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アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)

2026年5月5日火曜日

マーラー交響曲の調性力学——自由エネルギー原理による解釈

 

1. 分析枠組み

1.1 分析手法

本稿はマーラーの交響曲主要楽章12点(Sym1〜10の第1楽章、Sym6は第1・第4楽章、Sym8は第1部、「大地の歌」は第1楽章)を対象として、MIDIデータから抽出した調性構造指標に基づく主成分分析(PCA)を行い、その結果を自由エネルギー原理(FEP)の枠組みによって解釈するものである。分析単位は楽章とし、各楽章の小節頭の和音をサンプリングして指標を算出した(三和音以上、ピッチクラス数3以上の和音を対象)。なお本稿の理論的枠組みと問題設定は、「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式についての覚書」において詳細に展開されており、本稿はその計量的照合・検証・拡張の一環として位置づけられる。理論的背景の詳細については覚書を参照されたい。また、本稿の続編として、上記覚書の内容全般の検証は、別稿「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式——調性構造のPCA分析によるFEP的解釈」にて行っているので、併せて参照されたい。


1.2 指標定義

各指標は五度圏重心の軌跡から算出される。12のピッチクラスを単位円上に五度圏順に30度ずつ配置し、各時点の和音のピッチクラスセットの重心座標(x, y)を求めることで、楽章内の調性的運動を連続的な軌跡として記述する。

指標

定義

Avg_r

重心半径 r = √(x²+y²) の楽章内平均値。調性的安定度。鳴っているピッチクラスが五度圏上の特定領域に集中するほど(例:長三和音)大きく、分散するほど(例:減七和音)小さい。

SD_r

r の標準偏差。調性的安定度の時間的揺らぎ。

Tonal_Focus

全軌跡の平均座標の原点からの距離。楽章全体を通じた調性中心の一貫性。

Avg_Step

隣接データ点間の位相角変化量の平均。転調の歩幅。

Step_Rate_100

100小節あたりの累積移動距離(弧長)。和声的活動量。

Spatial_Dispersion

重心位置の時系列的な分散。五度圏上での活動領域の広さ。

PC_Density

各小節で使用されるピッチクラス数の平均(三和音以上)。和声の複雑さ。

Harmonic_Coverage

(三和音以上の有効小節数)/(楽譜上の全小節数)。テクスチャの厚み。

Texture_Volatility

各小節で使用されるピッチクラス数の標準偏差。テクスチャの流動性。


1.3 指標のFEP的解釈

FEPは生物的・認知的システムが予測誤差(自由エネルギー)を最小化することで存在を維持するという原理であるが、本稿ではこれを音楽的主体の分析的装置として用いる。以下では9指標をFEP的観点から三層に整理する。

第1層——生成モデルの安定性:Avg_r、SD_r、Tonal_Focus

この層は主体がどれだけ一貫した調性的生成モデルを保持しているかを記述する。

Avg_rはFEPにおける知覚精度(precision)に対応する。rが高い状態は調性中心が明確で生成モデルが強固な予測を維持している状態であり、低い状態は「予測誤差を精度を下げることで吸収する」という受動的戦略に対応する。SD_rは精度の時間的変動性を示す。精度が時間的に揺れることは主体が予測誤差への感受性を動的に再調整していることを意味し、高いSD_rは生成モデルの能動的な自己修正として読める。Tonal_Focusはその安定性の大局的指標であり、楽章全体を通じた「自己モデルの錨」の堅固さを示す。高いTonal_Focusは主体が調性空間との交渉においても自己の中心を動かさないことを意味する。

第2層——状態空間の行動様式:Avg_Step、Step_Rate_100、Spatial_Dispersion

この層は主体が調性空間をどのように動き回るかを記述し、FEPにおける能動的推論(active inference)の様態に対応する。

FEPでは主体は自由エネルギーを下げるために「行動によって環境を探索する(エピステミック・フォレージング)」か「信念を更新する」かを選択する。Avg_StepとStep_Rate_100が大きいほど、五度圏という状態空間を広く・速く移動することで予測誤差を能動的に処理する戦略を採っていると解釈できる。Spatial_Dispersionは探索の「幅」を示し、五度圏上での活動領域の広さとして現れる。

第3層——感覚入力の複雑度:PC_Density、Harmonic_Coverage、Texture_Volatility

この層は主体が処理する感覚的入力の構造を記述し、生成モデルの入力側の性質を規定する。

Harmonic_Coverageは「和声進行の密度」——生成モデルが常に駆動されている状態にあるかどうか——を示す。高い被覆率は主体の予測機構が途切れなく機能している状態に対応する。Texture_Volatilityはその揺らぎであり、感覚入力の予測可能性の変動を示す。PC_Densityは各時点での和声的複雑さの平均であり、生成モデルが処理すべき情報量の密度として解釈できる。

3層とPCA軸の対応

この3層整理はPCA結果と以下のように対応する。PC1は第1層の安定性指標(Avg_r: −0.963、Tonal_Focus: −0.888)と第2層の行動様式指標(Avg_Step: +1.013、Step_Rate_100: +1.012)に強く引かれており、「生成モデルの安定性(負方向)↔ 状態空間の行動的活性(正方向)」を実質的に表している。すなわちPC1は生成モデルの安定性と能動的推論の強度のトレードオフ軸として解釈される。PC2は第3層のHarmonic_Coverage(+0.945)とTexture_Volatility(−0.801)に強く規定されており、「和声被覆の密度(正方向)↔ テクスチャ揺らぎの大きさ(負方向)」の軸、すなわち感覚入力の構造的安定性の軸として解釈される。


1.4 主成分分析結果

主成分負荷(PCAローディング)

指標

PC1

PC2

Avg_r

−0.963

−0.118

Avg_Step

+1.013

+0.078

SD_r

+0.582

+0.194

Step_Rate_100

+1.012

+0.084

PC_Density

+0.840

−0.057

Tonal_Focus

−0.888

−0.086

Spatial_Dispersion

−0.405

−0.421

Harmonic_Coverage

−0.094

+0.945

Texture_Volatility

+0.626

−0.800

注:本PCAはマーラー12楽章単独で算出したものであり、PC1正方向は「高運動量・低調性重力」(高Avg_Step・低Avg_r)を示す。複数作曲家を対象とした比較分析PCAとは軸の符号方向が逆転しているため、他の分析との数値的比較には注意を要する。

作品別主成分得点

作品

PC1

PC2

段階

Sym1-1

−4.446

−1.343

第I段階

Sym2-1

−0.939

−1.746

第I段階

Sym3-1

−2.023

−0.693

第I段階

Sym4-1

−1.599

+0.941

第I段階

Sym5-2

+1.028

+0.317

第II段階

Sym6-1

+0.891

+0.785

第II段階

Sym6-4

+1.320

+1.369

第II段階

Sym7-1

+1.595

+1.623

第II段階

Sym8-1

−0.422

+1.218

第III段階

Erde-1

−1.410

+0.910

第III段階

Sym9-1

+1.343

−1.393

第IV段階

Sym10-1

+4.661

−1.987

第IV段階

時系列的軌道としてPC空間上に現れる「ℓ字型」軌跡は、第I段階(左下)→ 第II段階(右上)→ 第III段階(PC1の逆行)→ 第IV段階(右下への急落)という折れ曲がりとして理解される。(図1)


図1:PCA空間上でのマーラー交響曲の時系列的軌道



2. FEPによる段階的解釈

第I段階(Sym1〜4):安定した生成モデルと広い探索空間

PC1が大きく負(Sym1: −4.446、Sym3: −2.023)であり、Avg_rが高く(0.571〜0.621)、転調運動量が低い。第1層の安定性指標が全段階中最も良好な状態にある。FEP的には主体の生成モデルが外界との予測誤差を低コストで処理できる状態にあり、誤差は調性的な「重力の場」に吸収されながら、広い状態空間を緩やかに移動しつつ探索が行われる。

PC2の推移に注目すると、Sym1(−1.343)・Sym2(−1.746)・Sym3(−0.693)のHarmonic_Coverageは0.563〜0.669と相対的に低く、テクスチャの揺らぎも大きい。これに対しSym4ではHarmonic_Coverageが0.731まで上昇し、PC2が+0.941と正方向に転じる。「角笛」との連続性を経て声楽的書法から器楽的凝集へと移行する過程が、感覚入力の構造的安定化(PC2上昇)として計量的に現れている。

第II段階(Sym5〜7):能動的推論の最大化

PC1が正方向に移行し(+1.028〜+1.595)、かつPC2も正を維持する(+0.317〜+1.623)。Avg_Stepは48.3〜58.4、Step_Rate_100は4,817〜5,832と上昇し、転調運動量が増大する。Sym7はPC1・PC2ともに全12作品中最高水準(+1.595、+1.623)に達し、Harmonic_Coverage 0.834と高い被覆率を同時に達成している。

FEP的には能動的推論の最大化段階として解釈される。主体は第2層の行動的活性(高い転調運動量)を強化しながら、第3層の感覚入力の安定性(高いHarmonic_Coverage)を同時に高い水準で維持している。予測誤差は高速の転調運動によって積極的に処理されつつ、その処理を支える和声的基盤もまた充実している。PC1正・PC2正という組み合わせはこの「二重の充実」の計量的表現である。

第III段階(Sym8・Erde-1):声楽テクストによる精度管理の外部化と逆行

この2作品は時系列的に第II段階(Sym5〜7)の後に位置しながら、PC1が負方向に逆行する(−0.422、−1.410)という特徴的な軌道を示す。これがPC空間上の「ℓ字型」軌跡における折れ返りの実質であり、時系列的軌道として捉えた場合にのみ正確に理解される。

PC2は正値を保持しており(+1.218、+0.910)、中期純器楽群との連続性を示しながらも、そのPC2正値の機制は根本的に異なる。Harmonic_CoverageはSym8で0.874、Erde-1で0.873と全12作品中最高水準にある。この高い被覆率は声楽テクストの存在が和声進行を「被覆」し続けることを構造的に強制することによる。FEP的に言えば、声楽テクストが生成モデルへの外部制約(precision weighting source)として機能しており、主体が内的に予測誤差を処理するのではなく、テクストという外部構造に精度管理を委ねている状態である。Texture_Volatilityが0.995〜0.998と全段階中最も低い点もこれと整合する——外部制約によって感覚入力の揺らぎが抑制された状態として読める。

第II段階で達成された「内的充実」としての能動的推論の最大化とは異なり、第III段階のPC2正値は「外部依存」による見かけ上の安定である。この区別こそが、第III段階をℓ字型軌道の折れ返りとして、単なる後退ではなく独自の機制を持つ位相として位置づける根拠となる。

第IV段階(Sym9・Sym10):生成モデルの分解

Sym9でPC1は+1.343と第II段階水準に戻るが、PC2が−1.393へと急落する。Harmonic_CoverageはSym9で0.633、Sym10で0.475まで低下し、Texture_Volatilityが1.314・1.513と急増する。PC2の急落は第3層における感覚入力の構造的安定性の喪失——和声の「被覆」が薄くなり、テクスチャの揺らぎが増大した状態——を示す。

Sym10ではPC1が+4.661と全12作品中最大に達し、PC2は−1.987と最低になる。Avg_Step 71.2、Step_Rate_100 7,061という転調運動量の極値は第2層の行動的活性が限界まで高まった状態を示す。と同時にAvg_rは0.449と全段階中最低であり、Tonal_Focusも0.069と消失寸前である。

PC1の急騰は、主体が予測誤差を転調運動によって処理し続けようとするが、その速度・密度がもはや既存の調性構造では支えきれないところに達したことを示す——能動的推論の暴走、あるいは環境モデルの限界への到達として読める。PC2の崩落は第3層の構造的安定性(Harmonic_Coverageによる「場」)が失われたことを示す——生成モデルそのものが分解しつつある状態であり、予測誤差を吸収するはずの和声的基盤が瓦解し、誤差が直接露出する。

Sym10の未完性はこの帰結の様式的表現として理解できる。マーラーの交響曲的主体は、生存可能な環境を再構築することなく、予測誤差の処理速度を極限まで高めることで「限界に向かって疾走したまま」終幕する。


3. 補足:ℓ字型軌道のFEP的意味

PC空間上に現れる「ℓ字型」軌跡は、時系列的軌道として追った場合にのみ正確に読み取れる構造であり、FEP的には以下の三段階の転換として解釈される。

第一移行(左下→右上:第I段階→第II段階): 能動的推論の漸進的強化。調性重力(生成モデルの安定性)を保ちながら、転調運動量と和声被覆率を同時に高めていく段階。第1層の安定性を消費しながら第2層・第3層の充実を図る過程として読める。

折れ返り(右上→中央左:第II段階→第III段階): 声楽テクストによる精度の外部化。PC1が負方向に逆行し、能動的推論の内的充実が外部依存の安定へと置き換えられる。この折れ返りがℓ字型軌道の要であり、マーラーの創作史において純器楽的自律の達成が声楽への回帰によって中断されることの計量的痕跡である。

第二移行(中央左→右下:第III段階→第IV段階): 和声被覆機構の崩壊。外部依存による安定が失われた後、転調運動量のみが増大し、感覚入力の構造的安定性を支える第3層の基盤が瓦解する。PC2の急落がこの転換の計量的指標であり、PC1の極限的急騰がそれに伴う能動的推論の暴走を示す。



(付録)
PCA分析の入力となる全指標の計算結果

(2026.5.5 公開

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