2002年4月30日火曜日

バルビローリのマーラー:バルビローリを聴くことをめぐる幾つかの視点

私がバルビローリを聴く際の前提となる環境については上述した通りであるが、ここから、 聴取をめぐって幾つかの視点が思い浮かぶ。それを以下に記しておきたい。 それぞれの視点は、更に展開することができる(あるいは展開しなければ意味がない) だろうが、とりあえずは視点の提示のみにとどめる。

最大のポイントは実演を聴いたことがないこと、レコードないしCDを通した聴取に限定 されていることだろう。間接的とはいえ間違いなく同時代性に支えられたラジオ放送の 聴取すらない。例えば、日本では既にながらく、そして恐らく今後も実演を聴けない アーノンクールも放送を通じてなら、同時代の空気の中で聴取することは可能だが、 バルビローリについては、実演もラジオ放送もクロノロジカルに不可能だったからだ。
近年、いわゆる「真正な」ライブ録音がリリースされるようになって環境は 大きく変わってきたし、インタビューの記録やリハーサルの映像記録などを通して、 実演以外の側面を知ることでより立体的な把握ができるようにもなってきているが、 それらは「歴史的」記録であり、同時代のものではない。また、そうした 歴史的録音を聴いた上で、例えば1964年にあのデリック・クックが書いたバルビローリに ついての文章を読むと、かえって実演に接していないことの限界を感じずにはいられない。
そこで実演の「アウラ」なしに論ずることにどれだけの意味があるか?という疑問が 浮かぶ。録音の記録のみの享受は、人によっては致命的と考える条件かも知れないが、 それでは、アウラは全く消滅してしまうのか?
同一の記録を何回も繰り返し聴くことは、確かに1回性の実演の享受とは異なる とはいえ、しかし、聴取自体はその都度異なるのである。 演奏者の立場から言っても、演奏会場でのその都度の演奏を決定する要因が、 その場にいなければ歪められてしまう、録音記録では、意図が致命的なほどに 損なわれるという立場もあれば、スタジオでのテイクの繰り返しによって、 己の欲する音の姿を追求する立場だってあるだろう。 つまるところ、実演に優るものはない、という前提は認めた上で、後は その演奏家自身の立場、更には(演奏家の意図なり立場なりは、実現された ものとは別であるという考えには説得力があるので)実際に実現されたもの によって、録音の記録にも一定の意義は認めるべきだろう。
救い出す必要があるのは、1回性のアウラそれだけではない。そして 録音の記録により救い出せるものがない、と断言することができるかどうかは 少なくとも問うてみる価値はあるだろう。
つまるところ私は、それが全く無意味というようには考えない。なにより バルビローリ自身がキャリアの非常に早期から録音に積極的に取り組んでいるし、 バルビローリの演奏像を考える際に、当時のスタジオでの録音の環境というのは 無視できないと思うからだ。つまりバルビローリ自身が、録音を通じた演奏行為という 演奏の在りかたに対して、積極的に関与しているという点は見逃せないと思うのである。

いずれにせよ、私にとっては録音記録を通してしかバルビローリは知りえないのだが、 これに関連して、更により一般的に、時間的・空間的な隔たりの実感についても 無視することはできないように感じている。
これまた無いものねだりには違いないが、まずは埋めがたい生活空間の違いの感覚だ。 例えばVWのロンドン交響曲への、或いはエルガーの中ならコケイン序曲への 疎遠感は、そこに起因しているような気がする。
私はバルビローリの音楽には「ニュートラルな」側面があると考えているが、それは レコードやCDのみで、空間的に遠くはなれた日本で、時間的にも過去の音楽として聴いて いることに由来しているかも知れない、という感じは拭えない。勿論、それだけではないと 考えているが、そうした状況の寄与をどれだけ分離できるかは定かではない。
時間的な懸隔については、記録を通してしか知りえないということに関連して、 そうした聴取の様態を含めた上で、更に、「終わったもの」を聴いているのか、という 問題もあると思う。ただしこの命題は寧ろ検討の対象だろう。実のところ、アドルノがあれほど 生理的に嫌悪した、そして、例えばチェリビダッケが挑発的に、ツェンダーが控えめに、 けれども何れも断固とした調子で語った嫌悪の対象である録音によって支えられた「文化産業」 そのものが終焉しようとしているかも知れないのだ。今や立場は転倒する。
それが商品として流通するにしても、かつて可能であった入念なスタジオでの作業の方が、 今や稀になった良心を証言するものになっているかのようなのだ。もっと言えば僻遠の地あっては コンサートホールでの実演とて、録音と変わるところはない、否、選択の余地がない分、(もしそれを 拒むのなら)ある種の操作の介在は、コンサートホールにおいてこそあからさまかも知れない。 かつては過去の創作が演奏会場で現実の演奏によって消費されていたというのに、 今や実演を含め、同時代のものよりもより多く過去の歴史的録音が消費されつつある。 かつての私にとってはそうでなかったといえ、今やバルビローリもそうした過去の記録の一部を なすことは否定しがたい。というわけで、何重もの意味合いにおいて明らかに過去となったものに 向き合うことの意味は何だろうか?
演奏の記録を「無自覚的な歴史記述」として捉えてしまっていいのかに ついては疑問が残る。勿論、そういった側面がない、というのではない。 それどころか、特に厳密な意味での同時代性が成立しないような事象について、 そこに時代的なものがどうしようもなく感受されるというのは寧ろ「自然」な 態度であろう。問題は「歴史記述」として捉えるその態度そのものが、 経験をある種の図式に当て嵌めてしまい、経験の「収まりの悪さ」を切り捨てて しまうことになりかねないことである。そうはいっても歴史的文脈を離れた 非時間的な議論など架構に過ぎないのではあるが。

一方で、こうしてバルビローリに「ついて」書く、というスタンス自体についての 疑問もある。演奏(再生産)にフォーカスし、更にその際に指揮者という「特殊な」演奏者に 焦点をあてて、その演奏を享受する立場に限定して言えることは何なのか? 勿論、批評をするつもりはなく、聴取の感想を書いているに過ぎないという前提をおいた上で、 その感想とは一体どういうものなのか、ということである。 この問題は、明らかにトリヴィアルな享受の極の貧弱さ(なぜなら、その貧弱さは「私」と いう個別の問題だから)と、恐らく本質的な、指揮者という何重にも間接的な存在に フォーカスをあてる、しかも、一般論としてのファシズム的な指導者原理との近縁性などと いった次元ではなく、こちらもまた個別的にバルビローリという個人にフォーカスをあてるという 立場が齎している困難との2つの複合である。
創作の極は措くとして、演奏についても私のように貧弱な実践の経験しかない私のような人間に 語れることは何なのか? 一方で、創作の極と演奏家の「個性」とはどういう関係にあるのか?おまけに指揮者というのは 自分は奏でない。楽譜というのが手がかりに過ぎない、不完全な媒体であるのは 明らかだが、そうした不完全なものを媒介した再現にとって「個性」とはどのように位置付ける べきなのだろうか。
これに関連して、ではバルビローリの音楽ならそのすべてを無差別に、自分にとって疎遠な音楽も 含めてすべて聴くのか、という問題もある。個人的には実際にはこの問いに対する答えは初めから 出ていて、どう抗おうと、自分が聞かない音楽についてその演奏を論じることはできないのだが、 そのことはここに書かれたことの意義に疑問を突きつける。創作の極なら、ありとあらゆる演奏を、 演奏の曲なら、ありとあらゆる音楽を扱わずして可能なことは何なのだろうか、というわけだ。

このような状況下において近年、まるでかつて流行した「タイムカプセル」のような記録が 「発掘」され、市場に流通することになった。キャスリン・フェリアがアルト・ソロを歌う、 バルビローリ指揮のハレ管弦楽団によるマーラーの「大地の歌」1952年4月2日の記録である。 個人がラジオ放送を偶々エアチェックして録音したものらしく、第1曲の冒頭7小節が欠落している ものだが、もしかしたらこの記録こそ現在置かれている状況を端的に物語っているかも知れない。 私ははじめ、これを単なる記録としてのみ考えていた。しかし、実際に演奏を聴いてみると、 その立場は途端に怪しいものになった。それではバルビローリを聴くために更に過去を遡ったり、 自分の普段は聴かないレパートリーに手を広げるべきなのか?出所も怪しく、場合によっては真偽 すら定かでない録音まで聴くべきなのか?残念ながら、私はそこまで熱心な聴き手になれそうにない。 すでにCDで50枚を超える演奏記録を前にして、かつて始めて聴いたあのシベリウスの交響曲の LPに向かったときの思い入れを、それら全てに対して抱くことはできそうにない、と嘆息する のが現実なのである。要するに、バルビローリ「について」語る、というのはやはり僭越な 言い方に違いないのだ。

ここで結論めいたことは到底書けないが、以下のことは確実にいえると思う。
最終的にはクオリアが全てに優越する。これを言えば後に何も言うことはなくなってしまう。 けれども、最後の拠り所、否、それ無しには最初の一歩すら 存在しないという意味での「根源」は、儚い束の間のクオリア以外にはありはしない。その経験は、 結局のところいかなるものにも還元することはできない。音楽はそうした経験の特権的な様態である という立場に私は与する。そして私の意見ではとりわけバルビローリの音楽はより一層、そうなのだ。
そしてまた、ミームの産出によってしか不滅性へ向かうことはできない。それがどんなに取るに 足らないものであっても。
勿論、どんなにうまくいっても、つまるところ(価値についてはここでは疑いようのない) バルビローリの演奏すら、それは理念としての不滅性になど届きはしない。けれども、そのように しか神の衣を織ることに与ることはできない。取るに足らぬものであれば、それに相応しく、 淘汰によりそれは消し去られるであろう。
録音を貶める立場があってもいいだろうが、けれども遺された録音が聴かれ続けること、 そしてそれに触発される人間が僻遠の地にいることが、ミームとしての卓越性の証であると思う。 私の印象の記録など、それ自体はミームとして粗悪で拙劣なものだが、それでもそうした複製を 生み出したという事実が、バルビローリの演奏の記録の卓越性を証することになればと願っている。

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