(1)常にはマーラーが、否定されるためだけに参照される、ヴラディミル・ジャンケレヴィッチの著作において、管見では唯一ネガティブでない参照が『死』(邦訳:みすず書房、仲澤紀雄訳、1978)の第2部「死の瞬間における死」の第3章「逆行できないもの」の9.「訣別。そして短い出会いについて」に確認できる。邦訳では352ページ。
「…ただ死という冒険のみが、絶対的に開かれた冒険だ。そして、ついで、別離の際にわれわれのうちでことばとなる告別は、ほとんど支えがたい思いに対応する。そして、われわれはこの支えがたい思いを、深く考えず、とくに実感でとらえられないという条件でかろうじて耐えている。いまとなれば、告別がつねに哀歌(エレジー)、抒情詩(リリック)の主題であった理由も理解できる(中でも次の作品、リスト『メロディー、42番、44番』。ビゼー『アラビア婦人の訣別』―V・ユゴー。チャイコフスキー『訣別、作品60』―ネクラソフ。ラフマニノフ『2つの訣別、作品26・4』―コルゾフ。V・シェバリーン『悲しい旋律、作品40』―A.コヴァレンコフ。グスタフ・マーラー『大地の歌、VI』。ガブリエル・フォーレ『訣別(ある日の詩、作品21・3)』参照)。告別は死の暗示なのだ。別離という数多くのちいさな死が、死という大きな別離の楕円を形作っているからだ。告別は人間関係を情熱的なものとし、これにロマネスクと悲劇性というはげしい緊張を与える。というのは、別離に由来する不在が悲劇と呼ばれうるなら、不在に先行した別離は悲劇性そのもの、その悲劇の悲劇性なのだから。…」
いつものジャンケレヴィッチの調子で、どこから引用を始めたものか、どこで終りにしたものか、決め難いが、ジャンケレヴィッチでは程度の差はあれ馴染みの固有名に交じって、ここで参照されるのは、文脈からいって他ではありえない『大地の歌』である。唐詩を素材としたNachdichtungであることを意識してかどうか、詩人の名前は参照されない。あろうことか、参照されている音楽作品の中で、私が唯一知っているのが『大地の歌』であることも付記しておくことにする。
それにしても何故、ここで一度きりの参照なのかについての詮索は今は控えて、事実のみを記しておくことにするが、一言だけ言えば、それはこの作品が、そうした例外的な出来事、つまり「死」を扱っているからなのは間違いない。「ただ…のみが、絶対的に開かれた…」という言い方が、ジャンケレヴィッチのレトリックの中で例外的なトーンを帯びているように。(「夜の音楽」におけるシューマンの役割を思い浮かべること。そう、シューマン。そしてロマン主義。マーラーが、カフカと同様、ドゥルーズ=ガタリ風には「マイナー文学」ならぬ「マイナー音楽」として規定されうること、、、ジャンケレヴィッチの些か極端なドイツ嫌いにあって、マーラーは格好の標的なのだが、実は彼は「三重の意味で故郷がない」のであって、そうした人間の「大地」がここでは問題になっている、、、)
(2)専らシューマンへの参照ばかりが言及されるドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』(邦訳:河出書房新社、宇野邦一他訳)の第11章.1939年―リトルネロについての中で、ロマン主義と大地についての文章のさなかで、突如として『大地の歌』が参照される。文庫版の邦訳では中巻の377ページの末尾から。
「…たとえば『大地の歌』の末尾では、二つのモチーフが共存しているではないか。メロディーによる第一のモチーフが鳥のアレンジメントを喚起し、リズムによる第二のモチーフが永遠に続く大地の深い息づかいをなぞっているではないか。」
そして続けて突然、話は第3交響曲に切り替わる(けれども、―ここではこれもまた、論証抜きで記しておくだけにせざるを得ないのだが―、勿論それは結局のところ、6楽章形式を持つ2つのマーラーの作品に存在する連絡通路、まさに地下茎の如き連関の存在を証しているのだ。そして第3交響曲に因んで述べられた「世界を構築する」ことが、『大地の歌』においてはどうなのかを語ろうとしたとき、そうすることで第3交響曲で言われた「世界」がどのようなものであるのかが明らかになるだろう)。
「マーラーは言う。鳥の歌、花の色、森の香りだけでは自然は作れない。ディオニュソスが、偉大なるパンの神が必要なのだ、と。」
それからベルクが参照され、ワグナーが参照され、と、一見したところマーラーへの言及は一瞬のものであったかに見えて、実はそうではない。しばらくすると再び(中巻の380ページ)、
「…ドイツ・ロマン主義は、生まれ故郷の領土を無人の地として生きるのではなく、人口密度がどうであれ、それを「孤独な」地として生きるという特質をもつ。そこでは人口が大地からの流出物にすぎず、しかもそれが<唯一なるもの>に相当するからである。領土は民衆に向けて開かれるのではなく、<友人>や<恋人>に向けて半開きになる。ところが<恋人>はすでにこの世の人ではないし、<友人>はあやふやで不気味な人間なのだ。」
ここで注が付けられる。そこで本文はここまでとして、注を見てみよう。同じく中巻の436ページ。実は上記の本文は『大地の歌』を念頭に書かれていたのである。
「(41)『大地の歌』末尾で、「友人」が演じる両義的な役割をみよ。あるいはシューマンの歌曲『たそがれ』(in Op.39)で使われたアイヒェンドルフの詩を参照。―「この世に友がいたとしても、いまは信じないように、その目とその口がいくら優しかろうと、いつわりの平安に身を包み、戦を夢見ているのだから。」(ドイツ・ロマン主義における唯一者、あるいは「孤独者」の問題については、Hölderlin, 《Le cours et la destination de l'homme en general》, in Poésie No.4を参照。)」
シューマン、そしてヘルダリン。ドイツ・ロマン主義について言えば、もう一度、マーラーが「マイナー音楽」であり、「三重の意味で故郷がない」ことを思い起こし、そこから逆にシューマンへ、ヘルダリンへと折り返さなくてはならないのだろう。
だがここでは一旦、参照への目配せに止めざるを得ない。(2018.7.1)
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