2018年7月16日月曜日

30年越しで第5交響曲の実演に接するー川口市民オーケストラ第27回サマーコンサートを聴いて

川口市民オーケストラ創立40周年記念演奏会
第27回サマーコンサート
2018年7月15日 川口総合文化センター・リリア メインホール 

モーツァルト「魔笛」K.620より抜粋
第1幕:序曲、2番.アリア「おいらは鳥刺し」(パパゲーノ)、
 4番.レシタティーヴォとアリア「ああ怖れ慄くことはない、我が子よ」(夜の女王)、
 7番.二重唱「愛を感じる男の人達には」(パミーナとパパゲーノ)
第2幕:14番.アリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」(夜の女王)、
 20番.アリア「娘か可愛い女房が一人いれば」(パパゲーノ)
 21番.フィナーレより「パパゲーナ!」(パパゲーノ)~
  「パパパ」(パパゲーノとパパゲーナ)~終幕の音楽(管弦楽のみ)
マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調

指揮:高橋勇太(客演)
ソプラノ:見角悠代
バリトン:佐藤望
管弦楽:川口市民オーケストラ

私にとって初めてとなるマーラーの第5交響曲の実演に接した感想を以下に記しておくことにしたい。

これは個人的な事情だが、私にとってマーラーの第5交響曲の実演は、30年越しの宿題で、しかもつい1年半前にも、今度はプログラムに寄稿する文章まで書きながら、30年前同様、トラブルにより行けなかったことも手伝って、放っておいたら聴かずに終わるかもという不安もあり、帰宅時間を気にしながら、これも初めて訪れる川口まで足を運ぶ決断をした。(私は東京の西郊にいるので、都心を抜ける必要があった。ホールが駅前という立地もあり、実際には1時間と少しで行けるので必ずしも遠いという訳ではなく、新宿駅の混雑の中の乗り換えを耐えることができれば、幾らでもあるだろう、西郊にあっても交通機関の制約でもっと時間がかかる場所に比べてアクセスが困難であるということはないのだが。)ありがたいことに無料でチケットもなく、その日に何もなければ出かけるというのが可能だったのも大きい。何を大げさなと思われるかも知れないが、何しろ第5交響曲については、30年前、サントリーホールの隣のビルで働いていて、トラブルのせいで残業になって、チケットをふいにしたのがケチのつきはじめ、現在は体力をはじめとする様々な制約から、ごく稀な例外を除いて平日夜のコンサートは始めから断念しているし、どんな理由でキャンセルを余儀なくされるかわからないといった緊張の中で、幸いにしてコンサートに行けても、どこかで音楽に没頭できなくなることの方が多くて、それゆえコンサートから益々足が遠のく悪循環が続いているので、この日訪れることができたのは、私にとっては僥倖のようなものだったのである。

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コンサートの方は、川口市民オーケストラのアニヴァーサリーコンサートの一環として企画されたサマーコンサートとのことで、後でwebページを拝見すると、前回のアニヴァーサリーでは第1交響曲を取り上げられているようで、今回も同様の趣旨とのお話もあって、これも僥倖のようなものだと感じずにはいられない。プログラムは上記の通り、(これも勿論、足を運ぶことを決断するのに少なからず力があったのだが)前半が、私が普段より親しんでいる数少ない歌劇の一つである「魔笛」の抜粋、15分の休憩を挿んで後半がマーラーの第5交響曲。

別のところで述べているように、私には共感覚(色聴)があって、しかもそれが強く表れるのが、丁度この日に取り上げられた2人。前半の(必ずしも全曲がそうというわけではないけれど、抜粋されて一層明確に)フラット系の金色から乳白色、白色にかけての調的色彩のパレットに対し、後半は明度や彩度のグラデーションはあっても(そしてアダージェッドのコントラストはあるけれど)、基本的にはシャープ系のどちらかというと灰色・寒色系から、青や緑といった光の溢れる野原を思わせる調的色彩のパレットというコントラスが鮮明な構成だった。

指揮は高橋勇太さん。ごく限られた演奏を限られた時間に聴くだけの私にすれば当然だが、私が聴くのは初めてだったけれど(正確に言えば、私も多少のお手伝いをさせて頂いた、井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラによる第8交響曲の演奏において合唱指揮を担当されていたのに接したことはあったのだが)、オペラの畑の方のようで、それは「魔笛」のみならずマーラーの演奏でも感じ取れた。歌手もまたいずれも聴くのは初めてだが、リゲティの「グラン・マカーブル」の日本初演をやった(それだけで超絶的な技量をお持ちであろうことは想像できる)見角さんのソプラノと、一聴して直ちに、マーラーのリートを聴いてみたくなるような声をお持ちの佐藤望さんのバリトン。

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コンサート以上にオペラからは縁遠い私は「魔笛」も実演で聴くのは初めてだったが、最初の変ホ長調の和音で金色の光が溢れてきて圧倒され、その後はモーツァルトの天才に圧倒されっぱなしだった。モーツァルトは実はとても難しくて、プロがやってもさっぱり楽しめないケースには事欠かないけれど、歌手の二人がリードするのを指揮者が受け止めて、流れができたように感じた。

歌手はどちらも素晴らしい。想像するに、さすがにいきなり夜の女王のアリアはやっぱり大変で、最初はエンジンがかかっていない感じがややあったように記憶するが、復讐のアリアは解釈も申し分なく、コロラトゥーラの音程もこちらは破綻なく、見事の一語に尽きる。でも圧巻は最後のパパゲーノとパパゲーナの掛け合いで、盛り上がったまま終幕の音楽になだれ込んで大団円。

こうして改めて聴くと、モーツァルトは本当に天才と呼ぶほかない。人間の感情の多彩なパレット、それぞれの時と共に遷ろう無限のニュアンスを、こんなにシンプルな音楽で、こんなに自在に操ることができるなんて…と同時に、それが単なる感情表現に終始せず、何か神話的とでもいうべき深みが開けてきて、慄然とさせられる。とともに、一方では、リアルタイム音声合成による歌唱で、人間とデュエットを試みるような場面に接していることもあって、人間の声の美しさ(平凡な形容で申し訳ないが、形容のしようがない)にシンプルに圧倒されたように感じる。

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ということで、こちらだけでも(それでも、こちらだけだとわざわざ川口でのコンサートを聴きに行こうとは思わなかっただろうが)行った甲斐があったのだが、本来の目的の第5交響曲も、アマチュアのオーケストラのアニヴァーサリーならではの演奏の素晴らしさが漲ったものだったと思う。

勿論傷はあるし(記憶の限りでは、第1楽章コーダの末尾に推移する部分、377小節、Poco meno mossoのアウフタクトから入るトランペットが入るところで突っこんでしまって、そのまま落ちてしまったのが一番残念な事故だっただろうか…)、第1楽章始まってしばらくは弦にやや硬さがあるように感じられてはらはらしたものの、徐々に調子が出てきて、第2楽章の出だしがぴったりきまると、見違えるように音楽が輝きだし、それ以降は弛緩のない、充実した演奏であったと思う。

この曲は、すっかり有名になって、今日ではあちこちでやるようになっているけれど、本当にめげてしまう程難しい。2月末から半年近く練習したとのお話で、パートによってはエキストラが入ったとはいうものの、目を見張るような充実ぶり、こちらはほとんど音楽が身体に沁みついていることもあり、難しいパッセージをうまく弾ければ嬉しくなって、聴き手からの(多分に身勝手な)一体感の中で聴くことになる。プロのコンサートだとこういうことはなくて、あっても高額のチケットと引き換えの名人芸の世界になってしまって、どうしても意味合いが変わってしまうことは避けがたい。音楽を演奏して、一つの世界をその場に出現させるという実践的な行為の実質に関して言えば、こちらの方が正しいとまでは言わずとも、控え目に言っても自然であるように思える。もちろんこの認識があってこそ、これまでもアマチュア主体のオーケストラのマーラー演奏を支援してきたのだが、実のところこの認識もまた、現代音楽の最先端における「音楽」の定義の見直しに接することで深まったもので、一番近いのは、恐らくは三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」における演奏実践に接した経験のように思えるのだが、いずれにしても、それこそが「音楽」を聴くことの本質ではないかということを感じずにはいれらなかった。

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私がコンサートに行くのを、とりわけてもマーラーの演奏されるそれに行くことを再開するのを躊躇った、実は今でも躊躇いがある理由の一つは、誠に恥ずかしいことに、聴きたいと思う曲であればあるほど、聴いたときの自分の反応が怖くて、公共の空間で周囲にご迷惑をおかけすることへの懸念からなのだが、この曲であれば第2楽章が特にそうした箇所に該当する。実際には録音でもそういう演奏にあたることはなかなかないのだが、特に356小節のEtwas langsamer (ohne zu schleppen)以降、392小節のNicht Schleppenに至る部分が私にとって一番聴いていてきつい部分である。上手く言えないが、自分の中で蓋をして来たものが、音楽に呼び出されて溢れ出て来てしまう感じがするのだ。偶々読んでいた(往復の電車の中でも読んで、終わりまであと20ページを残すだけとなったのだが)、John A. Snyder (with Nancy Steffen-Fluhr)の Overcoming depression without drugs : Mahler's Polka with Introductory Funeral March, (Author House, 2012)の中でスナイダーさんが正しく言っているように、「だからこそ」時として人はこういう曲(勿論、人によって、それは別の曲でもいい)が必要なのだと思う一方で、半ば公共の場でそういう経験をするのはやはり怖い。

でもそういう経験がなければ、いわゆる感動もなく、時間を使って(つまり、他の何かを犠牲にし、諦めて)コンサートホールを訪れる意味もない。それゆえ、再びコンサートを聴くようになってからは、いつもかなり苦労して乗り切るのだが、今回も(幸いなことに!)そういう経験をすることになった。涙はさすがに堪えられなかったけれど、(多分)周りに迷惑をかけずには済んだと思う。強い感情的な波に晒されてくたくたになったけれど、私の場合、マーラーの音楽を聴いて得られるカタルシスは、それがすぐれたものであれば比喩ではない。そうした経験を、相対的には最も疎遠であったこの曲で経験することができたことについては、演奏した方々に感謝の言葉しかない。

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第3楽章はある種のカオス(必ずしも数理的な意味合いではなく)で、様々な力がぶつかり、入れ替わる場だが、そうした感じもはっきりと受け取れたし、第5楽章も少し違った規則に基づいて、でも第3楽章と大まかには同様に、様々な力が色々な方角からやってきて、ぶつかりあって音楽をある方向に導いていく、そうした力学的な軌道は鮮やかに感じられた。特にこのフィナーレはオーケストラにとっては大変な難物だが、手応えに満ちた素晴らしい演奏で、最後のコラールの再現(というか未来完了的に予示されたものの現勢化)が恐らくマーラーが望んだような質を湛えたものになっていたと思う。

長い長い旅、遍歴。アトラクターが出来ては不安定になり、軌道がずれて、しばらくすると別にベイスンに落ちて、でも一つとして同じアトラクターはなく、同じベイスンにもう一度来たように見えても風景は前回と同じではない、目眩のするような多様性が、ここでようやく準安定な状態に到達する。有機体におけるそうした状態の変化は、それ自体情動のような反作用を惹き起こすので、そうした反響を抽象するのは少なくとも有機体の内部からの展望を裏切ってしまう。そういう意味合いにおいて、マーラーの音楽機械は優れてオートポイエティックだと私は思っているが、そうした反響(付言すれば、それは演奏者にも聴き手にも起きて、それが更に音楽に作用して、渦のようなものが出来る)も含め、この演奏は、まさにそうあるべき、という実質を備えたものだったと思う。(偶々、そうしたことは技巧的な完璧といった尺度に対して、完全に独立ではないにせよ、従属的ともいえず、あまり関係がないという主旨の、聴取についての文章を書いたばかりなのだが、その内容について、また一つ裏付けを得たようにも思う。)

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指揮は暗譜ではなく、特に最初のうちは全集版のスコアを捲りながらだったが、その解釈に関して言えば、マーラーの「通」が聴けば色々と評価はあるだろうし、同じ指揮者の他の演奏の解釈を私は知らないので、それがどこまで指揮者の解釈なのかも判断できないものの、私が強く思ったのは、このプロにとってさえかなりの難曲をアマチュアのオーケストラで取り上げるという条件で、指揮者は非常に的確な選択をしたのではないかということだ。オペラを振る豊富な経験に恐らくは裏打ちされているものと思われるが、その都度の場面でどこが重要か、流れに委ねて良い部分と、際立たないとならない部分のメリハリと、パート間のバランスが的確で、音楽の輪郭を崩さないようにコントロールされており、なおかつそのことによって、オーケストラがのってくると巨大な管弦楽のパートのそれぞれが軌道の軸に沿って絡み付いて大きなうねりを産み出していく効果をもたらしていて、破綻なく最後までたどり着く以上の、それを遥かに上回る成果を上げることに寄与していたのではないかと思う。それゆえ、そういう成果を前にして、もしかしたら嗜好に過ぎないかも知れない細かい解釈を云々することは、特にこのようなコンサートにおいては、私には全く意味のないことに思われるのである。

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最後に簡単に「客観的な」側面について書けば、モーツァルトはチェロ2プルト、バス3本だから、マーラーの半分くらいに刈り込んだ編成。マーラーではチェロ4プルト、バス6本、ヴィオラが確か5プルトくらいで、客席から見て向かって左からヴァイオリン、ヴィオラ、右端がチェロで、その後ろにバスという通常の配置(マーラーが対抗配置を前提として管弦楽を書いたのは明らかだし、この曲についてもそれは言えると思うので、この点もまた、一般論として異論があるかも知れない)。

印象としては、弦はマーラーをやる下限いっぱいの編成と感じたが、演奏が始まると、指揮者の適切なパートバランスが徹底していたからか、既述の通り、出だし以外はほとんど気にならなかった。中音域とバスの動きが気になる私は、意図的にやや低弦よりの位置で聴いたので、ヴァイオリンが聴こえにくいというのもあったかも知れない一方で、ヴィオラ・チェロ・バスは良く聞こえて、充実ぶりが感じられた。

木管は指定通りだったように思うが(あるいはコントラファゴットが持ち替えではなかったかも知れない)、金管は、トロンボーンとチューバは指定通りだが、トランペットとホルンはそれぞれ指定より1多い5と7で、結果として楽譜上のパートを分け合う部分があったと記憶する。(既述の事故も、そうした例外的な事態に由来するものであるとすれば、仕方ないだろう。)ただし音響上のバランスとか音色の効果の点で余程目につくことがなければ私はあまりそういうことは気にしないので、細部の記憶には間違いがあるかも知れない。

パートで印象的だったのは、金管では、この曲の主人公であるトランペットとホルンは勿論だが、それに劣らず雄弁であったトロンボーンとチューバ、木管では、ベルアップして最前面に出たと思えば、すぐに裏で難しいパッセージを吹くといった具合に忙しいクラリネットと、これも響きの上でこの曲の要所で前に出てくることの多いファゴット、そして何より、アルマが初期稿でのプローベを聴いて、そのあまりの厚さに思わずマーラーに抗議して薄く書き換えられたというエピソードがあるくらいにこの曲では目立つ打楽器、わけてもティンパニは全曲を引き締めるのに大きく寄与していたと思う。

あと、木管・金管について付言すれば、これは当然かも知れないけれど、マーラーが指示しているベル・アップ(Schalltrichter auf)もきちんと行われて、意図通りの効果を生んでいた。(これについては録音ではさすがに同じように聴きとることは難しい。視覚的効果もそうだけれど、それを措いても、音がホールの空間を伝わる、その伝わり方の問題なので、一旦マイクで拾ったものの再生を聴くのでは、もしかしたら今日では技術的にはかなりの線が実現可能になっているのかも知れないが、一般的にはやはり限界があるだろう。)

第1部の第1楽章と第2楽章の間は明確に一休みし、第2部の第3楽章後チューニング、第3部の第4楽章と第5楽章は当然、楽譜通りアッタッカでこれもごく普通。第1楽章は指定通りのインテンポで、どちらかというと早めで澱まないテンポ設定。第4楽章も溜めず、靠れずで、この作品の場合には適切だと私は考える。

第2楽章主部は堂々とした、この楽章が実質的なソナタ楽章であることを確認させるテンポで、対比群は大きなテンポのコントラストをつけず、ルフトパウゼも大きな溜めは作らない、すっきりとした演奏。第3楽章は(マーラー自身の言葉に忠実に)急がず、この第2部がこの曲の中核であることを思えば適切なテンポ設定、第5楽章も同様に中庸を得た違和感なく無理のないテンポで、こうした設計もまた、この演奏の成功に寄与していたのは間違いないと思う。

アンコールもなしで、マーラーの後に別の曲は、と実はやや心配していたので、個人的にはほっとしたし、客観的にも恐らく妥当なのではないか。

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初めて聴いたアマチュアのオーケストラで、失礼ながら率直に言って、このように素晴らしい演奏に接するとまでは期待していなかったけれど、何よりもまず、オーケストラにとって、アニヴァーサリーを最高の形で実現できたことに対して、祝意と敬意を表したく思う。その一方で個人的には、30年来の宿題となっていて、2度までもトラブルで機会を逃し、もしかしたら生きている間に聴くことができないかも知れないと思っていた第5交響曲の最初の実演が、かくも充実したものとなったことについて、心からお礼を申し上げたく思う。

これはマーラーから離れるが「魔笛」も実演がこんなに素晴らしいものだとは思わなかった。是非、今回の指揮者と歌手の御三方を中心にした上演をと思わずにいられない。百歩譲って演奏会形式でも、合唱付きで、全曲を聴くことができたらと思った。

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最後に私個人について言えば、これでやっとマーラーの全交響曲を、三輪眞弘さんの言う「録楽」ではなく「音楽」として、まがりなりにも(というのもかつて聴いた、その多くはプロの演奏が落胆しかもたらさなかったからだが)聴くことができて、ほっとしている。と同時に、このように休日のマチネでなら行ける相対的に可能性も高いし、i-amabileのようなサイトを見れば、今日の日本では、アマチュアの団体でもマーラーはかなりの頻度で取り上げられていることが確認できるのだから、都合がついた時にはもう少しそうした実演に接することを考えてもいいように感じた。

何より音響の面に限定したとしても尚、ホールで気付くことは多く、また聴こえ方も違う。何よりもマーラーの音楽が遠くのどこかで、かつて演奏されたことがあった、その記録に接するというのではなく、その場で人間が演奏することによって産み出されていく経験が「世界を構築する」というマーラーの音楽の理念の了解にとって本質的な契機であることは、こうした素晴らしい演奏に接した後では最早明らかなことに思われる。

思えば以前の私は、自分の中ある「かくあるべし」という音のイメージ(それはしばしば強固なものだ)を基準にし、録音・実演を問わずに演奏に接したのだと思う。それは例えば自分が指揮者であればいいのかも知れないが、聴き手としては必ずしもそうではないということに、40年近くマーラーを聴いてきてようやく理解が届くようになった、そしてそのことを一般的な聴取の問題としても整理できたように思うのである。今や時として、「演奏され過ぎる」という批判すら耳にするが、それはあくまで市場に提供するプロの演奏家の姿勢の問題であって、ことアマチュアについて言えば演奏され過ぎることなどないのではないかと思う。

コンサートの記録という本題からは外れるが、ついでに言えば、かつては実演に対する代補的なアクセス手段として需要があり、概ねそのように機能していた筈の室内楽や小編成オーケストラでの演奏や、2台ピアノ、連弾を含めたピアノ編曲でのマーラーの作品の演奏の録音が、最近、目立って増えてきたように思えるのだが、これらもまた既に飽和状態にあるかに見えるマーラーの録音の氾濫の中で、目先を変えて需要を喚起するといった面、あるいはもしかしたらオーケストラという基本的には過去の文化財たる音楽を再生する(そういって良ければ「伝統芸能」を、しかも日本においては、異なる文化的伝統に属していた筈のそれを継承するための)組織が、主として経済的な観点から維持困難になるケースがますます増えてきていることとも関係しているのかも知れない。しかしながら視点を変えれば、様々な制約があってなお、更には録音だけでマーラーを聴くことの致命的な限界を超える手段に限定したとしてもなお、少なからぬ意義あるもののように思えるのだ。

最後にもう一度、貴重な経験をさせて頂いたオーケストラの方々、指揮者、歌手、そしてオーケストラを支えておられる方々に心より御礼申し上げて、この文章の結びとしたい。(2018.7.16初稿, 7.18訂正, 7.19第5交響曲第2楽章についてのフルトヴェングラーのコメントへの言及を一旦削除。以下の注記参照。)

注記:第5交響曲第2楽章についてのフルトヴェングラーのコメントは、インバル、フランクフルト放送交響楽団の録音のCDの解説に記載された内容だが、確実な典拠が確認できないため言及を一旦保留することにする。海外のサイト等で確認できる限り、フルトヴェングラーが第5ではなく、第6交響曲について「音楽史上最初の虚無主義的な音楽」と呼んだという記述は見かけるが、第5交響曲についてのそれは確認できない。なお上記解説と同様、これが第5交響曲第2楽章のことであるとする文献には、ベルント・W・ヴェスリングのモノグラフ(「マーラー 新しい時代の預言者」、邦訳は喜多尾道冬訳、国際文化出版社、1989)があるが、それによれば、ベルリン・フィルとのこの曲のリハーサルの際の発言ということになっている。まるでフルトヴェングラーが語ったことをそのまま記録したかのような書き振りなのだが、実のところフルトヴェングラーがこの作品を取り上げた事実は(少なくとも管見では)確認できないのである。その一方で、クーベリックが第5交響曲を取り上げた折にフルトヴェングラーが立ち会った時のエピソードというのが残っているようだが、その折のフルトヴェングラーの反応は第5交響曲全体に対してのもので、第2楽章についてのものではなかったらしい。その他、フルトヴェングラーがマーラーの第9交響曲を演奏した「録音」なるものの存在が云々されたことも海外ではあるようだが、相対的には良く知られている第1から第4までの交響曲と「さすらう若者の歌」に加え、若干の歌曲と「大地の歌」を演奏した記録はあっても、第5から第9までの交響曲を演奏した記録は確認できないようである。機会があれば、この点については稿を改めて取り上げることにし、ここでは上記指摘に止めたい。(7.22付記)

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