自体が或る種の出来事であって、その強度は著名な第2交響曲のUrlichtのあの戦慄すべき歌い出しに 決して劣るものではない。そして歌詞がどんな多義性を孕んでいる可能性があったとしても、音楽がそのような場を用意し、自ずから物語る以上、 歌唱はマーラーが指示した通りでなければならない。ある意味では、ここは既に(つまり第4楽章が始まる前に)時間が停止しているわけで、それぞれ固有の テンポと表情を持ったブロックの交替はあっても、音楽の構造は基本的に静的である。それがとりわけはっきりと示されるのは、詩節に添った何回かの反復の後、 第4スタンザ冒頭の練習番号11で第1楽章の序奏が明確に再現され、だが一瞬ののち練習番号12で音楽が第4楽章の冒頭を回顧し、Kein Musik ist ja nicht auf Erden, ... と歌い始める部分だろう。まるでエンブレムのように聖ウルズラの微笑が浮かび上がるが、音楽は再びmorendoで消えてゆくまで、最早動かない。そうした音楽が求める、 その質に見合った歌唱が為されたこともまた、この日のこの曲の演奏の成功に大きく与っていたと思われる。
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私がこの日の演奏を聴いて受けた印象のうち、果たしてどの程度がこの日の演奏を客観的に受け止めたものであるかはわからない。 上でも触れたことだが、私は第4交響曲に関して、以前より、マーラー自身の言葉を受けて、第9交響曲と関連づけて考えてきたが、この日の演奏は、 そうした聴き方に対しても(残念ながら未だ十分に言葉にはできないし、演奏会の感想からは完全に逸脱するので、それは別の機会にまた改めて論じたいが)、 大きな何かを告げるものがあったと感じている。 恐らくそれは、東日本大震災を経て、昨年のあの第9交響曲の演奏を同じ指揮者、同じオーケストラで聴いたこととどこかで繋がっているだろうが、仮に それが2つのコンサートに参加した人間のうちで私だけに生じた、ごく主観的な経験であったとしても構わない。繰り返しになるが、私は最早 客観的な(と呼ばれる)批評が成立するような地点でコンサートを聴いているのではなく、だからそうした立場でのコメントは断念している。是非、他のそれに相応しい方の 評が公開されることを期待したい。だが、そうした前提の上で、この日のコンサートで第4交響曲の実演に初めて接することができ、ここに記したような印象をもてたことを、 私は非常に幸運なことであったと感じている。それゆえ末筆になるが、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの方々、音楽監督・指揮者の井上喜惟さん、 事務局の方に対し、この日の演奏を共有することができたことへの感謝の気持ちとともに、長期に渉り、演奏会を継続して実現させていることに対する敬意を改めて 表することで感想を終えたいと思う。 (2013.7.14公開)

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