2018年7月29日日曜日

ヴェスリング「アルマ」に登場する2名の女性について

 ヴェスリングについてはグスタフ・マーラーに関する著作に関する文章で触れているので、その内容をここで繰り返すことはしないが、バブル景気の最中、マーラーについての翻訳とほぼ同時期に翻訳が出版されたアルマの伝記の方を取り上げて置きたい。
 ヴェスリングの著作は、これも既述の通り、記載された内容の事実関係については信頼がおけない一方で、他の著作では目にすることのない言及に事欠かない。アルマに関する著作についても同じことが言えて、特に私は、そこで言及されている2名の女性について、備忘を記しておきたく思う。

 一人目は、サラ・シャルル=カイエ夫人(Mme Sarah Charles-Cahier)。ただし、訳書も含め、多くの文献では名前を英語読みすることが多いようだ。彼女の名前を私が最初に知ったのは、まずなによりも「大地の歌」の初演者としてであり、次いでマーラーの歌曲の最初期の録音記録を残した人としてであったが、前者に関わりのあるワルターの回想「主題と変奏」の翻訳では、さすがと言うべきか、チャールズ・キャヒール(シャルル・カイエ)夫人となっているものの、後者の復刻として近年容易に入手できるNaxos Historicalの日本語訳ではチャールズ=カーヒア、ここで参照しているヴェスリングの訳書では、シャルル・カヒア、カヒア夫人となっている。この最後のケースはどちらもちょっと問題があるが、実はカヒア夫人という表現はヴェスリング自身のものであるから、これは訳者の責に帰することはできない。(前者はフランス語読みと英語読みが並んでいて、奇妙なこと極まりなく、こちらは訳者の問題だが。)なお、私が最初に彼女の名前に接したのはケネディの著作の邦訳巻末の作品表の「大地の歌」の初演者としてで、勿論、中河原理さんはシャルル・カイエ夫人と表記している。
 調べてみると彼女は生まれはアメリカであり(ワルターも大地の歌の初演の2人の歌手がいずれもアメリカ人であることを「主題と変奏」において記している)、その活躍の舞台は大西洋の両側にまたがっていたが、アメリカの歌劇場での活躍を考えれば、英語読みも止むを得ないであろうけれど、そもそも、2番目の伴侶となったスウェーデン出身のインプレサリオが名乗ったシャルル・カイエというのは、フランスの実在のイエズス会士の考古学者である、シャルル・カイエ(こちらではだから、シャルルは名前である)に因んだもののようだから、日本語訳をするにあたり、わざわざ英語読みを優越させる必要はないのではないかと思わざるを得ない。
 だが、そうしたことは大した話ではない。問題はその登場の仕方で、第11章「アメリカ社会への失望」の冒頭、2度目のアメリカ旅行の途上で、アルマが彼女と親しくなったという形で登場する(邦訳134頁以降)。ここでも恰も見てきたかのような描写や会話が続き、
「指揮者や監督は死んでしまいますが作曲家は不滅です」とアルマに告げたことになっており(137~8頁)、果てはニューヨーク・フィルハーモニックの再建のための「委員会」に、ミニー・ウンターマイヤー夫人などと名を連ねていることになっているのである。その他、フィラデルフィアでのマーラーが指揮したコンサートの後に彼女が会ったときの印象が、これまた直接話法で引用されるといった具合である。(ここの部分は、その直後でミュンヘンでの第8交響曲の初演の際の出来事が回想されているという点でも興味深い、なぜなら、ここでの彼女の発言は、(またしても!だが)一般には第8交響曲の初演に立ち会った際の印象として、ソプラノ歌手のリリ・レーマンが語ったとされる内容に極めて近いのである。)
 シャルル・カイエ夫人の名前は、勿論、アルマの回想録には全く出てこない。同じくアルマの伝記であるジルーのそれについても同様だし、ド・ラ・グランジュの百科事典的な伝記を参照しても(私が今回確認に使ったのはフランス語版の第3巻)、彼女は専ら、マーラーのウィーン宮廷歌劇場監督としての任期の終り近くにアンサンブルに加わり、マーラーが歌手達に要求した音楽的・演劇的な技術・解釈の両面の要求を満たし、大きな成功を繰り返し収めたメゾ・ソプラノとして言及されるばかりである。(ちなみに、ド・ラ・グランジュの蒐集した資料からは、彼女が第8交響曲の初演をも担当する可能性があったことが窺えて、これもまた興味深い。)
 というわけで、ヴェスリングの記述の信憑性については慎重に考えるべきであろうが、「大地の歌」の初演者、そして(晩年の記録で、盛時を伝えるものではないと言われはするが、)マーラーの指揮の下で歌った歌手が遺した記録、勿論、マーラーの音楽の録音としては最も初期のそれの価値は測り知れないものがあるし、選曲が「原光」と「私はこの世に忘れられ」であることもその価値を高めている、そうした人物にこのような形で出会うのは感動的な経験には違いない。直接マーラーとその作品に関わる事実関係ではないから積極的にその真偽を確認するだけの余裕は私にはなく、それゆえ指摘に止めざるを得ないのではあるが。

 二人目は、マーラーその人には直接の関わりはない人物、そればかりか、ヴェスリング自ら、アルマの遺した手紙や回想の類でも言及がないと断りつつ言及している人物、確認はしていないがその回想の中で、アルマについてかなり明確な悪意をもった言及をしているとされる人物である。名前はクレール・ゴル(Claire Goll)。ヴェスリングの著作中では、恐らく色々な意味で問題含みであろうことが想像される第17章「カンディンスキーと反ユダヤ主義」において言及されている。
 実はクレール・ゴルの名前は、私にとって、パウル・ツェランを結果的に死に追いやった人物として忘れ難く記憶されているのであるが、この本を読んだ時の私は、その事情をまだ知らなかったので、根も葉もないゴシップをまき散らした迷惑な存在くらいの印象しかなかったのだが、後でツェランの文脈で「ゴル事件」の張本人として出てきた時に、あっと思って、この本をもう一度確認したことをよく覚えている。そいつにはどこかで会った記憶があるぞ、というわけである。
 アルマ自身がそうであるように、ヴェスリングもどうやら事実の歪曲や捏造の嫌疑を受ける存在のようなので、迫力はずっと落ちてしまうが、グスタフ・マーラーの著作に比べると、アルマのシンパであるのが寧ろ前提になってしまうからか、アルマに対する評価は寧ろ冷静な点が目立つくらいでもある中で、ヴェスリングのクレール・ゴルに対する評価は手厳しい。
 勿論事実についてはどこまで信頼していいかわからないし、それを追跡するつもりもないが(ツェランに対して、決して許すことのできない醜悪な仕打ちを繰り返したことの方は、既に事実として確定しているといって良いクレール・ゴルについて調べる程私は暇ではないので)、申し訳程度に確認した限り、「私は誰も許しません」と訳された彼女の自伝的著作というのは、Ich verzeihe keinemという原題で実在するようであり、以下の膨大な(読んでも不快になるだけの)彼女の著作からの引用と思しき文章も、珍しく典拠がそうして明示されているからには、でっちあげではないのだろう。何より私が感じるのは、その文章から受ける印象が、まさに「ゴル事件」のそれと重なるということであり、ツェランに対してだけではなく、こんなところでこんなこともやっていたのかと思う一方で、当然それくらいのことは平気でしてのけるだろうと、妙に納得した記憶があるくらいである。(なお、ヴェスリングの著作はアルマは勿論だが、ゴル事件も過去のこととなり、クレール・ゴルも鬼籍に入って数年後の1983年に書かれたものであり、だからこれだけクレール・ゴルに対して辛辣な書き方が出来たー彼女が生きていたら、恐らく黙ってはいなかったのではなかろうか―のかも知れないが、話題が違うから仕方ないとは言え、彼女がゴル事件の張本人であることに対する言及は全くない。せめて訳注ででもと思わずにはいられないが、グスタフに対する著作と異なって、こちらには訳注が全くないので、これも無い物ねだりに過ぎない。)
 他人から見れば、アルマもクレール・ゴルも、(ついでにヴェスリングも)同じ穴の貉というように思われるかも知れないが、それでもなお、ここでのヴェスリングのアルマに対する擁護には共感できなくもない。少なくともアルマは、様々な偏見から自由ではなく、その行動が様々な問題を惹き起こしたにせよ、他人を陥れるために作品を改竄し、事実を捏造したりはしなかった。彼女は作品として多くを残したわけではないが、様々な側面での自分の能力(その中には周辺の人間をたじろがせることがしばしばできた知的なものも含まれるだろう)とその限界について自覚的である程度には批判的知性も有し、にも関わらずあり余る自分の能力を持て余し気味であった。クレール・ゴルに対しては些か一方的であるととられるかも知れないが、「ゴル事件」の一件のみで私にとっては十分過ぎるくらいであって、彼女のやったことは、陰湿を極める手管による他人の人格の破壊とその果ての自殺の原因となったのであるから、間接的な殺人に外ならず、如何なる言い訳も通用しない。誰彼かまわず、Ich verzeihe keinem等とは言うまいが、「私はあなたを許しません」と、彼女に対して返したくなる気持ちは抑えがたい。もし、他人からの讒言、誹謗に苦しめられ、追い詰められたことがない人がいたとしたら、その人は幸運なのだ。そしてツェランもそうだけれど、マーラーもまた、夥しい傷を負い、病床で「私の人生は紙切れだった」と口走らざるを得ない程にまで、苦しめられた事実を忘れてはなるまい。

DIE SPUR EINES BISSES im Nirgends.

Auch sie
mußt du bekämpfen,
von hier aus.
(Celan, Gesammelte Werke in 7 Bänden, Suhrkamp, Band II, S.117)

 ツェランが負わなくてはならなかった傷は、それでもなお、彼の天才によって決して忘れ去られることなく記憶され続けるだろうし、それは、常に少なからず存在するであるクレール・ゴルのような人間に、同じように傷つけられ、苦しめられる人間にとって、何者にも取り換えの効かない慰めとなり続けていくことだろう。そして、この点においてもまた、ツェランとマーラーの間に接点が生じると私は考える。 
 のみならず、世代の異なる2人の間に直接の交渉は勿論あるはずはないけれど、その替りに、アドルノという存在を通して、ツェラン研究者の当惑を余所に、そこに見えざる、だけれども確実な交通があったことについては、別のところで触れたことがあるので、こちらについてもここでは繰り返さない。あえて一言だけ加えれば、それは表面的なスタイルの違いを超えた、「他者」に対する感受性の問題であり、「対話」の問題である。そしてジャンルとスタイルの違いを超えて、両者はともに、クレール・ゴルのような存在に虐げられた声なき存在に対して、それぞれ自分の仕方で、アドルノの言うように、「手を差し伸べる」という点に存している。それは更にまた、三輪眞弘さんが、「死者たちの無念に耳を傾ける」という言葉で、やはり全く違ったスタイルで今日実践していることにも勿論そのまま通じている。(2018.7.29)

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