バルビローリとの出会いは2枚のレコード。シベリウスの第5,6交響曲、第1,7交響曲のLPである。
恐らく1978年くらいのことで、まだバルビローリが没してから10年は経過せず、そして録音が
行われた時期から数えてもやっと10年が経つか経たないかといった頃合いのこと、まあ、
同時代の演奏であったといって良い。例えばフルトヴェングラーは過去の人という意識が
あったが、バルビローリは既に没していたのを知っていたにも関わらず、過去の人という
感じはしなかったように思える。
地方都市の子供にとって1枚のLPの持つ価値は大変なもので、特にシベリウスの後期の交響曲に
すっかり魅惑されたため、この2枚は宝物であった。本当だったら残りの3曲もバルビローリの
演奏が欲しかったのに、私の住む町のレコード屋には、それきりバルビローリのシベリウスの
LPは入らなかったため、例えば有名な第2交響曲の演奏(1966)を聴くのはその後10年以上も
後のことになる。いずれにせよ、バルビローリは私にとってシベリウスの演奏者であった。
その後はブラームスの交響曲の録音や変わったところではチェコ・フィルを振ったフランクの
交響曲などもあったが、エルガーの交響曲の録音を聴いたのをきっかけに様々な曲の演奏を
聴くようになった。丁度1999年が生誕100年にあたっていたこともあり、古い録音が復刻され
たり、今まで埋もれていた音源がリリースされたりして、今ではかなりの曲をバルビローリの
演奏で聴くことができる。
その中で、私にとってのバルビローリの演奏の「核」はエルガーである。
シベリウスもマーラーも、プッチーニもR・シュトラウスも、ブルックナーもブラームスも、
エルガーを軸にして考えると、その演奏の有り様が理解できるように思えるのだ。
私は残念なことにバルビローリの実演に接することはできなかったし、そもそもバルビローリの
演奏を聴き始めたのは彼の死後であって、厳密に言えば、遅れてきたものになるが、それでもなお
既述の通り、聴き始めた時にはそれは同時代の音楽であったと思う。
しかし現在、バルビローリは確実に過去の指揮者の一人になってしまったように見受けられる。
もしかしたら、もはやバルビローリにおけるような世界の感受のありようは、現代においては
少しばかり時代錯誤なのかもしれないとも思う。バルビローリの音楽には現在の豊かさが
当たり前のように、ごく自然に息づいているが、こうした豊かさはもしかしたら現代では
もっと遠回りをしなくては、もっとずっと知的な操作を経た上でなければ獲得できないのでは
ないかという気がする。勿論、ここで言っている豊かさの有無は音楽の価値とは何の関係もない。
むしろ、現代において豊かさが当たり前に得られると考えたり、そうであることを装ったりする
ことには、何か懐疑的になってしまうということなのであるが。(そして、ここでもエルガー
との並行性が見られるように思う。)
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