では、かつての私はマーラーの「後期様式」についてどう感じ、考えていたのか?
まず眼差しのあり様としての「後期様式」を考えた時、それを「現象から身を引き離す」と捉えるのは「Mahlerの場合は」最も適切だということ。だがそれは一般化はできない。人により「後期」は様々だ。(例えばショスタコーヴィチを思い浮かべよ。)その一方で、ヴェーベルンの晩年とマーラーの晩年のアドルノの評価の違いはどうだろうか?いずれも「現象から身を退く」仕方の一つではないのか? こちら(マーラー)では顕揚されるそれと、あちら(ヴェーベルン)の晩年にどういう違いがあるのか?もっともこの疑問は幾分かは修辞的なものだ。なぜなら両者の様式が異なったベクトルを持っているのは明らかだから。寧ろ、にも関わらずそれらのいずれもが「現象から身を退く」仕方としては共通する点を以て、両方の「現象から身を退く」ことの間の差異を通じて「マーラー」の場合に照明を与えることが問われているのではなかろうか?
更に具体的な問題として、マーラーの「後期」はいつから始まるのか、という問いには様々な異説があって、ヴェーベルンにおける作品20のトリオと21の交響曲の間にある明確な区切り点を見出すのが困難に見える。特に厄介なのは第8交響曲の位置づけだろう。
ところで「大地の歌」の第1楽章について、かつての私には違和があった。今のほうがこうした感情の存在することがよくわかる。そういう意味で(多分にnegative―そうだろう?―な意味で)これは成年の、否、後期の(晩年、ではないにしても)音楽なのではなかろうか?
その一方で、「大地の歌」と第9交響曲を双子のような作品として、一方が他方のヴァリアントの如きものとして扱われることが多いのに対して、第9交響曲と第10交響曲の間に広がる間隙は大きいように見える。マーラーに関して、もしシェーンベルクが間違ったとするならば、それは「いわゆる第9神話」に、彼独特のやり方によってとらわれたことが挙げられるだろう。この点についてはマイケル・ケネディの方が正しいと私には思われる。更に、そこを「行き止まり」と看做すことなく、第10、第11交響曲を考える点でもケネディは正しい。マーラーは本当に発展的な作曲家だった。だから第9交響曲は行き止まり等ではない。確かに第10は「向こう側」の音楽かも知れない。(なお、これを第9交響曲より現世的と考える方向には与しない。)けれどもマーラーは「途中で」倒れたのだ。マーラーの死は突然だったから本当に途中で死んでしまったことになる。(ただし仮にそれが誤診であったとしても、心臓病の診断が下って後、迫ってくる自分の「死」を彼が意識しなかったというのは全くの出鱈目だ。せいぜいがアルマの回想のバイアスに対する警告程度であればまだしも、彼の見てていた主観的な風景を、あたかもそんなものはないかの如き主張、誤診という客観的事実のみを以て、マーラーが「健康」であったなどといった主張は「ためにする」議論でしかない。)
そうしたこともあってマーラーの第10交響曲こそが最も近しく感じられる。この不思議なトポス、だけれども、これは存在する、そうした場所はあるのだ。少なくとも残された者の裡においては。それ自体、何れ喪われるものであっても、それは存在する。全くのおしまい、無というわけではない。それは「喪」そのものかも知れないが、喪のプロセスは残された者の裡には存在する。マーラーがこの曲を、特に第1楽章以降を書いたのは不思議だ。彼は確かに危機の最中にはあったし、己の死を意識してはいただろうが、でも死に接していたわけではないのだ。
だが私はこの曲のAdagioに、他のよりポピュラーな作品に先んじて、最初にそれだけ単独で知ることになったのだが、知ってたちまちに、結果として早くから惹きつけられた。マーラーについて最初に書いた、ケネディの評伝の「読書感想文」の形態をとった文章の中で言及したのは、まさにこの楽章だった。他ならぬこの曲だった。それを子供時代に聴くというのはどういう事だったのか?
否、「現象から身を引き離す」ことは老年だろうが、子供であろうが、実はいつだって可能だ。ただし有限性の意識として共通であってもクオリアは異なるだろう。かつての宇宙論的な絶望と今の生物学的な絶望との間には深い淵が存在する。
「後期様式」とは具体的に何だろうか?回想という位相。(かつての)新しさの経験。異化の運命。後期様式による乗り越え。風景の在り処。現実感は希薄。回想裡にある。かつて現実だった?「だったはずの」? …「ありえたかも知れない」?「仮晶」=「ありえたかも知れない」もう一つの「民謡」としての「東洋趣味」、「中国様式」?
確かにマーラーは何か違う。consolationなのか、カタルシスなのか。(ホルブルックの)Courage to Beという言い方に相応しい。それを「神を信じている」という一言で済ませるのは何の説明にもなっていない。その「肯定性」―それはショスタコーヴィチとも異なるし、例えばペッテションとも異なる― について明らかにすべきだ。同じように救済もまた、もしそれがあるとするならば、第8交響曲のみしかない訳ではないだろう。マーラーは「約束で」長調の終結を選んだわけではない。強いられたわけでもない。とりわけ第10交響曲の終結が、それを強烈に証言する。一体何故、このような肯定が可能なのか―マイヤーの言うとおり、これは「狭義」の信仰の問題ではない筈だ。懐疑と肯定と。
アドルノのベートーヴェンの後期様式についてのコメントをマーラーの後期様式と対比させること。『楽興の時』の中でのベートーヴェンの後期様式やミサ・ソレムニスについてのそれを、マーラーの『大地の歌』、第9、第10、そして第8と対照させつつ検討する。案に相違してベートーヴェンの閉塞と解体に対して、マーラーは異なった可能性を示したのかも知れない。アドルノのことばは、その消息についてははっきりと語らない。一見したところ、両者の身振りは極めて近いものがある。だが、並行は最後まで続くのか?寧ろ一見したところ厭世的に受け取られることの多いマーラーの方が「他者のいない」ベートーヴェンよりも、 異なった可能性に対して開かれていたのでは、という想定は成り立つ(Greeneの立場とも対比できるだろう)。
ホルブルックと大谷の「喪の作業」(『大地の歌』に関して)を組み合わせて考える。個人的な『大地の歌』―第9交響曲における普遍化というのは成立するのだろうか?ところで、ホルブルックの「結論」(原書p.213)はどうか? 多分正しいのだろうが――これは私の求めている答ではない。 では答はどこにあるのか? そもそもマーラーにあるのか? 勝手読みは(マイヤーの心配とは別に)必ず無理が来る 「感じ」が抵抗し、裏切るのだ。 頭で作り上げた「説明」は、どこかで対象からそれてゆく。 一見、ディレッタンティズムに見える―衝動に支えられた―探求の方が、より対象に踏み込めるに違いない。
あるいは、「実感」が追いつかない――忘れてしまったのか?――否、そんなことはない。 まだ「わかっていない」だけかも知れない。 ここに「何かがある」のは確かなことだ。 自分が求めているものとぴったり同じではない可能性も否定できないにせよ、自分にとって限りなく重要な何かあがあるのは確かだ。
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)
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