2018年7月8日日曜日

マーラーの聴取様式(2021.1.29更新)

マーラーに関する文献の中で、私がマーラーを聴き始めて間もなくのうちに入手したものに、青土社が1980年に出版した「音楽の手帖」のマーラーの巻がある。既に手元にあったマイケル・ケネディのモノグラフ(中河原理訳、1978年、芸術現代社)、アルマの手になる回想と手紙(私が接したのは白水社版の酒田健一先生の訳のものでこれも1978年)と並び、私が住んでいた地方都市の書店でほぼ新刊として入荷したものに偶々接したそれらは、中学生であった私の文字通り座右の書であった。(一方、先行して翻訳が刊行されていた筈の、ブラウコップフやヴィニャルのモノグラフを読むのは、そうした微妙な刊行時期のずれのために、少し後のことになったと記憶する。)

「音楽の手帖」は、巻末資料として年表、ディスコグラフィー、ビブリオグラフィーが備わり、外盤や翻訳のない文献も網羅されたものだが、その後40年になろうかという歳月の重畳を通して改めて眺めれば、寧ろ当時の状況を証言する資料として貴重なものに感じられる。何しろ、ド・ラ・グランジュのあの浩瀚な評伝の第1巻が最初は英語で出版されて間もない時期なのだ。

だが、既に交響曲全集としてクーベリック、ショルティ、バーンスタイン、ハイティンクの4種が国内で販売されたことがあり、所収の記事の多くでも言及されているように、LPレコードによってマーラーの作品に比較的容易に接することが日本国内でも可能になり、アバドやテンシュテット、レヴァインやメータが、「現代的な」マーラーを提示し始めた時期でもある。(とはいえ、この本に収録された幾つかの文章における「現代的」という言葉の内実を問題にすれば、テンシュテットの演奏は、必ずしも他の3人と同じような意味合いでそう言われているわけではなく、そういう意味合いでは、テンシュテットの替りにカラヤンを持ってくるべきなのだろう。)

記事の中では、L'Arc 67号(1976)のマーラー特集所収の論文の翻訳が収録され、アドルノのモノグラフの一部、シェーンベルク、ブーレーズ、バーンスタイン、ライク、ブロッホの文章の翻訳に伍するように、日本語でも錚々たる顔ぶれによる文章が集められたもので、その後マーラーに関するムックのようなスタイルの本というのは幾つか出ているが、それらの嚆矢であり、かつ、今日に至ってなお、最も充実したものではないかと思われる。

だが、ここでそれを取り上げるのは、そうした書籍に見られるマーラー受容に対する回顧のためではない。あくまでもそれは出発点に過ぎず、寧ろ関心は、そうした書籍にいわばドキュメントとして記録されているマーラーの音楽の受容の在り方の方に存する。上述のように、私のマーラー受容のほぼ最初の時期の書籍を取り上げたのは、自分がそうした環境の中で、初めは概ね無意識的に、その後徐々に意識的に影響を受け、その後のある時期にはあからさまに反発をしつつ(その結果、マーラーそのものから遠ざかった時期もあった)マーラーを聴いてきた自分の「聴取」の在り方というのを確認するがためである。

そうした観点では、「音楽の手帖」記事の中の柴田南雄さんの「マーラー演奏のディスコロジー」という文章が特に印象的である。のみならずこの文章は、この頃以降しばらくの私のマーラーの聴き方にそれなりに影響力を持ったという意味でも、再検討に値すると感じられるのである。ディスコロジーというからには当時はLPレコードであった録音を主な対象としているのだが、実際にはFM放送で聴いた海外の演奏のライブ録音あり、コンサートホールでの実演ありと、言及される対象はより幅広く、かつ扱われている範囲も、柴田さんのマーラー受容史をなぞるように、戦前のクラウス・プリングスハイムによるマーラー作品の日本初演が出てくるかと思えば、やはり戦前のSPで聴けた演奏への言及があり、その一方では執筆と時期的に極めて近接した直近の録音や実演にも語り及ぶといった具合で、後年、岩波新書から出版された柴田さんのマーラーについてのモノグラフで語られる内容の幾つかは、既にここで読むことができる。

現時点での私の視点から見たときに特に興味深いのは、アマチュアの演奏に対する言及で、しかもそれは、1939年に撮影された、ヴェーベルン指揮の当時の勤労者オーケストラによるマーラー演奏のリハーサルの写真の話から始まって、既述のプリングスハイムが今日の芸大であるところの東京音楽学校の学生オーケストラを指揮した第6交響曲の日本初演の演奏から、1978年1月の東京大学の学生オーケストラによる同曲の演奏にまで及んでいる点で、まさに柴田さん自身の受容史と重なり、ひいては柴田さんのマーラー演奏様式の変遷についての歴史的な展望に直結しているのである。そしてその展望の方はと言えば、これもまた、ホーレンシュタインの指揮する管弦楽伴奏でレーケンパーが歌った「子供の死の歌」を範例とするマーラーと同時代の名残を留めたロマン主義的な演奏から、戦前の日本においてマーラーの作品を定期演奏会で取り上げたローゼンストックが範例となる「新古典主義的」な演奏、それから生誕100年を契機としたいわゆる「マーラー・ルネサンス」の時代を経て、執筆と同時期のアバド、レヴァイン、テンシュテットやメータの「今日的な」様式に至るといった把握が示されているのだが、大筋でそれが正しいと認めるにせよ、当然ながら色々な意味で限界もあり、現時点での私の認識では、首肯できない点も少なくない。

実を言えば、ここで特に書き留めて置きたい要点はそうした展望の是非自体にはないのだが、認識にギャップを感じる点を一点挙げておけば、「マーラー・ルネサンス」前の時期の展望は些か単純化し過ぎではないか、というのが、その後私が自分の耳で確認した上での私見である。例えば「新古典主義」という枠に押し込められて片付けられてしまっている観のあるホーレンシュタインの幾つかの録音は、現在の私の耳には、その新古典主義的な側面より、レーケンパーの伴奏をして以来の過去との繋がりの方が強く感じられるし、(しかもその印象は、ここでは言及されていない、より後の、彼の最晩年の演奏のライブ録音に及ぶのだが、)一つにはこの文章が「ディスコグラフィー」だからかも知れず、或は単に当時はアクセスできなかったからかも知れないが、それでもなお、ホーレンシュタインのみならず、アドラーやシェルヒェン、ロスバウト、ミトロプーロス、ラインスドルフ、或はシューリヒト、ファン・ベイヌム、バルビローリ、更にはコンドラーシンといった、それぞれがユニークな個性を備えた存在(更に、フリプセ、モリス、オーマンディ、ストコフスキー、、、とこのリストは追加していくことができよう)が等閑視されているのは、バランスを著しく欠いていると私には感じられる。この中では、バルビローリについてのみは辛うじて、ケネディのモノグラフのお蔭で誤認をせず済んだが、ことホーレンシュタインに関しては、この柴田さんの文章がもたらした負の影響を感じずにはいられない。

その一方で、ワルターが典型だが、戦前の幾つかの、異様な緊張感を湛えたライブ録音(戦後のウィーンでの「里帰り」の第2交響曲の演奏も、寧ろその系列に含めたい気がする)の一方で、戦後間もない時期の、いわば新古典主義的なスタイルの演奏があり、更にはそうした時代様式では括り難い、最晩年のコロンビア交響楽団との一連の録音もありといったようなケースを、時代による様式の変遷の一言で片付けるのもまた、乱暴すぎるであろう。勿論、一般的に見て時代による様式の変遷がないといいたいのではなく、ホーレンシュタインの場合にも共通することだが、それがライブであるのか、スタジオ録音であるのか、或はそのどちらの場合にしても、それがどういう文脈で行われた演奏なのかといった、録音された音響そのものから見れば外的な側面、更には長大なキャリアの中でそうした時代の変遷を生き抜いた音楽家が築いた唯一不二の個性といった個別的なものを無視した抽象は、結局のところ「音楽作品」のような対象を語る際に適切とは言えないのではないかといったことを感じずにはいられないのである。

かくして回り道をしながら、けれども結果的には、ここに至ってようやく、この文章において特に考えてみたいことを述べる準備ができたように思えるのだが、それは一言で言えば、マーラー受容において決定的な貢献をしたこと自体は否定しがたい、そして自分自身がその受益者の最たるものであることを否定し難い、録音された演奏の再生を通しての聴取という聴取のあり方に対する反省ということに尽きる。ただしそれは、単純にコンサートでの実演が「本来的」で、レコード、ラジオ(CDやDVDを経て、今ならネットワークを介したストリーミングによる聴取さえをも念頭に置く必要があろうが)といったメディアを介した聴取が、それの頽落態であり、色褪せたコピーであるといった二分法のような図式的な捉え方の水準の議論では全くない。

それよりは寧ろ、大量の録音記録に容易にアクセス出来るという、一見したところメリット以外見いだせそうにない点に潜む、聴取に対する影響のようなものを問題にしたいのである。しかもそうした環境の影響の度合いたるや、私のような単なる市井のアマチュアに対して決定的な影響を及ぼしているだけではなく、上述の柴田さんのような、ご自身も作曲家であり、聴取についても最高ランクのプロフェッショナルなスペシャリスト(アドルノの聴取の類型論を思い浮かべていただければ良い)でさえもまた、その影響から自由ではありえないのではないかと思われるのだ。従ってそれは(ナティエ的な三分法でいけば)聴取の極だけに留まる問題ではなく、そうした聴取が可能な時代に生きる演奏者の演奏の方にも決定的な影響を与えている筈なのである。(更には創作の極についても勿論同じことが言えるだろうが、これはマーラー作品そのものからは離れることになるので、ここでは扱わない。だが、三輪眞弘さんのような人を除けば、この点について、自分がおかれた同時代のメディア論的状況に対して徹底して意識的、かつ批判的なスタンスで対峙しつつ、その姿勢が、自分の「音楽」の創作そのものと矛盾や誤魔化しなく一貫し、更にその上で実現された音楽の豊穣さに繋がるというケースは稀であるように思われる。)

だがここでは、自分自身の経験に依拠できるという単純な理由から、第一義的にはアマチュアの聴取にフォーカスすることにしよう。例えば、これはマーラーに限らず熱心な愛好家であれば、多くの場合、かつてはSP・LPレコードを、少し前ならCDやDVDを蒐集し、それらを「聞き比べる」というのはごく普通に、自然にやることで、その結果として、各個人の嗜好や価値判断基準に応じた評価が為されることも少なくないだろう。そしてその評価が、しばしばランキングのような形態をとることも珍しくない。もちろん、複数の演奏の比較そのものについて言えば、論理的には、実演に限定してもなお不可能ではないだろうが、実質的には、一回性のものである実演について詳細な比較をすることができるのは、優れた能力を持った人間が自分の能力を十全に発揮するような集中的な聴取を行った場合に限られるだろう。更に付け加えるならば、結局のところ、そうした比較を支えているのは、同じ録音を何度でも聴きかえすことができ、特定の楽章、更には特定の部分のみに絞った聴取が行えるという、録音媒体ならではの聴き方に依存する部分が大きいとせねばなるまい。愛好家の主観的なランキングではなくても、これもしばしば見受けられるようになってきて久しい、同一曲の複数の録音を比較するような研究を、録音媒体なしでやることの困難を考えれば容易に想像がつくであろう。

そしてそうした繰り返し聴取することが出来る可能性は、演奏する側にも影響を与えずにはおかない。例えば原理的に実演に立ち会うことが不可能な、自分の誕生前の演奏すら、録音を通じてアクセス可能であるという状況は、自分の前の世代の演奏様式を跨ぎ越した「先祖がえり」のような様式での演奏といった企てをも可能にする。演奏の精度の問題について言えば、演奏不安の問題は、寧ろ一回性の実演ならではのものかも知れないし、名人芸というのも録音媒体が発達する前からあって、寧ろ、かつてのコンサートの方が今日よりもより多くそうした側面が重視されていたかもしれないことを思えば、録音はそうした観点のみで優劣を判断してしまう傾向の持つデメリットを解消するメリットの方が強調されてもおかしくないのだろう。近年は技術の向上だけではなく、予算上の制約といった消極的な理由でライブ録音が主流になっているが、かつてのスタジオでの収録であれば、納得がいくまでやり直すことが原理的には可能になっている。楽章単位で、場合によっては日を変えての演奏を継ぎ合わせ、更には、微細な演奏上の瑕疵については事後的な編集作業によって、見かけ上の正確さを向上させることは可能であろう。だが、それによって得られる演奏を、コンサートホールでの実演と同一視できるだろうか?ことマーラーに関して言えば、例えば第6交響曲の中間楽章の順序の問題がある。聴取の側に限れば、例えば録音されたものであれば、順序を入れ替えて聴くことも不可能ではないが、コンサートの中である順序で演奏されたものを逆転することと、そもそも別々に収録されたものについてどちらかの順序を選択することは同じと言えるだろうか?仮に指揮者が、ある順序を前提とした解釈を採用したとしても、実際にその順序で演奏するのと、あたかもその順序で演奏されたかのように演奏するのとでは少なからぬ相違が生じると考えるべきではなかろうか。

しかも、何回もやり直せれるのは演奏を録音するフェーズだけに留まらない。聴く方もまた、同じ録音を、何回も繰り返し聴くことが前提となってしまえば、それに合わせるように演奏者側が適応的な調整をしてしまうことが避けがたい。実際、レコード録音がようやく盛んになり始めた頃、指揮者・演奏者は録音されたものが何度も繰り返し聴くに耐えることに優先順位をおいて、解釈までひっくるめて実演とは異なった優先度づけで収録に取りくんだという話も聞く。だが、そうなってしまえば、仮に瑕疵の見当たらない、高精度の演奏であったとしても、録音された演奏というのはコンサートホールでの一度きりの実演とは全く異なる性質のもの、三輪眞弘さんが「録楽」という独自の言葉をあてて区別すべきことを指摘されているように、端的に異なるものと見做した方が良いことになりはしないだろうか。演奏不安は、コンサートでの方がよりシビアかも知れないが、記録された演奏に限れば、破綻のない、手堅い演奏が多くなるという逆向きの影響の方も考慮に入れるべきなのではなかろうか。のみならず、演奏精度の如きものは、一旦ドライブがかかってしまえば切りはなく、本来それが妥当であるかという問いが最早立てられることもなく、ある指揮者・オーケストラによる録音と別の録音を単純に比較して、技術的な優劣を論じてみたり、実演では初めからそこに意識を向けていない限りは気付くことすらおぼつかないかも知れないような細部について是非を議論することになる。それが例えば音響のバランスであれば、それが演奏の解釈の問題なのか録音の問題なのかの見分けさえ一般にはつかないにも関わらずである。そして更にそうした比較して優劣を論じる傾向は、演奏から受ける印象にさえ及ぶ。実演であれば、様々な文脈に規定され(私の場合には、聴き手たる自分のコンディションの影響が聴取の印象を変えてしまうことは避けがたい)、比較することに意味があるかどうかすら疑わしい実演における「感動」をも比較することが当たり前になってしまう。

もっともこの状況は、演奏会のライブ収録が増え、スタジオ録音がされなくなった昨今では変わってきており、録音された演奏に対しても、実演の緊張感や会場の雰囲気のようなものもひっくるめて、ドキュメントとして捉える聴き方が増えているような感じがする。ではあるものの、一度起きてしまったことはその影響が簡単になくなるわけでもなく、寧ろ、録音技術が発達した今日では、寧ろ様々な前提の違いがますます曖昧になった状態で、実演の経験も録音された音響を聴いた経験も一緒くたに、だが、技術的な精度に過度の重みづけがされた状態で、演奏の「出来」なるものを比較して、同じ空間の中でランキングをするということになっているように思われるのである。ドキュメントとして捉える場合について言えば、演奏会場に居て聞こえるのとは基本的に異なった条件、しかもそれは演奏毎にそれぞれ異なる筈なのだが、そうした条件の差異も押しなべて無視して、結果的に録音されたもののみを手掛かりにした作業となることは避けがたい。だが、であるとするならば、一体それは何を比較していることになるのか?

更に言えば、そうした比較をすることの結果として、聴いてすぐわかるような特徴や癖のある演奏が高い評価を得やすくなることは避け難いだろう。それは演奏精度が非常に高いということであったり、解釈がエキセントリックであったり、そうでなくてもそれまでに聴いたことのないような特徴を持っていて新鮮に感じられれば評価を得やすくなることを意味する。実際、柴田さんの文章もそうした嫌疑を持たせるような箇所には事欠かない。自分の聴経験の原点にある歴史的録音でなければ、マーラー・ルネサンスの時期の演奏ですらなく、新しい時代の演奏を、というのもそうだし、ハイティンクの録音やクーベリックの録音に対する「特徴のない」とか「取ってつけたように加減速するのは当世風ではない」といったような評言は、まさにレコード録音が当時持っていた意味合いと、そこから出てくる演奏上の配慮といったものに対し無頓着で、ライブであれスタジオ録音であれ、録音された音響のみで(あたかも他は還元されるべきファクターで、そうすることで客観性なるものが得られると思っているかのように)評価するという点で、たかがメディアである筈のレコードがもたらした様々な弊害を逃れているとは言い難いだろう。

ともあれそれ以降、レコード評でお金を取るジャーナリズムというのが存在し、少なからぬ影響力を持ち、近年では莫大なコレクションの全てに寸評をつけたものが持て囃され、星幾つといったランキングが、時として権威を持ち、そうではなくても参考にされるというのは、だが、考えてみれば(ベンヤミン風に言えば)「複製芸術時代」の固有の現象ではないのかという問いが頭をもたげてくるのを押さえることができないのだ。当たり前に見えるそれらは、実は、複製芸術時代の非常に偏向した価値観の副産物であったりはしないのだろうか。勿論、マーラーの交響曲には、オーケストラの名人芸のための作品であるという側面は確かにあって、演奏技術の問題そのものについても、実際に彼の作品が、彼が指揮をしていた一流の奏者を想定していることは否定できないだろう。まただからこそ、再生装置の性能やら微細なチューニングが問題にされるような文脈において、例えばリヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーのようにオーディオの性能を測定するためのサンプルみたいな扱いもされもしたのであろう。だがそれだけでなく、まさにその演奏技術の向上という点で録音が果たした役割もまた、恐らくは見かけ以上に大きなものがあるのではないかと思われる。幾らプロとはいっても、普段弾きなれないばかりか、演奏の伝統のない作品を演奏するのには困難が伴うだろうし、記録に残る過去の演奏記録の中にも、そうしたことを思わせるようなサンプルには事欠かない。今やアマチュア主体のオーケストラでさえ、マーラーをプログラムに載せること自体は決して珍しいことではないのは、例えばi-amabileのようなWebサイトに掲載される演奏会の予定をトレースすれば確認できることであろうが、そうした現象もまた、膨大なマーラー演奏の録音の蓄積があり、聴経験の堆積があればこそであるには違いあるまい。

あまりに拙く、演奏が続くかどうかはらはらしながら聴き、頻繁に起きる事故に驚くことの連続といったレベルでは作品の実現という点で大きなハンデを背負うことになるのは避けがたいのは確かであり、だから演奏の巧拙が評価の空間を構成する一次元を占めること自体を拒絶しようと考えているわけではない。いわゆるスター指揮者も含めた演奏者の価値観を否定しようというわけではないし、その実現が時として技術的に申し分ないだけではなく、ここで私が考えている「価値」の十全な体現となるケースがあることを否定するわけでもない。そしてその場合に技術的に高度な達成であることが、「価値」の発現に対して寄与する場合があることも否定しない。けれども、その上で、最も間違いの少ない演奏が、最も優れた演奏であるというのは成立しないし、もっと言えば聴き手が自分の中に構築した嗜好の回路は、(そうしたものが成り立つとして、「客観的な」)「価値」とは原則としては関係がないと考えるべきであるように思えてならないのである。評論家や学者が、客観性を隠れ蓑に自分の嗜好の押し売りをやることのもたらす害悪は極めて大きく、この1世紀のうちに、それが暗黙の価値の前提となってしまっていると捉えるべきではないのか?そしてそうした中で演奏技術の次元の客観性、それが価値判断を構成することの妥当性が恰も或る種自明であることとなってしまい、挙句の果てに、そうした価値の体系自体が、リコメンドシステムのような「感性分析」を可能にするようなものへと変質してしまっているのではないかと思えてならないのである。

しかしながら、一見したところ名人芸を要求するかに見えるマーラーの音楽は、これは従来しばしば指摘されてきたことではあるが、特にコンサートホールで聴くと思ったより「鳴らない」。というより、音響的に「良く鳴る」演奏が良い演奏であるということは絶対に言えないのである。彼の作品は、オーケストラの性能を極限まで引き出すものではあっても、その「効果」を最大限に発揮するようには書かれていない。マーラーの場合はシューマンと違って、それは拙さに起因するとは見做されず、寧ろ、現場を知りすぎたカペルマイスターの或る種行き過ぎた技巧の類と見做されたこともあったようだが、リゲティやラッヘンマンが指摘するように、それらは決して末梢ではなく、寧ろマーラーが「演奏」というものをどのような「人間の行為」と捉えていたかを端的に証言しているものであろう。

勿論、商品としての「価値」ということであれば、それは支払う金額に還元されることを拒みえず、コンサートにせよ、録音メディアにせよ、下手なら金を返せになるのは仕方がないことなのだろう。だが、それでもなお、マーラーの音楽を演奏を演奏精度や録音の良し悪しで評価するのは、どこかずれているように思えてならない。「世界を構築する」その音楽は、実演のそのたびごとに世界の創造であり、それは聴き手の娯楽を目的に書かれているのわけではないことを思えば、名人芸のイデオロギーを引き摺った、演奏の巧拙に最も大きな重みづけをおく評価が、基準として妥当でないのは寧ろ当然のことではなかろうか。

そしてそれは、柴田さんの言及する幾つかの例外的な過去の演奏記録に対する評価と無縁ではありえない。私見でも、例えば、アンシュルス直前、ワルター自身の亡命直前のウィーンフィルの第9交響曲と、そのワルターがいわば里帰りをした、1948年のウィーンフィルの第2交響曲の演奏の記録は精度の上で万全には程遠く、録音だって制約が大きいが、そうした制約を超えて聴き取れる音の実質というか、重みにおいてそれらを凌駕する演奏はちょっと思いつかない。それらについては技術的な演奏精度や録音の質とは別のところに価値があるという点は、柴田さんの主張からも読み取れるだろうが、一見そのように受け取られるとしても、それらの例外性は、いわゆる時代様式という観点に回収しきれるものではないと私は理解している。それがマーラーと同時代の様式「だから」価値があるわけではない。

他方で柴田さんは、例えばローゼンストックを引き合いに出してホーレンシュタインの演奏を、その時代の演奏様式に還元して論ずるけれど、そうすることで聴きとることができなくなってしまったものが実はあるのではないか、というのが、後年、ホーレンシュタインの様々な演奏(その中には柴田さんが論じた録音もあれば、論じなかったものもあるのだが)を聴いた私の偽らざる印象なのである。戦前のレーケンパーとの子供の死の歌との違いは、時代の違いに還元され、一方では時代の違い、年齢の、つまりは経験の、加齢の違いを超えたホーレンシュタインの個性の方は見落とされてしまう。私見によれば、ホーレンシュタインは彼がオーケストラから引き出すことのできた響きの姿の持つ、ごつごつとして実質的でずっしりとした手応えや、強靭で、シェーンベルクの指摘した、長くなればなるほど白熱するマーラーのフレージングの特質を十全に実現している点において、間違いなく最高のマーラー指揮者の一人であって、その価値は時代の変遷などものともしないし、後年のより技巧的に安定した、高度な録音技術に支えられた他の演奏に勝るとも劣ることは決してないのだが、柴田さんの評を読んでしまった故に、それに気付くのに、大変な遠回りをすることになってしまったのである。

だが、既述のワルターの2つの演奏記録に関して言えば、話はそれにとどまらない。それがワルターがウィーンにいられなくなり、結果的にアメリカに亡命することになる直前、と当時に、ナチスに支配され、マーラーは演奏することを禁じられる直前という時代と場所に固有の状況が、単なる演奏の一回性という一般的な認識を超えた色合いを付加するように見えるし、それと対を為す1948年の録音は、この時期のウィーンでこの作品が選ばれたことの意味、ワルター個人の里帰り、禁じられたマーラーの演奏の再開、更には戦禍による破壊を蒙ったウィーンでの音楽の復興といった多重の意味合いが、やはり同様な特殊な意味合いを与える。しかもそれは、そういうことを知識として知ってから演奏を聴く聴き手にとっての或る種のバイアスとなるという意味合いにおいてだけではない。私自身については、前者については、まさにこの柴田さんの文章によって、そのことを先に知ってから演奏を聴いたのだが、後者は逆だった。1948年のワルターの復活というのが柴田さんの文章にあったことは覚えていたものの、それ以外の事情は知らずに、かつ(鈍感なことに、と憤慨されることを覚悟で言えば)あまり深く考えることなく、結果として気付かずに聴いて、その異様な雰囲気に驚いたのであった。私はこの作品の実演については不幸な経験しか持っていないので、そちらからの刷り込みもなく、とりわけても合唱が入ってからの異様なテンションに、一体何が起きたのかと思って調べて、ようやく背景を知ると共に深く納得したのである。

かくして通常は「音楽外」のファクターということで、ランキングの際に優先的に考慮されることはなくとも、時として個別の音楽「外lの文脈の例外性が演奏に刻印されてしまうという偶然が、評価の「客観性」なり「普遍性」なりを主張する基準を凌駕してしまう。そしてそれは(三輪眞弘さんが、逆シミュレーション音楽の定義という形で示したように)「音楽」というものの寧ろ不可欠な要素として捉えるべきなのではなかろうか。

勿論、奏者の共感といった要素もまたそうした要因の一つであって、柴田さんはヴェーベルンの指揮する勤労者のオーケストラと東京大学の学生のオーケストラを対比させて、前者にはそれがあり、後者は「マーラーという個性が体験した心のドラマとはまず、非常に別物」という言い方をされていて、恐らくそれは時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりをその理由とされているのだろうが、仮にその演奏自体が、柴田さんのような専門家の耳にそのように聞こえたことが事実であったとしても、そのことをもって、時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりが、マーラーの音楽への共感を不可能にするアプリオリな条件であるという結論には決してならないと私は思うのである。(とはいえ、私の知る限り、バブル期の日本におけるマーラー演奏は、少なくとも受容サイドについて言えば、時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりを強く感じ、かつ深い拒絶反応を惹き起こしてしまい、その後一旦マーラーを聴かなくなるという状態にまで追い込まれたのだが。)

もしそうであるならば、(実際には柴田さんの口調にはそうした傾向が感じられなくもないのだが、)音楽を生み出した文脈に全て還元して事足れりとなり、マーラーのような過去の異郷の作品は、寧ろ博物館に陳列される遺品か骨董の類に過ぎない事になってしまうだろう。(そして勿論、実際には今日のほとんどの人間は寧ろそうした意見の方に与するであろうことは容易に想像できる。『音楽の手帖』の他の書き手の中には結局のところマーラーの音楽をそうしたものとして、例えば過去の文化研究の対象の一つとして扱っている人がいるかも知れない(というか、結局そういう接し方しかしていないと思われる人は少なからずいるように私には思える)のだが、少なくとも柴田さんはそのように考えていたわけではなかったのではないかと思われるのは、既に例として掲げたワルターの2つの演奏の記録に対する柴田さんのコメントから伺うことができるように思うのだが…)

仮に日本のバブル期のマーラー受容が、時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりを浮かび上がらせるものであったにせよ、それは個別の「外れ」のケースに過ぎず、そんなことが取るに足らないことであることは反例一つあれば十分で、実際に私のケースであれば、更に時代を隔てた日本における実演での、そうしたトラウマから逃れることを可能にするだけの強度をもった聴経験によって、既述したような見解に至ったのである。

もちろん、こうしたことについては客観的に論理的にどちらが正しいということはなく、最終的には机の叩き合いにしかならないのだろう。だが繰り返しを懼れずに言えば、FM放送やLPレコードでマーラーの音楽に接し、その後、幾つかの実演に接した後、その当時のマーラーの受容のされ方に耐えられなさを感じて、一旦マーラーを聴くこと自体を止め、その後再びマーラーを聴くようになって以降、結局のところコンサートのレパートリーの一つ(しかも確実に集客が見込める主力商品)としてマーラーを演奏する他ないコンサートではなく、マーラーを演奏するためにコンサートを企画するような取り組みに対象を限定して、再び実演に接することにしてから既に8年の歳月を経た現時点での認識として、現在において自明と考えられている聴取のあり方というものが、結局のところ幾重もの歴史的・文化的な拘束の下にある他無く、勿論、そこから完全に自由になるということは、それはそれで幻想でしかないけれど、だからといって、暗黙の前提としている聴き方を変えることは必ずしも不可能というわけではないという認識を、その事を感じさせられた経験とともに記しておきたく、一文を奏した次第である。

私がアマチュアオケの演奏なら実演を聴いてもいいかと思ったのは、既述の通り、コンサートホールでプロの演奏から得られるものの質に対する懐疑ゆえであった。(誤解のないように言っておくが、だからといって、それらが皆全てやっつけ仕事だったと言いたいわけではなく、或る時には会場の雰囲気によって、或る時には皮肉にも寧ろ、十分に歴史的なパースペクティヴを踏まえたプログラム構成が仇となって、或る時には柴田さんが記事で賞賛した指揮者の一人の解釈によって、或る時には、およそマーラーのような音楽を聴くのに相応しくないと思われるホールの音響によって、或る時には、技術的にいっぱいいっぱいであることと柴田さんの指摘するタイプの共感の欠如の奇妙な混淆によって、そうしたことが起きたのであって、一律に演奏者にその責を負わせることはできないものであったことは強調しておきたい。)それは多分、CDに録音された演奏記録を通じて、マーラー・ルネサンスとその寧ろ手前(それは即ち、柴田さんの文章で些かネガティブに評価された時期にあたる)においては、恐らくはマーラーを演奏することが自明のことではなかったが故に記録に残された演奏のそれぞれにおいて、単なる時代の様式には収まりきらない、それぞれに固有の響きがあることを確認する経験が増えたことと無関係ではないだろう。当時は恐らく、それがライブであろうが、スタジオ録音であろうが、マーラーの演奏に取り組み、それが記録に残るということ自体が、一つの「出来事」であったのではなかろうかと想像されるのである。それらの記録が、いわば忘れられた状態にあったこと、単純化して言えば、マーラーの弟子達とマーラー・ルネサンスの間にはまるで何もなかったかの如くの了解がいつの間にか出来てしまい、単なるマーラー受容史の記録としての価値以上のものがないとでもいうような扱いを受けていたことは、マーラールネサンスこの方、ようやく1970年台も後半に至って、マーラーの「本当の」受容が始まったかの如く、「いよいよマーラーの時代が来た」とさえ喧伝されたバブルの頃の空騒ぎとどこかで共犯関係にあったのではなかろうか。勿論、マーラーの音楽が普通のレパートリーになるにつれ、演奏のレベルは確実に底上げされはしたのだろう。けれども、そうしたコンサートを聴いたところで、あるいは陸続と現われ、その度に賑々しく喧伝される新しい録音を渉猟したところで、バブルの時期に完成されたシステムに従った、単なる商品やサービスの消費以上のものを見出すことができるようには思えなかったのである。

では一体何ができるかと考え、それなりのサーベイをしての結論は、まずもって自分がマーラーを演奏するという企図と行為とにコミットすることであった。要するにマーラーを演奏することを目的としたプロジェクトを支援するということで、今であればクラウド・ファンディングという用語も出来、そうした発想は当り前のものになったようであり、その先駆けのようなものと考え頂いていいと思うが、そうした発想の下でマーラーの実演に再び接することにしたのである。それから8年が経過し、その間、7番、9番、10番(クック版)、4番、大地の歌、8番、5番の7回のコンサートに関わり、病気で行けなかった最後の回以外の演奏には立ち会うことが出来たのだが、その結果は、ほぼフィアスコのような経験の繰り返しだったかつての実演とは異なって、確かな手応えのあるものであったと思う。(付記すれば、四半世紀以上も前に実演に接する機会を逸した後、再度の機会もまた逸してしまった第5についても、この文章を公開するとほぼ同時に、あるアマチュアオーケストラのアニヴァーサリーコンサートにて、ようやく実演に接することが叶ったのであった。)個別の演奏会の記録は別に記したので繰り返さないが、それが私にとっては貴重な経験であり、最初は試みに始めたそれが、そのような結果となっただけではなく、マーラー以外の音楽の聴き方にも、否、音楽を聴くこと以外の局面にさえも影響を与えることになったことは記しておきたい。

その上で、そうした経験を経た後の、マーラーを聴くことについての認識を述べれば、それは概ね以下のようになるだろう。

アマチュア主体のオーケストラの演奏はどうしても技術的には大きな制約を受ける。録音記録にしても、いわゆるお化粧は原則ないから、マイクに入ったそのままに近いものを聴くことになる。そうした演奏の記録には、例えばyoutube等に公開されているものもあるのだが、それには非常に低い評価のコメントがつくことがある。

ある人が、その記録だけを対象に、youtubeでの再生という制約の下で、それまでの聴経験によって築き上げた独自の価値尺度によって為す評価に対して異を唱えることはできないし、記録だけ聴けば耳に付く技術的な欠点があって、それが気になって普通の聴取が出来ないということもあるかも知れない。とはいうものの、それが自分が実際に立ち会った演奏に対してのものであれば、些か事情は異なってくる。具体的にここでは井上喜惟指揮、ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの演奏を念頭においているが、私は、実演に接した限りにおいて全く異なる印象を消し難く記憶していて、それゆえに、そうした評価に反論するつもりこそなくとも、何故、このようなギャップが生じるのかに思いを巡らせ、そうでない聴き方というのが可能でないかという問いかけをしてみたくなるのは避け難いのである。

そう思って改めて演奏記録に接してみると、まず感じられたのは、自分が会場で聴いたと思っていた記憶とは少なからず印象の違いがあることであった。だがこれは音楽的時間の質のレベルではなく、随分と色褪せたものになっているとはいえ、その点では会場で聴いたのと基本的には変わっていないように感じられた。違いは微細な音響バランスの問題がほとんどで、これは恐らくはマイクの位置と私が聴いた席の場所の違いもあり、どちらが正しいということでもないのだろう。ただし、繰り返しを厭わずに言えば、感じ取れる音楽的時間の「充実」の度合いについては比較にならない程の隔たりがあるのは否みがたく、例えばチェリビダッケのあの録音に対する姿勢がごく自然に首肯できるように思われたのである。

だが、にも関わらず、録音記録そのものというよりは、それをトリガーとして呼び起こされる印象の記憶をベースとした再構成をしてみれば、聴いて受け止めることができる聴経験の密度の濃密さには圧倒されるものがあった。わけでも第9交響曲の演奏は、これはあまたあるプロのオーケストラの演奏に伍して、寧ろ優ったものであるとさえ思われた。勿論、演奏精度を言い出せば、当然ながら難癖は幾らでも付けられるのだろうけれど、そんなことをして、その演奏だけに聴き取りうる無二の固有の質を受け止めることよりも演奏の正確さのチェックが優越してしまうような聴き方に意味があるとも思えない。世上、アマチュア主体のオーケストラの演奏には、技術的な限界というレッテルが残念ながらついて回るようだが、ことこの演奏に関しては、そうしたことが全く気にならず、そうした評価に対抗する力を際立って備えた記録であるように感じられた。

実を言えば、それには音楽外の要因、即ち東日本大震災の体験が関係していることは間違いなく、それが演奏に(そしてその演奏の聴取に)落とした影を否定するのは適切ではないだろう。寧ろ逆に、素直にそれを認めるべきで、かつ、そうした音楽外の要因を捨象して、「客観性」を装った態度で演奏の出来を云々してみても始まらないのではないかと思えてならない。

繰り返しになるが、例えばアンシュルス直前に一発録りされたワルターとウィーン・フィルの戦前の記録があって、これは録音の制約もあり、また演奏技術的にも満足のいくものではなく、ワルター自身はあまり評価していなかったという話も聞くけれど、にも関わらず、何度と無く言われてきた通り、この記録に残された音楽的時間の特異性は、空前絶後のものだろう。あるいは1948年のウィーンでの第2交響曲の演奏記録でもいい。ここで言いたいのは、戦前の演奏様式が、といった話ではなく、また、ワルターの戦前の録音一般に対する評価の一翼を担うものとしてではなく、それらの演奏会の都度限りの、一度きりのアウラ、比類ない、比較を拒むものの存在についてであり、そしてそれが時空を隔てた全く別の場所で別の演奏においてやはり生じたのを自分は確かに経験した、ということに他ならない。

このジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの第9の演奏には、何者かが憑依したかのような凄味がある、というのが端的な表現になるのだろうか。勿論それは当日にも感じ、記録でも触れたのだが、でも改めて今回聴いて見て、単に「入った状態」というのでは足りずに、「何者かが憑依したかのような」凄みがある、否、更に「かのような」を取り除くべきなのかとさえ思ったのである。

勿論、こうした私の主観的な経験の記憶は、そうした文脈なしに、実演の退化したコピーをそれまでに聴いた他の演奏記録と比較しながら聞いたかのコメント記入者の判断と両立しうる。そのどちらかが間違っていて、どちらかが正しいというわけではない。何故なら、両者は多分厳密な意味で「同じ」演奏を聴いているのではないからだ。

だがそれにしても、色々な演奏をとっかえひっかえ聴けるような環境で、まるでスポーツの採点のように演奏の精度だけが独り歩きする「評価」なるものが正当なものであるのか、そうした聴取が、音楽外の文脈を纏い、主観的なバイアスがかかった聴取と比べて優越しているといえるのか、やはり疑問を感じずにはいられないのである。私はこの演奏を聴いた後、オーケストラの事務局に感想を伝えたのだが、それに対する返答は、その「演奏はすべてがあるべき事があるように行われたと感じてい」る、「なぜそうなったのかはわか」らないし、「わかる必要もないのかもしれ」ないという音楽監督の言葉であったのを、非常に印象深く記憶している。

それはまさに「何者かに憑依されたかのような」という言葉で私が表現しようとしたことと、実質について変わるところなく、シェーンベルクが第9交響曲について記した言葉、そのラディカルな非人称性を「誰かが作曲者をメガホン替わりに使っている」と言い当てたことが否でも思い起こされる。シェーンベルクが見抜いたように(あるいはマーラーとのやりとりがあって、それ踏まえての発言だった可能性もあるだろうが)、マーラー自身もまた、そのように感じ、それを1世紀後に異郷の地で演奏した人間もそのように感じ、私は受け止めるだけであるとはいえ、やはり私もそのように受け止めたというそのことに、一般的な演奏の評価基準で測ることができない、恐らくはそもそもそうしたものとは次元を異にする価値が存するのではないかと思うのである。

恐らくこの演奏会には、一般的に今日の日本でコンサートが果す機能として了解されているものよりも、寧ろ、或る種の「奉納」の儀礼に近いものがあったと考えるべきなのではなかろうか。勿論、奉納の儀礼にだって出来不出来を云々することは可能だろうが、定義上は、そもそも奉納には出来不出来や巧拙はない筈だ。(その替わりに、或る種の正確さ、決められた手順を守ることは求められる。)もしそれが「奉納」であるならば、そして「音楽」は、それが世俗化され、コンサートホールで演奏されたとしても、時として「奉納」として機能しうるのであるとするならば、その演奏に対して、聴き手が偉そうに、自分の価値判断を振りかざして序列づけするなど、「音楽」の本質から甚だしく懸隔のある暴力、「非音楽的」な暴力ではなかろうか。

既にそうした試みは現実に行われているようだが、いずれ機械がいくらでも正確な演奏を行えるようになった暁には、その反動のようなものとして、もう一度、「音楽」が人間のものとなり、「あるべきよう」に受容されるようになるのだろうか?それとも単に人間が機械に順応し、「人間」のものとしての「音楽」が本当の意味合いで死滅するのだろうか?(残念ながら、どちらかというと、後者の兆候の方がより多く私には感じられるが。)

いずれにしても既に現在、というかこの一世紀この方、「音楽」の価値の序列は簒奪され、歪なものになっているのに、それが当たり前になっていて、それについて疑いが持たれることすらほとんどなくなっていることは、「音楽」という領域に閉じた問題であるというよりは、寧ろより広く「人間」の側の問題なのではなかろうか。もしそうであるとするならば、マーラーの聴取の仕方を変えることは、単に音楽の聴き方に留まらない、非常にラディカルな態度変更に繋がるものとなるのだろう。

だが実は、この問題自体、既にマーラーの時代にも存在したものであり、マーラーの音楽はそれに対する応答の試みであって、それゆえそうした態度変更は、マーラーの音楽そのものに誘われたものかも知れないのである。そういう意味合いではマーラーの音楽は、こうした問題を考えるにあたって極めてユニークな位置を占めていることになるだろう。であってみれば、ことマーラーの聴取様式を問題にするにあたっては、まずはこの点を再認すべきなのではなかろうかということを述べてこの稿を終えたい。(2018.7.7/8 暫定稿 7.10, 14, 21加筆修正, 2021.1.29修正)

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