「リズム」と「老化」。「リズム」で「老化」を定義できるか?「リズム」がジンメル的なゲーテ把握において果たしている役割から老化を測ることができるか?そこから、逆にゲーテの「現象から身を退く」を定義できるか?チェズーア(一時停止。ここではヘルダーリンとツェランを念頭におきつつ)と「老い」。尤もヘルダーリンの「老い」とは「寂静」とホイサーマンの名付けた精神的薄明への移行であったし、ツェランは世間的には老いることなくセーヌ川に身を投じたということになるのだろうが、前者にはスカルダネリという別に固有名による署名と脱臼したクロノロジーを持つ、絶頂期の自由律の長大な讃歌とはあまりに異なって、韻律を持ち、繰り返しさえ厭わない定型的な題名を持つ短い一連の詩編があるし、後者には、まさにチェズーアを題名そのものとして戴いた Atemwende(『息のめぐらし』)を転回点として以降、『絲の太陽たち』『光の強迫』と、ますます圧縮されて短くなってゆき、暗号のように謎めいていく詩篇こそは、あまりに早く訪れた「老い」を、まさに強迫されるようにして駆け抜けたのだと考えることはできないだろうか…
* * *
山崎正和『リズムの哲学ノート』。世阿弥『風姿花伝』における「老年の初心」。初心とはつまり、やり直さなくてはならない、ということではなかろうか?そしてやり直さなくてはならないという言葉の連想は、マーラーの、これもまた早すぎる「晩年」に書かれた、余りに有名な書簡を呼び起しはしないだろうか?勿論、これが世阿弥の「老年の初心」なのだということが言いたいのではない。その点の当否については、いっそ「否」と答えることさえ躊躇わない。そうではなくて、「老い」ということには、或る種のチェズーアが、「息のめぐらし(Atemwende)」が必要とされるということ、そこから先は、最早今までのようではなく、新たな条件の下で「やり直さなくてはならない」のだということを、世阿弥は能役者の芸のステージとして述べ、マーラーは『大地の歌』を書くことを、そのように(自覚に、明示的に認識したということではないにしても)了解したということをワルターに向けて問わず語りに語ってみせたということではないかということが言いたいだけである。
ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324)
(...) Aber zu mir selbst zu kommen und meiner mir bewußt zu werden, könnte ich nur hier in der Einsamkeit. -- Denn seit jenem panischen Schrecken, dem ich damals verfiel, habe ich nichts anderes gesucht, als wegzusehen und wegzuhören. -- Sollte ich wieder zu meinem Selbst den Weg finden, so muß ich mich den Schrecknissen der Einsamkeit überliefern. Aber in Grunde genommen spreche ich doch nur in Rätseln, denn was in mir vorging und vorgeht, wissen Sie nicht; keinesfalls aber ist es jene hypochondrische Furcht von dem Tode, wie Sie vermuten. Daß ich sterben muß, habe ich schon vorher auch gewußt. -- Aber ohne daß ich Ihnen hier etwas zu erklären oder zu schildern versuche, wofür es vielleicht überhaupt keine Worte gibt, will ich Ihnen nur sagen, daß ich einfach mit einem Schlage alles an Klarheit und Beruhigung verloren habe, was ich mir je errungen; und daß ich vis-à-vis de rien stand und nun am Ende eines Lebens als Anfänger wieder gehen und stehen lernen muß. (...)
丁度マーラーが「大地の歌」に取り組んでいる時期に、ヴァルターに宛てて書いた手紙の一部だが、これもまた、ヴァルターの「マーラー」伝を始めとして色々な ところで引用されてきた有名な部分であろう。この文章には、まさに「大地の歌」に結晶する「受容」の過程が、その傷の深さとともにはっきりと刻印されている。 「そんなことはとっくの前にわかっていたことだ」という言葉は、若き日のマーラーを思えばいつわりは微塵も含まれていないが、にも関わらず、その言い方には 逆説的にマーラーの蒙った傷の深さを窺い知ることができるように感じられて痛ましい。ウィーンの宮廷歌劇場に40歳にならずして君臨し、すでに第8交響曲までの 作品を書き上げた天才が、一からやり直さなければならない、と書いているのを見るのは信じ難くさえ思える。
と同時に、この手紙を読めば「大地の歌」が何を語っているのかについての手がかりを得ることができるのではないか。それは「受容」の過程の結晶なのだ。 「とっくの前にわかっていたこと」のために一からやり直さなければならないという状況を受容して、再び仕事を続けられるようになる過程の反映なのだと思う。
ところでこの件に関連しては、既に記事「大地の歌」における"Erde"を巡る検討のための覚書 ―甲斐貴也訳「大地の歌」によせて―において、『大地の歌』を「死の受容」のプロセスの反映であるという大谷さんの説を紹介して検討したことがある (大谷正人, 『音楽のパトグラフィー, 危機的状況における大音楽家』, 大学教育出版, 2002 の 第6章「マーラーの晩年の作品における死の受容をめぐって」, 初出は病跡誌No.49, 1995, pp.39-49)。大谷さんによれば「大地の歌」の曲の配列が、絶望(悲しみと怒り)、虚脱、受容、見直し(再起)という死や障害の 受容過程に関する死生学におけるモデル(平山正実「悲嘆の構造とその病理」現代のエスプリ248, 1988, pp.39-51)に類似しているという。
ただし改めてそのプロセスと楽章排列を対照してみると、その類似は、大まかなアウトラインレベルのものであって、正確にプロセスの各段階が各楽章に対応づいているといったレベルのものではないのでここでは再掲しない(詳細は上記の元記事を参照。)一方で、「受容」の対象が「死」であるということよりも、それが「受容」のプロセスの反映であるという点に重点を置いた以下のコメントについては、基本的には現時点でも大きな修正の必要は感じていない。
ここで重要なのは、その音楽が「死」そのものの「描写」であるのではなくて、その「受容」の過程の、凡人には為しえない天才的な仕方での昇華で あるということで、それゆえに聴き手もまた、音楽を聴くことでそのプロセスを自分なりに反復することができる可能性があるのだ。 (大谷さんも述べているように、「受容」そのものについてマーラーの能力が際立っていたということではなくて、偉大なのはその過程の作品化の方なのだが、 そこにある経験の深み、作品と経験との他には見られないほどに密接な関係がマーラーの特徴なのだと思う。)
とりわけ「大地の歌」について言えば、その構成が死の受容過程に類似しているという指摘は大変に興味深いもので、この「大地の歌」を 含めた様々な優れた芸術作品が持っている「力」、多くの人が感じ取ることができる力の正体を考える上で示唆的だと思うし、病跡学とはいっても、 いわゆるマーラーその人の気質類型論の類にはあまり関心はないとはいえ、この説については、私の自分の経験に照らして、深い共感を覚える。
さらにまたこの大谷さんの見方は、マイケル・ケネディの「マーラーは死ではなく、生に対する熱烈な憧れを表現」したのだという意見、その作品が聴き手の 「新陳代謝の一部になる」という表現と強く響きあうものがあるように思われる。 そして何より、私がマーラーに関して強く感じていること、マーラーの音楽が有限の主体の、儚い意識の擁護であること、取るに足らないものであっても、 それが還元不可能なものであり、様々な価値の源泉であるという感じ方とも一致しているように思われるのである。私にはヴェーベルンが気質の違いを 超えてマーラーに見出したかけがえのないものとは、こうした認識ではなかったかと思えてならないのだ。
そして、ここでいう「受容」が必ずしも「死」のそれでなくても上記の了解は成立することは明らかなことに思われる。そもそも大谷さんが参照している平山論文のそれは「死や障害の受容過程」であって「死」に限定されているものではない。だからそれを「死」に限定してしまったのは、それをマーラーに適用するにあたり、大谷さんがマーラーの晩年についての通説のドクサに影響されたという見方さえ成り立ちうるのだ。飽くまでも重点は何らかの「苦」の「受容」の側にあるのであり、そうした「受容」のプロセスは、寧ろ「老い」中でより普通に見出すことができる或る種の「超越」と言うべきなのではなかろうか?
ここでトルンスタムが「老年的超越」の実証的な調査の結果の検討の過程で見出したような、「危機」の経験が「超越」を促す働きをすることがありうる一方で、「超越」は「危機」の経験のみによって引き起こされるわけではなく、寧ろ「老い」の中で、加齢に伴って「危機」が「超越」に与える影響は小さくなっていくという解釈を思い浮かべるべきだろうか? (ラーシュ・トーンスタム, 『老年的超越 ―歳を重ねる幸福感の世界―』, 冨澤公子・タカハシマサミ訳, 晃洋書房, 2017, 特にその「第4章 量的な実証研究」の中の「人生の危機と老年的超越」の節 pp.126-138 を参照。)勿論、トルンスタムの解釈は、老年社会学における量的調査を統計的に分析した結果に対するものであり、或る特定の個人の経験についてのものではない。だからそれに基づいてマーラーの場合という特殊なケースについて述べることは論理的誤謬に過ぎない。そしてマーラーの場合における長女の死の経験(ジャンケレヴィッチ風には、「第二人称の死」ということになるだろうか)を軽視することは勿論できないだろう。だがそれとて、自分の病の宣告、宮廷=王室歌劇場監督辞任とニューヨークでの新たな仕事といった立て続けに起きた一連の出来事の一つであって、それのみが「危機」と呼ぶに値する問題で他はそうではない等ということはできまい。自分の病の宣告にしても(それが後年、客観的には誤診であったということを言い立てる近年の主張は、マーラー自身の主観的経験の水準とは無関係である点は措くとしても)それが「第一人称の死」に関わる経験であるという解釈を否定するような事実が明らかになったわけではなく、それは依然として有効な解釈であろう。但しその重点は、アドルノが揶揄したような「死が私に語ること」ではなく、寧ろ「老年的超越」における「宇宙的なつながりの次元」の獲得のプロセスにあると捉えるべきだということが言いたいのである。
ちなみに、アルマの回想の影響で第6交響曲フィナーレのハンマーに関連付けられた「三つの運命の打撃」として人口に膾炙してしまったが故に、「脱神話化」の傾向の中で批判の対象になった上記の三つの経験が、いずれも老年学における「危機」に含まれることは興味深い(それぞれ一般化して、親しい他人の死、自己の死への恐怖、失職や定年の危機に概ね相当するものと思われる)。勿論トルンスタムの言うように「危機」とは第一義的には主観的な認識の問題であって、客観的な事象の外側からの把握が即、「危機」の客観的存在を確証するのではなかろう。そして個別の被験者の体験については、老年学では質的研究と呼ばれる手法の対象となるのだろうが、ここでマーラーのケースを(既に物故しているが故に、インタビューのような調査手法が取れないので、その代替として)病跡学に対応するようなアプローチで検討するだけの準備はまだないので示唆に留めざるを得ないが、それでも様々な資料から窺えるマーラーの主観的認識を推測するならば、くだんの三つの体験についての反応は、「親しい他人の死」は危機として受容、「自己の死への恐怖」はマーラーが病気に対してそれまでそうであった延長線上で捉えることも可能かも知れない生活習慣の変更による受容、「失職や定年の危機」もまた、それまで常にマーラーがこの点については抜かりない駆け引きを行ってきたのと同様の仕方での対応でウィーンでの辞任事前にニューヨークとの交渉を済ませており、最後のものはそもそも「超越」の契機となるようなレベルの「危機」として捉えられていたかを問いに付す向きがあっても不思議はないと思える。
上記のワルター宛書簡で「一からやり直さなければならない」と書いているからには、そこに「危機」が存在していたことは主観的には疑いのない事実であろう。だがアルマのしばしば恣意的な描写のバイアスを除いてなお、それぞれの要因を分離して独立にその影響を測ることは既に事実を離れた抽象に陥ることを避け難い。否、アルマの回想にしても、それが後年の合理化による歪曲を含んでいたとして、どこまでがそうで、どこまでがアルマにとっての主観的真実であったかは測り難い。そしてアルマの証言を疑う客観的妥当性を認めてなお、彼女がマーラーにとって最も身近な存在であったことは疑いなく、彼女の認識とマーラーの認識をどこまで分離できるかについて懐疑的な姿勢もまた必要ではなかろうか。かてて加えて、マーラーその人の主観について仮に真実に到達できたとして、そのことと作品が私たちに語ることとは更に別であろう。勿論、作品を取り巻く過去の言説は作品の解釈にとって外的なものではなく、寧ろそうした言説の空間の中でしか解釈はあり得ないだろうが、mathesis univsersalisとしてそうであったとしても、それはマーラーの音楽が私に語ることの固有性に拘るmathesis singularisの立場からは、可能な限りそれらを一旦括弧入れして、作品から何か聴き取りうるかを見つめ直す必要があるのではなかろうか。そしてそうしたやり方を採ろうと試みた時に、こと『大地の歌』に聴き取りうるものは、「老年的超越」に近い存在様式に到達するプロセスである、というのがここでの仮説になるのだろう。
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)
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