マーラーの音楽ではなく、マーラー自身に関して言えば、ある時期以降は、「老い」に支配されていたと言ってよい。端的にはアルマを伴侶に選んだ時に己の「老い」についての意識を抱え込むことになった。アルマの回想の「出会い(1901年)」の章には、色々なところで引用されることになる以下のくだりが登場する。
「その後まもなく、マーラーはベルリーンとドレースデンへ旅行した。彼はたびたび手紙をよこして、自分を苦しめ、私を悩ませた。そしてドレーズデンへユスティーネを呼びよせてからは、「初老の男が若い娘と結婚してよいものだろうか?」とか「彼にはそんな権利があるだろうか?」とか「秋が春を鎖でつなぎとめるようなまねが許されるだろうか?」などといった質問で、妹までも悩ませた。」(アルマ・マーラー『回想と手紙』, 酒田健一訳, 白水社, 1973, p.32)
彼はまだ40過ぎであるにも関わらず、「老グストル」になったのだ。(アルマ・マーラー『回想と手紙』所収のアルマへの手紙の1904年の項には、末尾の署名が「老グストル」「老グスタフ」となっている一連の手紙が含まれている。これは丁度、第3交響曲をあちらこちらで演奏しながら、10月には第5交響曲のケルンで初演するという時期に当たっていて、夏には前年に取り掛かっていた第6交響曲のパルティチェルを完成し、子供の死の歌に第2曲、第5曲を追加して完成させ、第7交響曲の2つのナハトムジークを作曲している時期である。第5交響曲の作曲はアルマに1901年11月に出会う前、夏の休暇には着手していたので、アルマとの年齢差による「老い」の意識に関して、第5交響曲はまさに「過渡期」の作品ということになり、第6交響曲以降が「老い」の意識の下で構想され、完成された作品ということになる。
ちなみにダンテは40歳以降を「老年」としたが、マーラーの場合はほぼ一致するものの稍々遅れて、41歳からが「老年」ということになるだろうか。あの異様なまでの活力に満ちた第6交響曲に「老い」を見るのは困難だという意見はあろうが、ダンテのイメージによれば、正午に南中した太陽がその後は西の地平線に向かって緩やかに高度を下げていく、そのプロセスが「老い」なのであるから、いわゆる「円熟期」と呼ばれる時期は「老年」に位置することになるだろうことを思えば、一見して感じるかも知れない程突飛な見解であるというわけでもなく、寧ろゲーテに基づく「後期様式」のことを思えば、「現象から身を退く」ことの兆候が老齢に先立って、所謂壮年期に現れたものが「円熟」として了解される、というような理解も成り立ちそうである。だがもしそうであるならば今度は、壮年期の作品と老年期の作品を区別するものは何なのか、それは連続的なスペクトルのどこに位置するかという相対的な問題に過ぎず、両者を明確に区別する特徴はないのかという問いが生じることになろう。(これは余談になるが、もし第6交響曲がアルマの言う「3つの運命の打撃」を予言した作品であるとしたら、そして「3つの運命の打撃」が、英雄の死をではなく、老年の開始を告げるものであるとしたら、第6交響曲は寧ろ老年に先立って、その開始に至るプロセスを音楽化することによって自ら老年期への移行を告げる音楽だということになろう。)
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)
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