お知らせ

アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)

2025年9月8日月曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(20):ChatGPT-5の検証への追記

 以下は、2025年8月7日にリリースされたChatGPT-5を対象に、マーラーに関する様々な問い合わせを行った結果を報告した記事「マーラーについて生成AIに聞いてみた(19):ChatGPT-5の検証」に関連した追記です。

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 Open AIが2025年9月5日に、Why Language Models Hallucinate と題する論文を公開したとの記事に接しました。これによれば、ChatGPT-5では幻覚の発生は大幅に減少しているものの、従来より存在する基本的な評価の仕方に起因する問題については解消されておらず、根本的な改善が難しいと述べているようです。論文によれば、幻覚は大別して事前学習の段階と、チャットボットとしてのファインチューニングの段階の2つで起きており、前者については、それが「恣意的な事実」の場合には原理的にエラーを完全に回避することができないこと、後者については、評価における「二値評価スキーム」に問題があるため、その設計を見直す必要があると主張されているようです。

 元記事および「マーラーについて生成AIに聞いてみた」シリーズの一連の検証記事をお読みになった方にはおわかり頂けると思いますが、この論文の主張は、元記事を含むマガジンでの検証結果および考察にほぼ合致したものとなっています。特に元記事では、いわゆる「事実に関する問い合わせ」についての事前学習の限界と、リアルタイム検索による補完の重要性を指摘しましたが、「学習」と呼ばれる仕組みの原理上、偶然によって定まった単なる事実(例えばある人の誕生日のようなもの)は、汎化に基づく統計的推論に馴染まないことは明らかであり、そうした問い合わせに対処するには、学習・推論だけではなく、情報検索機能による補完が必須であるという元記事の主張と合致していると思います。更に評価ベンチマークにおける「二値評価スキーム」は、元記事を含むこれまでのマガジンの各記事での検証に用いた、正解・部分正解・不正解・回答なしを区別する評価スキームと比較してみた時、その限界は明らかに思われます。ごく簡単に言って、「間違い」と「答えられない」が区別されない評価の仕方では、間違いを回避して、わからない場合にはわからないと答えるインセンティブは働きません。逆にこれまでの幻覚対策で、この点への対応が行われなかったことの方が驚きですらありますが、論文でも示唆されているように、少なくとも不正解をマイナス、回答なしを0とするような評価を導入する必要があるのは直観的には明らかなことと思われます。今後OpenAIがこの論文の内容に基づいた改善アプローチを実際にとるのかはわかりませんが、特にChatGPT-5を評価した元記事の結果および分析と親和的な見解がOpenAIから出たことは、特記すべきことと思われたので、追記させて頂くことにしました。

(2025.9.8公開)


備忘:マーラーの作品を分析するとはどういうことか?(2025.9.8 更新)

 これまで様々な角度から、様々な手法でマーラーの作品について分析を試みてきたが、そもそも自分が何を目指して、何をしているのかについて、改めて整理をしてみることにする。予め先回りしてお断りしておくならば、それは既に実際に達成できる水準を以て測ろうというのではなく、あくまでも、実際の達成がその目標からは程遠く、千里の道程の最初の一歩に過ぎないとしても、到達すべき目標は何かを再確認することが目的である。

 分析をするきっかけをシンプルに言えば、それは対象に強く惹き付けられたからで、この場合の対象はマーラーが作曲した具体的なあれこれの作品という人工物である。端的な言い方をすれば、自分が魅了されたのは、その作品の持つどういう特徴によるのか、そして翻って、このような作品を創り出した人間とはどのような人間なのか、どのようなやり方でこのような作品を生み出したのかを知りたいと思ったというのが出発点となるだろう。

 ところで作品とは一体何だろう。それを考える上で、マーラーに関連する脈絡で2つの参照先が思い浮かぶ。一つは「作品」は「抜け殻」に過ぎないというマーラー自身の言葉。妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡で「作品」についてマーラーはこう語る。
…われわれが後世に残すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第九交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというわけではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。とくにこの歓喜こそは、健康と創造力の証(あかし)なのだ。…
(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398)  

 「抜け殻」とは言っても、「不用な行為」ではないのは、それが「人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないもの」だから、という。マーラーが創造した作品の聴き手、受け取り手である私はつい、それを受け手の問題であると決めつけてしまうが、それが「健康と創造力の証(あかし)」であるとするならば、その歓喜は、第一義的には作り手であるマーラーその人の「創る喜び」とする方が寧ろ妥当なのかも知れない。勿論、聴き手は単にそれを受動的に受け取るだけではなく、それに触発されることで成長し、喜びを感じる…というように考えることもできるだろう。

 その一方で「抜け殻」であるというからには、それはそれを作り出した人間そのものではないにせよ、その「痕跡」であるという見方も導かれうるだろう。そこで思う浮かぶもう一つの参照先は、シュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝に寄せた文章の以下のような件である。

もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはゆかないだろう。もっと幅のせまい音楽ならば――あらゆる情緒的世界において――どこででも聴くことができるだろう。たとえば雅楽、バリ島の音楽、グレゴリオ聖歌、バッハ、モーツァルト、ヴェーベルンの音楽などがそうである。こうした音楽は、《より純粋》で晴朗だといえるかもしれない。しかし地球人の特質、その情熱の――もっとも天使的なものから、もっとも獣的なものにいたるまでの――全スペクトル、地球人をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの――そうしたすべてを知ろうと思うなら、マーラーの音楽にまさる豊かな情報源はないだろう。

 この書物は、異常なまでに多くの人間的特徴をただ一個の人格のなかで統合し、そしてそれらを音楽という永遠の媒体のなかへ移植することのできたひとりの人間の生涯と音楽についての証言である。その音楽は、人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとするまえの、古い、全的な、《一個体としての》人間による最後の音楽である。マーラーの音楽は、おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっているすべての人びとにとってひとつの道標となるだろう。

(Karlheinz Stockhausen, Mahlers Biographie, ≪Musik und Bildung≫ Heft XI, Schott, 1973, 酒田健一編『マーラー頌』所収, 酒田健一訳, pp.391-2)

マーラー自身の言葉を敷衍するならば、シュトックハウゼンは、マーラーの音楽のことを「古い、全的な、《一個体としての》人間」の「抜け殻」であり、それは「ある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査」するために恰好の情報源であると言っている。更に言えば、「ある別の星に住む高等生物」ではないにしても、「人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとする」後の時代に生き、「おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっている」に違いないこの「私」にすれば、それが少なくとも、その作品を創り出した「人間」に関する情報源であり、自分自身にとっての「道標」であるということになるだろう。シュトックハウゼンが参照する他の様々な音楽との比較の妥当性、是非についてはもしかしたら異議があるにしても――ここで思い浮かぶのは、ド・ラグランジュのマーラー伝刊行後しばらくしてからの1977年に打ち上げられたボイジャー計画の探査機に収められた「ゴールデンレコード」のことで、そこにはガムランやバッハは含まれても、マーラーが取り上げられることはなかったことは書き留めておくべきだろう――、とりわけ、それが人間を「この大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの」についての情報源であるという点については躊躇なく同意したいように感じている。

 ただし、そうした人間の限界というのは人間固有のものであって、それが「ある別の星に住む高等生物」に共有されることは些かも自明なこととは言えまい。(技術的特異点(シンギュラリティ)が絵空事とは言えなくなった今日なら宇宙人の替わりに人工知能を持ってきても良いだろうが、人工知能を道具として、(かつて)「人間」(であったもの)が分析をすることはあっても、人工知能が「主体」の分析というのは、少なくとも現時点では、未だ空想の世界の話に過ぎないだろう。)他方において、シュトックハウゼンの言葉には、自分が帰属する社会の文化的遺物であるマーラーの音楽が、それ以外の社会の「人間」をも代表しうるという暗黙の了解が存在するように思われるが、実際にはそれすら凡そ自明のこととは言えないだろう。とはいえ、一世紀の時間の隔たりと、地球半周分の地理的な隔たりを通り抜けて、マーラーが遺した「抜け殻」は、極東の島の岸辺に辿り着き、そこに住む子供が或る時、ふとそれに気づいて拾い上げ、壜を開けて中に入ったメッセージに耳を傾けた結果、それに強く惹き付けられるということが起きたこともまた事実である。そこに数多の自己中心的な思い込みや誤解が介在していたとしても、その子供はそこに、自分をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか許そうとしない、同型のものを見出し、共感し、そこに自らが歩むための「道標」を見出したことは、少なくとも主観的には間違いない事実なのである。或る時マーラーは「音楽」について以下のようにナターリエ・バウアー=レヒナーに語ったようだが、それがこの私の寸法に合わせて如何に矮小化されたものであったとしても、創り手が語った通りのものを、私もまたその音楽に見出したのである。

「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ。」(ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.301-2)

 そして彼がそこに見出したのは、単なる耳の娯楽、美しく快い音響の系列ではない。これまたシュトックハウゼンが指摘している通り、その音楽は極めて幅の広いスペクトルを有しており、時として醜さや耳障りな音すら敢えて避けることはなく、寧ろそれは作品を創り出した人間が認識した「世界」の複雑さ、多様性の反映なのである。更に言えばそれは、標題音楽、描写音楽の類ではなく、寧ろ、(ネルソン・グッドマン的な意味合いで)「世界制作」の方法であり、その音楽をふとした偶然で耳にして魅惑された子供は、その音楽を通じて、「世界」の認識の方法を学んだというべきなのだろう。第3交響曲作曲当時のマーラーの以下の言葉はあまりに有名だが、それは肥大した自己に溺れたロマン主義的芸術家の誇大妄想などではなく、文字通りに理解されるべきなのだ。

僕にとって交響曲とは、まさしく、使える技術すべてを手段として、ひとつの世界を築き上げることを意味している。常に新しく、変転する内容は、その形式を自ら決定する。この意味から、僕は、自分の表現手段をいつでも絶えず新たに作り出すことができなくてはならない。僕は今、自分が技法を完全に使いこなしている、と主張できると思うのだけれども、それでも事情は変わらない。(ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章(原書p.19, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.62)

 それは彼が認識した世界の構造を反映していると同時に、彼の認識の様態をも反映している。第3交響曲に後付けされた挙句、最後には放棄された素朴な標題が告げているように、作曲者はそこでは寧ろ世界「が語ること」に耳を傾け、自らが楽器となって世界が語ることを証言する、いわば霊媒=媒体の役割を果たすことになる。同じ時期にアンナ・フォン・ミルデンブルク宛の書簡に記した以下のマーラーの言葉は、そのことを雄弁すぎる程までに証言している。

 さていま考えてもらいたいが、そのなかではじっさい全世界を映し出すような大作なのだよ、――人は、言ってみれば、宇宙を奏でる楽器なのだ、(…)このような瞬間には僕ももはや僕のものではないのだ。(…)森羅万象がその中で声を得て、深い秘密を語るが、これは夢の中でしか予感できないようなものなのだ!君だから言うが、自分自身が空恐ろしくなってくるようなところがいくつかあって、まるでそれはまったく自分で作ったものではないような想いがする。――すべては僕が目論んだままにもうすっかり出来上がっているのを僕は受け取るばかりだったのだから。」
(1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4)

 それでは一体、そうした作品を分析するとき、私は何をそこに見出そうとしているのか?なぜ演奏を聴くだけで事足れりとはせず、楽譜を調べ、楽曲分析を参照し、或いは自作のプログラムを用意して、MIDIデータを用いたデータ分析を行うのか?

 対比のために、耳に心地よい音響の系列の分析を考えてみると、この場合の分析の目的とは、なぜそれが耳に快いのかを突きとめることになるだろうか。西欧の音楽であればバロック期の作品や古典期の作品の多くは(勿論、モーツァルトの晩年の作品のような、私にとっては例外と感じられる作品はあるけれども)、そうした捉え方の延長線上で考えることができるだろう。或いはまた蓄積された修辞法(クラングレーデ)に基づく風景や物語の描写、或いは劇的なプロットの音楽化から始まって、ロマン派以降の作品のように、情緒的な心の動きや繊細な気分の移ろいや感覚の揺らめき、雰囲気の描写を行うような音楽もあり、そうした音楽にはその特質に応じてそれぞれ固有の分析の仕方があるだろう。では上記のようにシュトックハウゼンが規定し、創り手たるマーラーその人が語るようなタイプの作品についてはどうだろうか?

 端的な言い方をすれば、所詮は音響の系列に過ぎないものが、どうしてそれを創り出し、或いは演奏し、聴取する「人間」についての情報源たりえるのか?どうしてそれが「一つの世界」の写し絵たりうるのか?「世界」の認識の仕方の反映たりうるのか?ということになるだろうか。それは(勿論、一部はそうしたものを利用することはあっても)特定の修辞法に基づく描写ではないし、主観的な情緒や印象の音楽化に終始することもない。そうした事情を以て、人はしばしばマーラーの音楽を「哲学的」と呼んだりもするが、それが漠然とした雰囲気を示すだけの形容、単なる修辞の類でなく、少しでも実質を伴ったものであるとしたならば、一体、単なる音響の系列が、どのような特徴を備えていれば「哲学的」たりうるのか?

 上記の問いは修辞的、反語的なものではない。つまり実際には「哲学的」な音楽など形容矛盾であり、端的に不可能であって、「哲学的」な何かは音楽に外部から押し付けられたものであると考えている訳ではない。それどころか、私がマーラーの音楽に魅了された子供の頃以来、その音楽には「哲学的」と形容するのが必ずしも不当とは言えないような何かが備わっていると感じて来たし、今なおその感じは変わることなく続いているのである。そしてそれを「哲学的」と形容すること是非はおいて、マーラーの音楽には、それを生み出した「人間」の心の構造を反映した、或る種の構造が備わっているのではないかと考え、そうした構造を備えている音楽を「意識の音楽」と名付けて、その具体的な実質について少しでも理解しようと努めてきたのであった。勿論、マーラーの音楽だけが「意識の音楽」ではないだろうし、マーラーの音楽の全てが同じ程度にそうであるという訳でもなかろうが、私がマーラーの音楽に惹き付けられた理由が、それがそうした構造を備えているからなのではないかという予想を抱き続けてきたのである。

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 「意識の音楽」については、既に別のところで何度か素描を試みて来たし、その後大きな認識の進展があった訳ではないので、ここで繰り返すことはしない。その替りにここでは、従来、音楽楽的な分析や、哲学的な分析によって示されてきた知見の中で、「意識の音楽」について、謂わば「トップダウン」に語っていると思われるものを指摘するとともに、MIDIデータを用いた分析のような、謂わば「ボトムアップ」なアプローチとの間に架橋が可能であるとしたら、どのような方向性が考えられるかについて、未だ直観的な仕方でしかないが言及してみたいと思う。

 まず手始めとして取り上げたいのが、マーラーの作品の幾つか、或いはその中の或る部分が備えているということについては恐らく幅広く認められていると思われる、「イロニー」あるいは「パロディー」といった側面についてである。

 私がマーラーに出会って最初に接した評伝の一つ、マイケル・ケネディの『グスタフ・マーラー その生涯と作品』(中河原理訳, 芸術現代社, 1978)では、第2交響曲の第3楽章スケルツォに関連して、以下のように、純粋な器楽によるイロニーの表現の可能性についての懐疑が述べられていて、その後永らく自分の中に問題として沈殿続けていた。

「これは、人間のように耳は傾けるけれど態度は変えない魚たちに説教する聖アントニウスを歌った「角笛」歌曲のオーケストラ版である。この歌と詩は皮肉っぽく風刺的だが、しかし純粋な器楽で風刺と皮肉が表現できるものだろうか?耳ざわりな木管のきしみも風刺を伝えない。そういう意味ではこの楽章は失敗だと私は思う。しかし恐怖と幻滅の極めて力強い暗示をもった、まことに独創的なスケルツォとしては成功している(そしてそのことの方が重要なのである)。」(マイケル・ケネディ『グスタフ・マーラー その生涯と作品』, p.154)

その一方で「パロディー」についてケネディは、第9交響曲第3楽章に関連して以下のように述べている。

「マーラーは、対位法の技法を欠くといって自分を非難した人々への皮肉なパロディーをこめて、この楽章をひそかに「アポロにつかえる私の兄弟たちに」に捧げた。指定は「極めて反抗的に」とあり、実際そう響く。これは短い主題的細胞で組み立てられた耳ざわりで、ぎくしゃくした音楽で、最初の細胞には第5交響曲の第2,第3楽章の音形が反響している。トリオに入ると第3交響曲の第1楽章の行進曲のパロディーがある。こうしてマーラーは自分の諸作品をひとつの巨大な統一に結びつけてゆく。」(同書, pp.221-2) 

 第2交響曲第3楽章は歌曲と異なって、歌詞がある訳ではないので、器楽曲であるそれ自体はイロニーの表現にはならないと述べ、第9交響曲第3楽章についても、言葉による指示(最終的な総譜に残された訳ではないが)について皮肉を認めている一方で、器楽曲作品の主題的音形の引用によるパロディーは認めるというのがケネディの姿勢のようだ。風刺や皮肉は認めていなくても、第2交響曲第3楽章には恐怖と幻滅の極めて力強い暗示を認め、第9交響曲第3楽章についても、耳ざわりでぎくしゃくしているという性質は認めているので、皮肉は言語的なもので音楽だけでは成り立たない一方、音楽がそれ自体で或る種の気分、情態性を示すことができる(ネルソン・グッドマン的には「例示」examplifyということになろうか)と考えているようなのである。

 ここで思い浮かぶのはアドルノが『マーラー 音楽観相学』(龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999)で、マーラーの音楽の唯名論的性格について述べている中で、以下のように述べている箇所である。

彼がしばしば、主題それ自体からはどちらとも判断を許さないままに、「まったくパロディー抜きで演奏」、あるいは「パロディーで」というように指示したということは、それらの主題が言葉によって高く飛翔する緊張を示している。音楽が何かを語りたいというのではないが、作曲家は人が語るかのような音楽を作りたいのだ。哲学的用語との類比で語るならば、この態度は唯名論的と言えるだろう。音楽的概念は下から、いわば経験上の事実から動きを開始する。それは、形式の存在論によって上から作曲されるのではなく、事実を連続する統一体の中で媒介し、最後には事実を越えて燃え出すような火花を全体から発するためである。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, p.83)

 引用の最初の部分だけとれば、音楽的には同一のものが、言葉の指示によってパロディーであったりなかったりするということだから、その限りでは、音楽そのものは同一でも、それをどう名付けるかが問題だという意味で「唯名論的」という言葉を使っているように見えるが、後続の件や、別の箇所で「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝統の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想に従っている。」(p.56)と述べていたり、「形式のカテゴリーをその意味から演繹する」「実質的形式論 materiale Formenlehre」(一般には素材的形式論とも)について述べるくだり(p.61)などを考え合わせると、寧ろ、個別の作品毎に各部分が担う機能に基づいて、いわばボトムアップに形式が規定されるといった側面が強調されているようにも見え、この水準は、音楽とそのメタレベルに位置する言語との関係ではなく、一般の抽象的形式カテゴリーと実質的カテゴリーとの関係が問題になっているのであって、実質的なものは抽象的カテゴリーと並行しているか、さもなくば下位に位置するものとされているのである。もし後者の立場に立つならば、ある主題がパロディーか否かというのは、音楽そのものによっては決定不可能であり、作曲者がそれにどのような指示を言葉によって与えるかで決まるという訳では必ずしもなく、寧ろ、個別の作品の音楽の脈絡に応じた、その主題の意味するものによって決まるということになるだろう。アドルノがモノグラフ冒頭で、「マーラーの交響曲の内実を明らかにするためには、作曲法上の問題にのみとらわれて作品そのものをおろそかにしてしまう単なる主題分析のような考察では不十分である」(同書, p.3)と述べているのは、こうした見方に由来しているのである。

 ケネディの言う通り、一般的には「イロニー」は、言語的なものを媒介としており、マーラーの音楽における歌曲と器楽曲の往還を考えれば、マーラーの音楽はそもそも言語的なものの侵入を受けており、それを抜きにして内実を捉えることはできないという見方ができる一方で、アドルノが指摘するような音楽内部における形式的カテゴリーと実質的カテゴリーの重層性を認めるならば、音楽そのものに内在するこうした複数の層の存在とその重なり合いがマーラーの音楽の重要な特徴の一つであると考えることができるように思われる。この点に関連してアドルノが

「マーラーの音楽は、あらゆる幻影に敵意を抱きつつ、芸術それ自体がそのようなものと成り始めた非真理から自らを癒やすために、かえって自身の、本来のものではない性格を強調し、虚構性を力説する。このようにして形式の力の場の中に、マーラーにおけるイロニーとして知覚されるものが生じている。(…)新しく作られたものの中にある既知のものの残像は、彼の場合には、どんな愚鈍な者の耳にも聞こえてくる。」(同書, p.42)

と述べていることを書き留めておきたい。そしてアドルノが言うように「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝来の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想に従っている」(同書, p.56)のであれば、特に実質的カテゴリーについては、音楽が謂わば庇を借りている伝統的な楽式よりも寧ろ、個別の作品の具体的な経過を追跡することによって明らかになる各部分の機能に基づいて同定されるものであるということになりそうである。ここに伝統を蓄積のある音楽学的な楽曲分析とは別に、MIDIデータを用いた分析を行うことによって、直ちにという訳には行かなくとも、将来的にはマーラーの音楽の内実を解明することに寄与する可能性を見ることができるのではないかと考える。

 「パロディー」についても、引用の元となる文脈と、引用された文脈との間のずれが持つ意味によって決定されるということになる。上に引いた第9交響曲第3楽章の例の場合、元となる第5交響曲第2楽章なり第3交響曲第1楽章なりの部分と比較した時、それを引用したロンド・ブルレスケにおいて疑いなく感じ取れる、ケネディ言うところの「耳ざわりで、ぎくしゃくした」感じは、主題的細胞の和声づけや楽器法に加えられた変形によってもたらされる部分が多く、これは広い意味合いにおいては、アドルノの言う「ヴァリアンテ(変形)」(Variante)の技法によるものと考えることができるだろう。「小説と同様に、定式から解放された個々のものが、いかにして形式へと自らを造り上げ、自律的な連関をわがものとするか、ということが、マーラーに特有の技術上の問題となる。」(同書, p.110)のに対して、「マーラーのヴァリアンテは、常にまったく異なると同時に同じであるような叙事詩的・小説的なモメントに対する技術上の定式化である。」(同書, p.114)と「ヴァリアンテ(変形)」は位置づけられている。続けて例として取り上げられるのは「歩哨の夜の歌」における和声進行における変容なのだが、してみれば、いずれはヴァリアンテの分析に繋がるものとして、さしあたりは予備的なレベルのものであれ、和音の遷移の系列に分析することには一定の意義があるのではないかと考えたい。そして「ヴァリアンテ(変形)」の手法がソナタ形式や変奏曲形式という伝統的図式に反して、その音楽の内実に即した実質的な形式原理にまで徹底された例として挙げることができるのが、第9交響曲の第1楽章である。

「様々な技術的処理方法は、内実に合致したものとなっている。図式的な形式との葛藤は、図式に反する方向へと決せられた。ソナタの概念と同様、変奏という概念も、この作品には適当ではない。しかし、交代して現われる短調の主題は、長調の領域とのその対比は楽章全体を通じて放棄されていないのだが、その短いフレーズが第一主題とリズム的に類似していることにより、音程の違いにもかかわらず第一主題の変奏であるかのように作用する。そのこともまた非図式的である。すなわち、対照的な主題を先に出た主題から別物として構造的に際立たせるのではなく、両者の構造を互いに近寄らせ、対照性を調的性格の対比の面だけに移行させるのである。両方の主題において、ヴァリアンテの徹底化された原則に従い、音程は全く固定化されず、その書法と端に位置する一定の音だけが定まっている。両者に対して類似性と対照性とは小さいな細胞から導き出され、主題の全体性へと譲り渡される。」(同書, pp.200-201)

 ここで述べられているヴァリアンテの具体的様相をMIDIデータを分析することによって抽出することは極めて興味深い課題だが、人間が聴取する場合には難なくできることをプログラムによって機械的に実行しようとすると、たちまちあまたの技術的な困難に逢着することになる。バスの進行や和声的な進行が固定化されている変奏と異なり、ゲシュタルトとしての同一性を保ちつつ、だが絶えざる変容に伴われた音楽的経過を、マーラーが意図したように、或いは聴き手が読み取るように分析することは決して容易ではないが、ニューラルネットをベースとした人工知能技術が進展した今日であれば、これは恰好の課題と言えるかも知れない。同様に、技術的には「ヴァリアンテ(変形)」の技法に関連した時間的な構造として「(…)主要主題の構造もまた、未来完了形の中にある。それは目立たない、レシタティーヴォ風の個性のないはじめの出だしから、力強い頂点にまで導かれる。つまりその主題は自身の結果として成り立つ主題なのであり、回顧的に聞くことによってはじめて完全に明らかなものとなる。」(同書, p.203)と、これもまた第9交響曲第1楽章に関連してアドルノが指摘する「未来完了性」を挙げることができるだろう。事後的に回顧することによって了解される目的論的な時間の流れというのは、現象学的時間論の枠組みにおいては、少なくとも第二次的な把持によって可能となる。第1楽章の総体、更にはこれも因襲的な交響曲の楽章構成に必ずしも従わない全4楽章よりなる第9交響曲全体の構造――それは「小説」にも「叙事詩」にも類比されるのだが――は、更に第三次の把持の水準の時間意識の構造を前提としなくては不可能であろう。

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 ここまで、マーラーの音楽の内実を明らかにするためのアプローチとして、言語を媒介とした高度な反省的意識の働きである「イロニー」「パロディー」を手がかりに、マーラー研究の文脈に添うかたちで、アドルノの言う伝統的な抽象的な形式カテゴリーと実質的カテゴリーの重層、更に音楽的経過に含まれる個々の要素の、いわば自己組織化的な形式化の具体的方法としての「ヴァリアンテ(変形)」の技法、それが可能にする時間論的構造としての未来完了性を取り上げてきた。ここで留意すべきと思われる点は、未来完了性のような時間的構造にせよ、アドルノが「小説」や「叙事詩」に類比するような構造にせよ、マーラーの音楽の特質と考えられるものは、高度な反省的意識を備え、自伝的自己を有する「人間」の心の構造の反映と見做すことができるということであり、総じてマーラーの音楽は、そうした意識が感受し、経験する時間の流れのシミュレータと捉えることができるのではないかということである。そしてそうした観点に立った時に、高度な反省的意識の働きの反映と見做すことができる側面として、更に幾つかの点を挙げることができるだろう。ここではその中で、高度な反省的意識を備え、自伝的自己を有する「人間」の心の構造の成立の、実は前提条件を為している、「他者」の働きに関わる特性として、調的二元論に基づく対話的構造、これも伝統的な規範からは逸脱する傾向を持つ対位法による複数の声の交錯、更にはシェーンベルクがマーラーを追悼したプラハ講演において以下のように指摘する「客観性」について目くばせするに留めたい。

 そこ(=第9交響曲:引用者注)では作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもうひとりの隠れた作曲者がいて、マーラーをたんにメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品を支えているのは、もはや一人称的音調ではありません。この作品がもたらすものは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。

(シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124)

 と同時に、ここでは「動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間」にしか可能でないと指摘される「客観性」が、一方では既に触れた第3交響曲の創作についてマーラー自らが語ったとされる言葉に含まれる「…が語ることを」書き留めるという受動性に淵源を持ち、他方では「小説」的、「叙事詩的」な語りを可能にするような意識の構造に由来し、ひいてはモノグラフ末尾で「マーラーの音楽は、彼の表現として主観的なのではなく、脱走兵に音楽を語らせることにによって主観的なものとなる」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, p.214)とアドルノが指摘する点に繋がるであろうこと、マーラーの音楽の内実を明らかにしようとする企ては、「作品のイデーそのものではなく、その題材にほかならない」「芸術作品によって扱われ、表現され、意図的に意味されたイデー」(同書, p.3)にしか行きつかない標題の領域をうろつくことなく、こうした構造の連関を浮かび上がらせるものでなくてはならないということを主張しておきたい。

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 上記のような点を仮に大筋認めた上で、だがしかし、具体的に為されたデータ分析の結果が、一体どのようにして上記のような問題系に繋がり、それを説明したり論証したりすることに関わるのか?という疑問は全くもって正当であり、率直に告白するならば、その具体的な道筋が朧げにでも予感できているといったレベルにすら程遠いというのが偽らざる現状であることは認めざるを得ない。

 そのことの困難さを端的に述べるために、問題を非常に簡単なかたちにして示してみよう。MIDIデータを用いたデータ分析について言えば、MIDIデータに含まれる音の系列に基づいて、そうした音の系列を産み出すためにはどのようなシステムが必要か、どのような規則(群)が、どのような構造が必要かという問題を解いていることになるが、それは例えば制御理論における逆問題の一種で、実現問題と呼ばれるような問題設定、系の挙動から、系の内部構造としての状態空間表現を求める問題に似たものとして捉えることができるだろう。つまり、マーラーの作曲した作品を生成するようなオートマトン、「マーラー・オートマトン」を設計する問題として捉えてみるのである。これに似た問題設定として、マーラーの作品の音の系列を与えて、似たような音の系列を生成するニューラルネットワークを学習させる機械学習の問題を考えてみるというのもある。後者についてはGoogle Magentaのようなツールを、Colaboratoryのような環境で動かすことによって比較的容易にやってみることが可能で、本ブログでも特に第3交響曲第6楽章を用いた実験を実施し、その結果を公開したことがあるが、話を単一作品(楽章)に限れば、更に試行錯誤を重ねればある程度の模倣はできそうな見通しは持てても、多様で複雑なマーラーの作品を模倣した音の系列を生成する機械を実現すること自体、容易なことではなさそうである。(これを例えばバロックや古典期の「典型的」な作品の生成と同一視することはできない。それらは寧ろ大量生産・消費される製品に近いものであり、それらと「唯名論的」に、個別の作品毎に、その内容によって実質的な形式が生成していくマーラーの作品との隔たりは小さなものではないと考えられる。同じことの言い替えになるが、機械学習にせよ、統計的な分析にせよ、マーラーの作品は、――冒頭に触れたシュトックハウゼンの指摘が或る意味で妥当であるということでもあるのだが――作品の数の少なさに比べて多様性が大きいし、その特性上、単純にデータの統計的な平均をとるようなアプローチにそぐわない面があるように感じられる。人間の聴き手、分析者は、何某かフィルターリングや変換を行った上で、抽象的な空間でデータ処理を行っているように感じられるのだが、ではどのようなフィルタリングや変換を行い、分析を行う空間をどのように定義すればいいのかについて具体的な手がかりがあるわけではない。)

 そこでいきなり「マーラー・オートマトン」を生成する問題を解くような無謀な企ては控えて、マーラーの作品の構造を分析することに専念したとして、そもそもマーラーの音楽の持つ複雑な構造そのものを、その内実に応じた十分な仕方で記述するという課題に限定してさえ前途遼遠であり、ここでの企てがそれを達成しうるかどうかについて言えば、率直に言って悲観的にならざるを得ないというのが現実である。マーラーの作品が「意識の音楽」であると仮定して、そこにどのような構造があると仮定すれば良いのかすら明らかではない。カオス的な挙動を想定した分析をすれば良いのか?(具体的には例えばリャプノフ指数を求められばいいのか?だが、カオス的な挙動そのものはごく単純な力学系ですら引き起こすことができるものであり、仮にある音楽作品にカオス的な挙動が観察されたとして、それが意味するところは何かは良くわからないが、それでもなおそれがマーラーの作品の何らかの特性に関わる可能性を考えてやってみることになるのだろうか?)、オートポイエーシスやセカンドオーダー・サイバネティクスのようなシステムを仮定して、それらが備えている(例えば自己再帰的な)構造を仮定した分析をすれば良いのか?

 だが恐らく、自己再帰的な構造というだけならば「意識」の関与について必要条件であったとしても、十分条件ではないだろう。つまり自己再帰的な構造は、自己組織化システム一般の備えている特徴であって、それが「意識」の関与の徴候であるわけではないだろう。或いはまた、それは高度な意識を備えた作曲者の「作品」であることを告げていることはあっても(例えばバッハの「フーガの技法」のような主題の拡大・縮小を含んだ高度な対位法的技術を駆使した作品を思い浮かべてみれば良い)、それはここでいう「意識の音楽」の特徴とはまた異なったものであり続けるだろう。寧ろ例えば、文学作品における普通の叙述と「意識の流れ」の手法との対比のようなものとの類比を考えるべきなのだろうか?ある叙述が「意識の流れ」であるというのは、どのようにして判定できるのだろうか?そしてここでは「音楽」が問題になっているのであれば、それは「音楽」に適用することが可能なものなのか?(これはそれ自体マーラーの作品を考える時に興味深い論点だろうが)「意識の流れ」と「夢の作業」に共通するものは何で、両者を区別するものは何か?こうした問いを重ねていくにつれ浮かび上がってくることに否応なく気づかされるのは、結局のところ「意識の音楽」の定義そのものが十分に明確ではないということである。だがその少なからぬ部分は恐らく「意識」そのものに由来するものではなかろうか?その一方で、このように考えることはできないか?すなわち、「意識の流れ」の定着は、それ自体は「意識的」に組み立てられた結果というより、無意識的なものを整序せずにそのまま定着させようとした結果なのだが、そこには高度な意識の介入があって、「無意識的なものを整序せずにそのまま定着させる」という所作自体は、高度にメタ的な「意識の運動」ではないだろうか?そうした操作の結果が音楽的に定着されたものを「意識の音楽」と呼ぶのではなかったか?

 「意識の音楽」の何らかの徴候を、MIDIデータの中に見出そうという試みが、そもそも初めからかなり無謀な企てであることは否定できない。困難は二重のものなのだ。「意識」がどのような構造がどのように作動することで成り立つかがそもそもわかっておらず、十分条件ではなく、良くて必要条件に過ぎない条件として、セカンドオーダーサイバネティクスやオートポイエーシスのような概念が提示されている、という状況がまずあり、更に直接「意識」そのものと相手にするのではなく、「意識」を持った存在が生産した作品を手がかりに、そこに「意識」を備えた生産主体の構造が反映されていることを見出そうとしているわけで、従って、仮説の上に仮説を重ねるこの企て自体、そもそも無理だとして否定されても仕方ない。そんな中で、限られた手段と資源でとにかくデータに基づく定量的な分析を行おうとすれば、「街灯の下で鍵を探す」状況に陥ることは避け難く、一般に「マクナマラの誤謬」と呼ばれる罠に陥ってしまう可能性は極めて高いだろう。けれども、だからといってデータに基づく分析を放棄してはならないし、簡単に測定できないものを重要でないとか、そもそも存在しないと考えているわけでは決してなく、そういう意味では、できることを手あたり次第やる、という弊に陥りはしても、「マクナマラの誤謬」の本体については回避できているというように認識している。

 三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」であれば、それをシュトックハウゼンの宇宙人が解読しようとしたとき、規則によって生成された音の系列そのものだけでは、それが「人間」の産み出したものであるかどうかの判定はできない。自然現象でも同じ系列が生じることは(マーラーの場合とは異なって)あり得るだろう。だけれども、残り2つの相があることで。それは「人間」が産み出したものであり、人間についての情報を与えてくれるものとなっているというように言えるのだと思う。「五芒星」の音の系列そのものからは「人間」は出てこない。でも同じ音の系列をマトリクスとして、あの3つのヴァリアントを産み出すことができるのは「人間」だけなのだと思う。

 翻ってマーラーの場合だって、或る作品の或る箇所だけ取り出せば、それを機械が模倣することは可能だ。だけれども、マーラーの作品の総体ということになると、しかも、既に存在する作品の模倣ではなく、新たにそれを産み出すということになれば、それを産み出す機械は、「人間」と呼ばれるものに限られるということになるのではないか?

 これも前途遼遠な話ではあるが、或る作品単独での特徴ではなく、例えば一連の作品を経時的に眺めた時に見られる変化であれば、それを産み出す「主体」に、所詮は程度の差であれ、もう少し近づくことができるのではないかというような当所もないことを思っている。牽強付会にしか見えないかも知れないが、その「主体」が成長し、老いる存在なのだ、ということが読み取れるならば、それには一定の意義があるのではというように思うのである。人間が成長し、老いていき、その結果「晩年様式」なるものが生じるというのは、「人間」についての水準では既に自明のなのかも知れないが、だからといってデータ分析によって経年的な変化が読み取れることを、初めから答えがわかっていることを跡付けているだけとは思わない。例えばの話、具体的にその変化が、どのような特徴量において現れるかは決して自明なことではないし、データ分析はすべからく、分析者の仮説とか思い込みとかから自由ではあり得ない。完全に中立で客観な分析というのは虚構に過ぎない。

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 最初はマーラーの作品における調的な遷移のプロセスを可視化することを目的として、そのための入力データとしてMIDIファイルを使うことにしたのがきっかけで、その後、特に和音(実際には機能和声学でいうところの和声ではなく、ピッチクラスセットに過ぎない。以下同じ。)の出現頻度を用いてクラスタリングや主成分分析を行い、マーラーの作品に関して、幾つかの知見を得ることができた。その後和音の状態遷移パターンに注目してパターンの多様性の分析やエントロピーの計算を行い、そこでも若干の知見を得た後、直近ではリターンマップの作成をしているが、今後、どのような観点での分析を進めたら良いのかについて明確な見通しが持てているわけではない。本稿はそうした或る種の行き詰まりの中で、何か少しでも手がかりが得られればと考えて始めた振り返りの作業の一環として執筆された。ここまで執筆してきて、特段新たな発見のようなものがあった訳ではないが、従来より蓄積されてきたマーラーの作品固有の特性に関する知見と、MIDIデータを用いたデータ分析のようなボトムアップな分析とのギャップを具体的に確認することが出来ただけでも良しとせねばなるまい。

 ギャップを埋めるにはどうすればいいかについても具体的な道筋を手にしているわけではなく、特に最後に述べた具体的な楽曲の構造そのものに「老い」を見出す作業については、一体どのようなアプローチで楽曲を分析を進めていったら良いかについての見通しすら現時点では立てていないことを認めざるを得ない。だが最後に、漠としたものではあるけれども、朧気に浮かんでいるアプローチの仕方について、簡単に述べておきたい。ポイントはまず、意識が基本的に「感じ」についてのものであり、「感じ」は有機体の「ホメオスタシス」に関わるというソームズやヤーク・パンクセップ、ダマシオの立場に依拠すること、更に「ホメオスタシス」という概念に注目し、ソームズ=フリストンの意識に関する自由エネルギー理論に依拠することに存する。これはマーラーの音楽を「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」として捉えようとしているからには、ごく自然な選択であろう。いきなり作品そのものにアプローチするのではなく、一旦まず意識についての定量化可能な理論を出発点にとり、音楽作品を意識を備えた有機体に対する入力でもあり出力でもあるものとして位置づけることによって、単なる音響の連なりではない音楽に意識の様態がどのように映り込み、また音楽を聴くことで意識がどのような振舞をするのかを定量的に捉えるアプローチをしてみようということである。自由エネルギー理論のような機械論的な説明に依拠することのここでのメリットは明らかで、そうすることによって作品を「マーラー・オートマトン」の出力と見做し、オートマトンの挙動を理解するという発想が単なる比喩ではなく、具体的なモデル化や分析の道具立てが備わったものとなる可能性が開ける。

 現時点で思い描くことのできる見取り図としては、「老い」についてのシステム論的な定義においてはホメオスタシスやエントロピーの観点から「老い」が捉えられていることから、ソームズ=フリストンの「自由エネルギー原理」に基づく「意識」の説明(これもホメオスタシスやエントロピーに深く関わっていることに思い起こされたい)をベースにし、上記のアドルノやReversのカテゴリの記述を意識にとっての「感じ」という観点から捉え直し、更には自由エネルギー原理的に翻訳することによってデータ処理可能な記述に変換し、楽曲の動力学的なプロセスの中にそれらを探っていくという道筋が浮かんではいる。楽曲のプロセスに「老い」や「老いの意識」を見出す以前に、まず「老い」の自由エネルギー理論的説明が必要であり、その上で「老いの意識」についても同様の説明があってようやく、それが音楽作品の構造や過程にどのように例示(examplify)――ネルソン・グッドマンの言う意味合いで――されうるかの検討に取り掛かることができるようになるだろうし、その時ようやく「晩年様式」の実質について語ることが出来る語彙が獲得できたと言いうるだろう。そして「晩年様式」の実質を語れるのであれば、「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」としてマーラーの作品を分析する手段は既に手に入ったことになるだろう。ちなみに上記では単純化のためにホメオスタシスにのみ言及したが、フリストンの「自由エネルギー原理」の重要な帰結として、人間の脳はホメオスタシス的な動きだけではなく、アロスタシス的な振る舞いを行うことが示されている。またパンクセップによっていわゆるデフォルトモードの情動がSEEKING(探索)であることが指摘されている。ここから創造性や「憧れ」といったものについて語る可能性も開けているように思われる。だが、この道筋を具体的に展開して実際の分析にまで繋がるレベルに到達するのは前途悠遠の企てであり、その実現には程遠いというのが現状である。

 そのギャップを埋める作業は、自分自身の手に負えるようなものではなく、ここでは問題提起を行うだけで、未来の優秀な研究者に委ねられているとしても構わない。寧ろこの問題設定を引き継ぎ(実際の作業は全く違うアプローチで勿論構わないが)いずれの日にか、マーラーの音楽の内実を捉えた分析が、具体的なデータに基づいて行われることを願って本稿の結びとしたい。(2024.8.16 初稿, 8.21, 28追記, 12.19末尾に追記, 2026.9.8更新)

2025年9月3日水曜日

身辺雑記 IV.

IV.

「人工知能」がマーラーの問題になりうるか、検討の余地はある。 だが「意識」と「人工知能」がそうであるように、今日の問題としてマーラーを引き受けたときの展望というのはあるはずだし、あるべきだろう。 一見関係ないことが自明だが、具体的に距離を測るべきなのだ。

一方「意識」の領域は現象学以外については余り広げるべきではないかも知れない。 進化論をどう扱うかも考えどころだ。まずもって、進化論のマーラーの受容の問題がある。それは今日のものとはかなり距離があって、 その距離を正確に測り、記述するのは容易ではない。(当時の思潮を取り上げれば済むというのはあまりに安直で、マーラーの音楽の 説明になりえていないのは勿論、マーラーの人の説明にさえなっていないが、研究ではなくて一般に流布している「マーラー論」のレベルは そういった水準を超えていないように思える。)一方で、そうしたマーラーの音楽を、今受容するという受容側の問題がある。 上述の、当時の思潮を取り上げてマーラーの音楽の「解説」をした気になる度し難いお目出度さには、今日の問題意識にマーラーを 突き合わせるという視点を全く欠いている。マーラー自身は物理学、心理学をはじめとする当時の先端の自然科学のトレンドにさえ 関心を示す人であったのに比べれば、マーラーを骨董品として受容するようなそのような姿勢は、マーラーが持っていたはすの、従って、 マーラーの音楽が持っているはずのベクトル性をあまりに軽んじている。もしマーラーの(例えば第3交響曲における)「世界観」を今日 問題にするなら、今日の進化論の展開、さらには遺伝的アルゴリズム他の進化論的方法や人工生命の方向性、あるいは 進化論の文化的な平面へのアナロジーとしてのミームの問題などを無視することはできないように感じられる。そうした「主題」の領域を 抜きにしても、進化論的ではなくても動態的な視点は必須だ。従って、横断時に出現することになるに違いない。

マーラーにおける自然の問題をヴェーベルンやシベリウス、あるいはクセナキスの場合と対比させること。 同時に主体の立ち位置の問題でもある。 19世紀末的な「自然」にマーラーとヴェーベルンは含まれる。シベリウスは少し違う? 実際には、その様態においてはヴェーべルンとシベリウス(と恐らくブルックナー)の方が近いのにも関わらず。 一方でそのような意味合いでの「自然」は、ラヴェルやフランクにはない。これは何故? 都市の音楽だから?当時のフランス音楽が都市のものだったから? 「自然」に対する態度の違い?風土や文化?音楽の「機能」の問題? ロシアにおける例外的とも言いうるショスタコーヴィチにおける自然の欠如。 ショスタコーヴィチはロシアではなく、ソ連の文化的・政治的文脈が優った音楽であることは否定できまい。 とにかく、彼は人間に関わらざるを得なかった。告発するために、呪詛するために、記憶するために。

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あるタイプの作曲家―演奏家の倫理性は、作曲家―演奏家という自分の立場の外には出ようとしない。 それは音楽家の己のための倫理だ。 それを中途半端なアマチュアが批判すれば恐らくははぐらかされてしまうのがおちだろう。 勿論、それが間違っているわけではない。 だが結局、音楽家でない私にはそれは「どうでもいい」ことだ。 そしてそうした倫理性は、作品の享受の関心の担保にはならない。 多分演奏家にとっては興味深いかも知れないその作品も私の心には響かない。 寧ろ行為ではなく、音楽そのものに向き合う類の音楽の方が 一見自閉的に見えて作品としての豊かさを備えている。 無論、作品は開かれている(いる「べき」かどうかの問題ではない、事実 としてそうなのだ)し、豊かさは演奏家が与えるものだ、という立場は間違っていない。 だが、私はそれにもあまり関心がないのだろう。 作品を固定した、死んだものとして「鑑賞する」美学に対する反撥には大いに共感するが、 それに対する彼らの答には私は共感できない。

作品が完成品でないのは、作品を作曲家―演奏家―まさに彼らがそうである、 特権的にそうであるような―の中間領域に常に「手を加える」必要のある 状態に宙吊りにしておくことでなくてはならないとは限らないだろう。 それは彼ら固有の条件への自閉ではないのか? 作曲者―演奏家本人にしか実現不可能な作品―他者が再演することのない 作品とは一体何なのか?一見開かれた、伝統芸能で言う「手」の集積は、 しかし、芸の伝達のシステムが機能しない場合には、イデオレクトに 過ぎないのではないか?自分のための、自分のためだけの作品。 自分の行為のみを正当化する作品。その正当化は確かに無欠かも知れない。 そして聴き手を忘れて、音楽家の固有のモデルに閉じてしまう。 そのスタンスは、外に対して他者に対して一体何でありうるというのか? だから、(特に20世紀以降に顕著な言説の形態での)批判の鋭さは認めても、豊かさを見つけることはできない。 その倫理性には高い感銘を受けるが、それでいて自分の中にははっきりと今や形をなした違和感がある。 彼らは正しいのかも知れない。多分そうなのだが、それは「選ばれた者」の論理なのだ。 彼はそのように為すべく選ばれた者なのだ。 その選ばれた者の自分の立場の表明した書籍を、実践を、そうでない人間が 書籍の形や、あるいは演奏会のチケットの形で消費するというのは、一体どういうことなのか? 弁の立つ名人芸的ピアニストへのファン心理と何が違うのか? 音楽家が音楽について考え、実践するのは正当なことだろう。 でも、それは私にとって一体何の関係がある?私は音楽家ではない。

演奏家―作曲家の特権性だけではない。 例えば、音自体に拘り、あるいは音と音との抽象的な関係という次元に 己を限定する音楽についての緻密な思考は、だが、音楽家でない私にとって何なのか? 彼らは、その人並み優れた自分の能力に応じて、自分の問題を解いている。 だが、それは私には結局関係がない。 問題意識は結局共有できない。 それはきっと私は音楽家ではないからだ。 彼らは音楽家の「音楽家としての」問題意識の圏内で動き、結果を生み出す。 だが、私が音楽に聞きだすのは、最後の部分では、音楽家固有の問題に 対する技術的な対応ではない。

私はそうではない。私にとっては、自分も含めて、自分の身近にいる人間の心の傷や不安、怖れの方が問題だ。病や老い、そして死。 それは自分自身の問題でもある。 勿論、個人の次元では解決はない。 社会的次元にこそその手がかりがある、というのは正しいのだろう(だからこそ、私は「他者論」に関心を持ったわけだ)。 だが、それでもクオリアの私性を何かでごまかすことはできない。 個人の次元は純化する必要もないし、そうすべきではないのだが、だからといって解消されてはならない。それは残るべきなのだ。 自分に行動すべき何かの動機があるとしたら、そうした私性の、私性ゆえの、だが結局のところ私性の「ための」戦い以外にはない。 私は親密さなどいらないが、私性、個別のこの生命、この痛みの価値は擁護したい。 意識の問題を消去するのには、意識を消去すれば良い。だが、私はつまるところその問題含みの意識そのものなのだ。 消去は私「にとって」何の解決にもなっていない。 意識は頼りなく、少なくとも有限なものだ。世代の交代は意識という現象にとっては何の救いにもならない。私はそこで行き止まりなのだ。

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支配するのは怒りではなく、寧ろ無力感だ。怒りがあれば、それは何かを生み出すだろう。 そしてそれが不滅へと通じる途なのかも知れない。丁度ショスタコーヴィチのミケランジェロ組曲op.145が証言するように。 自然への帰依の感情、法則性、Nomosへの信頼からもまた、遠い。 だからシベリウスやヴェーベルンのあの自然の即自性は勿論、マーラーのあの憧憬からも遠ざかってしまったのだ。 単なる観点の、立場の問題かも知れないとはいえ、遺伝子の、あるいはミームの媒体に 過ぎない個体の有限性を、自分の営みの虚しさを確認することは意志を喪失させる。 何という陰惨な展望であることか。 何というところに辿り着いてしまったことか。 自然が一体何の救いになるのか? (全く風景は異なるが、no hay caminos, hay que caminar / viae inviae の対比が アナロジーとして思い浮かぶ。途がないのは同じでも、何という認識の違いがあることか。)

その法則は、何か安らぎを与えるものではありえない。 寧ろ、クセナキスの様な人間の認識の有限性への絶望と、運命の仮借なさに対する反抗の方が共感できる。 或いはショスタコーヴィチの認識の方が。 またいずれ神ならぬ盲目の進化の(ショーペンハウアーならそれを意志と呼んだだろう)巧みさも ひらめきもない作業の産物である自然の造化の精妙さに感動することがあるのだろうか? それでもその法則の「偉大さ」(?)に畏怖の念を覚えることがあるのだろうか?

何かを作ること、産み出すことの行く末を見定めること、それはまだ残っている。 残念なことに己の産み出すものの価値については全く信じられなくなっているが、それでも、ラヴェルの職人意識の方が、自然よりも、 人工物を信じるその懐疑とイロニーとその背後にある悲しみと諦観の方が、今の自分には信頼がおける。 裏切られた、傷ついた子供の心をどこかにしまってありながら、表面上は冷淡に、理性的に振舞うその「知性」を、 その意図された、意志的な冷たさの方に私はより多く共感できる。 自分の為し遂げたこと、自分の使命に対する信頼など、持てようがない。 それでもマーラーを否定し去ることはできないのだが、、、

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かつて親しくしていた友人の夢を見た。理由はわからない。 だが、こうしてまた、あの日のマーラーの第9交響曲第1楽章をきっかけにした対話に戻ってゆく。 不滅性とあとかたもなく消えること。 あの頃の素朴な信念はもうない。けれど、マーラーの音楽がなくなったわけではない。 どんな写真よりも文章よりも生々しい経験の定着。 勿論、「マーラーの見た風景が見える」と言った私は間違っている。 そんなものは音楽のどこにもしまわれていない。風景は私のでっちあげた虚像に過ぎない。 けれども、経験の質は?「伝達」としては不十分だとして、この「変換」の結果は?

もし個人が、そして個人の生産物が、完全に社会に拘束されたものであるとすれば、ミームの伝播というものが意味を持つことはない。 もし正解を生成された社会的文脈に置いて、その解釈の地平をその「過去の側」に制限するならば、未来にいる聴き手、 異境で、異なる文化的伝統の裡にある聴き手は正しい解釈から排除されてしまう。 もしミームが伝播しうるなら、そうした文脈から離れた仕方でしかない。 しかもそうしたミームを受容するものが、聴き手の裡に存在していなくてはならない。 ミームを扱うとき、都市伝説や流言のような寿命の短いもの、伝播が空間的には広くて速度は早いが、存続しないものを中心に考えるのは面白くない。 マーラーの作品やショスタコーヴィチの作品のように存続する、世代を超えるものでなくては意義が薄い。 ホルブルックがマーラーとショスタコーヴィチの文化的文脈の違いを超えた共通性について論じているのは(David Holbrook, "Gustav Mahler and the Courage to be", Vision Press, 1974, p.239)正しい。 そして多分―勿論「了解」の問題はあるだろうが―生死の問題が相対的により普遍的であり、 文化や社会といった構造よりも一般性が高い点に、共通性が可能になる地盤を求めているのも正しいだろう。 無論、「了解」の問題はある。生死は生物学的事実ではない。 寧ろ生死についての了解が問題で、その了解に接点がなければ共通性は存在しない。だがそれは「了解」の共有を求めているわけではない。 了解は社会的・文化的な制約を受けるし、必ずしも「一致する」わけではない。 個別の了解を成立させる地盤の共通性があれば良い。 多分それは、生物学的事実と社会・文化的相対性の中間くらいにあるのだ。 それは、社会・文化が閉じていないこと、ミームの伝播が「可能」であること、そして当のミームの伝播自体が辺縁を生じさせ、 そうした共通の地盤の生成を促進するのだろう。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.10.1 問題系を分離の上、再公開)

身辺雑記 III.

III.

解決すべき問題、オブセッションとして纏わりついている問題が何であるかは分かっている。 回り道の余裕は もうない。

身体は死すとも、、、 しかし、精神も、心も同じだ。 それは身体に付随している事象に過ぎない。 だからそうした考え方、不滅性は或る種の転倒だ。 もし不滅性を考えるなら、別の形態を考える必要がある。 心、意識は、現象に過ぎないのだ。

私は結局、意識の問題にしか興味がない。 音楽もAIも時間論も他者論も、意識の問題の変形に過ぎない。 作曲家の生でもなく、音そのものでもない。 作曲の跡に見られる意識についての、認識というか、ある立場、ある存在の様態こそが気になるのだ。 音の向こう、あるいはこちらに、音をつむぐ手が、その手を制御する意識(あるいは無意識)がある。 機能的現象のみを説明すれば、意識の説明は終わったとする立場は誤っている。 少なくとも意識はそうした機能を果たすこと「のみ」をしている訳ではなかろう。何故か―しかじかの「ために」という説明は、誤用 (なぜなら現実に「本来の目的」から逸脱してる」)の説明にはなっていない。 つまりは意識を十全には説明しきれていない。 それが誤用であったとしても、あまりに多くの蓄積がありすぎる。

不滅性に頼ることなく、けれども意識を「まともに」扱うようなそうした思考が必要なのだ。後半生を生きるために。 私の意識が自分の為に、自己を正当化するために、自己の存在を正当化するために、それは虚しいと分かった上で。 いつか自分自身も崩壊してゆく。

生は死に取り囲まれている。死は決して例外的な現象ではない。このような認識は例えば時が経てばまた変わるのか? そうでもない様に思えてならないのだが、、、

(かつてそのように勘違いしたのとは違って)時間ではなく、意識の問題。 意識の問題である限りでの時間性の問題。 例えば宇宙論的な時間への関心は、結局副次的なものに過ぎない。 勿論、それが不滅性の問題を介して、実存の次元と関われば別だが。 (ホワイトヘッドの体系の中でなら、それは連続している。) 不滅性の問題。 価値ないし意味の問題。 人工知能に関与したのは無駄ではない。 そして、最初の動機を忘れてはならない。 結局、それ以外は自分にとっては副次的な問題なのだ。 スタニスワフ・レムのゴーレムXIVとデネットの解明された意識。 そして、その中心に時代錯誤を伴ってマーラーの音楽がある。 そのアナクロニーそのものもまた解かれるべき問題の一部を為しているのだろう。

しかし、本当にそれがお前の問題なのか? それについてお前が考えることに何の意味がある? お前にはどうせ解けやしない問題なのに。

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イヴァンとアリョーシャの会話。 神はいるか? 不死はあるか? それは未だ、多分自分の問題でもある。

進化論的な陰鬱な展望を受け入れながら、私の心のどこかには、神に呼びかける部分が残っている。 他人はそれを心理的仮構物と分析し、自問自答や自己暗示の一種と見做すだろう。 否、多分そうに違いない。でも、だからといって、神と不滅性の問題が消えてなくなることはない。

意識を持ってしまったことの厄介さ。 自分の死を待たなくてはならない。 二人称の死もまた。何と過酷なことか。

生の領域にあって己の欲しているのはモラルだ。モラルなのか倫理なのか、恐らくその何れもだ。 いくら醜く、不完全であるといっても、それだけではない。それで終わりとは考えたくない。 私はドーキンス程楽観的になれないが、でも、どんなに頼りなくとも取るに足らぬものでも、人間の築いた「良いもの」を否定したくない。 絶望的なプロテストや声に出して訴えることも知らぬ、謙虚な心のために。

何かを残すというよりは、そうした気持ちを何かに振り向けるべきかも知れない。 倫理もモラルも必要なのだ。 根拠などの問題ではない。根拠が無くて、必然性がなくても、ある「べき」なのだ。 おや、これはヴォルテール? Il faut l'inventerという訳か?

Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. と語り、 あるいは交響曲は全てを包括しなくてはならない、と述べたマーラーの気持ち。 私のみた風景。みること、書くことによって形作られる風景。私ではなく、私のなかの何者かが 私に見せ、私に書き取らせる風景。誰のためでもなく、だが誰かに向かって書かれ、構築される風景。 私はそれらを書き留めることができるだろうか?そうすることによって神の衣を織ることができるだろうか?

自分の考えていることを自分が納得のいく仕方で誰かに伝えること、それ自体が大変な難事だ。 不可能事と言っても良い。ある時以来、それをはっきりと認めざるを得なくなった。 だから最近は、現実には妥協をする。 自分が納得いかずとも、相手が行いにおいて自分の望まないことをしなければ良い、という様に。 モナドには窓がない、私の思いは私の闇の裡にとどまる。 だから他人への通路を、媒体を作り出す作業は消してtrivialではない。けれどもそれと私の痕跡とは?

恐らく皮肉なことに、チャーマーズ風の二元論の、実用上の有効性に思い至った。(チャーマーズの意図とは異なる。) ようするに、意識があるが故に、その意識の「ために」クオリアにこだわる必要があるのだ。 生物学的、物理的な「事実」以外に何も無い、というのは意識に「対しては」誤っている。 それは確かにあまりにもろくはかない。意識は、そして生命は、生物学的(医学的)、物理・化学的にはちょっとしたトラブルで壊れてしまう。 だが、意識「にとって」は、意識「のために」は、そうした説明は何にもなりはしない。物理的には取るに足りない違いであっても、意識の有無は、決定的な違いだ。 だからといって唯心論には決してならないが、少なくともショスタコーヴィチの見方は、意識の立場からすれば、一つの(かなり悲観的な)アイデアに過ぎない。

勿論、私の意識がなくなれば(いずれそうなるのは確かだ)それは、私にとって消えてしまうが、だからといってそれは無意味ではない。 全く交わらない別の次元が存在する。 そして意識にとって「死」は単なる無以上のものだろう。あくまで意識にとって、単なる己の消滅以上のものだろう。 ただしそれはハイデガー風のSein zum Todeでは全く無い。 決意や投企とも全く無関係だ。 (それらは、あらゆる宗教的な言い訳と同じく、錯誤を錯誤と思っていない点で受け入れられない。) 二元論は残り、そのうちの圧倒的にもろい一方だ、ということを忘れてはならない。もう一方を消去したり否定したり、従属的、副次的なものと 見做してはならない。

意識にとって、意識が有限の基盤のものであるなら、その死はその有限性そのものであると同時に、その有限性に対する解釈でもある??? 意識の有限性を、その物質的な基盤を認めること、意識の消滅、そして死について認めること。その上で、意識にとっての、意味なり価値なりの領野を認めること。 それは独立していて、物質的な基盤を持たない。抽象的であろうと、そうした信念なり価値なりの空間は存在するし、別の仕方で(ドーキンス風/デネット風には) 継承されもする。そうした価値の空間はチャーマーズ風の二元論の一方の領域、つまりクオリアの領域と関係を持つに違いない。

物質的な基盤を認めない信仰同様、この領域を認めない唯物論も同じくらい誤っている。唯物論とて、意識の自分自身に関する解釈に過ぎない。 還元不可能だが随伴的、意識「にとって」そうなのだろう。 だが、それ以外ではありえない、こうした分析じたい、意識の産物なのだ。

現象から身を引き離すこと。 アドルノの批判にも関わらず、(けれどもそれは多分に正鵠を射ている)フッサールのあの徹底ゆえの不徹底(意識にとらわれすぎたのだ。本当は意識からも身を引き離すべきだったのに)。

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~のように見える。~のように感じられる。という「私」の身の丈に合った記述、世界の描像。 二元論の「私」向けの是認。場の量子論的な描像に対する「私」の反抗。 それは井の中の蛙、裸の王様の反抗だ。だが、その蛙は、王様は、己が井の中に裸でいることを知っている。

カントの「慎ましい」理性批判の度し難い傲慢さ。自分の限界を自分で知ることができるという前提に立てるお目出度さ。 フッサールの「厳密さ」の自己中心性。だがそうした企ての「気持ち」はわかる。あるいは進化論を、場の量子論を否定したがる人間の気持ちも。 勿論彼等のルサンチマンの行き場は誤っている。だが、クオリアに、クオリアの齎す効果に、ミームに逃避して何が悪い? 勿論、それは倫理―逆説的にAutreではなく、Autruiでなくてはならない。 でも良いのかもしれない。「私」の不完全さ、醜さの代償として。そして、それは「必要」だ。「私」が生きていくのには。 だがクオリアに、美的なものに拘るのは、そうした醜さとは別の可能性がある界面には存在するということだ。 それが「私」の夢、幻想の如きものであっても。(そもそも「私」自体が、同じレベルでfictionなのだから。)fictionの側に専ら実感があるという皮肉。 それはつまり、人間(私)にとっては、fictionこそが現実たるべく条件付けされ設計されてしまっているということに過ぎない。

意識と時間―予期記憶、過去―未来という認知様式の発生。記憶を持つこと、先読みをすることと意識の関係。 (考えてみれば、当然のことだ。)

一方でカントの設定した理性の限界は、カントが想像していた程手前にはない。 人間は自ら自分の「生活世界」における実感と異なる世界認識の道具を開発し、 そのことによって、(カントの思弁とは異なって、経験的な反証という仕方で)自分の素朴な信念の限界と相対性を明らかにしてきた。

要するに、私がうんざりしているそうした理論も、私―ただしこの私ではなくて、人間一般―の営みに過ぎない。 ただしそれは他者から、社会から与えられるものなので、私にとっては「自分のもの」になり切れていない? いずれにせよ、倫理や美学以外は哲学の役割は限定される。 哲学が、神の衣を織ることになるようには私には思えない。(だがホワイトヘッドの様な場合もあることはある。 それにしてもそういった哲学的思弁は、今や寧ろ物理学者にのみ許されるのではないか、、、 ホワイトヘッドが数学者でも理論物理学者でもあった点を考えれば良い。)

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二院制の心によって、内なる神との対話もまた、説明されてしまった。 あるいはフロイトの超自我でも良かったかも知れないが。 今や意識の問題は、第一に脳(と身体)の問題、つまり神経科学の問題である。 私は神経科学者ではないから、それに寄与することはできない。

偉大な作曲家たちの跡を辿ることに一体何の意味があるのか? 自分の脳の中に情報を溜め込むことになど意味はない。 (私的な意味など価値はない。) 死んでしまえば、それは喪われてしまう。 それがいやなら、何らかのかたちで表現することだ。 だが、それに何の価値があるのか?

そうした問い自体が滑稽なことだろうか。 それは普遍的な価値の序列があって、その中での位置づけを気にしているかのようだ。 だが、現実には、そんな普遍的な価値の序列はない。 であれば、気に病むことはないのだ。

多分、どんなに偉大な人間であっても、自分の生が無意味であるかもしれない、という疑念から逃れることはできないだろう。 そうした疑念から逃れることができるかどうかは、何を為したか、ではなく、どう見做すか、という志向的姿勢、信念による部分が多いのだ。 だから成し遂げたことがミームとして引き継がれることのないような存在であっても、それ自身としては充足して、 上記の疑念に囚われずに生を全うすることも可能だろう。

どんな存在でも多様な価値(遺伝子の観点での、あるいはミームの観点での)のプールの一角を占めるに過ぎない、という制約を逃れることはできない。 あなたの信念は相対的で、ある人にとっては無に等しいのだ、という可能性を否定することはできない。

意識が儚い存在であること、その認識能力には限界があることは明らかだ。 一方で、いかに意識の成り立ちを説明しようと、意識からの視点を解消することはできない。 意識の成り立ちの説明ということでいけば、まだ端緒についたばかりとはいいながら、例えば100年前と比べれば状況は全くといっていいほど変わっている。 そうした状況の変化を考慮せずに100年前の思想を追うのは、哲学史家の課題であって、それを自分の生活の糧にしている人間以外には意味がないことだ。 (一般に哲学史研究については、そうしたことが言えるだろう。 結局「本当はどうだったのか」という、生成のコンテクストを辿る作業は、不完全さを予め運命付けられているし、 大抵の場合、そうした作業はどこかでこっそりと二股をかけている。 誤読の批判を受ければ、「今日的意義」とやらを持ち出して逃げを打つのだ。) だが、実はそちらの側は問題の半分に過ぎない。 還元できない、解消できない意識からの視点、幾らその限界を認識しても、 結局そこから逃れ出ることはできない(クセナキスの「言い方」はとても的確だと思う)視点をどうすれば良いのか。

そうしたものは余計なものとして、滅却すべし、というのが1つの立場であることは明らかだ。 そしてそれが強力な解決方法であることも理解できる。 だが、それは結局、意識にとっては解決にならない。 生命についての議論との並行性があるが、ないものねだりではあるけれど、存在することを強いられている意識が、 何とかその存在の居心地の悪さをやり過ごすことができるような、ある倫理が欲しいのかも知れない。

せっせと音楽を、書物を溜め込む人間。だが、死んでしまえば脳の中に溜め込まれた知識は失われてしまう。 脳の中の知識は「私」しかアクセスできない。 一体、そんな蓄積に何の価値があるのか? 他人にアクセス可能なように、変換をすること。出力をすること。 そうしなければ意味はない。意味とは、そのようにして生まれていくのだ。 勘違いしてはならないのは、ある作品が作者の経験のある消息を伝えていたとして、 価値はその消息の側にではなく、結局作品の側にあるのだ。寧ろ、取るに足らない消息を作品の方が価値付ける。

だが生産しなくてはならない、という強迫は、結局、経済の原理に支配されているのではないか? 確かにそうだ。結局は一種のプラグマティスムが潜んでいるのだ。publish or perishと、本質は あまり変わるところがない。 だが、ここではそれでもいいのではないか? 勿論、意識を否定する、という解決の仕方があるように、不毛を選択すること、経済性の原理の向こうにある、かの共通の原則に対して、 そのように反抗することも選択肢ではありうる。 けれども、ここでも私は、そうした立場はとりたくない。 意識を抱え込んだまま、どうにかやっていこうと思うのと同様、ここでは、そうした作品の価値を否定したくないのだ。 ただし単純な多産性が(多作)が価値の基準ではないし、同時代的な評価もまたそうではない。

ごく素直に言えば、自分が出会った、価値あると感じられるものを擁護し、自分もまた、そうしたものを生み出すことで作品によって記憶されたい、ということなのだろう。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)


身辺雑記 II.

II.

Vorbei.

何かが壊れてしまう?止めることはできない。壊れてしまったものは修復できない。逆らってはいけない。区切りというものはある。 立ち止まってみる、という事なのか、但し、後ろを振り返ることなく、、、 私はどこへ行くのか?何をすれば良いのか?何をすべきかは、待ってみるべきなのか?自分で選ぼうとはせずに。

たくさんの文章、公開されているたくさんの文章。 何故公開できるのか?確信を己に抱けるもののみが遺すことができる、のだ。

無理をして背伸びをするのは少し控えるべきかもしれない。 周囲の動きの中で、気配を消すように、努めるべきかも知れない。 もう5年もやっているのだ。区切りというのはあるだろう。 現象から身をひくこと。我が王国はこの世のものならず。 世の成り行きに接していた面がひとつひとつはがれてゆく。 5年間の企ては結果的に貧乏くじをひくことにしかならなかった。 そして、それ以外の面でも、自分が作ったものの一つがその役割を終え、小鳥達、父、そして自分に価値を見出してくれた人たちの何人かが逝った。 だとしたら、ここで一息つくのもいいかも知れない。 まだしばらくは生き続けなくてはならない。 「知の人」の装いのもとに。そのためにも、一旦、休むべきかも知れない。

盗むものは盗むが良い。あるいは使えるものがあれば使うが良い。 それは、私のものではない、あなた方のものだ。 私は何も持たずに、何も残さずに、立ち去るだろう。

たくさんの誤解と無理解によって「歴史」は塗り固められてゆく。 ヴェーベルンの傷は「歴史」によっては購われない。それどころか想像力の欠如した音楽学者達が批評をする材料にされてしまっている。 結局、「誰か」の視点しかない。そして声が大きい者が勝つのだ。言葉でなくても、音でも画布でも、何でも。 そして素材(媒体)と格闘しない純粋な思惟というのは、あり得ないのだ。あるいは素材の、道具の、記号の往還の無い思惟というのは。 多くの人が、一体記憶はどこに行ってしまうのか、と問う。 しかしそれは、脳が活動を停止してしまえばなくなってしまうのだ。 記憶もまた、他のものと同じく、物理的な基盤上に成立している。 H/Wの故障により、その上のファイルに格納された情報が読み出せなくなることと、ほとんど変わることはない。 記憶だけを神秘的に考えるのはおかしい。

つまるところ、外化して残さなければ如何に偉大な思想も無に等しい。価値は流通によってしか生じない。 価値は他者が与えるものだ。産み出すこと。 何を考えていたのか、書き残されたもの、遺された書物の示す緩やかで曖昧な布置以外に知る術がない。

お前がその脳の中にたっぷりと詰め込んでいるものがあるのなら、それらを吐き出して書き付けることだ。 お前が死ぬのを待つことなく、おまえ自身、その思考へのアクセスを喪ってしまうかも知れないのだ。

かつてある人に、(そのときの文脈は、むしろ言語の「不完全性」だったかも知れない)自分の頭の中にある思惟をそのまま伝えることができるなら、 言語等という不完全な手段に頼ることはない、と語ったことがある。 けれども言葉にして伝えなければ、脳の中の思惟は消え去ってしまう。

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また一つ「世の成り行き」との接点が喪われる。 けれども歴史には勝者と敗者しかいない。敗者は忘れ去られる。細部は喪われる。脈絡も背景も前提も忘れ去られ、評価のみが残る。 全てを喪ってしまったこの5年間はただ、盗み取られ、己を喪うためにのみ在ったかのようだ。 まるで何かを残すことを禁じられたかのように、そこはお前の場所ではないとでも言われているかのように。

こうやって日々、楽観と悲観を彷徨う。あまりにあてどがなさ過ぎて、どこかに辿り着くかも定かでない。しかし、道は歩んだ跡にしかできない。 決定的な何かはその瞬間にそうと知られることはない。必ず、後からそうであったと追検証されるものなのだ。 だから自分のやることについて、思い煩うのは程度の問題だ。自己批判を欠くと言われようが、破棄されたものは残らない。 想念のうちに抹消してしまい、形にしなければ何も残らない。 批判の対象にすらなりえない。一方で、残すとなれば、恥をさらすことを覚悟せねばならない。 残らないことを懼れるでもなく、残ることに恥らうでもなく。ある種の愚かさ、愚鈍さが必要なのだろう。 すべてを相対化して価値を見失う聡明さよりも、己を恃む融通の利かない、尊大、傲慢と受け取られかねない頑固さの方が、まだまし、というわけか。 もう一つ。他人と接すること、外に対して開かれることが多分必要だ。少なくともある時期に、誰と接したかは、決定的に重要なのだ。 隠棲なり象牙の塔なりはその後なのだ。誰かの友人であったり、弟子であったりすることがどんなにか重要なことか。

~について考えること、は、それを眺めること、それをある形式の裡に結晶させることとは異なる。 大抵の場合、無意識の備給の方が価値を帯びていて、「~について」という意識的な部分については価値はない。つまり反省は邪魔なのだ。 ~について考えること、分析し、組み立てること、内なる声に耳を澄まして書きとるのではなく、作り上げること、それは作品を生み出すことではない。 知の人、頭の良さ、というのは実際には役になどたたない。もっともそうしたイメージとは異なって、自分はさほど論理的に物事を捉えてはいない。 知的な印象、冷たさは仕方ない。だが実際にはもっと感覚的、そして直感的だ。 そうした例というのは、例えばヴェーベルンやクセナキスの場合がそうだが、無い訳ではない。だが、彼らはどうなのか? ノモスを探求しようという態度、それは役に立たないのか?

自分から多分最も遠い音楽、マーラーの様な音楽(私はそういうものを作ることだけは出来ないだろう。 マーラーの最良の部分は私に無い部分なのだ。それが今の私には良く分かる)は、一体何を提示しているのか?その魅力の源泉は何なのか? 私が書くものは、全て、主観的なものだ。その魅力とは、私にとってのそれだ。それを書くためには、どこから前提を記述すれば足りるだろう。

何が幸いするかはわからない。抽象的に考えることが出来るのか、出来ないのか?論理的に考えることができるのか? 大きな見地に立って考えることが出来るのか? だが、どのようにparameterを設定してみても、何かを産み出せるかどうかを計算することはできない。 それは神か、あるいは統計的な事象なのだ。 ただし、どのような媒体によってか、というのは多分、重要なことだ。 なぜなら、やはり技術的な次元は存在して、だから、何かに習熟すること、というのはどうしても必要だからだ。 何かを続けること、ある対象に没頭し、熟知すること、はどうしても必要なのだ。 それよりも必要なのは、過剰な適応から距離をおいて、自分が本当に何をしたいのかを見極めることだ。 探す必要があるなら探すしかない。自分の身の丈に合った対象を見つけるか、身の丈が合うのを待つか。 あせっても仕方ない。すべての時間をそのことに向けられるほど合理的に無駄なくはできていないのだ。 休むことも、時には必要かも知れない。無駄な寄り道よりは何もしない方がいいのかも知れない。 寄り道が無駄かどうかすら、知る術はないのだが、、、

これで終わりなのかどうかは、神のみぞ知る。仮にこの鬱状態が一時的なものであるとしたら、しばらくすればまた何かを始めるだろう。 だが一体、いつから始まったと考えるべきなのか?かつても、いわゆる収縮し、縮小することで自分を維持しようとすることはあった。 但し30より前では、否、つい5年前も、それは「変わる」、つまり別に何かに「なる」ということを目がけていた。 今回のそれは違う―違うかどうかはわからないが―いずれにせよ、「変わる」ために抑圧したものをもう一度評価しなおして、ある意味では中性化してしまった。 勿論、過去の自分に戻ることはできない。過去を振り返る自分は過去の向こう見ずな自分ではそもそも無い。 過去に評価したものが全て復活した訳でもない。けれども「変わること」に疲れたのかもしれないとは思う。

いずれにせよ、これでおしまいなのかどうかは神のみぞ知る。 今はじっとしているしかないのかも知れない。色々なものを、結果を出すことをあまり考えずに蓄積させるタイミングなのかも知れない。 多分、まだ、多少は力が残っている。結局まだ、諦め切れていない。 だが、何をすればよいのか、拡散し、散らばってしまった、どれも中途半端な断片のどれを拾い上げて、どれを捨ててしまっていいのかがわからない。 もう時間が無く、残されたリソースを考えれば、選択は必要だ。だが、自分で選ぶことはできない。選ぼうとして動き回れば、ますます混乱してしまうようだ。 自分にとって必要なもの、欠かせぬものを見極めること、この年齢(「不惑」も近いというのに)になって、何たること! けれども仕方が無い。あちらこちら道草をした報いというべきか。 いずれにせよ、これが続く―最後まで続く―のか、いつか終わりが来るのかはわからないが、しばらくは沈黙するしかない。

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志向的対象の有無、感情と気分(Stimmung)。気分は人間と世界の合一(ボルノー)。cf.レヴィナスの享受。 そして気分と雰囲気―後者の非人称性。 感情―気分―雰囲気。アドルノにも「雰囲気」というのは出現していたことに注意。

詩もまたある認識の様態を伝達する。フランシス・ジャム、パウル・ツェラン、そしてヘルダーリン。 とりわけジャムの詩の風景や感受の様式は、多分、かつての自分を強く捉えたものだった。 けれどもヘルダーリンの詩同様、ジャムの詩の世界もまた、随分と遠ざかってしまったようだ。 ある種の純粋さ、それを保つのは難しい。しかもその輝きは私の存在とは関係がない。 そして私はと言えば、信仰も持てず、神の衣を織る事あたわず、友もなく、沈黙するのみ。 信仰なき沈黙とは何か?それは日常だ。だが、それも仕方あるまい。

フランシス・ジャム的な光景、風景への懐疑?光の調子、それは現実なのか? 否、現実とは、享受の様態により決まる。ジャムの輝きはヴェーベルンの後期作品等と同じものかも知れない。 或る種のdetachement。 それは幻影ではないかという思いと、それを否定しきれない気持ち。 一つには信仰の問題がある。現実の認識の変容。けれどもそれは自分の態度が変わったからだ。それは確実にいえる。どのようなスタンスをとるかによって、立ち現れる現実の様相はある程度変わる。

ではかつての態度の方が良かったというのか? ―恐らく、ある意味では。お前の「強さ」は、今や喪われてしまったかも知れない。 だが、かつての態度は「非現実的」―或る種の超然的な独我論ではないか? ―そうだ。それを批判するのは必ずしも誤りではない。だが、それにも価値はある。 今でも何かに没入したらお前はそうなるだろう。要は選択の問題なのだ。 かつても断念はあった。否、断念と妥協の繰り返しではなかったか。

かつての私には「他者」がいなかったのだ。強い観念的な世界の中で他者を見ていた。 実践的な働きかけの対象ではなかった。私は私の独我論の世界に居た。 祖母も、祖母の死後後を追うようにして息を引きとった犬も―それは大いに悔やむべきことだ。

音楽のなかった時代、光景のみが残っている。記憶のうちに。 これらは現実にはもう存在しない。街は変わり、風景は変わる。 私の見たもの、あの確かであった筈の現実は、今や私の脳の中に、不完全な記憶としてしか残っていない。

本を読み、音楽を聴く。 それは構わない。だが脳に蓄えられた写像は死んでしまえば喪われてしまう。 喪われることを拒むのであれば、更に変換を行うことで別の媒体に残すことだ。 いくら読む本を選び、聴く音楽を選んでも、死がその秩序を散逸させる。 形を与えることだ。それが残るかどうか、存続するかどうかは神様に委ねれば良い。 翻訳であっても良いかもしれない。或いは紹介記事であっても。いずれにせよ、己の外に出すこと、表現すること。

外への働きかけ、他者への働きかけ。行為の次元。「~のために」というレヴィナス的には倫理的な次元。 レヴィナスの他者論を読んでいたときには、そうした事に心から納得しなかったことは皮肉だ。 しばしば論理的な一貫性というのは、何かを見えなくしてしまう。 とりわけ、哲学的な問題は、良く定義されている訳ではないから、論理的に一貫していると見えることが、単なる短絡に過ぎない、ということが良く起こるのだろう。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)

身辺雑記 I.

I.

... , wo der Obstbaum blühend darüber steht
  Und Duft an wilden Hecken weilet,
   Wo die verborgenen Veilchen sprossen;

Gewässer aber rieseln herab, und sanft
 Ist hörbar dort ein Rauschen den ganzen Tag;
  Die Orte aber in der Gegend
   Ruhen und schweigen den Nachmittag durch.

aus : Friedrich Hölderlin, Wenn aus dem Himmel

「・・・果物の樹は花咲きながらその上をおおい
 甘いかおりが野生のまがきのほとりに漂う、
  ひそやかな菫の花が咲き出でる、

 だが、水はしずかに流れくだり
  ひねもすおだやかにせせらぎが聞こえる、
   しかし、あたりの村々は
    安らかに憩い、午後の時を黙し続ける。」

(ヘルダリン「天から」野村一郎訳)

だが、例えばヘルダーリンの詩集を手にして、「それでもこうして、200年前の人間の遺したものを私は手にしている。」 と思うとき、寧ろ感じるのは、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」という思いだ。 自分にはそれだけの価値がないから、跡を残すべきではない、という感覚に近い。 これはかなり絶望的な認識だ。何も成し遂げていない。理由とか経緯は一番最初に消えてなくなる。結果が全て。 そしてその結果は、いかなる観点からも(勿論「残す価値」という基準に照らしてだが)無に等しい。

中間点というのは数学的な意味での点ではない。それ自体がエポックなのだ。そもそも、中間点を過ぎたのか、まだその中にいるのかすら定かでない。

小鳥たちの死について。 永遠性に関する感じ方が変わったように思える。小鳥たちは聖書に書かれているように、何も遺さなかった。 けれども、彼らの存在は無ではない。もし残るべき何かがあるとすれば、それは私の生の行路の足跡などではなく、 小鳥たちが存在したことではないか、という思いに抗うことはできない。 その一方で、小鳥たちが何も遺さずに逝ってしまったことが、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」 という感覚を抱くようになった契機になっているのだろう。

*       *       *

自分の世界が拡がることは、価値の相対化を生み出す。 今やレヴィナスを、ホワイトヘッドを尊重する人間も、ヘルダーリンを尊重する人間も、カラマーゾフの兄弟を尊重する人間も、周囲にはいない。 自分が「永遠性」に値すると考えているものも、所詮は相対的なものに過ぎない。 それは事実として認めるに吝かではないが、しかし、では生の価値は、何に見出せば良いのか。それとも、随分と希薄になったとはいえ、まだ執拗に残っている厄介な観念的な性向の残滓として、こうした問い自体を消去するようにすべきなのか。

哲学は不毛だと感じられる。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、その理由は全く誤っていないと感じられる。 モードとしての哲学、生活する手段としての哲学を私は見てきた。 私のかつての研究分野の脇で、モードとしての哲学が(正当にも)断罪されるのを見たし、ゴーレムXIVの哲学者への軽蔑もまた、正当であると感じられる。 人工知能への通路が、人間の営みの有限性に最も強く拘束された不毛な方法論を持つ現象学であったことは皮肉だ。 それにしても、この点については、私は哲学を断念するという行為を延々続けていくようにも感じられる。

時間がない、限られている。 にも関わらず何という関心の拡散。飽き易い、というのは何かを成し遂げる為には致命的な欠陥だ。 変な言い方だが、オブセッションに頼るほかない。それが病的なものであるかどうかなど分析しても始まらない。 とにかく自分のオブセッションに従うしかない。自分の中の他者の声。ジェインズの二院制の心。 それは(日常的な性質なものであっても)窮地に陥った時に聞こえているあの「声」と同じものなのだろうか? 超自我やエスといった精神分析的概念もジェインズの二院制の心と同じものを探っているのだろうか? 内なる「神」との対話、内なる「神」からの語りかけも、自分(要するに私=意識)を背後から動かす力もまだ健在なようだ。 オブセッションもまた。

多分器用過ぎて、かつ飽きっぽくて同じことを愚直に続けることができないのだ。 適応過剰でそれなりに状況にあわせてこなしていけるけど、その結果は純粋な消耗で、何かかたちあるものは残せない。 そのくせ自己批判ばかりは一人前で、気分が弱っているときには過去の自分のしたことに自信が持てなくなり、破棄してしまう。 あとで破棄したことを後悔するということの繰り返し。 そうやって時間を浪費していって、結局何も残さずに終わるのだろうか?

死を、有限性を怖れているのではなく、寧ろ、己の生が充実して意味のあるものでないことに対する絶望。 何も成し遂げずに無になることへの絶望だ。 その一方で、意味あるものでなければ、無に帰してもよい、寧ろ無に帰するべきだという考え。 神の衣は永遠性を獲得すべきだが、それを織れないなら、痕跡も何もなく、無に帰したほうが良い。 有限性の意識とは、無意識に無頓着にやっていても、何事か成し遂げうるだろう、という楽観の否定だ。 実際には、自分はそんなに大層な能力はなく、せいぜい、何をするか良く考えて、寄り道を避けなければ何も成し遂げられないだろう。 あるいは、それでも足りないかもしれないのだ、ということに突然気がつくことだ。

そこで、かつてはあんなに拘ったハエッケイタス、ジャンケレヴィッチの事実性は、ほとんど何の慰めにもならない。 かつて拾い読みしかしなかったときにはそれなりに価値をおいていたものが、ようやく通読できたときには慰めにならないというのは皮肉なことだが。 単なる事実性では、(傲慢なことにも)不足なのだ。 単なる事実性が永遠なのは寧ろ困る。 無価値なものまで、それが存在したという事実性が存続するから。無価値なら、事実性は不要。 価値があれば事実性では不足なのではないか。 そう、「実存もせず、実質もないものの永遠を拒否する」側に私はいるのだ。 「どのような生涯を生きてきたかとは無関係」な価値など、私に言わせれば価値ではない。 事実性を重視するのはレトリックでなければ、哲学者のおめでたさがなせるわざではないのか。

*       *       *

自分の能力を測ることの困難さについて。 生活の糧を得るための仕事は自分にとってなんであるか? それ以外のものに、それに勝る価値が見出せないのであれば、結局文句を言うべきではないのか。 このような仕事に、最終的な価値など認めることはできない。ある人は、それを己の成果として誇りもするだろうが、私は最終的な署名は拒絶するだろう。 それが自分の成果であるのは、糧を得るためのCVの裡でしかない。 それが自分なら、それしか自分の遺物がないのなら、私は何も遺さずに、忘れ去られてしまってよい。そんなものに意味はない。 少なくとも、この数年で、この世界がどんなに不完全で、理想というのがどんなに視点依存のもので相対的なものであるか、よくわかった。 そして別に私の周りだけがそうなのではない。 いつもいつも、世界とはこういうものなのだ。 マーラーですらそうだった。 彼の成し遂げたことの価値の大きさたるや、全く明らかなことであるように思われるにも関わらず。 彼がウィーン宮廷歌劇場監督を辞任するときに残したメッセージがどのような目にあったか。

人間の不完全さに対する苛立ち。 大人の世界は、かつて子供の自分にそうと半ば信じ込まされていたようには完全ではなかった。 寧ろ絶望的なほどに不完全なのだ。 人間たちが集まって何かをする、たとえば企業というのはなんと不可思議な組織か。 この数年で見たことは、この絶望に、そして絶望しながらも逃れ得ない現実として受け入れざるを得ないという諦念に繋がっている。 (子供の頃の、集団に対する反応。学級委員の思い出。 だが、別に大人の世界が、子供の世界以上に立派であることは、ついになかった。 レベルは変わらない。かつても今も、結局同じではないか。)

しかし、自分の能力もまた、大したものではなさそうだ、という予感。 もうここまで来てしまった。何も成し遂げずに来てしまったということへの焦燥。 きちんとした訓練すらしてこなかったが故に、これから何をしようとしても、成し遂げるのはもはや絶望的ではないのか? わからない。我儘になるべきなのか?

かつては私は人間を基本的に信頼しようとしていた。人間の世界は基本的に「良い」ものであると思おうとしていた。 その思い込みがどんなに観念的なものであったとしても。 でも実際には、人間はどうやらそんなに立派な存在ではないようだ。 ここ数年で、いやというほどそれを思い知らされた。 ある価値の尺度からしたら、私が未だに抱えている価値観など笑止の沙汰であろう。 「誰が私をここに連れてきたのだ」というマーラーの言葉は、比較するのも馬鹿馬鹿しいほど卑小な私のものでもある。 私がまだ捨てきれずにいる価値観は、今や場違いなものなのだろう。 物差し自体が限りなくあって、己の物差しの優位性を暢気に信じることはできない。 物差し自体が、或る種のミームとして生存競争を繰り広げていると考えるべきなのだ。 要するに、自分が正しいと思ったもの、自分にとってかけがえのないものは、 他者にとってはそうではなく、そしてそれに腹を立てるのは筋違いで不当なことですらあるのだ。 (ところで、レヴィナスの言う他者は、まさにそうしたものであるはずではなかったのか。)

まあ、簡単に言って、誰しも自分に一分でも理があると思っていなければ、到底生き抜くことはできないだろう。 だからといって、自分の物差しの優位を声高に主張することに何の意味があるだろうか? 混乱した論旨もそっちのけで、他人の論を曲解して批判し、それを踏み台にして自分の論の独創性を叫ぶことに、何の意味があるだろう。 でも多分そちらの方が正しい。 ミームの競争であれば、「声が大きい者が勝つ」のだ。 彼らは勿論、自分の物差しが正しいと思っている。 相対性を感じ、自分の物差しの正当性を懐疑したりはしない。 そんなことをするのは、彼等の物差しからすれば、間違いなのだ。 おまけにこうしたことは別に特別に例外的な光景でもなんでもない。 実にありふれた日常的な風景なのだ。

価値は多様であり、誰からも批判されない人間はいない。 マーラーでさえ。ヴェーベルンでさえ。 あるいは、ある価値にのっとってではなく、批判のための批判だってありうる。だから、他人の評価を気にするべきではない。マルクス・アウレリウス?ストア派か?

苦い認識の記述。 愚行の記録。 漠然とした運命への、だけでなく、「人間」に対する。 他者は暴力を与えるものかも知れない。 それを前提しない倫理は「ほとんど」無力だ。 そこにいる弱者を救うことは出来ない。 どこかにある高貴さは、そこにはないかも知れない。 けれども「私のモラル」は残る。愚かさを愚かさと呼び、不完全であるという認識は、ある価値に基づく。 つまり、進化論と唯物論に包囲されても尚、何か、それに抗するものを持ち続けたいのだ。 それ自体がナンセンスに思えようとも、人間の認識の限界を超えられなくても。

才能がある人間なら、唐の詩人のようにそれを嘆く詩を詠み、あるいはショスタコーヴィチのように引き出しの中の作品で憂さ晴らしをすることができただろう。 才能のある人間は、それを嘆く「権利」があるのだ。 ヴェーベルンの嘆きと憤りは、その才能によって正当化される。 マーラーがあちらこちらの歌劇場で成し遂げたことは、彼の能力と、成果によって、十二分に正当化される。 でも、それがない人間は? 自分に対する自信のなさ、自分のした事の価値に対する懐疑というのは、結局才能の欠如の表れではないだろうか? 相対主義は何かを為そうとするにあたっては危険だ。 自分のやることの価値を始めから切り下げてしまい、成し遂げることへの執着を喪わせてしまう。 何かをするには、愚かである必要がある。少なくとも価値についてその場のみであっても<括弧入れ>判断停止が起こる 必要がある。自己批判からは何も生じない。自己への傲慢までの自信が必要なのだ。

何故分業が嫌いなのか? それが進化論的に「正しい」から。 「個」の「私」の地位が危ういから。

けれども、嫌であっても、それは正しく、有効であって、天才ならぬ個に抵抗の術はない。 アドルノの主観―客観図式にはもう関心があまりない。「自然」の優位、圧倒的な優位からくるニヒリズムが問題なのだ。

あまりの自己過信、選択の誤り? 否、選択は誤っていない。もし誤りがあれば、もっと前、自分が世界と拮抗しうるとの思い込みと、 諦念との間の振幅のうちにあった。いずれにしても途はなく、もっと愚直であるべきだった。 どちらにしても、傲慢であったのだ。 頭で決め付けたことには変わりはない。 気付いてみれば、神の衣を織る術はない。 自分が「何によって」「いかにして」神の衣を織れるのかわからない。

*       *       *

祝福と呪い、ではない。どちらも無意味であることこそ、耐え難いことなのだ。 寧ろ一貫性の方が稀である。不器用、奇人とみられたかも知れない一貫性によって、生き延びたのかも知れない。 大抵の営みには一貫性などない。

我が王国はこの世のものならず。 自分の中にあるものを破壊すべきではない。 折り合いをつけるという点では、自分の中にあるものも、例外ではない。

奇妙なあり方、呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか? けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。

思いのほか変わらない、という見方もある。 かつてだってそうだった、、、孤立、外から来る知らせ、、、

自分の内側に何もない、遺すべきものはない、と感じられれば為すべきことはない。 もし、何かを表出する、刻みつける衝動を感じたら、それに素直に従うことだ、その価値を云々しても仕方ない。

そして、やすやすと成し遂げることができる人たちへの羨望。 自分の状況への苛立ち。仮に自分に能力がなく、我儘が単なる我儘であったとしたら、そのときは? 一体、何のために生きるのか?神の衣は?私には手が届かないのか?

自分の作品が匿名であることを望むことができる高貴さ、強靭さへの驚き。 何ということだろう。 確かに、自分にも、無に帰するという認識はある。 それは己の痕跡を消し去りたいという欲求と結びつく。 だが、それは何も遺さないということで、遺したものが無名のものになって欲しいというのとは同じでない。 何という寛容さだろう。 私は、そうであれば痕跡を、「私」のそれを残したいか、さもなくば無でありたいと願っているのに。 この件に関しては、私は寧ろ、苛立ちを感じる人間の心情の方がよくわかる。そこにある種の謙虚さのポーズを、 (無意識のものかも知れないが)欺瞞を感じ取ることだってできる。

我を離れた態度というべきか。 神の衣を織ることとは、そういうことかも知れない。 神の衣を織れぬ者は、ただ消え去るしかないのか?

ジッドの狭き門。多分読み方は異なっている。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。 「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み(これはその場を取り繕ったことばではない、と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。 書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに気づき上げた世界を崩して、その価値を自明のものとは見做さない姿勢をとること。 アリサがパスカルの偉大さに対して感じる苛立ちが、今の私には我がことのように思えてならない。 マーラーの音楽の偉大さは、今や私を苛立たせるのだ。

こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる。 「神ならぬ者は、、、」

多分、神の衣を探しても見つかりはしない。 それは事後的にしかわからないのだ。 手に出来るかどうかは、わからない。 どこにあるかもわからない。 それはわかっているのだが、、、

*       *       *

私は結局立ち尽くしてしまう。 何も生み出すことができない自分に愕然として。 あの「知性」とやらは、対して役に立たなかったようだ。 神の衣を織るためには用いられず、取るに足らない営みに浪費されていく。 そこで多少うまくいっても、誰かの金ぴかの自己像の補強に役立つのが関の山のようだ。 またしても「私の生涯は紙くず同然だった。それは盗まれていた」というマーラーの抗議が身近に響く。 勿論彼のようにそれを言う権利は私にはないのだが。

一体、生きていることに何の意味があるのか? 彼らのとの価値観の競争など、私はしたくない。 邪魔をしてくれなければそれでいい。 目障りだから、どこか他所で自分の好きなようにやってくれれば最も良い。 でも、私自身には一体何の価値がある? 私の価値観には一体どういう意義があるのだ? 何かを生み出すことの無い人間が読んだ本、聴いた音楽は、どんなに立派な反応をその個体の内部でしていたと言い張ろうと、 その個体が消滅すれば、何の痕跡も無く消えてしまう。本をそろえ、CDを集めることになど意味は無い。 何が残せるかがすべてなのだ。 復讐のためにも、何かを残すことが必要だ。

だが今や己の歌の円熟に如何程の意味があるのか? 「歌」の領分はいよいよ狭まり、そして「歌」の価値を最早自らが信じられないでいる。 遺された本、楽譜が一体何を意味するか? それはとても不完全な仕方で、とても間接的に、ある人間の生を、その主観の眺めた星座を描き出す。 そこにはほとんど事実性以上の意味などありはしない。 そして事実性はジャンケレヴィッチがそう思ったほどには価値のあるものではない。 もしそうであれば、それはボルヘスの「記憶の人フネス」の認識したような世界の裡でであろう。 だが、そのようなことは現実にはない。 自分で抽象すること、自分で語ることが必要なのだろう。その抽象が個性なのだ。事実性は個性を救えない。事実性はすべてを平等に救うかに見えて、 まさにそれゆえに、何も救い出さない。ジャンケレヴィッチは間違っている。そして、自分のやっていることだって、事実性にすべてを委ねることからは程遠い。 あの際限の無いおしゃべり。物事を整理し、論理を通すことを蔑むペダントリー。折角の思惟を台無しにしてしまう。 それでいて、モラルについて諄々と説くわけだ、、、

まだ、諦められない。 そうして私は、神に問いかける。 問いかけることをやめることは少なくともまだできそうにない。 私は神に祈らずにいられない。 私を導き、何かを生み出す力を、あなたの衣を織ることに寄与することをお許しください。 私の生を不滅性に寄与することのできる、意義あるものにしてください。

私はまだ諦めることができないのだ。 歳をとり体力も気力も衰え、ますます時間の余裕はなくなり、不毛な時間の経過が早くなっていて、 絶望的になったりすることはあっても、完全に諦めることはできない。

(2002執筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)


身辺雑記 序

Nel mezzo del cammin di nostra vita
Mi ritrovai per una selva oscura,
Ché la diritta via era smarrita.

人生の半ば、私は暗い森のただなかにいた。
 有徳の正道は、もはや見失われて。(ダンテ「神曲」)

まさにそのような感覚を持つ。多分それは普遍的な感覚なのだ。生きる力と衰えの均衡点に居ることの齎す停滞感なのではないか。

人生の半ばを過ぎたことは確かだ。書き留めておくべきであったかも知れないが、今から1,2年程前のある時期に、はっきりとそのような感覚を持った。 そして、自分には何も残すものはなさそうであること、未だ神の衣を織ることあたわず、夢のまま終わるのかもしれないという漠とした感覚。 実際には、そうあっさりと思い切れるものでもない。だってまだ半分残っているのだから。 けれども、それが「どこ」にあるのか、わからなくなっている。

それと前後して、ある種の整理をする欲求。けれども、それは既になにものかを成し遂げた人間の、あの転回ではない。 そうではなくて、寧ろ、これまでの自分の跡を消し去りたいという欲求に近い。 かつてそうした欲求をある友人が語ったとき、自分はそれとは正反対のこと、永遠性を希求していた。 (事実は逆でそういう私の希求に対する異論として、友人はそう語ったのだ。) それは私の前半生のオブセッションであったと言ってよい。 整理をする欲求の一部は、自分が出会った価値あるものをきちんと確認しておきたいというそれに違いない。 大量に本とCDを処分したのも半分はそのためだ。 ことにCDは結果的に、多分この数十年で初めて一旦100枚を切るか切らないかまで減らしてしまった。 勿論、かつてはこの上なく重要であったのに、処分されてしまったものも多くある。 棚卸をして再吟味の末、否定したものも多い。

けれども自分はそれらに及ぶべくも無い、自分には何も無い。 或る日、それに近いことを突然感じた。

けれどもその時には寧ろ、そうした価値ある営みも含めて、結局永遠性というのは観念のうちにしかない、という感覚に支配されていたのだった。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、 その時には寧ろ過剰な自信に支えられていた筈のその理由は、今もそのまま、ただし別のニュアンスで有効であり続けている。 「どんなに立派であっても」「ましてや私は」なのだ。それは寧ろ人間の営み「一般」に対する絶望に由来していた。 知性という点では、そもそも人間を絶対視するという事に対する懐疑がある。 これはAIを齧った人間にとっては当然だ。 例えばレムのゴーレムXIVの展望は違和感の無いものだ。 人間はあまりに不完全なのだ。(そしてこれはクセナキスの展望とも一致する。だがマーラーもまた、ゲーテを通じて、もしかしたらゲーテ=ニーチェの 奇妙な混交を通じて、そこからの脱出を希求するという仕方で認識してはいなかったか?ファウストはある仕方で超人ではないのか?)

(2002執筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)