だがしかし、より客観的な見方をするならば、そもそもマーラーは「老い」とは無縁だった、と寧ろ言うべきではないのか?という異議申し立ては、恐らく一定程度正しいのではなかろうか?第10交響曲のデリック・クックによる5楽章版について述べた後、マイケル・ケネディは次のように言っていたのではなかったか?
「 マーラーはその創造力の絶頂で死んだ。第十一交響曲はどんなものになっただろうか?後継者たちが辿った道に沿ってさらに進んだのだろうか?第一次世界大戦という殺りくがマーラーの感受性にどう作用するか考えるだけでも恐ろしく、こういう推測が無意味であるのはいうまでもない。それでも一九四〇年には八十歳の誕生日を祝い、ベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーの傑作、シェーンベルクの十二音の革命を聞いたはずだと考えると不思議な気がする。マーラーは生まれ故郷のチェコスロヴァキアとオーストリアが強奪されるのも見たことになる。カトリックへの改宗も、ほかの多くのユダヤ人とともに永久追放されることから逃れさせなかっただろう。」(マイケル・ケネディ『グスタフ・マーラー』, 中河原理訳, 芸術現代社, 1978, p.234)
マーラーに「晩年様式」が存在することは疑いないことにも関わらず、創造力の絶頂で死んだというケネディの評言は、彼がクックの作業に基づき、第10交響曲を5楽章よりなる交響曲として捉え、あの感動的なフィナーレの終結の部分を「(…)音楽は嬰ヘ長調に戻り、アダージョに出たヴィオラ主題は人生と愛の偉大な歌になる。ここはマーラーのどの交響曲におけるよりも熱烈で集中力ある結末であり、マーラーの精神的な勇気に対する高らかな召命である。」(同書, p.234)と述べていることを踏まえれば、全く正当で非の打ち所のないものと感じられる。彼は創造力の衰頽と無気力という意味合いでの「老年期」を持たなかった。それ故に幸運にも「晩年様式」の作品こそがその創作活動の頂点でもあるという状況が生じたということなのだろう。ダンテ的な意味合いでの「折り返し点」は第5交響曲あたりにあって、その意味での「正午の音楽」は第6交響曲であろう。しかしながらその一方で、晩年様式」の作品こそがその創作活動の頂点でもあることに関して、それを単なる幸運に帰着させて良しとするのは、マーラーその人に対しては著しく不当なことだろう。ケネディは「マーラーの精神的な勇気」という言い方をしているが、彼は(それが誤診によるものであったたというのは後知恵に過ぎないのであって)自己の生命の有限性と自分が最早「正午」を過ぎて梯子の反対側を降りているのだという自覚の下で、「一からやり直す」経験の中を潜り抜けつつ、「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲を書いたのであって、音楽的才能とは別の次元においても、それは誰にでもできることではないだろう。「マーラーの精神的な勇気」は、別にケネディ一人のみ指摘しているわけではない。日本においても例えば吉田秀和が以下のように述べているのを思い起こしてみても良い。
「(...)そういうこととならんで、というより、それよりもまず、私は寿命が数えられたと知ったときの人間が、生活を一変するとともに、新しく、 以前よりもっと烈しく、鋭く、高く、深く、透明であってしかも色彩に富み、多様であって、しかも一元性の高い作品を生みだすために、自分のすべてを 創造の一点に集中しえたという、その事実に感銘を受ける。
こういう人間が、かつて生きていたと知るのは、少なくとも私には、人類という生物の種族への、一つの尊敬を取り戻すきっかけになる。死を前にして、 こういう勇気をもつ人がいたとは、すばらしいことではないかしら?(...)」(吉田秀和「マーラー」(1973--74)より(「吉田秀和作曲家論集1」p.151))
確かにマーラーはその創造力に関しては下降線を経験することなく、その限りで「老い」を知らなかったけれども、結果として、創造力の絶頂で書かれた「晩年様式」の作品という奇跡の果実を私たちは1つならず、2つ、3つと手にしている。彼が遺したその作品(彼自身にとっては、それは「抜け殻」に過ぎなかったかもしれなくともーー否、それを「抜け殻」に過ぎないと見做す認識態度こそ「老年的超越」の徴候でなくて何だろうか?ーー)を通して、かつて異郷の地に「こういう人間」が生きていたことを知ることができる。吉田の、それが「人類という生物の種族への、一つの尊敬を取り戻すきっかけ」になるという言葉に共感する人は皆それぞれ、やはりマーラーの「晩年様式」の作品に向き合って、自分なりの応答を試みることが課せられているのではなかろうか?
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿, 2023.5.21加筆)
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