「老い」そのものではないが、「病」(と「健康」)を通じて、カンギレムの器官学との架橋の可能性がある。ユク・ホイ『再帰性と偶然性』のp.253以降のカンギレムの思考の祖述部分を参照。病理的なものとは規範や秩序の欠如ではなく、むしろ健康の規範から逸脱した一つの規範なのであり、したがって正常と病理の間には対立はないが、病理と健康の間には対立がある。
「健康を特徴づけるのは規範の変移を忍耐する能力である。(…)健康の測度とは、有機体の危機を超克し、旧い秩序とは異なる何らかの新たな生理学的な秩序を確立できる能力である。健康とは病気に陥りながらも快復できるという贅沢なのである。」(ユク・ホイ『再帰性と偶然性』, 原島大輔訳, 青土社, 2022, p.284)
「(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)
後者で、 「歳を取っても(…)ロバスト」だが、「定常の位置が推移して」いくとされる部分と前者の「規範の変移を忍耐する能力」の漸進的喪失、「病気に陥りながらも快復できるという贅沢」の余地の漸進的喪失と結び付けることで「老い」を定義できないか?ただし、この時「老年的超越」はどう定義できるか?老年的超越は、生物学的=器官学的=システム論的な定義に対して、そのシステム自体がメタな視点を持つことができることを含意する。中核意識レベルでは「老い」は存在してもシステム自身によって認識されることはない。延長意識を前提とした自伝的自己があってはじめて「老い」の「自覚」が可能になる。だが、「老年的超越」は本当に反省的にのみ定義可能なのか?無意識的な「老年的超越」を生きる動物はいないのか?(またしても「死」に対する態度ということでずれが忍び込むが、二人称的な「死」を悼むだけではなく、一人称的「死」を予感する動物は?そこから更に、それと気づかずに二人称的な「病」なり「老い」なりを感受する動物はいないのだろうか?いないとする立場は極めて疑わしいように思える。)
その一方で、マーラーの作品の音響の系列を生成する自動機械(オートマトン)というものを想定してみたとき、そのオートマトンは、アドルノの言葉によれば、「作品のいずれもが以前に書かれた作品を批判しているということにより」常に発展し続ける存在であり、「量的には決して多くない作品にこそ、進歩ということを語ることができる」ような存在でなくてはならない。それは常に定式通りの同じものを出力し続けるのではなく、「定式から解放された個々のものが、いかにして形式へと自らを造り上げ、自律的な連関をわがものとするか、ということ」を特有の技術上の問題とし、都度「手にしうるあらゆる技術を使って一つの世界を構築する」ような機械なのだ。そのためには最低限、内部状態を持ち、それを都度書き換えるのみならず、同じ内部状態に対して同じ出力を生成するのではなく、都度新しい出力を返すように自己を書き換えるようなオートポイエティックなシステムでなくてはならない。「人間的時間」の「感受のシミュレータ」である「マーラー・オートマトン」は「有機的」「生命的」である。それは単純な、サーモスタットのようなフィードバックシステムではない。「マーラー・オートマトン」はサイバネティックな機械だが、それが「意識」のシミュレータである以上、少なくともセカンドオーダー・サイバネティクス以上であることは明らかだろう。セカンドオーダーというのは、即ち「観察者」がシステムの内部にいるということであり、サーモスタットのような反射的なものから内部状態をもったものへと変化することで、「環境の状態を直接知覚し、それを元に行為選択するということではなく、環境の状態に対する信念のようなものがあり、それを元に自動的に行為選択されるようになる」というフリストンの能動的推論を遂行するための条件を満たしているのではないだろうか?そしてその数理的な形式的条件は、何よりもマーラーの作品という具体的な出力の分析から抽出されるべきである。それは、アドルノのマーラー・モノグラフを、再帰性と偶然性の観点から読み直すことに通じるであろう。だが、ここにもう一つ、条件を付け加えなくてはならない。それは「老い」てゆく機械でなくてはならない。進歩とは永遠の若さを意味しない。「有機的」「生命的」であることは本来的に「老い」をその中に含み持つ筈なのだが、しばしば「老い」は「反生命的」なものとして捉えられる。一方では「老い」つつも、他方では「進歩」を続けるのだが、そうした背反する動きは永久には続かない。してみれば「老い」は「進歩」の代償、応酬なのだろうか。否、そうではないだろう。逆に「老い」の応酬として「進歩」が引き出される。それがマーラー自身の言う「抜け殻」に過ぎないとしても、「作品」として機械の停止後もなお存続することがなければ「進歩」は不可能だろう。恐らくは、機械とその産物というモデルで作曲者と作品を論じること自体が、不適切なのだ。作品は単なる不活発な痕跡ではない。それは作曲者を遡行的に指示する記号であるに留まらない。それは寧ろ新たな生成のためのパターンであって、オートマトンが動作するためのプログラムなのだ(ここで内井惣七が『ライプニッツの情報物理学』において、楽譜とその音響的実現との関係を、モナドと現象界との関係のアナロジーで捉えていたことを思い出すのは無駄ではあるまい)。
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