2002年4月30日火曜日

バルビローリのマーラー:バルビローリの演奏スタイルについてのコメント

一方で、そうした豊かさが聴取の経験としては、当たり前のように、ごく自然なものとして 感じられるとしても、それはバルビローリの解釈が無意識的な、感性だけで音楽を捉える類の ものであるということを意味しはしない。
バルビローリの音楽を一言で言えば、それは意識の音楽ということだと思う。意識の音楽と いうのは、自我の音楽でも世界の音楽でもない、自我と世界の関係の音楽だということだ。 そしてバルビローリにおいては、その関係は緊張することはあっても破綻することはない。
また、垂直軸の欠如というのもバルビローリの特徴の一つだと言えるかもしれない。 立ち上がって水平線を見やることはあっても、天から何かが降りてきたり、空中を浮遊したり することのない、足が地に付いた音楽、「人間」の音楽のように思える。勿論、これは バルビローリの限界でもある。バルビローリの音楽は常にわかりやすく、そしてそのわかり やすさは稀有のことではあるのだが、一方で、もしかしたらわかりやすすぎるかもしれない、 と思える瞬間もなくはない。エルガーがそうであるように。
それゆえシベリウスの演奏においても風景の中にいる私が消滅することはないし、ブルックナーの 音楽が所与として天から降り注ぐこともない。音画のような音楽であっても単なる静止した客観の 模倣になることはなく、主観の極が残っている。マーラーの場合には世界と主観との関係は一様ではなく、 それは関係を時折損なうほどまでに緊張を帯び、結果として世界が遠のく、主観の没落の瞬間が あるのだが、バルビローリのマーラー演奏にとって世界との間には緊張はあっても、決定的に 虚無と向かい合うような瞬間はないように思える。第9交響曲の第4楽章の結末においてすら、 眼差しを投げかける主観が残っているのだ。その一方で逆に、それは主観の情緒なり感傷なりの 表現になりきってしまうこともない。 寧ろここでの主観は、個別の経験に翻弄される存在、外部に開かれて傷つく儚い存在なのだ。

その音楽の経過は物語の経過、「意識の流れ」なのだが、それを直接的で無媒介に「自然なもの」と して装ったりはしない。それは「自然な」演奏ではあるが実際には作為的で、意識的に歌われる ものなのだ。そこにはジュリーニにおけるような到達されるべき均整もないし、ザンデルリンクに おけるような音の自発的な生成展開もなく、出来事に満ちており、予定調和的な結末はありえない。 ただし調和が否定されるのではなく、それはその都度、本気で追及されるのである。
バルビローリの演奏は、演奏というのが常に媒介されたものであり、作曲者の意図に対しても、 実現された作品に対しても演奏者が透明になることはないのだ、と告げる。不完全な備忘に 過ぎない楽譜への忠実さを担保とするような客観的解釈は虚偽である。そして客観的でなければ 必ず恣意的であるということには勿論ならない。バルビローリの演奏は作曲者の意図と実現された 作品の間の一致、あるいは齟齬もひっくるめて、それらを自明のものとはしない。もう一度、 自覚的に引き受けなおされ、媒介されるのだ。大抵の場合に情緒的に聴かれる(そしてそれ自体は 別に誤りではない)にも関わらず、そしていつも成功しているわけではないとはいえ、そうした 姿勢こそ際立っているように思われる。

それゆえか、バルビローリの場合には、作品自体が(つまり創作の極において既に)媒介されている、 直接性が虚偽であることに気付いている作品において、その解釈は遺憾なく発揮されるようだ。 その端的な例はマーラーであろうし、逆に作品が無意識的な証人であるようなブルックナーの ような場合には、そうした自明性への(「批判哲学」というときの批判の意味合いでの)批判の 立場が顕わになり、聴く人を驚かすことになるのだ。
いわゆる「知性派」的なクールさをトレードマークとする指揮者達とは異なり、バルビローリは 情緒的で、寧ろムーディな聴かれ方をされがちだが、実際には「表現」によって、我々に現象する 物象とそこに生きる我々の自明性を批判し、自明性のうちに生きる理性を覚醒させ、それに 責任をとらせる、そうした現象学的ともいえるようなような姿勢があるように感じられる。 その姿勢が時代遅れに感じられる分だけ、今や批判的な機能を持っているかも知れないのだ。
一方、バルビローリの音楽は抜け目のない知性の監視下にあっても、完全な音響バランスの 人工的な息苦しさからは逃れている。もちろんここには執拗なまでの響きに対する こだわりがあるに違いないのだが、にも関わらず生成した音楽の呼吸が自然であることは驚異的だ。 そしてその自然さは、音楽が孕む葛藤や矛盾を取り繕ったりすることはない。 外から理念を持ち込むことによって、楽曲を整形しようしているようには見えない。 寧ろ、多少ぎこちなくなっても音楽が自然に呼吸することを優先するのだ。 矛盾を矛盾と呼ぶことがバルビローリにおける自然さなのである。

ただしそれは、今日あるタイプの演奏がそういわれるような、矛盾する要素をそのまま放置 するような挙措とは異なる。矛盾を矛盾として音楽が感じて、調停が志向されるのであれば、 まさに調停を志向するのだ。ただしその調停が成功し、矛盾が解消されたふりをすることは ないのである。
またそうした楽曲の生理を重んじる姿勢が、シベリウス、マーラー、あるいはエルガーのような 周縁的で、多かれ少なかれ、そして意識的であれ、半ば無意識にであれ、同時代の音楽の規範から 逸脱する傾向のある作品をレパートリーとして持つことを可能にしているように思われる。 ブルックナーの交響曲してもそうだし、私見ではブラームスですら、ブラームス本人の 「意図」においては古典的、規範的たらんとしているのがあれほど明白だ というのに、例外ではない。バルビローリの姿勢はブラームスの音楽がもしかしたら意に反して持って しまった余剰をそのようなものとしてはっきりと提示するのだ。 それは周縁的であるというより、寧ろ個別的なものに対する寛容さ、(不完全さも含めた 人間的なものに対する)優しさのようなものとすらいえるかも知れない。
個別的な経験へのこだわりは、その経験の深さと現象への接近の程度の点で、「かつての」 新ロマン主義よりも寧ろ、印象主義を思わせる徹底ぶりである。実際、特に壮年期の演奏において バルビローリの演奏は、より多く印象主義的であるように思われる。
ただしバルビローリの演奏はそれが媒介されていることを忘れない。その認識が深まる 晩年の特にスタジオでの演奏においては、それゆえ寧ろ表現主義的と言いたくなるような緊張が 支配するようになる。ここで私が緊張を見出す同じ演奏に、ある種の弛緩を見出す人がいることは ある意味では驚きだが、けれども実はそうした感じ取り方にも一理あるのだ。なぜなら、 そこには反省が、それゆえの「遅れ」が介在しており、それが音楽を、何か統一された 主張を行う主観的表出という捉えかたからすれば、何か既に脆さを、解体に瀕した危うさを 感じさせるものにしてしまっているからである。緊張は、声高に主張する主観のそれではなく、 主観が世界に対してとる関係のそれなのである。バルビローリの演奏においては「表現」の 内容というよりは、「表現」とは何かの定義そのものが問われているように思われる。

バルビローリの演奏は、チェロを弾いていたせいか、弦楽器の扱いが徹底している。新しい曲を 準備するにあたって、弦楽器のパートの奏法をすべて記入しながら進めていったそうだが、 そうした技術的な細部が、特に弦楽器に特徴的なサウンド、そして独特のフレージングの実現を 支えているのである。
旋律線は生き生きとしていて歌う自由を優先する。一糸乱れぬアンサンブルは志向されない。 フレーズや音響バランスの「プロポーション」よりは、その時点時点での音響事象が要求する 質の変化を実現することに注意が払われている。
構築的な演奏でも、音の有機的な生成・展開の流れを重んじた演奏のいずれでもない。 そこには音楽の構成の仕方に対する作為があるが、ただしそれは構築性に行かない。 つまり、音楽を音響素材による時間上の建築として捉える方向性には行かない。
バルビローリの指揮の技術的な側面から言っても、そのタクトはリズムの正確さや、 アンサンブルの精密さを要求するものではない。それは人間的な呼吸の生理に忠実で、 限りなく繊細なニュアンスの変化を表現することが優先されているように思われる。 テンポの変化や強弱法も、そうしたニュアンスを殺すことなく、掬い上げること を前提に設計されているようで、無理はないが、それは自然というのとは少し異なる、 極めて綿密な計算を感じさせるものだ。歌うことの自発性を求める一方で、醒めた 反省的な知性を感じさせることもまた、確かなのだ
テンポの極端な揺れ、極端な強弱のコントラストも、音楽がそれを要求していると 感じられる場合には、思い切って採用される。それは恣意的な「ルバート」ではなく、 音楽自身が欲する微細なテンポの揺れが其処彼処にあるのだ。 息をつげないようなインテンポ、息をひけないような間合いはバルビローリの演奏には 存在しない。そうした意味でその音楽は極めて感覚的・身体的・人間的だ。古典的な 均整からは程遠いにも関わらず、主体抜きの音楽というのは、ここではありえない。
人間中心主義的なスタンスは、怜悧な聴き手にとって場合によっては中途半端で詰めの 甘いものと映るかもしれない。あるいは人によってはこれを中庸と呼ぶかも知れない。 実際、その演奏は何か刺激的なハプニングを志向しているわけではない。また、宗教的な 感じも希薄で、その音楽には超越はないが、さりとて自己充足的でも内在的でもない。それは 予め措定されたものとしての別の場所を持たないゆえ、垂直軸を欠いているのだ。時間論的には、 過去とも未来とも密接で、生成の瞬間の拡大にも、持続する現在の充溢にも関心はない。 音の向こう側や手前にあるかもしれないもの何かを求めて眼差しが彷徨う。 今、ここに鳴り響く音楽の直接性では不十分なのだ。バルビローリの演奏は世界という 契機を内在化することがなく、外部への意識が常にどこかにあるのだ。それは決して そういうものとして実現しない。常に現在において予感される、あるいは実現されたかも 知れないものとして回想されるばかりである。
バルビローリの音楽には其処此処に空虚が存在する。 歌は自発性を帯びて、ぎっしりと犇き合うにも関わらず、空間を隙間無くポリフォニーで 埋め尽くすことはない。ここでは静寂、音と音との合間は歌によってコントロールされることなく、 あのぞっとするような感触を留めている。その音楽は経過毎に自足することなく、 常に今ここにないものを求める動的な性格を帯びるため、コントラストには事欠かない。 場合によってはあまりに歪な印象や、客観性の欠如を感じると言われるのはそのせいだろう。
人間中心主義はイタリア系の指揮者の生理という側面があるかも知れないが、 イギリスに生まれたバルビローリは、例えばジュリーニと比較したとき、同じように 人間的であっても、同じように歌に満ちていても、周縁的なものやバロックなものへの開かれた態度に よってはっきりと区別されるのである。
あえて言えば、不自然であることを肯定する態度、音楽自体が歪であっても、それをあえて 「あるべき」姿に矯正してしまうことなく、ありのままで提示しようとする姿勢が バルビローリにはあるのではないか。個別の音楽という仮象を超えて、寧ろア・プリオリにあるべき 理念的な秩序というのが想定されることはなく、あくまで個別のものから出発して、そのまま 概念になろうとするのである。それはあくまでも人間の経験に忠実で、外的な規範を捏造することは ない。望まれはしても達成できていないものを、達成できたかのように取り繕うことはしないのだ。
結局バルビローリの音楽はそれが等身大の、人間的(ヒューマニスティックではない)と呼ぶほか ないような、ただし徹底的に反省的な姿勢に貫かれているように思われる。 それは何か超越的な規範を目がけることはないし、さりとて個人的な 感傷に低徊することもなく、音楽が語っているものを捜し求めるのだ。
しかもバルビローリにおいては主体は遍歴した結果変容して帰還するのである。 つまるところバルビローリの場合、主体=人間の極は消え去らないが、それは出来事により 非可逆的な変容を蒙るのだ。体験の極の受動性は主体を堅固にすることなく、寧ろ主体の 傷つきやすさを明らかにする。
そしてそれは聴取のプロセスについても言えるようだ。聴き手もまた、揮発してしまうことなく、 最後まで聴きとおさなくてはならない。 バルビローリの演奏を聴くことは、音の半ば自律的な運動に身を委ねるということにはならない。 聴き手は音楽を通して、外へと向かわされる。出来事の生々しさを体験するのである。

徹底的な音楽への無私の奉仕の姿勢が、とてつもなく個性的な音楽を生み出す。 そしてもしかしたら本当はありはしないところにまで、物語を、主体の遍歴を読み出そうとする、 そうした音楽に対する反省的な姿勢が、すこぶる個性的な身振りでもって、個別性を取り出す ために個別性を乗り越えようとするのである。
音楽は直接的で感覚的な身体性の位相で達成されていて、思弁的であったり、両義性を装ったりは しないが、その身体性は、外界の事象を感受する感覚器の発達という人間のもつ生物学的な条件に 敏感でいながら、出来事によって変容を蒙った内部状態を忘れることなく、変容を惹き起こした外部のみを 志向せずに、その接点で発生している出来事、経験を語ろうとしているのだ。それは優れた意味で 意識の音楽であり、内部事象への沈潜や、出来事を感受する界面へのこだわりがあるのだ。ここでは 音楽の感覚的な位相は、そうした出来事の質を、クオリアを表現するための媒体として、不可欠な ものではあるが、自己目的化されることはない。それは現在の豊かさを損なうまいとする。 それは時間性の淵源である出来事の豊かさを、つまりはベクトル性の深さを表現しようとする。 音楽そのものになる手前で主体はとどまる。緊張は解消されず、全体性はここでは実現されない。 それゆえ、音楽が世界の模倣になりきってしまうことはないのである。
経験をできるだけ飼い馴らすことなく語る、まさにそのために、隅々まで音楽が コントロールされることになる。こうした意味でバルビローリの音楽はとことん主体による 作為の音楽だ。そこには主体の操作がある。そしてそれゆえ意図を裏切って、あまりに人間的な 限界に到達するのである。
その結果、もしかしたら人がシベリウスに期待する凍てつくような、眺めるものすらいない 無人の地はここにはないし、あるいはブルックナーに期待される、宗教的な荘厳さや超越的、 天国的と呼ばれるかもしれないある種の情緒とも無縁だ。 そしてまた、マーラーの音楽が、よりによってマーラー的だとしてもてはやされることすらあるように 見受けられるあの忌まわしい攻撃者との同一化によって客観の暴力の巷と化すこともないのだ。
ちなみにベルクの音楽のイギリス初演をしたり、シェーンベルクの前「新音楽」時代の作品である ペレアスとメリザンドの録音が残っていたりするが、アドルノ言うところの「新音楽」に対して バルビローリは明らかに否定的だったし、ショスタコービッチの音楽に対しては関心がなかった ようである。(1963年の第5交響曲の演奏の録音がBBCからリリースされたので、全く演奏しなかった わけではないようだが。)推測ではあるが、そこにも、音楽のありように対する 立場に由来する、積極的な選択があった筈だと思う。いわゆる啓蒙主義の極限であるモダニズムにも、 マーラーを反対側から辿りなおそうとするかのような企てにもバルビローリの音楽は疎遠である。
人によっては、バルビローリは手前で立ち止まってしまったという廉で批判があるかも知れない。 けれども、進歩を測る根拠をなす歴史的な視点は、それ自体、自分に合致せぬ類の経験を 自分の寸法に合わせて切り捨ててしまったのではないかという疑念もまた拭い難い。 一見手前で立ち止まったバルビローリの方が、媒介されたものと経験の緊張関係に対して、より 忠実ではなかったかと問うことはできないだろうか。勿論、音楽は哲学的な叙述に対して 個別的な経験の質について優位にある。更に加えて、すでに出発点であからさまに媒介されたものである 演奏は、概念化しようとする叙述を常に超え出ているのだ。
経験の質の移ろいをくまなく捉えようとするその態度の背後には、感受性に富んだ主体がある。 もしかしたらその感受性は、野暮ったい程堂々と意識のざわめきを表出しようとして、音楽を 「上品な」ものにしたい人々の顰蹙をかうかもしれないが、寧ろかけがえの無いものかもしれない故、 それを批判することはできないだろう。バルビローリの限界は、その演奏の価値を損なうことはない。 寧ろ私は、そこに主観性の擁護を見出したいように感じている。

0 件のコメント:

コメントを投稿