少し前に「マーラーの聴取様式」と題する文章において、私が幼少の頃に出会った「音楽の手帖 マーラー」(青土社)における柴田さんの文章を手掛かりにしたが、そこでも言及したように、一般には、柴田さんのマーラーについての文章では、いわゆるマーラーブームの最中の1984年に岩波新書の1冊として出版され、その後岩波現代文庫にも収められた「グスタフ・マーラー ―現代音楽への道」が有名であろう。だがここでは、柴田さんが音楽社会学者アルフォンス・ジルバーマンによる「マーラー事典」(邦訳・山我哲雄、監修・柴田南雄、岩波書店、1993)の邦訳に寄せた文章において、アマチュア・オーケストラによるマーラー演奏を再び取り上げていることに触れて置くべきかと思う。ただし視点は、上記の私のものとは異なり、聴取の様式にフォーカスしたものではなく、マーラーが日本に定着した度合いを測定する尺度の一つとしてである。私見では、色々と議論すべき題材に事欠かないのではあるが、ここでは以下に関連する箇所を抜粋して引用するに留めよう。
「さて、西洋音楽はわれわれにとって明らかに異文化の音楽様式だが、はたして日本の社会に定着しつつあるのか、それを判定する尺度の選定は、それこそ応用音楽社会学者の仕事だろうが、わたくし自身はその指標の一つに、アマチュア・オーケストラの成果をあげることができると思っている。それは、わたくし自身が高校時代に小さな器楽アンサンブルに参加して以来、二度の大学生時代には学生オーケストラとセミ・プロの弦楽合奏団でチェロ奏者を経験し、また1933年以来60年にわたって、日本と世界の職業オーケストラにも一応は目配りを怠らなかった、という認識からである。」(pp.633-635)そして最初に、「音楽の手帖」の文章でも言及のあった、(A)東京大学のオーケストラの演奏が言及され、更に加えて、(B)山田一雄指揮の新交響楽団の演奏、(C)井上道義指揮の東京マーラーユーゲントオーケストラの演奏が取り上げられる。演奏の日付も記載があるが、ここでの目的には関係が薄いので割愛するが、それぞれに対する評言は、演奏がどうであったか以上に、私がここで考えたかった「聴取様式」に関して極めて興味い示唆を含むものと思われる。
例えば(A)については、「音楽の手帖」での言及よりも遥かに詳細に、「(…)まず、その予想外の上手さに舌を巻いた。そして、要するにオーケストラは西欧の合理主義が生み出した一つのシステムなのだから、技術的な完全主義と指揮者の集中制禦の下での一糸みだれぬ行動が確保されるなら、こうした巧緻な合奏が成就するのも当然は思った。だが同時にわたくしは、彼らの音楽表現がヨーロッパのオケとはひじょうに異質であることも痛感した。その原因がメンバー個人の音楽的主張の不在、個性同士の劇的でダイナミックな葛藤の不在、その遠因としてキリスト教精神の不在が考えられるだろう。」とまで言い及ぶ。これは些か余談めくが、最近読んだAIに関する概説書に、AIと一神教の関係を論じたものがあったのを思い出すとともに、三輪眞弘さんの「万葉集の歌の一節を主題とする変奏曲 または ”海ゆかば”」における「非合奏」の試みのことを思わずにはいられなかった。だがこの問題は、こうしたところで行きずりに論じるには余りに大きすぎるがゆえに、ここでの議論は諦めざるを得ない。とはいうものの、これは演奏者のみの問題で在ろうはずはなく、聴取の様式でもあるのは明らかだろう。柴田さんのコメントはオーケストラという「制度」一般のレベルで為されているが、ここで演奏されているのが、他ならぬマーラーの作品であることを捨象してしまっていいものか。しかもマーラーの場合には「大地の歌」のような作品もあるし、第2交響曲や第8交響曲にしても、あるいは第4交響曲の「天国」にしてもそうだが、キリスト教との関係はおよそ自明というには程遠く、更に言えば、それと同時に、極東の地からの展望ゆえの逆向きの単純化の方にも注意すべきなのである。李白や孟浩然、王維といった存在は日本人にとっては「異郷」でもなければ「故郷」でもなく、かつてのように漢籍が基本の教養であった時代の後に生まれた私のような人間でも、意識的に向き合った経験と同時に、自分がそれを伝統の内部で無意識的に受け取っている側面というのに気付かざるを得ず、その距離感を測るのが極めて困難な存在であるが、それに反対側から対峙する、しかも、ヨーロッパ的「自然」から疎外され続けてきたユダヤ人が対峙するといった状況は、西欧と日本、キリスト教的一神教と東洋的な思想といった単純な対立で扱うことはできないだろう。勿論、大筋において柴田さんの構図に異論があるわけではないけれど、ことマーラーの受容ということについて言えば、それのみに限定して論じることを拒むものがマーラーそのものに内在していると私には思えてならない。だが、これ以上の議論は稿を改めるべきだろう。
(B)については「個人の表現意欲、音楽する喜び、とくにこの指揮者が絶えず音楽的感興を誘発するのに対して、瞬時に反応して自他ともに興奮の坩堝と化す、といった趣が感じられた。これは上記の東大オケとの大きな相違点だし、また日本の職業オーケストラ一般の技術至上主義に徹して、醒めた演奏態度を崩さないのとも異なる、いわばソフト面の充実した演奏だった。だが、そうなるとハード面がも少し強ければ、という感想も出てくるのだった。」としている。この部分については、私がアマチュア主体のオーケストラを聴く理由と重なる部分が少なからずあるけれど、その点はここで再言するまでもなく明らかであろう。
(C)についてはまず「この曲の演奏を目的に集合した団体」というオーケストラの性格づけに触れた上で、「アマチュアであろうとなかろうと、われわれ日本人がオーケストラでここまで西洋音楽をやれるようになったのか、というのが率直な感想だった」とその「驚き」を記している。そして「この夜に発揮されたすぐれた音楽表現の原動力は、音楽経験や感覚や技術よりも、むしろ頭脳と身体を使っての、ふつうの社会生活の経験からではないかと思った。欧米の音楽家たちの持っている、音楽の才能と技術以外のもの、あるいはそれ以上のもの、そこにこそ音楽の本質があり、そこから音楽表現が発生する根源、それは日本のプロの音楽家たちが、専門教育の過程や狭い音楽社会の中では学び得なかかったものであり、それをこのオーケストラのメンバーたちは身につけているのではないか、と思った。」と記していて、当否についての議論はあるにしても(そして、このように断るからには、必ずしも無条件で首肯できるとまでは私は思っていないのだが)、こちらもまた、演奏のみならず、聴取にも関係する非常に興味深い指摘であり、これに言及せずに、「音楽の手帖」の文章のみを参照してしまえば、たとえ柴田さんの文章を主題的に論じることがが目的ではないにしても、その主張について誤解を生じかねないと感じたが故に、このような補足を注記する次第である。寧ろ、柴田さんが感じ取ったものに近いものを、私もまた受け取った可能性を否定できない。ただ、このような歯切れの悪い書き方になるのは、受け取ったものの質については(柴田さんと私の間に存在するであろう、音楽的素養や才能、音楽外の教養や知性の懸隔を超えてなお)一致するものがあるのでは、と感じる一方で、それを論じる枠組みには、(A)について触れたのと同様の齟齬、違和感を感じ、留保をつけたくなる気持ちを抑えがたいからである。事態は恐らく非常に錯綜としているに違いない。「欧米の音楽家たちの持っている、音楽の才能と技術以外のもの、あるいはそれ以上のもの、そこにこそ音楽の本質があ」る、という断定は首肯していいものか?必ずしもそれは欧米の音楽家が無条件で備えている何かではないのではないか?そして再び、ことマーラーに関して言えば、寧ろ欧米の音楽家たちが無条件には持ちえない何か、だが、優れた音楽家が意識してか否かを問わず身に着けた感覚、多分柴田さんの指摘の通り日本のプロの音楽家の多くには欠けている、だが、それは欧米の音楽家においても必ずしも無条件で備えているわけではないものを、マーラーの音楽が求めているということはないのだろうか?だからそれは例えば、ユダヤ人だから自動的に可能になるというものでもないと私は(イスラエル・フィルの大変に立派ではあるけれど、何かがずれているという感覚を強く持ったマーラーの実演に接した経験に照らしても)思う。勿論、フルトヴェングラーの雅楽化と形容されることもあるらしい近衛秀麿以来、今なお避け難く残っている「日本人のマーラー」といったものが規定できるかも知れないし、それは欧米のマーラーとは異質なものだと言われれば、そうなのかも知れないが、ことマーラーについていえば、そのどちらが「本来的」かといった議論自体を無効にしてしまいかねない契機が音楽そのもののうちにあるように思われるのは、極東の1世紀後のアマチュアの戯言に過ぎないのだろうか。ご自身作曲家としてそうした点について極めて自覚的であったに違いない柴田さん、何よりも戦前のプリングスハイムによるマーラーに圧倒された経験をお持ちの柴田さんは、こうした反問に対して、どのような答えをくださっただろうか。
このあともう一パラグラフ、結びの文章が続くが、その内容は再びアマチュア・オーケストラの社会学的な位置づけに関するものであるけれど、そこで以下のように述べておられることは、上記の私の素朴な疑問への答えのヒントになるように感じられるので、それを引用して結びとしたい。一言付言すれば以下で述べられる「固有の演奏スタイル」というのを、必ずしも自覚的にではなくとも一足早く実現しつつあるのは、寧ろアマチュア主体の演奏なのではないかというのを「多くの選択肢の中から選び出す」立場にある聴衆の一人として感じるのであり、それゆえ柴田さんの慧眼は、バブル景気に踊らされただけに見える当時のマーラー・ブームの中で、冷静に未来を見通していたことに感銘を受けざるを得ない。音楽社会学の役割についての末尾のコメントについては何も言わないことにして、だが例えば、その柴田さんが書かれた「音楽の骸骨の話」を踏み板にして、柴田さんと問題意識を共有しつつも、その問題設定を超えた活動を展開している三輪眞弘さんに対する応答を続けていることを証言するにとどめたとしても、尚、である。
「やがて、日本のプロのオーケストラも固有の演奏スタイルを獲得する日が来るだろう。いつまでもヴィーンやベルリンのオーケストラを目指していてもはじまらない。しかし、それはプロのオーケストラだけが作るのではなく、基本的には聴衆が多くの選択肢の中から選び出すものだ。ヴィーンでもベルリンでも、パリでもシカゴでもそうであるように、日本でもそれは一般聴衆の好み、音楽趣味、音楽観が決めるだろう。だがその過程で、実践者でもあるアマチュアが、主動的な役割を果たすとまでは行かなくても、聴衆とプロの間にあってその方向性を示唆することは可能だろう。その意味でも、わたくしはアマチュア・オーケストラの活動に期待する。ともあれ、もし日本での応用音楽社会学の試みが可能なら、その重要なテーマは今日でも依然として、文化変容つまり西洋音楽受容における歪み、ではなかろうか。」(p.635)(2018.7.24, 29追記・末尾を大幅に改訂)
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