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2022年5月16日月曜日

デイヴィッド・コープのEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣についての覚え書(2022.5.16更新)

 2019年7月刊行ということなので、もう2年半も前のことだが、 EMI(Experiments in Musical Intelligence)システムという自動作曲のコンピュータ・プログラムの開発者であるデイヴィッド・コープの著書Computer Models of Musical Creativity(音楽的創造性のコンピュータモデル)の邦訳が出版されていることに最近気づいて、慌てて取り寄せてざっと一読したのは既に1ヵ月程前のことになる。その全体を紹介するだけの余裕はそもそもなく、仮に出来たにせよこのブログはそれに相応しい場ではなかろうが、MIDIデータを用いたマーラー作品の分析を少しずつ進め、その結果を公開したり、第10交響曲の補筆完成に関連して人工知能に言及してきたこともあって、上掲書についてもマーラーとの関わりに限って今までに知りえたことについての紹介をしておきたい。

 邦題は『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』(音楽之友社)で、原著の題名は邦訳では副題の方で言及されていることになる。自動作曲は、人工知能の研究が始まったばかりの頃以来の研究テーマであり、人工知能で用いられる手法もルール・ベースのアプローチから、蓄積された事例に基づくデータ駆動型プログラム、生物の進化における選択・淘汰のモデルのアナロジーに基づく遺伝的アルゴリズム、ニューラルネット、更にはファジー論理のような確率モデル、力学系に基づくシステムに至るまで様々であるから、自動作曲を行うコンピュータ・プログラム=人工知能と考えれば、邦題は非の打ちどころなく正当なものだということになろうが、深層学習がもたらしたブレイクスルーによって到来した今日の何度目かの人工知能ブームにおいて流布しているイメージからすれば、ミス・リーディングとまでは言わないまでも、マーケットを意識したキャッチ―な題名のように感じられる。

 ただしこの印象は、私がかつての人工知能、ブルックスによってGOFAI(Good Old-Fashoned AI)と呼ばれた記号処理ベースの人工知能システムに、産業応用を生業とするエンジニアとして多少なりとも関わったことがあって、その時に人工知能研究に対して抱いた違和感に似た感覚を、今頃になって感じることになったという個人的な事情による部分が大きいように感じる。それにしてもブルックスがサブサンプション・アーキテクチャをもって記号処理ベースのAIに異議申し立てを行ってからでさえ既に四半世紀が過ぎようとしており、その間にそれまではタブーとされた意識や心について論じることが当たり前になっていることを思えば、ここでのコープの立場は情報工学的研究としては申し分ないかもしれなくとも、些か保守的であるという印象を拭い難い。注意深く選択されたコープによる創造性の定義は或る意味では非の打ちどころがないが、チェスのようなゲームを例として説明される創造性が、音響のパターンの組み合わせ方の選択という、多くの場合、必要条件ではあることは認められるかもしれなくても十分条件であるかどうかは極めて疑わしい側面に「音楽」を還元してしまっていることがもたらすであろう帰結についてコープは無頓着に見える。彼によれば創造性には意識は勿論、知性も不要だし、生命すら不要であるというのだが、それは検証可能な仮説というよりは、寧ろ信念に近いものに感じられる。結果としてコープがやっていることは、創造性を自分の信念によって定義して、その定義に沿った出力を計算するシステムを開発し、動作させた結果をもともとの信念による定義に照らして創造的であると言い募ることとの区別が限りなく曖昧になってしまっているように感じられてならない。コープはコンピュータが生成した作品を人は真っ当に聴こうとさえしないと不満を募らせるが、そうした態度を招来する原因の一端は明らかに、特定の作曲家の様式の模倣を行うという彼が自ら選んだやり方に起因している筈である。コープは模倣の元となった作品と生成された作品を比較すれば、生成された作品のオリジナリティがわかるという言い方をするが、端的に言って、そういう比較を聴取に持ち込むこと自体が対象を「音楽」として受容することと相容れないことにコープは気が付いていないようだ。

 だがそうしたコープの見解について検討を行い、きちんとした批判を行う作業を行うだけの余裕が今はないので将来の課題とせざるを得ず、そのかわりにここでは端的に、コープが開発したEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣について、後日の検討のための覚えを記しておくことにしたい。非常に肌理の粗い言い方になるのを承知の上で敢えて言えば、コープのような立場は、或る様式に従った音響パターンとしての作品の職人芸的な生産という音楽制作の或る局面においては一定の有効性を持つだろうが、それはマーラーの作品が位置づけられる局面とは最も疎遠であると私は以前より考えてきたし、今でもそう考えている。であるが故に、コープがよりによってマーラーを様式模倣の対象として選択したことに酷く驚き、『人工知能が音楽を創る』に付録Aとして付されたEMIによる作品リストに含まれる様式模倣の作曲家の中で、マーラーが特別な地位を占めていることに当惑し、その理由を突き止めようという衝動を覚えたのであった。以下は将来その作業に着手するための備忘として書き留めておくものである。

 『人工知能が音楽を創る』の中で最初にマーラーが取り上げられるのは、第5章、コープが創造性の一翼を担っていると考えている「引喩」についてのところである。最初に「フレームワーク」の節で第4交響曲第1楽章の冒頭主題の上部構造としてヘンデルのメサイア中の或る旋律を指摘するレオナルド・マイヤーの見解が参照され、続いて第9交響曲第4楽章の序奏部分の音型、ドレスデン・アーメンの例としての第1交響曲第4楽章の一部、第5交響曲第1楽章冒頭のファンファーレ、「子供の死の歌」第2曲のトリスタン音型が参照される。マーラーの音楽に様々な先行作品の「引用」を指摘すること自体は寧ろありふれたことであるから、ここでマーラーがサンプルとして取り上げられること自体に不思議はない。一方で、コープの定義する創造性の観点からすると、ここで「引喩」と呼ばれているものが或る既存の特徴的な音響パターンの再利用以上のものであるかどうかは自明ではないだろう。コープは最後の「子供の死の歌」第2曲の引用に関して、よりによって(と私には思えるのだが)マーラーの伝記的事実を参照してみせるが、それがコンピュータの創造性の探求という文脈においてどう正当化されるのかについては些かも明らかには見受けられない。繰り返しになるが、何しろコープによれば創造性には生命は不要なものなのだから、子供の死など関係がない筈だし、ましてや作曲者の娘の死が作曲者に与えた影響を論じることが創造性の構成要素としての「引喩」に関わる筈がないではないか。そのレッテルの正当性についての議論を一先ず措けば、或る種の誤解に基づくにせよ「自伝的作品」といったような規定が為される類の音楽は、コープの定義する創造性からすれば最も縁遠いものの筈である。

 だがコープのEMIによる模倣においてマーラーが単なるサンプルに留まらない或る種特別な地位を占めていることが、最終章である12章「美学」に至って明らかになる。この章の冒頭では、コンピュータが作曲したという知識が聴衆の作品の受容の態度を予め規定してしまい、まともに評価されないのはどうしてかについての検討が行われる。そこで例として取り上げられるのがEMIによるマーラーをタイトルロールに持つ「オペラ」の自動作曲なのだ。そしてそれが美学的インタラクションとどう関係するかは措いて、コープはオペラ「マーラー」についての説明を(コープ自身の並々ならぬ思い入れも含めて)延々と行い、その中のアリアの1曲についてはヴォーカルスコアではあるが、まるまる1曲全体の譜面を提示しさえするのである。ここでのコープの議論の進め方について気になる点を書き出し始めればきりがないことになるので、ここでは控えることにするが、例えば、

「(…)オリジナル曲とオペラ中のパッセージとを比べると、後者は引用というよりは言い換えに近い。私は通常このような模倣は好まないが、マーラー自身は好んで自作を引用したから、ここでは気にしないことにする。」(邦訳 p.366)

という一節を取り上げると、「引用というよりは言い換えに近い」模倣が、マーラー自身の(言い換えならぬ)自己引用によってどうして正当化されるのか、読み手は途方に暮れることになる。これだけなら単なる揚げ足取りの類と見做されてしまうかも知れないが、少なくとも私には、コープのようなアプローチを採ることと、その素材としてバロックや古典期のような一定の様式に基づく作品が職人芸によって量産された時代の作品ではなく、よりによってマーラーの作品を取り上げることの間には乗り越え難いギャップがあるように感じられる。

 これも皮相な一例に過ぎないかも知れないが、歌劇場監督、オペラ指揮者としてあれほど優秀であったマーラーが、最初期の学生時代の試みと、ヴェーバーのオペラの補筆を除けばオペラの作曲を手掛けることが決してなかったことは良く知られているし、そのことの理由についても繰り返し考察されてきた事柄であり、コープ自身「彼自身オペラを作曲することはなかった」(p.365)と認めながら、そうしたマーラー本人をタイトルロールとしたオペラを、「自分自身の特別な好み」(ibid.)に基づき、「自分が聴きたかった」(ibid.)から作ろうと思いつくこと自体私には理解し難い。百歩譲って或る種のアイロニーとしてとか、或いは返す刀でオペラのコンセプト自体も脱構築する(これも前世紀ならともかく、21世紀の今日では今更な感じが否めないが)とかいう観点でもあれば別だが、何より決定的なのはそうしたオペラをよりによってマーラーの書法の模倣によって作ろうというのだから最早返す言葉がない。序でだからもう一言だけ言えば、これも物議を醸す材料に事欠かないマーラーにおける音楽とテキストの関係を知っている者は、コープが、

「コンピュータの作曲した曲に歌詞をつけるのは、興味ある挑戦である」(p.366)

と事も無げに言い出すのを目の当たりにしてあっけに取られてしまうだろう。

 実はオペラ《マーラー》の存在自体については、楽譜が売られているのを見かけたことがあるので知っていたのだが、それがマーラーの様式模倣を行う自動作曲システムによる作品だということに気付かず、ここで初めて知って大変に驚いたのだった。かてて加えて既に触れたように付録としてつけられたEMIによる作曲リスト(pp.399-400)を確認する限り、マーラー作品の模倣は10作品にも及び、作品数だけとればバッハやモーツァルトを上回って最多であることがわかって更に困惑は深まるばかりとなる。

David Cope の歌劇「マーラー」のヴォーカルスコア

 既述の通りコープの主張には理解に苦しむ点が多々あるが、それについて理路を整えて批判する作業は後日を期することとして、ここでは(或る意味ではコープがそう望んでいる通り)、コープの語っていることではなく、自動作曲の出力そのものを聴取した印象を、しかもマーラーの作品の模倣、およびそれとの対比の目的で聴いたモーツァルトの作品の模倣に限って書き留めておくことにしたい。(実は個人的には模倣作品のリスト中にペルゴレージの名前があれば、多少はコープのことを見直したに違いないのだが、生憎ペルゴレージはコープの関心の対象外なようだ。大量の偽作やストラヴィンスキーの「プルチネッラ」のような事例を考えれば寧ろペルゴレージこそ格好の「ネタ」に違いないのにどうして?という気がするが、コープにとってはこういう事情は恐らく関心の外なのだと思う他ない。)

 Amazonで確認した限り、本稿執筆時点でそのうちの7曲の楽譜が入手可能であることが確認できた。更には邦訳書の冒頭に記載の通り、著者のWebページおよびyoutubeの著者のアカウントでは、自動作曲システムを用いて生成した「マーラーもどき」の作品の幾つかを(全て断片ではあるが)聴くことができる。

 参考までに、以下に『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』の付録Aに記載されているマーラーの作品の模倣による作品を、2022年4月の本稿執筆時点で日本のAmazonで楽譜が入手できるかどうかの対応つきで一覧しておくことにしよう。以下で(*)が付されている作品は楽譜の入手が可能なようである。

  • アダージョ  Adagio, 弦楽オーケストラ, 8分
  • 4つの歌  Four Songs, ソプラノ、アンサンブル, 28分 (*ピアノ伴奏版および室内アンサンブル版)
  • 生と死の歌  Lieder von Leben und Tod , 独唱(複数)、オーケストラ, 25分 (*ヴォーカルスコア)
  • オペラ《マーラー》Mahler (opera), 独唱(複数)、合唱、オーケストラ, 4時間 (*ヴォーカル・スコアおよび3分冊のフルスコア)
  • オペラ《マーラー》(短縮版)Mahler (opera)(short version), 独唱(複数)、合唱、オーケストラ, 2時間
  • 歌の交響曲 A Symphony of Songs, オーケストラ, 30分 (*)
  • 管楽器のための組曲 Suite for Winds, 管楽8重奏, 40分30秒 (*)
  • マーラー・カンティクル Mahler Canticles, 合唱、吹奏楽, 14分 (*ヴォーカルスコアおよびフルスコア)
  • 3つの歌 3 Songs, テノール、ピアノ, 12分
  • 3つの二重唱 3 Duets, 20分, アルト、テノール、合唱、ピアノ, 20分 (*)
 ちなみにこれもまた揚げ足取りの類と見做されるかも知れないが、上記のリストを眺めて或る日ふと思ったのが、コープが作品に付したタイトルの奇妙さである。初期の破棄された試みと、初期創作の掉尾を飾り、かつマーラー自身が「作品1」と認めたカンタータ『嘆きの歌』を除けばマーラーは交響曲と歌曲しか書かなかった。確かに編曲の中にはバッハの管弦楽組曲の編曲が含まれるものの、人によっては内的な論理を見出し損ねた挙句、その交響曲を組曲・ポプリの類に過ぎないとの揶揄をすることはあれど、マーラーの創作において「組曲」というジャンルは明らかに異質なものに感じられ、自ら自発的にそうしたジャンルを題名として選択する可能性があったようには思えない。また「歌の交響曲」というのは、研究者がマーラーの作品の性格付けを行うための規定としては考えうるだろうが、個別の作品のタイトルとしては明らかに異様である。

 だが「そうした指摘は揚げ足取りで、コープがやっているのは音楽そのものの模倣であり、タイトルはその対象ではない」といった類の抗弁は、「生と死の歌」というタイトルの前で沈黙せざるを得なくなる。ご丁寧にこれだけはドイツ語のタイトルだから、他のタイトルとは異なって、ここではそれが模倣の実質的な一部を為しているのだろうと想像する人がいてもおかしくはなかろう。だがアドルノのマーラーに関するモノグラフに馴染んだ人は、直ちにその末尾の第8章「長きまなざし」(ここでは引用は法政大学出版局から1999年に刊行された龍村あや子による新しい邦訳による。以下についても同様。)の中の「大地の歌」を論じた箇所にある以下の一節を思い浮かべるに違いない。
「《大地の歌》という題名は、もしこの作品の内容がその並々ならぬ要求を正当化し、悲しみの真理によって大げささを払拭していなければ、新ドイツ派の「自然交響曲」や「生と死に関する高尚な歌曲」といった範疇との絡みが疑われるかもしれない。」(アドルノ『マーラー』, 邦訳 pp.197-8)  
 よもやこのアドルノの言葉を、マーラーが新ドイツ派的であって、そのようなタイトルの作品を書いていると述べていると受け止めたわけでもなかろうし、これはモノグラフの冒頭すぐに出てくる「マーラーの第9交響曲に書かれてしまったあの馬鹿げたほど大げさな「死が私に語りかけること」という標題は、真理の契機を歪曲するものとしては第三交響曲の「草花や動物たち」よりもたちが悪い。」(同書, 邦訳p.4)というくだりの意図を取り違えたわけではなかろうが、「歌の交響曲」同様、研究者によるマーラーの作品の性格付けとしてならともかく―実際、ドナルド・ミッチェルの3巻よりなるマーラー研究の最後の巻は "Gustav Mahler, Songs and Symphonies of Life and Death" というタイトルを持っている―「高尚な」を除けば良いというものでもなく、結局のところコープの姿勢が創作者ではなく研究者であり、これらの作品は創作であるよりも研究における模倣の実験の結果に近いことを告げているように思えてならない。繰り返しになるが、作曲家によってはタイトルへのアプローチを問題にすることに拘る必要が希薄な場合もあるだろうが、ことマーラーに関して言えば、決してそんなことはない。仮に百歩譲ってコープのタイトルの付け方がマーラー的でないこと、或いはコープのタイトルへの姿勢がマーラー的でないことを不問に付したとして、どのみちここでコープのやっていることはマーラーの「模倣」として疑問の余地があることは確実なことに思える。

 だがタイトルという「パレルゴン」についての議論はこれくらいにして、youtubeで作品の幾つかを聴いた印象に移ろう。以下に本稿執筆時点(追記をした2022年5月時点、ただし4月時点と変わりがないようだ)でyoutubeで公開されていることが確認できたコンテンツを一覧しておく。オペラ《マーラー》の一部が大半を占め、それ以外はアダージョの一部のみのようである。
  1. ・オペラ《マーラー》に関するもの
    • 間奏曲
      • David Cope Emmy Mahler (6:43):David Cope's Experiments in Musical Intelligence Program's composition, an intermezzo from the opera Mahler, in Mahler's style.
      • Mahler opera Emmy David Cope (2:59):Portion of an intermezzo from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
    • アリア
      • Mahler opera aria Emmy David Cope (2:59):Portion of an aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
      • Mahler opera Emmy aria (2:04):Portion of aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
      • Mahler Opera Emmy David Cope (1:22):Portion of another aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
      • Mahler opera fragment Emmy David Cope (6:43):Fragment of an aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
    • 二重唱
      • MAhler opera Emmy David Cope (2:07):Portion of a duet from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
    • 四重唱
    • レシタティーブ
    • 断片
    • 管楽合奏用編曲の断片
      • Mahler opera emmy frag (4:09):Fragment From the Experiments in Musical Intelligence opera Mahler arranged for wind ensemble by David Cope. 
    • ウィンド・オーケストラ版(?)
      • Mahler Emmy Opera (4:17):From Mahler's opera for Wind Orchestra by David Cope's Experiments in Musical Intelligence.
  2. アダージョに関するもの
    • Mahler Adagio Emmy David Cope (1:57):Mahler Adagio for Strings fragment by Experiments in Musical Intelligence (Emmy) programmed by David Cope.
 聞いてみてまず思ったのは、データ分析に用いたMIDIデータを素材として、Google Magentaで模倣(としての自動作曲)や記憶した系列の再生の実験をしばらくやった経験に拠れば、その生成物にとても似た感触があるということだった。EMIの出力結果だけ聞いた場合と比べて、自分が感じた違和感の在り様と在処の把握について感覚的につかむ素地を事前に持てたことだけでも、別途Google Magentaで実験をやっていて良かったと思ったのだが、その共通する印象を非常に単純化して言ってしまえば、学習のサンプルとして与えたマーラーの作品に含まれるローカルなパターンの奇妙な継ぎ接ぎで、時々、ほとんど引用紛い(というより、その箇所だけ取れば、記憶された断片が連想によって想起されたものに印象としては近いもの)になる。けれども全体としては全くマーラー的ではない、というのが率直な印象である。奇妙な継ぎ接ぎというのは、でたらめではないけれど違和感が拭えないということで、連結としては可能であってもフレーズの構造上は奇妙な脈絡(それはシェーンベルクの言う「音楽的散文」、マーラーの作品を特徴ずける不均衡なフレーズ構造とは似て否なるものである)が生成されるのだが、恐らくそのことは機械学習がミクロなパターンの組み合わせの再生はできても、巨視的な構造を扱うことが難しいという点に関係するのではないかと思われる。実はGoogle Magentaでの実験は、当初は触れ込み通りの自動作曲の試行(つまり、まさにコープのやろうとした「模倣」を自作のプログラムではなく、Google Magentaというツールを使って試みること)の筈だったのだが、実験をしているうちにやっていることの意味合いに疑問を感じるようになったために、一旦は記憶した系列の再生の実験に方針を変えたのだが、そうした試行錯誤の過程で受けた印象に類似した印象を受けたのである。従ってGoogle Magentaでの実験で感じた、やっていることの意味合いに対する疑問は、そっくりそのままコープのやっていることにも当て嵌まるのであって、或る種の既視感を感じさせる経験だった。

 別段それを誇るとかいうのではなしに、交響曲だけではなく、歌曲についても子供の頃から繰り返し聞いてきたが故に、私はマーラーの作品はほとんどすべて(完璧に暗譜しているわけではないにせよ、不完全ながら頭の中で概ね再生できる程度には)記憶しているので、ある部分のネタがどの作品なのか嫌でも気づいてしまう。これがモーツァルトとかだと、私が知らない作品、聴いたことがない作品、聴いたことを覚えていない作品もたくさんあり、かつモーツァルト自身にも他者の様式模倣のような作品が少なからずあるので、そういう意味では「らしさ」を感じる余地が相対的にはあるのだろうが、やはり「劣化した」モーツァルトにしか聞こえない。古典期の忘れられた作曲家の作品だと言われたら、そうかなと思ってしまう程度の出来のものはあるように思うが。だがマーラーに関してはそうではない。そもそもマーラーは自己引用はしても様式的な自己模倣というのとは最も縁遠い作曲家で、言ってみればどの曲も他の曲と似ておらず、それぞれが特殊なものなのだ。だからコープがやっているようなアプローチはそもそもマーラー的ではない。時折、ある交響曲が先行する交響曲の二番煎じであるという批判があるにしても、それはよりマクロな構想に関して言われるのであって、個別の楽曲の様式の水準においては既成の自分の作品に似た作品というのをマーラー自身が決して書かないので、ここで行われているような模倣そのものが、そもそも着想の時点で非マーラー的に思えてしまうということなのだと思う。(岡田暁生は『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』, 世界思想社, 2019において、AIによる自動作曲に一章(第7章 AIはモーツァルトになれるのか?)を割いて音楽学的な観点から批判をしている中で「偉大な芸術家は絶対に自分のコピーはしない―これをどれだけ強調してもしすぎではない」(p.166)と述べているが、少なくともマーラーに関しては、私はその見解に全面的に賛成である。)

 それ以外にも、恐らくコープがそれによってマーラーに似せることができる、あるいはできたと思っているに違いない特徴は、私に言わせると確かに表面的にはある作品のある部分に実際に存在するけど、だけれどもそれを使ったらマーラー的に聞こえるというと全くピント外れに思えるのだ。素人が偉そうにとは思うけど、私にはコープは、マーラーのマーラーたる所以が全く分かっていないとしか思えなかったというのが正直な印象である。

 勿論、こうした印象が私の方が間違っているせいで生じている可能性もあり、コープのマーラー作品の模倣に接した他の人の印象がないかと思って少しだけ探してみると、日本語で読めるものとしては、以下のような記事が確認できた。

森田浩之「ヒトの知能とキカイの知能」⑧ (https://www.jihyo.co.jp/topics/hitonotinoutokikainotinou8.html)

 ここで参照されている「マーラースタイル・アダージョ」は、付録Aの作品目録より判断する限り、弦楽合奏向けの8分程の長さのアダージョと思われるが、それに対応すると思われるyoutubeの2分程度の長さを持つ音源を聴く限り、上掲記事にある「交響曲第9番の第4楽章を基礎にした別の曲」ではなく第3交響曲第6楽章のアダージョに基づく模倣にしか私には聞こえない。(以下に現時点でアクセスできるyoutubeのコンテンツのURLを再掲しておく。)

Mahler Adagio Emmy David Cope (https://www.youtube.com/watch?v=oPcaGlaROjA) 

 この点について現時点で考えられる可能性としては、上掲記事が参照しているものと、現時点でyoutubeに公開されているもののいずれもが8分程ある長さの作品の一部ではあるけれども、作品中の異なった部分である可能性があるだろう。第3交響曲第6楽章と第9交響曲第4楽章のキメラと言えば人間には想像もつかないが、プログラムにとってはそうしたキメラの合成が難しくないことは、例えばホフスタッターが『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の中で紹介している(邦訳 pp.596~7)人工知能による自動作曲のごく初期の成果、即ちマックス・マシューズが作成したプログラムが「ジョニーが凱旋するとき」と「イギリス擲弾兵」を入力として出力した「作品」等によって良く知られていることであろう。せめてアダージョのスコアが入手できれば確認ができるのだが、残念ながら既述のAmazonで購入可能なスコアのリストにはアダージョは含まれないので、ここでは推測に留める他ない。

 だがその点を措けば、局所的な素材だけとれば「そのまま」だけれども、全体としては如何にもAIが生成したらしい、みすぼらしい継ぎ接ぎにしか聞こえないという点や、にも関わらず、もし知らない人が聴けば本物との区別がつかない可能性を否定しない点も含めて、上掲記事の著者と私とは概ね似たような印象を受けたものと想像される。

 なお上掲記事では第10交響曲の別バージョンを機械に作らせたらというアイデアも披露されており、この点について既に私自身、後述の通り、過去に書いてWebで公開している幾つかの記事の中で、特にスタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」(『虚数』所収)を参照にしたりしつつ何度か取り上げていることもあって、大筋において首肯できるものがある。(但し上掲記事では、「横」=メロディー、「縦」=オーケストレーションとした上で、デリック・クックによる補筆完成の経緯を踏まえた説明が為されているが、ここでオーケストレーションという言葉で包括されているものの実質は、アドルノがマーラー・モノグラフ第2版の後書きに記した通り、寧ろ和声づけおよび対位法的な補完であることを指摘しておきたい。無論のこと管弦楽法についてもマーラーの断片的な指示に基づく補完作業が行われたのは事実だが、クックの補筆の寄与の最も大きい部分は垂直方向の和声と対位法の次元の補完であり、だからこそクック版とカーペンター版やホイーラー版といった他の補筆完成版との相違が顕著になるのがその次元なのだし、他方でアドルノ他の論者が第10交響曲の補筆完成を不可能と判断した理由も、まさに垂直方向の和声と対位法の次元の補完をマーラー本人以外が行うことを越権と見做したが故の筈なのである。)

 既述の通り、実は私自身、第10交響曲の人工知能による補筆の可能性について、過去の記事において何度か触れているのだが、その度に繰り返し、その結果に対して悲観的であることを記してきたのだった。一つだけ例を挙げるならば記事「第10交響曲への言及1件(アルフ・ガブリエルソン「強烈な音楽経験による情動」)」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/07/101.html)においては以下のように記したのであった。 

(…)今日の展望からすれば、例えば第10交響曲の補筆をAIにやらせたらどうなるのか、というような問いを立てることができるだろう。かつてスタニスワフ・レムは「ビット文学の歴史」において、ドストエフスキーの翻訳をしていたコンピュータが、空き時間を使って、「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間を埋める「ありえたかも知れない」作品を産み出すといった状況を提示してみせた。加えて、カフカの「城」の未完成部分の補完には失敗したという「オチ」さえ用意しているのだが、それらに比べれば、ほぼ完成した第1楽章があって、その他の楽章も粗密はあっても水平的には最後までドラフトが遺された作品の補完作業は遥かに可能性が高そうに見えるかも知れない。おまけに今なら、クック以外にも存在し、かつますます増え続けているかに見える様々な補完のヴァリアントを機械学習の素材とできるわけである。既に機械学習技術が、バッハのコラールもどきを人間を騙せる程度にまで自動生成できるのであれば、遥かに長大で複雑な作品であっても、様々な補完作業の良いとこ取りなら技術的に不可能とは言えないだろう。完成された部分は遥かに多くても、フィナーレのコーダが全く欠落し、かつフィナーレのための試行錯誤に費やされた余りに長い時間故に、先行する3楽章との間に様式のギャップが生じてしまっているかに見えるブルックナーの第9交響曲に比べても、有利な条件は揃っていそうではないか。

 だが、現状の機械学習の能力を前提にする限り、その試みは大して興味の持てる結果をもたらさないであろうことは、予め決まっているのだ。それは、最大限に成功して、極めて巧妙な折衷に過ぎないのだ。もしかしたら、過去のマーラーの作品の側により引き摺られた結果が得られる可能性はあるだろうが、マーラーその人が切り開きつつあった「未来」の方向に踏み出した結果が得られることは、原理的に言ってあり得ない。マーラー以降の様々な傑作をサンプルとして与えたところで、それはマーラーの「ありえたかも知れない未来」とは無縁のものであり続けるのは明らかなことだ。古典派以前の、作曲家が音楽職人であり、消費財としての作品を、固定化されたパターンを再利用して、コピーするようにして生産する時代であれば事情は異なるだろうが、(今は価値の優劣は一先ず措くとして)マーラーのように一作、一作毎に発展し続けた作曲家においては最後の作品が目指していた「未来」が含み持つ、未聞の「新しさ」の理解抜きに補筆はあり得ない。そして「新しさ」と「例外」の区別は、つまるところ創造性は、少なくともシンギュラリティの手前の現時点では未だに「人間」のものであるようだ。レムの「ゴーレムXIV」におけるゴーレムやオネスト・アニーの「旅立ち」は未だ暫らく先のことだし、有性生殖と有限の寿命といった生物学的な拘束条件を持たない彼らにとっては、そもそも第10交響曲の「遠く」など全く無縁のものだろう。(…)

 だがEMIによる作品リストを眺めた時に、そういう試みがなされているかを実際にはきちんと調べたことがないことにはたと気付いて調べてみると、豈図らんや、以下のような記事に行き当たった。まずはAFPの2019年9月の記事。

AIがクラシックの巨匠と肩を並べた? マーラー未完の曲を「完成」2019年9月10日 14:34 発信地:リンツ/オーストリア(https://www.afpbb.com/articles/-/3243774)

日本語で読める記事としては、音楽之友社のサイトの類家利直さん執筆の以下の取材記事が確認できた。

メディア・アートの祭典「Ars Electronica2019」レポート:AIが学習し、再現するブルックナー、マーラー、グレン・グールドたちを観る(https://ontomo-mag.com/article/report/arselectronica2019-20191211/)

Ars Electronicaと言えば、メディアアートの世界的なイベントとして有名で、本ブログの姉妹ブログで紹介している三輪眞弘さんが2007年にデジタルミュージック部門の最高賞であるゴールデン・ニカ賞を受賞していることもあって、決して疎遠な世界ではないのだが、よりによって2年前の2019年のArs Electronicaでこのようなことが行われていたことにようやく気づき、汗顔の至りである。これもまた本来ならば気づいてすぐに紹介すべきところ、デイヴィッド・コープのマーラー作品の模倣の紹介ともども多忙に紛れて1ヵ月以上が経過してしまった。

いずれについても備忘がわりの覚え書で済ませるような内容ではなく、そもそもが上に自己引用した私の見解を検証する格好の素材なのだから、機会があればいずれ改めて取り上げたいが、現時点では調べた限り、演奏の断片的な映像を除けば、人工知能が補作した作品を聴いて確かめることはできないようでもあり、最後にArs Electronica自体の紹介ページ(英語)とブログ記事(ドイツ語)へのリンクを紹介して覚え書を一旦終えることで当座の責めを塞ぐこととしたい。

Mahler-Unfinished(https://ars.electronica.art/futurelab/de/projects-mahler-unfinished/

Mahler-Unfinished : Wenn Mensch und Maschine Musik machen

https://ars.electronica.art/aeblog/de/2019/09/02/mahler-unfinished/

[付記]本稿の内容とは直接関係ないが、『人工知能が音楽を創る』における創造性についての議論の中で非常に気になる記述があるので、備忘のためにここで指摘をしておきたい。以下に引用する記述は第2章背景の先行研究の節の冒頭の部分である。

「創造性研究の歴史はたいてい上下二院制(原文では点による強調)の精神から始まる。上下二院制の精神とは、我々の精神は2つの部屋から成るという初期ギリシア時代の概念である。一方の部屋は、ムーサの神々を通して創造の神によってもたらされる新しいひらめきを創り出す部屋と考えられた。ムーサの神々とは叙事詩のカリオペ―、歴史のクレイオ、愛詩(原文ママ)エラト、音楽と抒情詩のエウテルペ、悲劇のメルポメネ、神々への讃歌のポリヒュムニア、舞踏のテルプシコレ、喜劇のタレイア、天文のウラニアの9人の女神を指す。彼女らは超自然的イノベーションを起こし、それをもう一方の受動的な精神の部屋に注入する。面白いことに、プラトンはこの新しいひらめきを創り出す部屋を狂気の源として、つまり高度な創造性は狂気と表裏一体であると考えていた。しかしアリストテレスは、連想説(原文では点による強調)として知られるプロセスをもって上下二院制の考え方に反対した。一般に、連想説は、創造的な思考を無意識あるいは潜在意識化の連想として特徴づけるものである。アリストテレスの見方では、思考とアイデアの結びつき、イメージと経験の結びつき、原理と方式の結びつきから類推が導かれ、それがさらに創造的な思考法を生みだすとされている。」(邦訳pp.45-46)

そして連想説に関する考察の参考文献として、John S. Dency & Kathleen H. Lennon, Understanding Creativity, San Francisco, Jossey Bass, 1998のpp.15-41を示しているのだが、上記の記述は、本ブログの記事でも何度となく参照してきたジュリアン・ジェインズの<二分心>(bicameral mind:二院制の心)の仮説を想起させずにはおかない。但し、ジェインズの仮説はあくまでも近年の心理学や脳科学の知見と言語学・考古学的な傍証に基づいた、神の住まう部屋が右脳、それを受け取るのが左脳であるとするジェインズ自身の仮説であるのに対して、ここでは初期ギリシアにそういう概念があったと述べられている点が異なる。(ちなみにジェインズは、そういう概念が初期ギリシアにあったというように述べてはいない。)連想説についての文献は掲げられているが、上下二院制の精神に関する参考文献の指示はないこともあり、どこまで追跡できるかはわからないし、この点がコープの創造性についての主張と直接関係を持つわけでないが、機会があれば更に調べてみたい。

[付記その2] John S. Dency & Kathleen H. Lennon, Understanding Creativity, San Francisco, Jossey Bass, 1998を取り寄せて確認したところ、第2章 A brief history of the concept of creativityの最初の節(p.16)の見出しがずばり The Bicameral Mind であり、それがジュリアン・ジェインズの命名であること、学術的な仕方でこの見方を取り上げたのがジェインズが最初であることが明記されているのを確認できた。詳細については別途報告するが、取り急ぎ現時点で確認できたことを報告しておくことにする。

(2022.4.10暫定版公開, 4.11付記を追加, 4.13付記その2を追加, 4.24作品リストなど追加。5.9 作品のタイトルについてのコメントおよびyoutubeで聴けるサンプルの情報を追記。5.14,16 「模倣」に関する箇所に対して参照文献についての情報を付記した上で補筆)

MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 補遺(3):歌曲の分析

 Webで公開されているマーラー作品のMIDIデータを用いたデータ分析については、和音の出現頻度にフォーカスした分析を行った結果を、昨年末に記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」にて要約したが、これまでの分析は、Webからダンロードして利用可能なマーラー作品のMIDIファイルのデータのうち、「大地の歌」と第10交響曲のクック版を含む全交響曲の各楽章のデータ1種類か、分析によってはそれに一部の歌曲のデータを加えたものに限定していた。

 その理由は主として分析における技術的な問題で、元々DTMの一環として、MIDIシーケンサソフトを使って手入力されたか、MIDIキーボードを用いた演奏をMIDIファイル化したもので、ここで行われているような分析目的で作成されたわけではなく、再生して楽しむために作成されたものであるため、楽譜の情報に忠実に作成されているとは限らず(入力ミスやミスタッチもあるが、自然に聞こえることを重視した結果として、必ずしも譜面通りになっていない場合があることにも留意すべきだろう)、もっと言えば元にした楽譜のエディションも不明なので(あくまでも分析の目的に照らしてだが、)信頼できる楽譜に基づいているかどうかもわからない。結果として同一曲・同一楽章の異なるMIDIファイルから抽出した分析対象となる情報にはかなりのばらつきが生じることになり、特に各拍で鳴っている和音を抽出しようとすると、MIDIキーボードの演奏に基づくファイルのデータの場合、しばしば分析対象としての適切さについて疑念が生じるような事態に繰り返し遭遇した。そのため、分析を進める上での方針として、任意の抜き取り調査のようなものを行って、再生結果の音響としての出来は問わず、比較的楽譜に忠実に入力していると判断できる作成者を同定し、その作成者のデータで可能な限り被覆率を上げるようなMIDIファイルの選択を行った。

 ところが歌曲の場合には、被覆率が最も高いサイトの楽譜への忠実さの観点での評価が低かったため、分析対象として採用の判断を下せたファイルが少なくなってしまい、結果としてこれまでは交響曲中心の分析となってしまっていた。だが分析対象から除外したファイルについても、上記の被覆率が最も高いサイトのファイルの場合、拍の始まりがごく僅かに拍頭からずれていて、かつそのずれ方が多くの場合に概ね規則的である(従って、再生された音を人間が聴く分には、明確にずれとして認識されるわけではない)ケースが多く見られることがわかった。そこで一通りの分析を終えたこのタイミングで、そうしたファイルについてはMIDIファイルから抽出した未加工の音符の情報に対して、ずれをなくす補正を行った上で分析の対象とすることとして、歌曲のみを対象とした分析を行うことにした。今回の分析の対象となったMIDIファイルは、マーラーの歌曲のもので、かつ2つの連作歌曲集(「さすらう若者の歌」と「子供の死の歌」)およびリュッケルト歌曲集(マーラー自身による管弦楽伴奏版のない「美しさゆえに愛するなら」も含めた5曲を含むものとする)については、曲集に含まれる全ての歌が揃ってMIDI化されているもののみを対象とすることにして、単独の曲のみが偶発的にMIDI化されているものは除外した。リュッケルト歌曲集を連作歌曲集と同列に置くのには異論があるかも知れない。演奏される順序が固定されているわけではなく、従って調的な設計が明瞭というわけでもなく、また一部のみを選択して演奏することもしばしば行われていることを考えれば連作歌曲集と同じ水準に置くには無理があるが、「子供の魔法の角笛」による歌曲やそれに先行する初期の歌曲に比べたとき、そのコヒーレンスの高さは歴然としていると考えられる。他方で「子供の魔法の角笛」による歌曲は、それを歌曲集として捉えようとすると、そもそも外延に揺れがあることを無視することができない。管弦楽伴奏の有無もそうだし、何よりも独立した歌曲でありながら交響曲の一楽章でもあるという、マーラーならではのユニークな状況があって、それらを含めるかどうかについての一致した認識があるようには思えない。そこでこちらについては基本的には個々の歌曲単位で扱うこととした。「大地の歌」もまた、交響曲でありながら連作歌曲集の性格も備えているという点でマーラーならではの両義性を帯びているが、よく知られているようにマーラー自身がある段階まではピアノ伴奏版を考えていたこともあり、管弦楽伴奏の連作歌曲集と同列に置いても不自然ではないことから、交響曲の分析の対象でもあったが、ここでは歌曲として分析対象に含めることにした。

 以下に今回分析対象とする歌曲のMIDIファイルを示すとともに、取得元サイトとそのURL、更にデータの補正処理の対象となるファイルを示した。(同一のものが、ダウンロード可能なアーカイブ中にも含まれるので、そちらも参照されたい。)背景色が黄色ないし象牙色のものが今回分析の対象であり、象牙色のものはデータの補正処理を行った結果を分析の入力としたことを示している。


1.アーカイブファイルの内容

公開済アーカイブファイル gm2_lieder_A_seq.zip には以下のファイルが含まれる。
  • gm2_lieder_A_seq.csv:ファイル(=曲)単位の出現頻度集計結果(和音パターン番号順)
  • cfrq_lieder.pdf:作品毎・出現頻度順の平均累計出現頻度の集計結果(以下の2.A.1)
  • cfrq_lieder_all.pdf:MIDIファイルの異稿単位・出現頻度順の平均出現頻度の集計結果(以下の2.B.1)
  • lieder_cfrq.pdf:作品毎・和音パターン番号順の平均累計出現頻度の集計結果(以下の2.A.2)
  • lieder_cfrq_all.pdf:MIDIファイルの異稿単位・和音パターン番号順の平均出現頻度の集計結果(以下の2.B.2)
  • lieder_MidiFileName.pdf:分析対象のMIDIファイルの情報

2.集計結果概要

A.作品毎の平均累計和音出現頻度

A.1.作品毎の出現頻度順



A.2.作品毎の和音パターン番号順



B.MIDIファイルの異稿単位の累計和音出現頻度

B.1.MIDIファイルの異稿単位の出現頻度順







B.2.MIDIファイルの異稿単位の和音パターン番号順




 [ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。  

(2022.5.16公開)


MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 補遺(2):同一作品の異なるMIDIファイルの比較

 Webで公開されているマーラー作品のMIDIデータを用いたデータ分析については、和音の出現頻度にフォーカスした分析を行った結果を、昨年末に記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」にて要約したが、これまでの分析は、Webからダンロードして利用可能なマーラー作品のMIDIファイルのデータのうち、「大地の歌」と第10交響曲のクック版を含む全交響曲の各楽章のデータ1種類か、分析によってはそれに一部の歌曲のデータを加えたものに限定していた。

 その理由は主として分析における技術的な問題で、元々DTMの一環として、MIDIシーケンサソフトを使って手入力されたか、MIDIキーボードを用いた演奏をMIDIファイル化したもので、ここで行われているような分析目的で作成されたわけではなく、再生して楽しむために作成されたものであるため、楽譜の情報に忠実に作成されているとは限らず(入力ミスやミスタッチもあるが、自然に聞こえることを重視した結果として、必ずしも譜面通りになっていない場合があることにも留意すべきだろう)、もっと言えば元にした楽譜のエディションも不明なので(あくまでも分析の目的に照らしてだが、)信頼できる楽譜に基づいているかどうかもわからない。結果として同一曲・同一楽章の異なるMIDIファイルから抽出した分析対象となる情報にはかなりのばらつきが生じることになり、特に各拍で鳴っている和音を抽出しようとすると、MIDIキーボードの演奏に基づくファイルのデータの場合、しばしば分析対象としての適切さについて疑念が生じるような事態に繰り返し遭遇した。そのため、分析を進める上での方針として、任意の抜き取り調査のようなものを行って、再生結果の音響としての出来は問わず、比較的楽譜に忠実に入力していると判断できる作成者を同定し、その作成者のデータで可能な限り被覆率を上げるようなMIDIファイルの選択を行った。

 実際に集計や分析を実施して見て感じたことは、少なくともこれまでに行ってきた分析の範囲では、機能和声や対位法、楽式論などの知識を総動員して行われる楽曲分析とは異なって、音楽作品の持つ情報の中のごく限られた特徴量をテクスチュアに相当するような極めて肌理の粗いレベルで眺めているだけなので、多少の誤差は問題にならないと考えることもできそうだということであった。逆に言えば、抜き取り調査レベルのチェックで複数のファイルの中から或るファイルを選択して、そのファイルのみを対象とすることの根拠もさほど強いものではない。データ分析の対象となる他のドメインと異なり、ここで対象としているのは楽曲の構成音なので、本質的に統計的なゆらぎを持っているわけではないので、複数の版の平均をとるというやり方は馴染まないが、その一方で唯一の正解があるとするのは、それはそれで現実的ではない。典拠となる筈の楽譜についても、単純な誤植は措くとしても、単一の作品に対して様々なエディションが存在する。(であるからこそ批判校訂版全集のようなものが意味を持つことになっている訳である。)更には作品によっては初稿の初演・出版後に、作曲者自身によって行われた改訂版もある。更にマーラーの作品の場合なら、歌曲ならピアノ伴奏と管弦楽伴奏の2つの版がもともと存在している作品も少なくないし、交響曲についても作者自身によるものではないけれどもピアノ編曲版が存在する。それとは別に第10交響曲のような未完成作品の場合、補筆完成版の形態は、控え目に言っても初めからあり得たかもしれない可能性のひとつに過ぎないだろう。

 ということで最初の方針で分析対象として選択したファイルについて一通り眺めた現時点では、選択されなかった他のファイルだったらどうなのかについて確認することも一定の意味があると考え、交響曲については前回までは対象としていなかった他のMIDIファイルを対象に含めることにした。交響曲について今回対象とするMIDIファイルは、基本となる分析の単位が曲毎となることを考慮し、或る曲について全楽章のファイルが揃っているものを対象とすることにし、個別の楽章のみのMIDIファイルは対象から除外した。

 以下に今回分析対象とする作品のMIDIファイルを示すとともに、取得元サイトとそのURLを示した。(同一のものが、ダウンロード可能なアーカイブ中にも含まれるので、そちらも参照されたい。)背景色が黄色のものが今回分析の対象である。


1.アーカイブファイルの内容

公開済アーカイブファイル gm_sym_all_A_seq2.zip には以下のファイルが含まれる。
  • gm_sym_all_A_seq2.csv:ファイル(=楽章)単位の出現頻度集計結果(和音パターン番号順)
  • cfrq_sym_all.pdf:曲毎・出現頻度順の平均累計出現頻度の集計結果(以下の2.A.1)
  • cfrq_sym_all_all.pdf:MIDIファイルの異稿単位・出現頻度順の平均出現頻度の集計結果(以下の2.B.1)
  • sym_all_cfrq.pdf:曲毎・和音パターン番号順の平均累計出現頻度の集計結果(以下の2.A.2)
  • sym_all_cfrq_all.pdf:MIDIファイルの異稿単位・和音パターン番号順の平均出現頻度の集計結果(以下の2.B.2)
  • sym_all_MidiFileName.pdf:分析対象のMIDIファイルの情報

2.集計結果概要

A.曲毎の平均累計和音出現頻度

A.1.曲毎の出現頻度順



A.2.曲毎の和音パターン番号順





B.MIDIファイルの異稿単位の累計和音出現頻度

B.1.MIDIファイルの異稿単位の出現頻度順







B.2.MIDIファイルの異稿単位の和音パターン番号順





 [ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。  

(2022.5.16公開)


MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 補遺(1):未分析和音の解消(2022.5.16更新)

 Webで公開されているマーラー作品のMIDIデータを用いたデータ分析については、和音の出現頻度にフォーカスした分析を行った結果を、昨年末に記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」にて要約したが、その際に、頻度をカウントする対象とする和音の種類を直観的に頻度が高そうなもの約130パターンに限定していること、結果としてバッハから古典期にかけての作品は、あくまでも選択された作品の範囲ではあるにせよ、用意したパターンでほとんど分類可能であるのに対し、マーラーの場合はラヴェルやシュトラウス程ではなにせよ、一定量の未分類の和音が残っていること、年代区分としては、後期にいくに従い未分類の和音が増加する傾向が認められること、具体的には第4交響曲迄については99%を超える被覆率であるのが、中期作品では98%台となり、その後の作品では97%台まで低下することを述べ、未分析の和音を集計・分析対象とすることを今後の課題として挙げたが、本稿はその課題に対応した結果を報告するものである。以下に上記記事で示した前回分析における未分類の和音の出現率を集計した表を再掲する。


 対象とした作品、MIDIファイル、および分析対象となる和音の抽出方法には変更はなく、「大地の歌」およびクックによる第10交響曲の補筆完成版を含むマーラーの全交響曲の各楽章毎のMIDIデータ50ファイルについて、各小節の各拍(有効のべ拍数:86043)の位置で鳴っている和音を対象としている。実際にはここでの報告対象に加えて、手元にあるMIDIファイルのうち、個別の楽章のみしかない孤立したファイルは除き、全楽章揃っている交響曲のMIDIファイル全て(132ファイル、有効のべ拍数:238466)を対象として未分析和音を解消し、更に歌曲についても同様にして、手元にある27曲(同曲異版含め50ファイル、有効のべ拍数22455)を対象にし、未分析の和音がないことを確認しているが、ここでは和声出現頻度分析を行ったファイルに対象を限定して報告する。以下に示すように、和声出現頻度分析を行ったファイルを対象とした場合、のべ拍数にして1400程度の拍が未分析であり、それらが150程度の異なった和音パターンに分類されたことになる。

  • ファイル数:50
  • 有効のべ拍数:86043
  • 分析和音パターン(=転回形・移調形の異なりを除去)数:284
 以下の表は、分析対象のMIDIファイルおよびその取得元サイトとURLをまとめたものである。背景色が黄色のものが今回の分析対象のファイルである。(後記の公開アーカイブファイルにも同一の表が含まれるので、そちらも参照されたい。)


1.アーカイブファイルの内容

公開済アーカイブファイル gm_sym_A_seq2.zip には以下のファイルが含まれる。(2022.4.29 gm_sym_A_seq2.csvを和音パターン番号順に排列したファイルに差し替え)
  • gm_sym_A_seq2.csv:ファイル(=楽章)単位の出現頻度集計結果(和音パターン番号順)
  • cfrq_sym.pdf:曲毎・出現頻度順の累計出現頻度の集計結果(以下の2.A.1)
  • cfrq_sym_ave.pdf:曲毎・出現頻度順の平均出現頻度の集計結果(以下の2.B.1)
  • sym_cfrq.pdf:曲毎・和音パターン番号順の累計出現頻度の集計結果(以下の2.A.2)
  • sym_cfrq_ave.pdf:曲毎・和音パターン番号順の平均出現頻度の集計結果(以下の2.B.2)
  • sym_MidiFileName.pdf:分析対象のMIDIファイルの情報

2.集計結果概要

A.累計和音出現頻度

A.1.各交響曲毎の出現頻度順

(1) 交響曲全体、第1交響曲~第5交響曲


(2) 第6交響曲~第8交響曲、「大地の歌」、第9,10交響曲




A.2.和音パターン番号順


B.平均和音出現頻度

B.1.各交響曲毎の出現頻度順

(1)交響曲全体、第1交響曲~第5交響曲



(2) 第6交響曲~第8交響曲、「大地の歌」、第9,10交響曲



B.2.和音パターン番号順

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。  

(2022.4.24公開, 4.29和音パターン番号順の出現頻度表を追加、公開済アーカイブファイルgm_sym_A_seq2.zipに含まれるgm_sym_A_seq2.csvを和音パターン番号順に排列したファイルに差し替え, 5.8 前回分析における未分類の和音の出現率集計表を再掲、5.16 対象となるMIDIファイルおよびその取得元の情報をまとめた表を追加。)


2021年12月24日金曜日

MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ

和声出現頻度の分析の位置づけ

  • 音楽の構造の中でも和音の種類や変化に注目。音楽の全体を対象としていないことは前提。

  • 最初の一歩。自分が既にやったことのある方法でできる範囲で。

  • 最終的には調的な遷移の特徴を捉えたい。

  • 最初の第一歩として、簡単にできるところから…

  • 和声出現頻度:状態遷移を捨象した量だけでわかることは?


関連する話題(分析のスコープは遥かに限定的なので部分的にしか一致しないが…)


  • アドルノ他の指摘をデータから裏付けることができるか?
  • 創作時期による変化をデータ上の変化で確認できるか?
  • 発展的調性をデータから特徴づけることができるか?
  • 古典的なパラダイムからの「逸脱」がデータから読み取れるか?
  • ドミナントシステムの代替パラダイムの手がかりが具体的に得られないか?

分析内容の概要


  • 分析対象 

    • 作品間の比較:創作時期:マーラーの交響曲の区分(角笛交響曲…)

  • 他の作曲家との比較:時代区分

  • 分析単位

  • MIDIファイル毎(概ね楽章単位だが稀に作品全体や楽章の一部の場合もあり)

  • 作品単位(特徴量の平均の計算が必要:平均の仕方に選択肢あり)

  • 作品群単位(特徴量の平均の計算が必要:平均の仕方に選択肢あり)

  • 分析対象の特徴量

  • 拍毎に和音をサンプリング(小節拍頭でのサンプリングも実施)

  • 対象となる和音:単音・重音含む・全ての和音を対象としていない

  • 20種類程度の主要な和音

1:単音(mon)、3 :五度(dy:5)、5 :長二度(dy:+2)、9 :短三度(dy:-3)、17 :長三度(dy:+3)、33 :短二度(dy:-2)、65 :増四度(dy:aug4)、25 :短三和音(min3)、19 :長三和音(maj3)、77 :属七和音(dom7)、93 :属九和音(dom9)、27 :付加六(add6)、69 :イタリアの増六(aug6it)、73 :減三和音(dim3) 、273:増三和音(aug3)、51 :長七和音(maj7)、153 :トリスタン和音(tristan)、325 :フランスの増六(aug6fr)、585 :減三+減七、89 :減三+短七、275 :増三+長七、281 :短三+長七

  • 出現頻度の上位を占める和音(対象に依存)

  • 分析手法:

    • 階層クラスタ分析

    • 非階層クラスタ分析

    • 主成分分析

  • 結果の表示方法

    • 箱ひげ図

    • デンドログラム

    • 主成分平面へのプロット

    • 主成分得点・負荷量のグラフ


和声出現頻度の分析で何がわかったか?

  • 和音出現頻度という音楽学的見地からすれば粗雑な特徴量でも作品についての一定の特徴が抽出できたと考える。以下にその一部を示す。

  • 他の作曲家の作品との比較については、非階層クラスタ分析、階層クラスタ分析、主成分分析のいずれの結果においても和音の出現頻度という特徴量によってマーラーの作品を他の作曲家から独立した一つのまとまりとして分類することができた。
  • 本分析に際して事前に設定した時代区分に概ね沿った分類結果が得られたが、必ずしも完全に対応しているわけではなく、一部では揺らぎが発生している。ただし各分析間の結果での揺らぎのパターンは同一であり、矛盾は発生しておらず、分類の安定性は高いと考えられる。
  • マーラー/ロマン派/古典派の区分が明確な点は各分析の結果に共通するが、単一の成分のみだと上記の区分までは行えても、概ね世代を同じくする作曲家(ここではシベリウスとラヴェルが該当する)との区別は明瞭でなく、以下の図に示すように、縦横の軸に対応する2つの成分の組み合わせによってマーラーの他の作曲家の作品と比較した時の特徴が説明できる。(左上の緑の楕円:マーラー、中央上の青の楕円:ロマン派、右上の黄土色の楕円:古典派、下の水色の楕円:近現代) 

  • 第1の横軸の成分と第2の縦軸の成分の組み合わせでマーラーの特徴づけを試みるならば、古典派と比較した場合には横軸の第1の成分により、古典派的な機能和声によるドミナントシステムとはやや異なった調的システムの機能がより優位であり、それが付加六の優越ということに繋がっていそうである。 
  • 以下に見るように、第1の成分についてはマーラー(緑)は全てマイナスで、マーラー同様にマイナスなのは同じく左側にプロットされていたシベリウスとラヴェルであること、逆にプラス方向なのは右側にあったペルゴレージ(赤)と古典派(橙色)であり、ロマン派(青)は中央にあって、総じてプラス寄りではあるが中立的、近現代(水色)でもスクリャービンとショスタコーヴィチもロマン派同様中立的であることがわかる。 
  • 一方マーラーを特徴づけていると考えられる和音の種類を負荷によって確認すると、最も大きいのが付加六(add6)で、長七和音(maj7)、空虚五度(dy:5)が続くことがわかる。一方でペルゴレージ(赤)と古典派(橙色)を特徴づけるのは、単音(mon)は措くとして、長三和音(maj3)と長三度(dy:+3)が多く、それに続くのが短三度(dy:-3)、属七(dom7)であることがわかる。


  • 概ね世代を同じくする作曲家との区別については縦軸の成分において行え、ここでは3和音・4和音が優位なマーラーに対して、そうではない近現代の他の作曲家との区別が可能に見える。(ただし注意すべきは、上記が今回分類の対象とした和音に限定した結果であり、特に近現代の他の作曲家の作品では未分類の和音が存在する点であり、機能和声においてポピュラーな和音ではない複雑な和音を使っていることが原因である可能性があることだ。)
  •  この成分でマーラー(緑)同様にプラスの傾向を持つのは、主として古典派(黄色)であり、ロマン派(青)は傾向が内部で分裂している。逆にマーラーとは対立するマイナス方向の傾向を持つのは、ラヴェルも含めた近代のグループ(水色:ショスタコーヴィチ、スクリャービンとラヴェル)とペルゴレージ(赤)であり、シベリウス、シューマンはグルックとともに中立的であると見ることができそうである。
  • 負荷の側を見てみると、プラスの寄与が大きいのは長和音(maj3)・属七(dom7)であり古典的ドミナントシステムを示唆するが、その一方で付加六(add6)もまたここではややプラスで、その点が第1の成分との差であるとともに、全般に見た時、寧ろ単音・重音が優位か、三和音、和音が優位かという点にこの成分の大きな特徴があるように窺える。

 
  • 以上より、マーラーの特徴づけとしては、典型的に古典派的なドミナントシステムに対して付加六の使用を中心とした別のシステムが存在することを窺わせる一方で、古典的なシステムが機能しなくなったわけではなく、機能和声で用いられる三和音・四和音が依然として用いられている点では古典派と共通しており、近現代におけるような複雑な和音の割合が高くなっているわけではないということが言えるのではないか、という点が本分析の結果から導かれると考える。
  • 本分析においては優越した2つの成分によってマーラーの特徴が取り出せることが確認できたものの、それぞれの成分が持つ意味については、上述の仮説として提示しうるレベルには到達できなかったため、その点を今後の課題としたい。


  • マーラーの作品内での区分については、これまでの分析結果や諸家の分類を本に区分を設定し直したが、和声の出現頻度との関わりがないとは言えないまでもきれいな対応は得られなかった。(角笛交響曲はコヒーレントなグループを形成しているが、中期交響曲は多様性を示しており、グループを形成しているとは認めがたい。後期は中期に比べれば一定の共通性を持つが、角笛交響曲程ではない。



  • 全体としてみた場合には中期交響曲のコヒーレンスの問題は残るが、分析の一部においては時代区分に沿った分類が得られたり、時代の推移に応じた特徴の変化が読み取れる結果も得られている。



  • 上の主成分分析結果で、大まかに下側やや右寄りに比較的固まってプロットされているのが第2~第4交響曲(緑)、左下に孤立している点が第1交響曲(黄色)、左上の赤い楕円が第9、第10、「大地の歌」のグループ、右上の孤立した点が第8交響曲(紫)であり中央に広がる青色の楕円が第5~第7交響曲である。 
  • 一方、頻度の平均の仕方を変えて行った以下の主成分分析結果で確認できるのは、グループ分けとしては以下が妥当に思われるということである。


第1交響曲(右上隅)/第2,3,4交響曲(上側左寄り)/第5,7交響曲(中央やや右寄り)/第9,10交響曲(右下隅)/「大地の歌」、第6交響曲、第8交響曲(左側下寄り)
  • 上述のグループ分けは時代区分によるクラス分けと概ね一致するが、左側下寄りの「大地の歌」、第6交響曲、第8交響曲のグループはが時代区分に関しては横断的である点が最初に示した主成分分析との違いとなっている。(寧ろ、第7交響曲が例外的という見方も可能かも知れないが。)

  • 上記の主成分平面において特に縦方向の成分は、時代区分に概ね忠実であり、得点を確認すると以下のように、第5交響曲を境界として初期がプラス、後期がマイナスの傾向が明確で、一部に例外はあるがプラス・マイナスの大きさについても概ね時系列に沿ったものとなっており、マーラーの交響曲の創作時期に沿った漸進的な変化を捉えているものと言える。
  • この成分の負荷の特徴は、長・短調の三和音と付加六で正負が分かれている点であり、これを時代区分に合わせるならば、古典的な調性感が明確な作品から、調性の拡大へと向かう方向性を示す成分であるということになりそうである。



  • 上記のような分析結果から、長調・短調の対比の原理とそれとは別の原理の2つが併存・拮抗するという傾向が確認できた。

  • ここで得られたマーラーの作品創作の展開のプロセスの仮説は、第1交響曲を出発点として、一旦、角笛交響曲(第2~第4交響曲で)長・短調のコントラストの原理に基づいた後、長・短調のコントラストとは別の原理が登場して拮抗するようになった後、前者が放棄されて後者が優位に立つというものになる。だが、長・短調のコントラストの原理に替わる原理が何であるかについては、更に分析が必要であり、今後の課題としたい。




まとめと今後の課題:

  • 上記を踏まえるならば、マーラーの作品創作の展開のプロセスは、第1交響曲を出発点として、一旦、角笛交響曲(第2~第4交響曲で)長・短調のコントラストの原理に基づいた後、長・短調のコントラストとは別の原理が登場して拮抗するようになった後、前者が放棄されて後者が優位に立つというものになるだろう。

  • もともとマーラーは古典派の作品の、長調中心・ドミナント優位な原理ではなく、それとは異なる長・短調のコントラストの原理が優越している点は夙に指摘されてきたことでもあり、また聴いていても感じ取れることだが、そこから新ウィーン楽派的な無調に近接する、だが、十二音技法的のような方向性とは明確に異なる、或る、ユニークな原理が優位になっていったと考えることはさほど突飛なことではないのではなかろうか?それはマーラー独自の小説的な構造を可能にする原理であり、その後の音楽が放棄してしまった時間性を備えたものであったように思われる。

  • ところでそうした原理をより具体的な形で突き止めようとした時、今回の分析の枠組みには限界があって辿り着けない可能性がある。それは分析の対象とした和音が、実際にマーラーの作品の中で生じる全ての和音ではなく、依然として古典派的な機能和声に典型的な和音が中心となっていることに存する。一方で、本分析と並行して行った他の作曲家との比較とは異なって、特にポピュラーな20種程度の和音の頻度に限定せず、マーラーの作品における出現頻度の高い40種の和音に基づいた点では、マーラーに固有な音調を捉えうる方向性にはあったと言えるかも知れない。だかしかし、それを徹底しようとしたら、特に後期作品に出てくる和音の拾い損ないをなくし、寧ろ後期作品に出現する和音を完全に被覆するように集計を行うことが必要となるように思われる。

  • これまでの分析の記事のうち、頻度をカウントする対象とする和音の制限については、過去の記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」の中で説明しているが、たかだか直観的に頻度が高そうなもの130種類位が頻度計算の対象であり、バッハから古典期にかけての作品は、あくまでも選択された作品の範囲ではあるが用意したパターンでほとんど分類可能であるのに対し、マーラーの場合はラヴェルやシュトラウス程ではなにせよ、一定量の未分類の和音が残っていること、年代区分としては、後期にいくに従い未分類の和音が増加する傾向が認められることを述べている。

  • 結局、本分析においても、上記記事でコメントした通り、マーラーが全音階的とはいっても、和声の種類について言えば保守的でもなければ単純というわけでもなく、特に後期に顕著になっていくマーラー固有の特徴を表すものが何なのかを突きとめるには、対象とする和音の被覆率を上げることが、少なくとも必須の必要条件であることを再確認したことになりそうである。以下に今回の分析の被覆率を示すが、後期に行くほど未分類の和音数(延べ数で種類数ではない)が増え、分類進捗率が低くなっていることが確認できる。

  • 上記より今後の課題としてはまず、未分析の和音を集計・分析対象とすることが挙げられる。と同時に和音の転回の区別を意識することで、和音の持っている機能的側面を反映した分析が可能となる可能性があるため、最低限でも主三和音については転回形を区別した分析をすることが考えられる。


参考文献


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Graeme Alexander Downes, An Axial System of Tonality Applied to Progressive Tonality in the Works of Gustav Mahler and Nineteenth-Century Antecedents, 1994, University of Otago, Dunedin, New Zealand

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Bekker, Paul, Gustav Mahlers Sinfonien, Schuster & Loeffler, 1-3 Tausend, 1921

Schreiber, Wolfgang, Gustav Mahler, Rowohlt Taschenbuch, 1971

Specht, Richard, Gustav Mahler, Schuster & Loeffler, 1-4 Auflage Mit 90 Bildern, 1913

石倉小三郎,『グスターフ・マーラー』, 音楽之友社, 1952

柴田南雄『 グスタフ・マーラー:現代音楽への道』, 岩波書店, 1984


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(2021.12.24公開, 12.28追記)