2018年8月5日日曜日

アドルノのモノグラフにおける「子供」について

 マーラーに関する日本語文献(海外の文献の翻訳を含む)は、マーラー・ルネサンスと呼ばれた1960年代より少し遅れて、1970年代になってようやく増え始めたかのように見える。勿論、そのピークはバブル景気の時期、1980年代後半から1990年代初頭くらいにかけてで、かなりの数の文献が出版された。そしてその後は、そうした「ブーム」の再来こそないが、すっかり大作曲家の一人として定着して、アニヴァーサリーが祝われ、文献も着実に増え続けているようだ。

 だが40年程前、私がマーラーを発見した頃の様相は全く異なっていて、丁度、ぼちぼち出版されるようになってきた文献を(子供独特の性急さと集中力で)内容を諳んじる程にまで貪り読んだものだ。時代と場所の(従って文化の・社会の)違いをものともせず、半ばは視界狭窄に助けられて、その音楽に「直接」向き合い、作曲家の人格に「直接」接したという性急な思い込みは、それが既に喪われてしまって後になって、かろうじて以下のアドルノの言葉の中に己を弁護してくれるものを見出すことになる。それはモノグラフの冒頭、「数秒の間この交響曲は、地上から天に向けられたまなざしが生涯にわたって不安げにかつ熱意を込めて求めていたものがあたかも実現したかのように夢想する。そのまなざしに対してマーラーの音楽は忠実であった。つまりは経験の変容が、彼の音楽の歴史なのである。」という記述に導かれて登場する。

「このように、十代半ばの子供は人を圧するように打ち降りてくる音を耳にして朝五時にたたき起こされるのかも知れない。その音を夢うつつにほんの一瞬耳にした者は、それがもう一度やってくるのでは、と期待するのを決して忘れはしない。その音の感覚的実体性を前にしては、形而上学的思考も色あせ、無力である。この形象の中でのあの瞬間は果して成功したのかそれとも単に意図されただけだったのか、と問いかけるだけの美学もまた同様である。あの瞬間にとって、それ固有の亀裂は本質的であり、それが成功した作品という見かけに反乱を企てるのだ。」
(アドルノ「マーラー 音楽観相学」、邦訳:龍村あや子訳、法政大学出版局, 1999, p.6) 

 これはバブルの時期に出版されたムックの一つに収められた対談か何かで、「マーラー・ファン」を自認する対談者の一人が冒頭、マーラー・ファンたるもの、自分とマーラーとの出会いを語るところからはじめなくてはならない、といったことを述べているのに面食らったものだが(とはいうものの、「からはじめる」わけではなくても、一応、受容史のドキュメントとして、私もまた「出会い」について書いた文章を書いたことはあるのだが)、それもまた、上記のアドルノの言葉の下では、少なくとも理解しがたいものではなくなるように思われたものである。そこから「はじめなくてはならない」かどうか、否、そもそもそれを「語る」(一体、誰に対して?)かどうかはおいて、マーラーの音楽が持つ、或る種の性格、私が「意識の音楽」という言葉で言い当てようと試みて、今なおそれを果たし得ていない質が、エピソード記憶を系列化することにより紡ぎ出される自伝的自己の成立に関わる機構に関わるものであり、「物語ること」への衝動に関わるものであるが故なのだろう。そしてその起源には、意識を備えた自己が成立する根拠として、「他者」の経験が、「超越」の経験が介在しているという消息を、上記のアドルノの文章は言い当ててていると思われるのである。それはマーラーの音楽の性格付けであると同時に(というのも、それは「音楽」一般が備えているわけでもなく、西洋音楽一般が備えているわけでもなく、マーラーと同時代の音楽が備えているものでもなく、更に言えば上記の文章の直後にアドルノが正確に言い当てているように、マーラーの音楽が嫌悪される原因でもあるからであるが)、他方で、自伝的自己の起源の出来事(の物語、それは常に事後的に、そのようにフィクションとして語られるしかなく、それは事実そうであったかについてよりも、どのようなものであったかについての神話的な記述であるほかないのだが)でもあるのだ。

 マーラーの音楽がそのような性格を帯びることが、歴史的事実としての社会的・文化的環境に媒介されたものであるにしても、それは勿論、統計的に平均的な典型的な事象というわけではなく、寧ろ、カオス的な挙動、カオス的遍歴の中におけるアトラクター痕跡の如きものとして記述されるのが妥当な、偶然的、例外的な出来事である一方で、一世紀後の極東の子供にも起こり得る程度には一般的な、ジュリアン・ジェインズ風に言えば、ポスト二分心のエポックの人間の構造に由来するものでもあるのだ。アドルノの記述では、勿論天から降ってくるのはマーラーの音楽ではない。だが、マーラーの音楽がそのようなものであり、そしてまさにそのようなものとしてマーラーの音楽に或る日出遭った子供は、寧ろマーラーの音楽を通して、自分が予感してはしても、はっきりと了解はしていなかった、だが実は実際にはそもそも自分というものが成り立つために必須の契機であったところの「今此処にある以上のもの」への眼差しを獲得するのではないか。いわば構造的ともいえる絶対的過去の忘却(というかそれは自己の成立に先立ち、それを可能にするという仕方でしか立ち現われないのだから、忘却することも不可能で、それゆえ想起の、再認の対象ではありえないのだが)を了解するのではなかろうか。

 上記引用箇所では厳密にはHalbwüchsiger、アドレッセントであり「子供」ではないが、文字通りKind、子供の経験に言及した件が、モノグラフの最後の章Der lange Blickに登場する、といってもそれは冒頭の「マーラーの音楽は、子供の頃の記憶の痕跡の中にユートピアをしっかり持っている。」以下の部分ではない。アドルノのここの部分の記述は、裕福なブルジョワの子弟であった彼自身の来歴もあってか、あたかも、かつては実際にそうしたユートピアがあって、そのときには気付かなかったけれども、それが喪われてからようやくそれが幸福であったことに気付いたといったように読めてしまう書き方になっているが、実際には、そんなユートピアは一度も存在したことが無く、初めからそれは喪われたものとして、寧ろ自分が存在する以前の世界を懐かしむようなものでしかないのではないか。寧ろ、自己が成立した時には既に神は「隠れたる神」でしかなく、自己が存続し続ける限りでもまた隠れたままである、という消息をこそ、マーラーの音楽は告げているように思われる。同じ章のずっと先で、再び「子供」が出現する場、だが最早、条件法的にしか出現しない場である、第9交響曲のフィナーレの終結部分についての記述で登場する「死ぬとわかっている人に対して、彼がまるで子供であるかのように、すべてはうまくいくのだと約束が語られる。」という箇所も、同様の仕方で読まなくてはなるまい。

 そういう意味合いで興味深いのは、寧ろ、少し前に戻って、最終章の冒頭でプルーストを参照する部分に後続する、以下の文章で登場する子供の形象ではなかろうか。

「作曲をしようとしてピアノのキーをあちこちたたく子供は、どのような和音にも不協和音にも意外な転換にも、無限の重要性を信じている。子供はその響きを、ほんとうはほとんど慣用的なものなのだが、あたかもそれまでまったく存在しなかったかのように「はじめてだ」という新鮮さで耳にする。あたかもそれらの音の中に、自分の頭に浮かぶもののすべてが満ちているかのように。こうした信頼はいつまでも保たれることはないし、こうした新鮮さを修復して再生させようと目指す者は、すでにその新鮮さがそうであったところの幻覚の犠牲となる。マーラーはしかしその確信を捨てることなく、「はじめてだ」という感覚をその欺瞞から救い出そうとする。」(邦訳:pp.186-7)

  ここでアドルノが言っていることは、ほとんど不可能なことのように思われるかも知れないが、マーラーの音楽を聴く者は、それがマーラーにおいてのみ可能であるかどうかはわからなくても、少なくともマーラーにおいては、可能であることを再認する。同じ作品をもう一度聴き、更にもう一度聴いてなお「はじめてだ」という感覚は喪われることなく、都度感受されることを確認するのである。

 まずもって、記憶がなく、都度新しい瞬間のみがある時、実際には「はじめてだ」という感じは起こらない。(寧ろここで思い浮かべるべきは、脳神経科学者が報告する病理的なケースであろう。)つまりこれは、まず第一には、エピソード記憶の系列からなる自伝的自己があってはじめて可能な経験なのである。

  いや、「はじめて」かどうかということの判定ということであれば、一見したところ単純なパターン・マッチングや距離計算により検出可能に思われるかも知れないし、それは流石に現実を過度に抽象化したが故の錯覚であるというのであれば、事例をひたすら貯めこんで、学習を行う機械であれば、ある事象が統計的にみて「慣用的なもの」か「例外的なもの」、稀なケースであるかどうかを判定できるのでは、という疑問が湧くかも知れない。だがそもそも、機械に対してどういうデータを与えるのかを機械を操作する人間が決めているとするならば、「新しさ」や「はじめて」を決めているのは機械ではなく、学習の環境をナヴィゲートしている人間の側であろう。結局のところ、デネットのいう理解力なき有能性は「新しさ」を感じることはない。それは統計的な規則性と、それからの逸脱を検出することはできるが、その逸脱が、単なるノイズなのか、「はじめて」経験する「新しい」何かの到来なのかを判定することはできない。結局のところ、第一にそれは事後的には「目的因」として仮構されるような或る種の方向性を、学習する系自体が持つ事なしには不可能なのだ。

 だがそれでは、「アルファ碁」およびその後継のシステムのように、囲碁という、或る意味では人間の能力を超えるほど広大な空間を持ちながら、結局のところゲームの定義と規則によって定められた、評価について閉じて完全に安定した領域であれば既に実現されたかに見える、自己ナヴィゲーション能力があれば十分かと言えば、それが閉じた空間の中での能力である限りは、ここで言われている「新しさ」や「はじめて」に到達することはやはりないであろう。この点に関して、デネットの近著『心の進化を解明する』における、アルファ碁その他の実際の「知的」システムそれぞれの達成したものと、彼のいう「理解力」との距離を測る作業に感じ取れるある種の逡巡の理由を考えることは興味深い。デネットは、いわゆる強いAIに対して否定的ではないにも関わらず、クオリアは存在しない(つまり意識はあるが、現象的特性は幻想である)と言い、哲学的ゾンビについては、我々もまたゾンビであるという立場をとる。ヘテロ現象学の提唱に見られる一人称的パースペクティブ(ひいては三人称的なそれとの対比)に関する素朴な(それこそフォーク・サイコロジックと言い返したくなる)思い込みもそうだが、彼は、本来は「存在」に対して中立であるべきところで、如何なる理由によってか定かでないが(まさかそういった方が論争上の修辞的な効果の上で優っているからということはあるまいが)、勇ましくも断定を行い、そのことによって、幻想であったり物語であったり、虚構であったり、幽霊(マーラー的には「レヴェルゲ」)であったりするものどもの存在論的地位を認めない。ここではそれを論証することはかなわないので、示唆するにとどめるが、実はそのことは、一人称的パースペクティブの成立の基盤にある「他者の経験」をデネットが等閑視していることと通じており、そしてそのことが、「知的」システムそれぞれの達成水準についての評価の基準において、デネットが決定的な点を見落とす原因でもあるのだ。

 この点について言えば、世上、誤解される場合が多いように見受けるが、哲学的ゾンビという問題設定自体をナンセンスだとするヴァレラの神経現象学的視点の方が優っているのである。一見したところ論理的には矛盾しているように見えるヴァレラのような考え方を、そちらの方こそナンセンスとして切り捨てるのは容易いが、そうする者はしばしば、己れの論理が前提とする概念規定が持つ素朴さに足をとられて、現実の奥底に隠されているメカニズムを見過ごしてしまう。もっともデネットの奇妙なスタンスに対するだけであれば、ロボット工学者で受動意識仮説を提唱している前野隆司さんのクリアな断定を持ってくれば十分であろう。消去主義者寄りの立場を自認する彼もまた「意識は幻想だ」というけれども、その先はデネットとは袂を別って「在るというには頼りない幻想のようなものだが、その幻想のようなクオリアは<私>にとって確実に第一人称的に感じられるものだ」と言い切っているのだ。この一見すると常識的と思われる見解の中の「感じられる」ということばにこそ、全てが賭けられていると言っても良いだろう。そもそもが、寧ろ説明すべきは「クオリアが確実に感じられるのは如何にしてか」の方ではなかったか?

 つまるところ、マーラーの音楽において「はじめて」の経験、「新しさ」の経験が可能であるということは、前の引用における「他者」の経験、自分の世界に穿たれた亀裂と本質的に相関しているのである。ここでは仮説の提示、素描に留める他無く、論証は後日を期さなくてはならないが、そのことはアドルノがモノグラフの末尾で述べる、社会から疎外されたものへと手を差し伸べるマーラーの音楽の性格にもまた、相関しているはずであり、そのことはマーラーの音楽を、それが産み出された時代と歴史的・社会的・文化的環境に還元して説明するのではなく、寧ろ、その音楽そのものの相貌を捉える観相学によって描き出すことによって明らかになるのであろう。その意味でアドルノのアプローチは正当であるには違いないものの、今やその後の50年の変化を踏まえた書き直しが求められているのではないかと思われてならない。一例を挙げるならば、カオス理論は、控え目に言っても、予測が可能であるということの意味合いを根本から変えてしまった。決定論的な規則に従って時間発展する系であれば、その挙動は予測可能であり、そこには新しいものはなく、それゆえ、はじめてということもないのだというのは、カオス力学系については当て嵌まらない。そしてこれは単なるアナロジーに過ぎないが、カオスが発見されたのが、天文学における三体問題であったことを思い起こしてみるならば、それぞれが世界の中に埋め込まれたエージェント間の相互作用、出会いや対話が成り立つような場を記述しようとしたときに、それは古典的な描像ではなく、寧ろカオス力学系で記述するのが適切なものであると考える方が自然ではなかろうか。そもそもが記憶のメカニズムにカオスが関わっている可能性があることが既に示唆されており、エージェントを単独の系として取り扱う際に既に、その挙動はカオス的であるかも知れないのだ。そしてそうした系については、解析的に調べることができないから、モデルを作ってシミュレーションしてみるという、工学的なアプローチが不可欠なものとなる。

 パウル・ツェランは、ある手紙の中で「真の出会いがあるとき、それは実際は再会です。(…)再会がはじめて、出会いを出会い足らしめるのです。」と語ったそうだが、それはこの詩人のシュールレアリズム仕込みの逆説か詩的な文彩の如きものとしてではなく、文字通りに受けとめるべきなのだ。そうすることによって、アドルノが示唆した子供の経験の構造を示すものであることが示されるだろう。一見秘教的(これはツェランに対してアドルノが用いた形容だが)であり、他者とのコミュニケーションを拒むかに見えるツェランの詩と、あらゆるものを自分の中に包摂しようとする肥大したロマン主義的自我であるかに受け止められるマーラーの音楽とに存在する、そうした見かけの背後にある共通した、他者との出逢いを本質的な契機として孕む、多声的な構造が浮かび上がってくることだろう。

 そしてそれを可能にするのは、具体的な理論(ないし理論に基づくモデル)構築の裏付けを持たない哲学者の貧困な論理などではなく(それが間違っているのでなくても、その操作が暗黙裡に前提としているモデルがあまりに単純すぎて―それはこの観点からいけばフォークサイコロジックなものと多くの場合には大きくは異ならないー、一見したところ直観に反するような指摘ができた場合でも、いわば必要条件を浮かび上がらせることがせいぜいで、説明能力のあるモデルを提示するには及ばないのが常であるようだ)、カオス理論のように、「新しさ」や「はじめて」についての再定義を可能にするような理論に基づいた工学的なアプローチである筈である。マーラーの音楽もまた、アドルノのモノグラフを超えて、それに相応しい分析が可能になるのは、そうしたアプローチを通してではないだろうか。そしてそれは同時に、ポスト二分心のエポックにおける(つまり現在の、そしてポスト・ヒューマンのではない)意識が成立する機構を明らかにし、そのことを通じて、その構造を実践的な仕方で掴みとることができていたマーラーの「世界を構築する」という言葉を、まさにそのまま了解し、「出会いとは再会である」というツェランの言葉を、まさにそのまま了解することを可能にするに違いないのである。

 最後にもう一言加えて、アドルノの言葉を出発点とした素描を終えることにしよう。私は哲学者のレトリックに対抗するのにロボット工学者の発言をもってし、更にカオス理論を取り上げて、それが「新しさ」「はじめて」という感じを経験することができる系のモデル構築の手掛かりとなりうることに触れ、それが工学的なシミュレーションのようなアプローチでしか(より正確には、それ抜きにはというべきだろうが)アクセスできないことに触れたが、ここでいう工学的アプローチは、必ずしも通常、工学ということでイメージされるものに留まる必要はないだろう。否、マーラーの、ツェランの創作の実践は、広い意味で(ただし決して比喩としてではなく、文字通り)工学的なアプローチではないのか?作品において「世界を構築する」こと、「はじめて」の経験を可能にすることは、まさに工学的な実践に他ならないのではないか?芸術と科学の間には厳然たる区別があるけれど、にも関わらず、その実践には少なからぬ共通点があることは夙に指摘されてきている。そしてそのことを今日的なテクノロジーやメディア論の文脈で自覚的に実践している例として私が直ちに思い当たるのは、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」なのである。勿論、マーラーについてそう述べたように、ここでも音楽が全てそういうものである必要はないし、実際にそうではないだろうが、時代と場所の隔たりを超えて、更には一見したところ共通性が全く感じられず、実際にほぼ反対側からアプローチしているにも関わらず、そこには自己の境界まで辿り着き、根拠まで降りて行こうとする衝動のベクトルにおいて共通性を見ることができるように思われる。もはや明らかだと思われるが、アドルノの子供は、三輪さんの「昇天少年」、「新しい時代」において、最後に自分の声で歌うことができた少年に他ならない。そして結局のところ、私が聴きたいと思うのはそうした「音楽」なのだ、ということになるのであろう。(2018.8.5 未定稿)

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