トルンスタムの「老年的超越」とゲーテ的な「現象から身を退く」ことによる「老い」の定義を突き合わせてみたらどうなるか?最も興味深く、かつ妥当性の検証のための題材として適切に思われる能『伯母捨』のシテ、あるいはボーヴォワールさえ参照している『楢山節考』の老女を「老年的超越」から眺めたら?同様に「現象から身を退く」こととして捉えたら?(但し、予めの注意が必要だろう。この問いの意味するところは、ゲーテ的な「老い」が「老年的超越」で汲み尽くされるということではない。仮に社会学的概念である「老年的超越」の持つ特徴の一つとして「現象から身を退く」を数えることができたとして、だからと言ってゲーテ的「老い」がより包括的な「老年的超越」の一つの側面に過ぎないということではない。寧ろ「社会学的にインタビューなどを通じて観測可能な「老年的超越」は「現象的」側面に過ぎず、まさにそこから「身を退く」ことによって、実はゲーテ的な「老い」の定義の方が権利上先行していることが露わになるのではないか。また、「老年的超越」は価値論的に中立ではなく、それまでネガティブに捉えられてきた「老い」に肯定的・積極的な側面を見出そうとする試みとして理解されるようだが、それが「老い」の否定的側面を軽視し、看過すること、あるいはより積極的にそれらを隠蔽することであるとするならば、そちらこそ「老い」の現実の一部に対して価値論的バイアスをかけているに過ぎず、寧ろ「現象から身を退く」という把握の方が価値中立であるとさえ言えるのではなかろうか。「老い」の醜さや「自伝的自己」の崩壊・解体としての「老い」から目を背けてはならないのだ。)
別の流れでフィンランドのセイックラの「オープン・ダイアローグ」やアーンキルの「未来語りダイアローグ」という療法に興味を持って色々と調べているが、トルンスタムの「老年性超越」もスウェーデン生まれ、ヨーロッパ中央とは違った、辺境ならではの発想のようなものがあるのだろうか?そしてそれよりも、一見したところバフチン的なポリフォニーから着想され(だからこちらはこちらでマーラーの音楽との関りを論じることができるだろう)、「他者」との対話が「自己」の基本的な構造を作り上げていることに関わる「オープン・ダイアローグ」と、まさにゲーテ=ジンメル的に「現象から身を退く」ことの或る種の実践とも捉えられそうな「老人性超越」は一見相反するようでいて、「自己」というものの在り様として、どこかで通底しているに違いない、そしてその構造を考えるための導きの糸として、道元の『正法眼蔵』における「自己」の捉え方、「自己をならう」こと、「われを排列しおきて尽界となす」こと、或いは「脱落」という発想などなどが思い浮かぶ。ゲーテ=ジンメル的に「現象から身を退く」も「老年性超越」も、一見そう取られてしまうような「悟り=覚り」ではなく、「不覚不知」であり、寧ろ「心不可得」という認識に至ることなのではないか、というようなことがぼんやりと頭の中を漂っている(注意:能『伯母捨』のシテについては、能楽の筋書きが、概ねいわゆる「本覚思想」のパラダイムに依拠していることを考えると、この考え方の適用は困難だということになりかねない。だが、実際に舞台を拝見した印象は、そうした一般的なフレームをいとも簡単に乗り越えてしまうのだ。否、そもそもがもしそれが「悟り=覚り」なら、舞も含めて一切の行為は不要ということにはならないか。更にそれが時代を超えて繰り返し演じられ続けるという反復の意味もわからなくなる。寧ろ能の上演の反復は、只管打座の如きものとして考えるべきなのではなかろうか?そしてそれとは別に、『伯母捨』のシテの舞は「悟り=覚り」という一回性の出来事なのだろうか?否、そうではないだろう。彼女はことによったら永遠に、満月の光が満ち溢れる時節の訪れの度に、舞いを舞うに違いない。時代を超えて繰り返される『伯母捨』の上演は、別の可能世界でのそうした反復の、この世界への投影の如きものではないだろうか?イデアの世界が洞窟の壁に映り込むようにして…)…例えば、第9交響曲第4楽章アダージョの対比群のあの剥き出しの二声の対位法…
そもそもトルンスタムの『老年的超越』には、東洋の思想、とりわけ禅への明示的な参照が含まれる。第2章「理論の起源と最初の概要」の「メタ理論上の他の枠組みによる実証的思考」の節では、冒頭で以下のように述べられる。
「新しいメタ理論のパラダイムへと到達するために、私たちは通常の実証主義的思考法を捨てて、その代わりに知的な実験として、東洋哲学にあるようなエキゾチックで、特異な準拠枠(価値基準)に目を向けたいと思う。私たちの(西洋的な)世界の解釈を、禅僧のそれと比較してみることにしよう。これは、一部で誤解されているような(例えば Jonsson, & Magnusson, 2001)、禅仏教を推奨するものではない。それは、物事の新しい見方を得るために、私たちの通常の考え方を一転するような一例で、本書の最初で示唆されている技法である。以下は、禅僧が、自分の世界を組み立てていると思われる推測に基づく実験的思考方法である。」(トーンスタム『老年的超越』, 冨澤公子・タカハシマサミ訳, 晃洋書房, 2017, p.38)
従って、ここで能楽を参照し、或いは道元を参照すること自体は決して突飛なことではなかったことになる。とはいえ、西洋から見た東洋は肌理の細かさに欠けると感じられる点もまた否めない。トルンスタムは同じ節でユングの「集合的無意識」にも言及するが、それと禅仏教とは独立に論じることができるように思われるし、「集合的無意識」が準拠枠として必須であるかどうかは疑問に付されて良いではなかろうか?ともあれトルンスタムの「禅仏教」の捉え方は以下の箇所から窺うことができるだろう。
「禅僧は、多くの境界線が拡散し、広く浸透している宇宙的世界のパラダイムの中で生きている。彼はおそらく、西洋人は1つの限界の中にとらえられ、物質的な束縛に制限され、閉じこめられていると見るだろう。一方私たちが、メタ理論的な見通しのもとに、日々瞑想に励む禅僧を分析するとき、禅僧が離脱している状態にあると決めつけることが往々にある。私たちは、もしその人物が禅僧であると知らなかったら、確実にその人物を社会から”離脱した”人間だと決めつけてしまうだろう。
しかし禅僧が持つメタ理論上の視座によると、それは離脱の問題としてとらえれるものではない。禅僧たちが住む世界は、私たちが持つ定義では説明されない世界である。そのような世界の中では、主体と客体の分離の多くは消される。例えば、私とあなたは分離した存在ではなく、1つの同じ全体を成している部分であると考えたり、また、過去、現在、未来は分離したものではなく、同時に存在していると考えるというようなある禅僧の語る言葉は、私たちのメタ理論上のパラダイムの見地からは理解が難しい。」(トーンスタム『老年的超越』, 冨澤公子・タカハシマサミ訳, 晃洋書房, 2017, 同)
そしてそうした考え方の西洋での対応物を求めてユングに行き当たるというわけだが、東洋にいる人間にとっては、寧ろそれは単に不要な迂回路であって、ユングを経由せずに直接禅僧の考え方に赴けば良く、かつそうした方が寧ろより好ましいのではなかろうか。
「しかしながら禅僧は、”離脱”と考えられるようなことには多分承諾しないだろう。むしろ禅僧は、自分自身を別の世界、つまり西洋社会に慣れ親しんだ私たちの多くの者と比べ、境界線が開放された世界に住む”超越者”と呼ぶだろう。禅僧の存在のかかわりは本質的なものではあるが、私たちの定義では説明することができない独自の定義を持っている。これらが、社会への無頓着や離脱と呼ばれてしまうような個人が我々の眼前に存在する、という結論に達する理由である。」(同書, p.40)
そして「老年的超越」は「このことを意識することなく、禅僧に近い感覚へと近づいているというふうに、加齢を比喩的に考え」(同書, 同ページ)ることによって説明される。であるとするならば、極東の島国に生きる人間は、以下のような問いを抱くことを余儀なくされることになるだろう。
1.くだんの禅僧は「老い」とはとりあえずは独立であると考えられるとするならば、禅の修行は「老年的超越」に加齢を伴わずに到達するための技法と定義してしまって良いのだろうか?(ここで直ちに「悟り」のことが思い浮かぶかも知れないが、「悟り」が到達点であると見なされる限りにおいて、そうした「悟り」の瞬間の時間性と「老年的超越」の時間性は、明らかに異質なものたらざるを得ないだろう。)
2. 一方でもしそうであるならば、「老年的超越」と定義される状態というのは、それ自体は加齢とは独立で、人によっては加齢なしで若くして到達することが可能ではないか?否、寧ろ「超越」一般があって、「超越」の実現の経路は複数あるのだが、そのうちの一つが加齢であり、かつその時には「老年的超越」と呼ばれるというべきなのだろうか?
3.更にそれが東洋においての方が了解がしやすいということは、「老年的超越」が生物学的な老化プロセスであるよりも一層、文化的なものであるということになりはすまいか?
実は2については、後続するトルンスタムが報告する内容からすれば明らかにそうであって、そのことは実証研究の前提となっていることが明らかになる。そのことは例えば、以下のような言い回しからも窺えることである。
「基本的に、青年期以降の老年的超越へと向かうプロセスは、一生涯連綿と続いていくものであると仮定することができるだろう。」(同書, p.41)
一方3についてのトルンスタムの答は、老年的超越の「プロセスは本質的なものであって、文文化には影響されない。しかし特別な文化の形によって修正されるということも、また考えられるであろう。」(同書, p.41)とされ、文化による修正については「私たち(=西洋人、引用者注)の文化的な要因は、老年的超越のプロセスを妨害する最も良い例であろう。」(同書, 同ページ)とされる。この点の当否については議論があるかも知れないが、ここではその点を追及することはせず、寧ろ「老年的超越」に関して東洋思想、なかんずく禅が持ち出される点と、それが論理的には「老い」と独立でありうるかも知れないにせよ、そうした傾向を抑圧するような文化においてすら、事実として「老い」が「老年的超越」をもたらすという点の2点を確認することにしよう。そして「老年的超越」は「悟り」の瞬間といったイメージで尽くされるものではなく、寧ろそうしたイメージにそぐわない時間性を持っているらしい点に注目したい。
そのことから、ゲーテ=ジンメル的に「現象から身を退く」も「老年性超越」も、一見そう取られてしまうような「悟り=覚り」ではなく、「不覚不知」であり、寧ろ「心不可得」という認識に至ることなのではないかという私が抱いた仮説は、少なくとも検討の余地があることは確認できたように思う。またマーラーにおける「老い」について言えば、アドルノが指摘する「仮晶」としての中国、東洋について、それが「死」や「別れ」よりも寧ろ「老い」に関わるとするならば、そこに「老年的超越」を読み取る可能性の中で、その機能を問うことができるだろう。
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)
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