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2009年5月23日土曜日

メンゲルベルクの第4交響曲演奏を聴いて

メンゲルベルクが1939年9月にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した第4交響曲の演奏の記録が残っている。フィナーレのソプラノは ジョー・ヴィンセント。当然モノラルだし、音質も細かいニュアンスを聴き取るのには些か辛いくらいのものだが、終演後の拍手も収められたコンサートの ライブ録音であり、演奏が持っていたであろう雰囲気は読み取れるように思えるし、コンサートホールの空気もまた、ある程度は感じ取ることができる。

マーラーに関する伝記的な書物を読んだことがある人なら、メンゲルベルクが生前のマーラーに如何に信頼されていたかは周知のことだろうし、没後の1920年5月には自らの コンセルトヘボウ管弦楽団指揮者就任の25周年を記念して「マーラー祭」を開催し、全管弦楽曲を次々と演奏したということもまたよく知られているだろう。 第4交響曲ということでいえば、アルマの回想録にも休憩を挟んで第4交響曲を2回演奏するコンサートを1904年10月23日に企画し、1度目はメンゲルベルクが、 2度目はマーラーがタクトをとったことを知らせる書簡が収められている。自身時代を代表する大指揮者であったマーラーを直接知る世代の指揮者としては ヴァルターやクレンペラーが有名だが、年齢的に言っても、実質においても彼らはマーラーに対して弟子とか部下といった関係にあったので、メンゲルベルクと マーラーとの関係と同列に論じることはできないだろう。(マーラーの生前に彼ら自身がマーラーの作品の演奏を活発に行ったかどうかを考えてみれば良い。) 中間的な位置にいるのがオスカー・フリートで、マーラーの生前からマーラーの作品の演奏はしていたようだし、没後になるが、マーラーのレコード録音としては 最初の録音を1924年に行っている(曲は第2交響曲。ちなみにそれに続くのが、1928年のかの有名なレーケンパーとホーレンシュタインの子供の死の歌である)。 だが書簡などを見る限り、マーラーのメンゲルベルクに対する評価は例外的なもので、フリートとマーラーとの関係もまた、メンゲルベルクとマーラーの それとは比較にならないだろう。

話を「世界初録音競争」ということにしてしまえば第4交響曲の勝者は近衛秀麿と新交響楽団 (独唱は北沢栄)だし、そもそもこのメンゲルベルクの演奏記録が世の中に出たのは戦後もかなりたってからのことなのだが、そんな比較にさしたる意味があろうはずもなく、 要するに演奏記録が残っている指揮者の中でメンゲルベルクの占める位置は例外的なのだ。寧ろ私は、マーラーがピアノ・ロールに遺した自作自演(勿論 ピアノ編曲だが)の中にも第4交響曲を締めくくる歌曲「天国の生活」が含まれ、不完全ながらもこの第4交響曲でメンゲルベルクとマーラーの揃い踏みを 1世紀後に再現することができることに些かの感慨を抱かずにはいられない。

一方、1939年にヨーロッパがどのような情勢であったかを知識としてであれ確認することは、このコンサートの記録の歴史的な位置づけを知る上で意味あることだろう。 ヒストリカルな録音ということでいけば、1938年1月16日のヴァルターとヴィーン・フィルによる第9交響曲のコンサートでの演奏の記録も有名だろうが、その日付が ヒトラーによるオーストリア併合の僅かに2ヶ月前であることを確認することもまた、意味ないことではなかろう。ヴァルターの演奏のレコード録音が送られた先も、 ヴァルターが3月13日にアンシュルスを知ったのもオランダでのことであったが、そのオランダもまた1940年には占領され、政権は亡命することを余儀なくされるのである。 ドイツではすでに1937年の12月にユダヤ人の音楽活動をドイツから排斥する法令が出されている。当然マーラーの音楽の演奏は「御法度」になっていた。 戦後メンゲルベルクはナチス協力者として指揮活動を禁止され、その禁止が解ける前の1951年3月22日に没してしまったのはあまりに有名なことだが、 オランダにおいてとはいえ、1939年の時点でマーラーの交響曲を採り上げるというのが、恐らくはぎりぎりの選択であったことは想像に難くない。 (そういえば不幸なことにコンサートの途中で起きたハプニングもろとも記録されていることで有名なシューリヒトがコンセルトへボウ管弦楽を指揮した「大地の歌」の コンサートも同じ年のこと、しかもそれは病気でキャンセルを余儀なくされたメンゲルベルクの代役として演奏会であった。)

この有名な演奏記録に関してはすでに多くのことが語られているし、私の感想を付け加えることになど意味はないだろうと思うのだが、その一方で、 この演奏記録を聴いて感じられるのは、ロマン主義的な時代がかった解釈であったり、熱っぽい思い入れであったりではなく、寧ろ緻密でかつ 包括的な形式の把握に基づく知的な側面であり、しかもそれはソナタ形式を図式的に捉えて曲に押し付けて、はみ出た部分を逸脱として 整除してしまうのではなく、寧ろこの音楽の持つ独特の形式感を巧く捉えているように感じられたことは書いておきたい。こうした把握は時代の流行の スタイルのようなものとは別の次元にあるようで、ある時代の演奏には一律欠如していて、近年の演奏には備わっているといったような議論を 受け付けないものと私には思われる。勿論、正解が一つあるというものではないだろうし、そうした「傾向」の分類をしたら別のカテゴリに入れられてしまう 2つの演奏が、それぞれ違っていながら独特の形式把握を示していて、同じカテゴリの他の演奏とは異彩を放つ、というようなことさえ起こりうるのではないか。

もう一つ、指揮者のメンゲルベルクもさることながら、1939年当時のコンセルトヘボウ管弦楽団には、恐らくマーラーを知る演奏者がまだ少なからず居たに 違いない。マーラーは上述の1904年のコンサートだけでなく、何度もアムステルダムを訪れて指揮をしている。私にはそれを調べるだけの余裕がないが、 マーラーの自作自演を創り上げた奏者がこの1939年の演奏にも恐らくは参加しているのではなかろうか。マーラー自身とメンゲルベルクによる演奏の伝統が この演奏には息づいているに違いないのだ。メンゲルベルクがマーラーを演奏している回数は1920年4月までで200回を超えたというパウル・シュテファンの 報告が遺されているが、そのすべてがコンセルトヘボウとのものではないにせよ、かなりの回数をコンセルトヘボウ管弦楽団が演奏しているのは間違いない。

そしてその伝統は今日まで引き継がれているに違いないのだが、ことマーラー演奏に関しては、ベルリン・フィルは勿論、ヴィーン・フィルですら、そうした「記憶」を保持しているとは言い難いだろう。 (そのかわりウィーンのオーケストラはマーラーの音楽の背景をなず層についての「伝統」は持ち合わせているのだろうが。)バルビローリのベルリン・フィルとの 演奏記録など、これはこれで出会いの新鮮さによるのかも知れない或る種の昂奮や緊張が感じられて素晴らしいのだが、一方で明らかに弾きなれていないが ゆえの傷も少なくない。一方、コンセルトヘボウ管弦楽団について言えば、第二次大戦の中断を無視することはできないにしても、やはり些か事情が異なって そこには或る種の伝統と呼びうるかも知れない記憶とその継承があるのではなかろうか。

それに比べれば、近年のオーケストラにとってマーラーは最早未知のレパートリーではないのだろうが、そこにはある時期までのコンセルトヘボウ管弦楽団の 演奏にははっきりと感じ取れた記憶もなければ、出会いの新鮮さもないように感じられてならない。演奏技術は上がり、録音・再生の技術も上がり、 それゆえ録音を通しても、微細なニュアンスの変化が感じ取れるようになったと言われるし、確かに微に入り細に入った解釈や演奏が繰り広げられているのだろうが、 そこには録音の限界を超えてメンゲルベルクの演奏からかくも濃厚に伝わってくる何かが欠けているように思えてならないのである。

メンゲルベルクの演奏は、一部の評者が言うような「細部の彫りの浅い」(喜多尾道冬)、あるいは「一つ一つの音のニュアンスということに関しては、 残された録音の音質の悪さを差し引いて考えても、十分な表現を行っていたとはいい難い」(渡辺裕)演奏なのだろうか。後者の論で対比される演奏の代表格は、 これまた私がよく聴くインバルの演奏なのだが、インバルとメンゲルベルクの演奏に違いがあることは勿論のこととして、その違いの内実が上記のような メンゲルベルクの演奏への評価を一方の前提とするようなものなのかについては私は留保したいように感じている。 後者の議論に沿って言えば、インバルの演奏が近年の解釈の行き方の特徴のあるものを典型的に具現しているということは認められても、 「音の表情の復権」という言葉に集約されるらしい「ポストモダン」時代の演奏が、マーラーの意図をようやく闡明しえたとする主張には何かひっかかりを 感じずにはいられないし、インバルの演奏が確かに指摘されるような特徴を備えているのは確かであるにしても、それだけではインバルの演奏が備えている 或る種の質を捉えたことにはならないように思えてならないのだ。それはインバルの演奏を批判する評言の定型である、細部のリアリティと引き換えに、 毒気のないものになっているという意見と実はあまり隔たっていないのではなかろうか。(こういうからには勿論私はインバルの演奏を、そのようなものとは聴いて いないのだが。)

マーラーの音楽にとって、いわゆるセカンダリ・パラメータと言われる次元が重要であることには異論はないのだが、にも関わらず、何か分類の軸が ずれているような、パースペクティブが歪んでいるような感覚を抑えることができない。改めてメンゲルベルクの演奏を何度か聴いてみたが、結果は寧ろそうした 違和感を強めることになったように感じている。「ポストモダン」時代の演奏の特徴として一括りにしてしまうと落ちてしまうような次元こそが、私がある演奏を 聴いて惹きつけられるポイントであるのではないかと思えてならないのだ。そもそも音色のようなパラメータを独立の次元として取り出して操作するのは、 それ自体寧ろモダニズムの伝統の流れの裡にあるのではないのか、今日の「知的」な解釈は、寧ろマーラーの音楽の巨視的な形式、その特異な 流れのプロセスに背を向けて、局所的な、そしてその限りではアピールしやすい特徴によって差別化を図るようなことになってはいないだろうか、といった 疑念を振り払うのは難しい。

そうした傾向は至って現代的なものには違いなく、そういえばどこかの複雑系の研究者が怪しげなアナロジーを振り回しながら、ケージの 音楽を称揚しつつ「ストーリーテリングからテクスチュアへ」などといったコピーを振りまいているのを見かけたりもするし、同様にケージの音楽をはじめとする論者お気に入りの 幾つかの「現代音楽」が持っているらしい時間性とやらをもって伝統的・ロマン主義的な音楽の時間性を批判するような論調も目にしたことがある。 勿論そうした論陣にとってはマーラーなど過去の遺物であって、最早賞味期限の切れた存在なのかも知れないが、生憎私は、彼らが顕揚するテクスチュアやら 根源的な音自身の本当の時間とやらよりは遙かに多くのものをマーラーの音楽から受け取っているし、始まりや終わりを否定すること(それがいとも容易いのは 判りきった話ではないか、、、)よりも、どのように始め、どのように終わるかについてのマーラーの飽くなき探求の道行の方が遙かに刺激的に感じられる。 だからというわけでもないだろうが、ある時期以降のマーラー演奏に顕著な、磨き上げられたディティールと多彩な音色としなやかな旋律を備えながら、ちっとも 音楽のプロセスが見えてこなかったり、逆にあまりに見え透いたプロセスに縮退させられているかのような方向性については、そちらはそちらでマーラーの音楽の 持つある側面だけを自分の都合の良いように利用しているだけなのでは、と思えてならないのである。そう、多分マーラーを聴くことは今日において、 レヴィナスが言うような意味合いで「アナクロニック」な営みなのではないかとさえ思えるのだ。

そもそも演奏の類型論のようなものの危うさは、テンポの変化であるとか、演奏時間の長さといった、誰にでもわかる、そして実は定量化しようと 思えば比較的容易にできるような分類軸を用いることが多く、そこに時代の様式の影響や、伝統の有無、民族性といった要因を絡めた議論になる傾向にある。 その限りでは、直感的で裏づけを欠いているかに見える印象批評も、データを駆使した分析も実はあまり変わることがない。だが、果たしてそうした次元のみで ある演奏が心に訴える所以を説明できるのだろうか、という疑念は拭い難く存在する。否、ごく単純に言って、私が感動を覚える幾つかの演奏の間には そんなに単純な共通点など見出せない。それぞれがユニークであり、異なった視点からマーラーの音楽の持つ途方もない複雑さに光を当てているように 思えるのである。

勿論、時代の一般的な傾向を論じ、社会と音楽との関係を浮び上がらせるのが音楽社会学の仕事なのだろうし、だから私がぶつぶつ言っているような 違和感を訴えるのはお門違いなのだろうとは思う。だが、もしそうだとしたら、音楽社会学とは結局音楽の何について論じていることになるのだろう、 音楽はそれ自体、或る種の素材に過ぎないのだろうか、という疑問は押さえ難いし、そうした疑問は、音楽社会学としては、それはそれでマージナルな 位置にいるのであろう、アドルノの議論に対してもふと感じる瞬間がある。その一方で、マーラーの音楽を語る適切な「言語」を用意するという観点で アドルノは大きな寄与をしていることは明らかに思えるのに対して、演奏解釈についての議論の方の寄与については、少なくとも現時点での私には 明らかではない。だが、メンゲルベルクの演奏に備わっていると思われる或る種の質、恐らくは「伝統」とか「記憶」とかに基づいているのであろうそれが、にも関わらず それらを扱うべき領域であるはずの歴史学的な、あるいは社会学的な説明には還元できないものなのではないかという感覚の方は はっきりしたものなのである。多分本当に大切なのは「伝統」やら「記憶」の内容よりも、それらを支える動きなのではないか、そしてそうした運動の伝播は 時代と場所の隔たりを超えて起きるものなのではないか。メンゲルベルクの第4交響曲の演奏記録は、そんなことを私に感じさせた。(2009.5.23/12.3)

2009年4月30日木曜日

事実はどうであったのか?―楽譜の改訂経緯について調べてみて

この半年間の身辺の環境変化の激しさのあまり、昨年末には予定していた幾つかの重要なプランが実行できなかったりして、 自分の処理能力の不足にすっかり嫌気がさしてしまい、所詮は余暇の趣味に過ぎない事柄について優先度づけを改めて行って 絞込みを行う一方で、資料やCD類の処分を行い、Webページについても今後保守ができなさそうな部分を少しずつ整理・縮小したりして いるうちに5月も間近になってしまった。何たることか、何もしないでいるうちにもう1年の3分の1は終わってしまったというのだ。

音楽関連で言えば、同時代に、身近な環境に生きる人間としてのコミットメントに自分勝手な義務感を感じている三輪眞弘さんを除けば、 後は程度の問題だという気持ちを抑えられない。CDも資料も蒐集が自己目的化することの無意味さは明らかだが、そうでなくても自分が受け取った分を 「返す」ことができないのであれば単なる消費に過ぎない。返すためにはまずは一定の蓄積が必要だろうが、返す作業自体にも時間がかかる。私の様な 能力が不足した人間に贅沢は許されない。三輪さん以外については、とにかくマーラーについては仕掛り作業の山があるのでそれを崩していくことに 専念しようというのが直近の方針である。今の私を見て、昨年の私はほくそえんでいるに違いない。何しろ、仕掛りの山を作っておけばそれが済むまでは 続けるだろうと思って、意図して仕組んだ側面もあるのだから。

というわけで、やっとできた空き時間に、まずは所蔵楽譜の整理をやろうと思い立った。所蔵楽譜などといっても大したものではなく、マーラー・ファンなら 必須アイテムであろう、マーラー協会全集版もなければ、自筆譜のファクシミリがあるわけでもない。全集補巻である「葬礼」やピアノ四重奏曲、 嘆きの歌の1880年稿、大地の歌のピアノ伴奏版やらがあるわけでもない。(2021.5.11追記:その後10年以上の長い時間をかけて、全集補巻については手元で確認できるようになった。ファクシミリについては第7交響曲のみ手元にあるが、IMSLPでpdf版が手に入るようになってきており、そもそも手元に置く必要性が薄れてきている。)音楽之友社から出ているポケットスコアのうち交響曲10曲とDoverから出ている 全集以前の版のリプリント、第10交響曲のクック版、リートと歌第1集、幾つかの交響曲のピアノ編曲、Webで入手できるIMSLPで公開されている楽譜で全てである。 だが、私程度の関わりしかマーラーに対して持っていない人間には、それらですら十分過ぎるほどであって、使いこなせているとは到底言い難い。 例えばの話、各曲の出版の経緯、改訂の経過などが頭に入っているわけではないし、ある曲について複数の版を持っている場合でも、その異同を 逐一把握できているわけではない。有名な改訂箇所の幾つかを確認するのに用いた程度で、実証性が重視される今日の学問の世界では、こんなことは 許容されるはずがない。全くもって趣味とは気楽なものだと自嘲するほかないのだ。

だがともあれ、複数の版を持っている曲についての整理をしてみようと思って始めてみると、これが思ったより遙かに厄介なのに気づいた。そもそもが楽譜の 出版についての情報が乏しく、あっても不完全なのである。初版の出版年すら資料によってまちまちで、どれが正しいのかわからない。ましてやその後の 改訂版の出版の情報を探すのはかなり骨が折れる。調べた結果は別のページに記載したのでここでは繰り返さないが、事典的な性格の資料ですら、 情報の網羅性については全くお話にならず、各作品についてのモノグラフ的な研究書で実証的なアプローチを採用しているものにあたらなければならなかった。 しかも結果は驚くべきもので、Doverの楽譜にあるソースの説明は第5交響曲までの初期の交響曲については極めて疑わしい、控え目に言っても、 出版の状況を考えればあまりに曖昧で情報としては不十分であるというのが結論である。

私見では、これは随分な状況だと言わざるを得ない。自身が時代を代表する大指揮者で、当然、初演を含む自作の指揮を何度と無く手がけた マーラーが初演後も改訂を繰り返したという話は非常に有名ではないか。死後出版の大地の歌と第9交響曲はともかく、第6交響曲の中間楽章の 順序やハンマー打ちの回数から始まって、呈示部反復の有無のような楽式論上の把握に関わる異同も含めて、おしなべて異稿の問題はマーラーに おいては主要なトピックの一つであるように見えるのに、出版譜についての情報がかくも乏しいのは或る種異様な感じがするほどである。

勿論、異稿の問題は第一義的には自筆譜の問題であり、特に初期の作品では出版前ではなく寧ろ初演前の創作プロセスにおける紆余曲折に 関心の中心があるわけで、だから出版譜の問題など副次的だという考え方もあるかも知れない。ブルックナーの場合とは異なって、マーラーは マクロな構造に関わるような改訂を初版出版後に行うことはあまりなかったから、出版譜の違いは主として器楽法上の問題になるのもまた 事実である。原典至上主義というのが現場の作業を軽視した空想の産物であるのも事実だし、マーラー自身、状況に応じて器楽法の 改変を許容していたという証言もある。だがマーラーがしばしば出版譜に書き込むことで行った改訂作業には、様々な理由の、様々なレベルの ものが含まれていたと考えるのが自然ではないか。実際に演奏してみたらうまく行かなかったので変えたというのが、作品の理念そのものの 不変性を常に前提としていたとは限らない。そもそもマーラーにとって器楽法は決して副次的なパラメータとは言えないだろうし、理念そのものが 動いていった可能性だって否定できない。否、こうした状況を把握するための基本的な情報として出版譜の状況、改訂経緯などをまず 押さえる必要があるというのは、実証主義的な発想からしたら当然のことなのではないかと思うのだが、、、

別に私は何か新規性のある説を求めているわけでもないし、そうした水準で批判を行う資格が自分にあるとも思わない。研究の最先端からすれば 周回遅れの愛好家が単純に「事実はどうであったのか」を知りたいだけなのだ。しかもことは創作のプロセスのように実証性が本質的に限界に つきあたる可能性があるような事柄ではない。 だが、私をとりまいているのは非常に乏しく、しかもそれでいてお互いに矛盾する情報なのである。もう一度、マーラー自身の作曲の経過や 改訂の経過そのものではないのだから、楽譜の出版や改訂版の出版は重要でない事柄なのだろうか。多くのマーラーについての著作や翻訳に それでも一応ついてはいる資料のうちの一項目に過ぎないのは確かだが、でもだからといってそうした書籍の校正の際にもきちんとしたチェックが 行われなくてもいいような瑣末な情報なのだろうか。私のこのWebページのような一介のアマチュアが勝手に書いている文章ではないのだ。 音楽学者、音楽評論家という肩書きの著者を持ち、正規の流通経路を辿る書籍における「事実」に関する情報なのである。

最後に何となく私が感じたことを書いておきたい。かつて日本でマーラーが社会的流行現象になった時期があり、それ以降今日に至るまで、 コンサートレパートリーとしても、CDなどの録音媒体のコンテンツとしてもマーラーは決して周縁的な存在とは言えないだろうと思う。 けれども今なお、ここではマーラーは所詮は余所者なのかも知れない、クラシック音楽の受容というのは一介の市井の愛好家の素朴な疑問すら 解消できない程度のものなのかも知れないという感覚を私は拭えない。マーラーの音楽が、マーラーの人が好きで、あるいは心からの尊敬の念を 持ってマーラーを研究したり、マーラーを論じたりしている人はこの国にどれくらいいるのかしら、という疑問が頭をもたげるのを防ぐことができない。 否、そうした人はいるけれど、それはおまえのような市井の愛好家とは関係がない、お前のような人間にはそうした情報にアクセスする資格も 価値もないのだ、ということなのか。海外の研究者のものも含めて、色々な文献をあたってみて実際には出版譜の問題というのはマーラーの場合、 少なくとも「解決済み」の問題というのは程遠いらしい、というのは感じられる。だけれどもそのことが日本国内における情報の偏在を許容する 理由にはならないだろう。再び、研究の最先端にいる人間にとっては、こうした「周回遅れ」の人間の不満などどうでもいいことなのは、自分が 職業として実務を行っている領域の事情を考えれば理解できないことはない。だが、その領域の状況と比べても、情報の流通のタイムラグや 質の落差があまりに著しいのでは、という感覚は拭えない。研究のことは良く分からないけど、少なくとも消費にかけては日本は世界的に 見ても一大消費地ではないのか。

私がそもそもWebページでマーラーの情報を取り上げるきっかけとなったのは、アドルノのマーラー論の翻訳をはじめとしたマーラーについての文章の 翻訳について疑問に思うことがあまりに多かったからだし、それが一時的なものでなく、継続、拡大することになったのは、「証言」「語録」の整理をしようと 思ったときに自分が経験した煩わしさを他の方がショートカットできたら随分と時間と労力、そして率直に言えば資料を蒐集するコストの節約に なるだろうと思ったことが大きく作用している。そして今回は出版譜の状況をちょっと調べようと思ったら、またしても、大した量でもないとはいえ、資料の中を 彷徨うことになって、こうした文章を書かずにはいられない気分になっている。要するに、マーラーについて何かちょっとしたことを知ろうとしたときに、 一体何を信じれば良いのか戸惑いを覚えることがあまりに多すぎるのだ。Web上には一体何が根拠の新説かと訝しがる他ないような疑わしい情報が あたかも「事実」であるような体裁で流布していたりもして、これらにもがっかりさせられる。もっともWeb上の情報は誰かがいつか訂正する可能性はある。 書籍は一旦流通したらそうした修正が容易に利かないので厄介なのだ。

他の作曲家の場合についてはマーラー以上に知っているとは言えないので比較することはできないし、もし同じようなことがあっても もっとそれを語るに相応しい他の方に委ねたいが、浅からぬ因縁によって、もはや支払いきれないほどのものをかつて受け取ってしまい、遺された時間を 少しでも収支の均衡に向けざるを得ない状況にあるマーラーについては、こうした気持ちをどこかに書いておかずにはいられない。たとえ自分には そうする「資格」がなくても、自分の中にとどめておくことに躊躇いを覚えるのだ。私は1世紀の時間と生きている文化的環境の違い、自分が 音楽家でも音楽学者でも音楽評論家でも、音楽を職業としている人間ではない、単なる愛好家に過ぎないという点には 頬かむりを決め込んで、マーラーに対してこう言ってみたいのである。 「あなたの作品の出版譜について疑問に思って調べてみたんですけど、事実がどうであったか、よくわからないんです。この国でもあなたに 関する本はたくさん出ていますし、情報はたくさんあるように見えるんですが、、、」かくしてさっぱり収支が改善される見通しがたたず、容赦なく 休日は過ぎ、途方にくれることになるのである。多忙を極める職業人であったマーラーなら、そういう気分を少しはわかってくれるのでは ないかしら、と思うのだけれども。(2009.4.30)

2009年4月12日日曜日

第7交響曲の内的プログラムは破綻しているか?

本当に久しぶりに出来た「使い途の決まっていない時間」に、ふとしたきっかけでバルビローリが指揮したマーラーの第7交響曲の録音を聴き始める。 1960年10月20日だから私が生まれる前に、マンチェスターで行われた演奏会のライブ録音である。客席のざわめき、咳の音も生々しいし、 このコンサートのために編成されたのであろう、BBCノーザン交響楽団とハレ管弦楽団の混成オーケストラの一期一会の演奏の緊張感も きっちりと伝わってくる。1960年といえばマーラー生誕100年のアニヴァーサリーの年だ。今日ではすっかり古典となっているアドルノの音楽観相学を 名乗るマーラーに関するモノグラフの出版もこの年だ。オーケストラにとってこの曲は今日のように馴染みのある作品ではなかったろう。今日の 演奏でなら起こりえないような事故もあって、演奏には傷は多いが、解釈は隅々まで行き届いているし、管弦楽のための協奏曲のようなこの作品に あって欠かすことのできない各声部の「歌」がこの演奏にはぎっしりと詰まっている。実は第7交響曲にはそれぞれ個性的な名演が数多あって、 その数は他の交響曲に決してひけを取らない。そのことのみをもってさえ、この曲を失敗作と見なすことの不当さは明らかだと若い頃の私は 憤慨交じりに思っていたものだが、私見ではその中に数えいれることに些かの躊躇も感じない。バルビローリは10年後の1970年に没しているが、 もう1年彼に時間があれば、後世の我々の手元にはベルリン・フィルとの演奏の記録が残った筈であったらしい。だが、気心の知れたマンチェスターの オーケストラを率いてのこの演奏には、第3交響曲のデリック・クックの場合と同様、マイケル・ケネディにあれほどまでに確信に満ちた文章を書かせる だけの、あるいはこの曲に対して懐疑的であったデリック・クックをすら納得させるだけの圧倒的な説得力が備わっているのだから、 この演奏が2000年にBBCからCDとしてリリースされたことに感謝すべきなのだろう。

「問題作」であるらしい第7交響曲に関しては、上で触れたアドルノのモノグラフを筆頭に多くのことが語られてきたし、恐らくは今後もそうだろう。 そうした発言に触れてみて私が感じるのは、自分は恐らくその最も外縁にいるに違いない、いわゆる「伝統」というものの影だ。嵐のような天候の ある日の夜、電波状態の悪い中、しかも放送が始まって少ししてからFM放送でこの曲を聴き始めたのがこの曲との最初の出会いであった 中学生の子供にとって、その「伝統」は、極めて皮相なかたちでしか自分の中に根付いていなかったのだろう。勿論、第1楽章の4度の堆積が もたらす独特の沸騰するような緊張は、彼にとってはそれまでに聴いた音楽にはない新鮮で魅惑的なものであり、そうした印象は彼が少ないなりに それまで持っていた音楽経験の文脈あってのことだったろうが、彼は愚かにも、識者の言うような「パロディ的」「メタ音楽的」な側面に全く気づくことは なかった。同じ人間が30年後、バルビローリが半世紀前に遺した演奏を聴いて感じるのは、自分がこの曲に対して抱いてきた印象が、 強められることこそあれ、決して弱まったり、疑いが生じることはないということだ。内的プログラムの破綻を証する惨澹たる失敗作であるらしい、 茶番の内部告発であり、不可能性の証明であることによってこそ価値があるのだとされる第5楽章のフィナーレを聴いて、ちっともそのようには響かないことを 再び確認するだけである。

この演奏の終演後の拍手はほとんど熱狂的といっていいものだが、それはこの曲の、言われるところの「前衛性」、脱構築的な あり方を聴衆が理解できた故のものなのか。多分そうではないだろう。では彼らは「勘違い」していたのか。もしそうだとしたら、私もまた、そうした 「勘違い」組の一員なのだろう。否、私は積極的にその一員たろうとするだろう。デリック・クックがこの演奏に見出したものは、彼の作品への懐疑を 覆すものだったようだが、それは今日の識者のような理解に達したからだということではない筈だ。何よりも彼は、コヒーレンスという言葉を使っているのである。 そう、この曲は伝統が命じる「内的プログラム」とやらとは別の水準でコヒーレンスを備えているし、第5楽章はそのまま受け止めていいのだと私には 感じられてならない。確かにそれは「伝統」の中でこの作品を聴いた人達の顰蹙を買いはしただろうが、(20世紀の前衛によくあった本末転倒よろしく) 顰蹙を買うことが「目的」でも「意図」でもなかったのではないか。「目的」や「意図」とは無関係に、作品が持つ社会的な機能がそうなのだ、と 言われれば、それはそうなのかも知れないが、その社会とは、いつの時代のどの社会のことを指すのか、はっきりさせて欲しいものだと思うし、実の ところ、そんな社会的な機能など、私にとってはどうでもいいことなのだと白状せざるを得ない。識者にすれば、控え目に言っても憐みを買う、嘲笑される ような言い草なのだろうが、私にはそういう「伝統」がないのだから仕方がない。

それを言えば、後に第1交響曲となる2部5楽章の交響詩を身銭を切って演奏したマーラーは、その作品が顰蹙を買ったことに戸惑い、傷ついたようだ。 私見では、マーラーには他意はなく、彼はごく素直に自分の中に響いている音楽を書きとっただけなのだと思う。それは第4交響曲のときもそうだったし、 この第7交響曲の場合もそうだったのだと思う。アドルノはシェーンベルクがこの第7交響曲に対してとった態度を、些かの驚きをもって記しているが、そういうアドルノの 評言よりも、アルマの回想に続く書簡集に含まれるシェーンベルクの第7交響曲に対するコメントの方が私にとっては自分の感じたままに遙かに近い。 当時の子供だった私にもそうだったし、現在の私にもそのように感じられるのだ。勿論、ありのままの聴取というのは虚構であって、あるのは異なった文脈の中での 様々な聴取だけなのだろう。だが、もしそうだとしたら、その「文脈」は音楽の伝統やら、啓蒙のプログラムやらといった範囲を超えて広がっているのだと思う。 私に言わせれば、第7交響曲が破綻しているとすれば、それは作品の内部とか、作品の文脈の側にあるのではない。破綻は聴いている私の側にある。 恐らくそれと同じように、マーラーその人にもその破綻はあったのだろうと思う。だが、彼はそれを作品の中に持ち込んだわけでもないし、窓のないモナドよろしく、 その作品がマーラーの破綻を映しているとも思わない。第7交響曲のフィナーレを文字通りに受け取れないのは、受け取れない側の責任で、音楽の責任ではない、失敗の原因を音楽に押し付けるのは責任転嫁ではないかと私は思っているのだ。それは第8交響曲を滅多に聴けないのと本質的には同じだと思っている。

破綻は私の側にある、とはこういうことだ。私はいつでも第7交響曲のフィナーレの肯定性をそのまま受け取れるわけでは決してない。だがその原因は、専ら 私の側にあるのだ。破綻しているのは私の生の方であり、だからこそ私にとってマーラーの音楽は必要なものなのだ。マーラーの作品群が、あるいは個別の 作品がその中に持つ大きな振幅こそ、自分にとっては自然に感じられる。もう一度シェーンベルクの言葉を引けば、彼がマーラーの第3交響曲に見て取った 「幻影を追い求める戦い」「幻想を打ち砕かれた人間の苦悩」「内面の調和を求めて努力する姿」を、私もまたマーラーの音楽に感じることができる。 勿論、それは音楽の「内容」そのものではない。シェーンベルクにとっては第3交響曲の標題などどうでもいいことだったようだが、それも含めて私はシェーンベルクの 感じ方に共感を覚える。マーラーの音楽に「肯定」の要素があること、少なくとも「肯定」への探求があることは、私がマーラーを聴く理由の根底にあるのだと思う。 かつての子供もそうであったし、(ちっとも成長も成熟もしないという批判は甘受することとして)今の私もまたそうなのだ。そうした私にとって、 「第7交響曲の内的プログラムは破綻している」といったような言い方は、単なる詭弁にしか感じられない。

確かに第7交響曲には、苦悩から歓喜へというような内的プログラムなどない。だが、それはそうであろうとして破綻したわけではなく、 きっとそんなものは始めからなかったのだ。第2、第4楽章から先に着想され、 1年後の休暇も終わりになった頃、ボートの一漕ぎで第1楽章の着想を得てようやく全曲の構想が定まったという経緯を持つこの音楽には、もっと遠心的で 万華鏡のような構造が存在する。フィナーレは何かのリニアな過程の結論なのだろうか。そうではあるまい。外部から恣意的に尺度を押し付けて、その尺度からの 背馳をもって測られたものが語るのは、測られる作品ではなく、測る人間のありようではないと言い切れるだろうか。一体それは何の観相学なのだ。 第3交響曲に「円環的」構造を見出しうるという、あきれるほど粗雑な議論同様、第7交響曲に単純な図式を当てがうことは、その作品の持つ豊かさ、 非常に入り組んで、見えにくくはなっていても、このバルビローリの演奏のような説得力のある解釈においては的確に把握されている巨視的な秩序を 損なうだけのように思えてならない。「基本法則は単純だが、世界は退屈ではない」とは物性論における超伝導とのアナロジーによって、質量の起源たる 対称性の破れが自発的に生じる動力学を提示した南部陽一郎博士の言だが、顰蹙を買うことはあっても決して退屈することはないと揶揄交じりに 言われたこともあるマーラーの音楽の持つ多様性、豊かさは、粗雑な文学的な修辞で飾り立てることではなく、マーラーの音楽そのものの構造を 記述し、説明しようとする試みによってより良く理解できるに違いない。優れた演奏解釈は、言語化することなくそうした勘所を押さえているのだろうが、 だとしたらある解釈の卓越を証することについてもまた、同様のことが言いうるのだろう。実はアドルノは、一方ではそのための手がかりをもまた 遺しているのだ。例えば「音調」の章における調的配置についての言及や、「ヴァリアンテ」の章に見られる超-長調についての言及や、マーラーにおける 「唯名論」についてなどによって、同じアドルノがフィナーレに下した判断に疑念を挟むことが可能ではないだろうか。

否、私のような単なる享受者、音楽学者でも哲学者でもない一介の非専門家に過ぎない聴衆にしてみれば、自分が音楽から受け取ったものを反故にしたくないだけなのだ。教養ある知的な聴き手にとっては嘲笑の対象となるのかも知れないが、それでもなお、例えばこのバルビローリの演奏から 受け取ることのできる或る種の質について、擁護したいだけなのだ。それなくしては音楽を聴くことそのものが意義を喪ってしまい、その音楽について書くことの動機そのものが喪失するようなものが、バルビローリの演奏には間違いなく備わっている。私にとって第7交響曲が持っている或る種の質を 擁護することは、実のところ30年前からのテーマだった。

だがそれを職業とすることなく、音楽を聴くことを単なる消費としないでおくことは、時折非常に困難となる。まずもって物理的に時間がないのだ。 遺された時間で何を聴き、何について書くのか。自分に許された容量を考えれば選択と集中は避け難いが、時期によってはその限定された範囲すら 自分にとっては手が届かない領域にさえ思えてくる。膨大なCDのコレクションや文献を所有することは私にとっては意味がない。手持ちの貧弱な 蒐集ですら、最早己の容量を超えているように感じられることも一再ならずある。そうやってまた文献を処分し、CDを処分し、計画を縮小し、 という退却のプロセスを辿っていくのだ。

逆説的なことだが、私にとってマーラーの音楽は、それ自身がそうした縮小均衡への歯止めになっているようだ。マーラーが神の衣を織るという自覚を もって、歌劇場の監督の激務の合間を縫って遺した作品たちは、かつて初めて遭った時にすでにそう感じたように、それ自体が価値の源泉であり、 私のような貧しい人間にすら、何事かをすべきなのだといざなう力を持っていたし、その力は30年の歳月を経て、まだ辛うじて残っているらしい。 傍から見れば強迫観念に取り憑かれているだけの無意味な営みであったとしても、それは私に沈黙することを許さない。それは「応答」を要求するのだ。 お前に時間ができたなら、お前は受け取ったものに応じて、何かを返さなくてはならない。それが無益なものであっても「応答」せよ、、、

シェーンベルクにとってマーラーは同時代の人間だった。だから書簡に記された言葉は、自分が会って話ができる、その人に向けてのものだった。 幸運なことに、私にも同時代にそうした「応答」ができる貴重な対象が存在するけれど、マーラーはその中には勿論、含まれようがない。 1世紀後の異郷に居る私の場合、シェーンベルクとは状況が全く異なるのだ。なのに私は愚かにも、シェーンベルクが聴いたようにしか その音楽を聴けないと感じ、それに加えてあろうことか、そうした態度を正当化したいのだ。マーラーその人が音楽を介して、今そこに居るかのように、、、

だが、私は頬かむりをしてこう言いたい。それは仕方ないのだ。マーラーの音楽がそれを命じているのだから、と。その音楽を聴く時、私はマーラーその人を 身近に感じずには居られない。私は彼の見た同じ風景を見ることはできないけれど、彼の音楽を通して、風景の見方を自分のものとすることができる。 私なりに卑小化されたものであっても、彼の問題意識や或る種の「姿勢」を自分のものとすることができる。できる以前に、それは最早私の一部と なっていて、今更無かったことにするわけにはいかない。彼の音楽とは関係のない、生活の脈絡の中で、だけれども私は、そうとは自覚せずに彼から 受け取ったものに従って価値判断をし、行動しているのだ。極端だろうか?そうかも知れないが、だが私には(シェーンベルクがまたしてもそのように 語っているように)そのようにしかマーラーの音楽を聴くことはできなかったし、今でもできない。そういう聴き方をしないのであれば、この音楽を 聴くべきではないのだ。そのかわり、「ただで」それを受け取ってはならない。己の貧困を自覚しつつも、何かを返さなくてはならない。そうでなければ この音楽を聴くのを私は止めなくてはならないだろう。かつて一度はそうしようと思ったように。だが、こうして聴き続けている間は、何かを返すべく努めなくてはならないのだ。

私のような人間さえ、時折はそのフィナーレを聴き、その肯定性を自ら引き受けることができるような瞬間が、その生の成り行きに含まれることは、 私にとってかけがえのないことなのだ。生の成り行きのある断片の中であれ、肯定することなしにやっていくことなどできないだろう。音楽にとってそれが終わった 後の時間が、外部が存在するのと同様、そうした断片は断片でしかなく、新たな世の成り行きの中でそれは色褪せていくことになろうとも、 時折はこうして第7交響曲を聴くことができることは、翻ってそもそもこの音楽に出会えたことは、こうした音楽を書いた人間がかつていたということと同様に、 私にとってかけがえなく、貴重なことなのである。(2009.4.12)

2009年1月31日土曜日

第4交響曲作曲の経緯:バウアー・レヒナーの1900年夏の回想

第4交響曲作曲の経緯:バウアー・レヒナーの1900年夏の回想(原書1984年版p.157, 邦訳 『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, 1988, pp.345-6)
(...)
Mahler konnte die erste Wochen seines Maiernigger Aufenthaltes nicht gleich zur Arbeit kommen wie sonst (etwa im Steinbacher Häuschen, wo ihn oft schon in den ersten vierundzwantig Stunden seine Produktivität erfaßte). Er war darüber ganz verstimmt, ja verzweifelt, meinte, er werde nie mehr etwas machen, und sah schon seine abergläubische Frucht, daß er nun zwar das Haus zum Komponieren habe, aber nichts mehr werde schreiben können, grausam verwirklicht.
(...)

(…)
マイエルニク滞在の最初の一週間、マーラーはいつものように(たとえば、最初の二十四時間のうちにすでに曲を書きはじめたシュタインバッハの小屋でのように)すぐに仕事に取りかかれなかった。彼はそのことで非常に不機嫌に、その上絶望的にさえなって、自分はもう何もできないのではないかと考えた。そして、作曲のための小屋は手に入っても、もう何も書けないのではないか、という彼の迷信じみた心配が、忌まわしくもすでに現実となったように感じた。
(…)

これは第4交響曲を作曲している途上でマーラーが遭遇した苦しみを当時のマーラーの同伴者であったナターリエ・バウアー=レヒナーが回想した 文章の一部である。良く知られているように第4交響曲は前年の1899年の夏、アウスゼーでの休暇の終わり間近になって書き始められたが、間もなく始まった シーズンにより中断を余儀なくされた。そしてその翌年の夏、今度はヴェルター湖畔のマイエルニクで作曲を再開することになったおりにマーラーが味わった 困難が回想されているのである。
マーラーはそれを望んでか否かはおくとして「夏の作曲家」であった。彼の職業は歌劇場の監督・指揮者であって、作曲はいわば余技に過ぎなかったのである。 勿論マーラー自身にとって作曲活動の持つ価値は疑問の余地のないもので、それゆえ彼の余暇は作曲のために費やされねばならなかったし、実際、 未来から眺める我々には他のすべてに優先して作曲に専念したように見える。マーラーは職業人としてもそうであったように、いわば趣味人としても 際立って勤勉であり、しかもその勤勉さはしばしば常軌を逸して、冷静な観察者や事情を知らぬ人から見れば理解しかねるような事態や滑稽な状況を惹き起こしもした。 今日、大作曲家としての評価が定まった地点から見れば、それは天才にありがちなエピソードとして片付けられてしまうのだろうが、それはいわば結果を先取りしたが 故の錯覚であり、仮に同じことをやったのが後世に価値を認められることのない才能のない人間であると仮定すれば、その行動は周囲の迷惑を顧みない 奇矯な行動にしか見えないだろう。更に加えて作曲だけならともかくオーケストラや歌手を借り切って自作を演奏するのだから、その音楽に価値を認めない人間にとっては はた迷惑な楽長の道楽としか映らなかったに違いない。歌劇場監督の執務室で自作の浄書にいそしむマーラーを撮ったというキャプションのついた写真が残されている(だが実はこれは事実に反するようだ。キャプラン財団の出版したMahler Albumによれば、これは客演先のローマで撮られたもので、かつ演奏する作品のスコアに書き込みをしているところらしい)が、 見る人が見たら、職場で趣味に耽っているなどけしからぬということになるのだろうし、確かにそうした見方は間違いとは言えない、否、寧ろそうした見方の方が 正しいのであって、後世における作品の価値が監督殿の内職を免罪することはないのだろうし、監督としての有能さの方もまた、そうした行動を大目に見る 理由にはなりえないのかも知れない。
だがマーラー自身にとっても作曲は常に疑いなく価値あるものではなかったに違いない。自作の演奏が失敗に終わったときにマーラーが漏らした言葉もまた ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想に残っており、これはまた別に紹介しようと思うが、それとともに、大きな犠牲を払って折角余暇を作曲にあてているのに 思うように作曲が捗らない時の不安と焦燥もまた大きなものであったに違いないのである。単純に時間をかければそれに応じた結果が得られる類の営みと 違って、それは作曲者自身にもコントロールできない厄介な作業なのだ。もう一度、それはマーラーにとって作曲が職業でないから、生活がかかっていないから なのだというコメントは可能だろうし、多分それは一面の真理を捉えているのだろう。だが、仮にそれが「仕事」だとしても、恐らくマーラーの不安や焦燥は 変わらなかったのではないだろうか。これもまたナターリエ・バウアー=レヒナーの回想の別の箇所に記録されている通り、マーラーは霊感が技術の欠如を 救うとは些かも考えていなかったが、その一方で一旦堰き止めることを余儀なくされた創作の泉を、再びその余裕ができたからといって意のままに再び 溢れさせられるとは考えなかったし、実際にそうできたわけではなかったようだ。そしてそうしたマーラーの気持ちは、平凡な私のような人間にも決して わからないわけではない。寧ろ、マーラー程の天才ですら、マーラー程の勤勉さをもってしてもそうした不安と焦りから自由ではなかったことに些か身勝手な 共感を覚えずにはいられないのだ。何も結果を出せないまま時間ばかりが過ぎていくときの焦燥感は私のような凡人にとっても決して無縁なものではない。 そうした強迫感に囚われることなく成果を得ることが出来る人もまたいるに違いなく、どちらかといえばそれは能力の多寡よりはより多く 気質や性格に由来するのだろう。ともあれ私のマーラーに対する態度には、多分にそうしたマーラーの苦しみや怖れに対する共感のようなものが少なからず 与っているのは確かなことのようだ。傍から見ればマーラーは内部に巨大な熱量を抱えた手に負えない猛獣に映っただろうが、マーラー自身も自らの裡に 住む獣を常にうまく馴らすことが出来たわけではないし、そのことでマーラー自身も随分と苦しみもし、さらにまた周囲にかけた迷惑、周囲の人びとが 払った犠牲についてマーラーが無頓着であったとは私には思えない。そしてそうしたマーラーの姿は、比較にならないほどつまらないことにかまけ、 それでいながら何も結果を出せないまま時間ばかりが過ぎていくときの焦燥感だけは人並み以上で、そのことで恐らくは少なからず周囲に迷惑をかけている 自分にしてみれば、決して他人事とは思えないのである。(2009.1.31 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)

作品覚書(5)第5交響曲

第5交響曲は過渡期の作品である。あるいは第4交響曲による句読点のあとの、再度書き出しの音楽である。 第5交響曲は多産であった1901年の夏にマイアーニッヒで着手され、翌1902年秋には一旦完成しているのだから、 その期間は長いとは言えない。第4交響曲までの各作品の成立史が示す紆余曲折と比較すれば、それは極めて 短期間であると言うこともできるだろう。そして、第5交響曲以降は、こうした短期間での作曲サイクルが確立され、 10年あまりで未完成の第10交響曲も含めれば7曲もの交響曲が産み出されることになる、その先駆となるのが、 この第5交響曲なのである。

別に伝記的事実と作品の内容に対応を見つけ出そうというわけではないのだが、それでも事実として、第5交響曲が 構想されてから完成するまでの間の期間に、マーラーを取り囲む環境に変化があったのは認められるかも知れない。 だが、環境の変化という点で言えば、それはすでに第4交響曲が交響曲として形を成す時期にははじまっていたと 考えるべきだろう。何より、ウィーンに戻ってきたこと、しかも念願の歌劇場監督として凱旋したことは、生涯の大事件で あったろうが、これは第4交響曲の創作時期に重なる。第5交響曲の作曲の途上に起きたことといえば、 何といっても1901年11月に、後に妻となるアルマ・マリア・シントラーと出会うことや、冬の手術とそれに続く静養などが 挙げられるのだろうが、それを第5交響曲と第4交響曲の間に見られる作風の変化と結びつけるのは短絡で、 せいぜいが、もともとが4楽章の構想であったところに、アダージェットが入り込んだことで3部5楽章の構成になったことの原因を、 アルマとの出会いに求めるくらいが良いところであろう。だがその一方で、マーラーが第5交響曲からは「絶対音楽」に 移行した「から」、生涯の出来事と作品との結びつきが弱くなったのだ、というのも同じくらいナンセンスである。 それでは第3、第4交響曲の「内容」を為すと一般には見做されているらしい「世界観」やら「宇宙観」やらが、マーラーの 生涯の何と関係するというのか。

結局、初期の「角笛」交響曲群に対して中期の「絶対」交響曲群といった時代区分の対比がなされ、第4交響曲と 第5交響曲の間に断絶があるかのように言われるのは、他人が後から振り返って眺めたときの展望の一つに過ぎない。 遺された作品に「変化」を認め理由として生涯の出来事を探索するというのは、仕方の無いこととはいえ、何か そうした展望が持つ歪みを逆向きに押し付けている印象を拭い難い。例えば「角笛」歌曲との関係は、別に中期の 交響曲でも無くなったわけではない。「起床合図」や「少年鼓手」を持ち出さずとも、第5交響曲フィナーレにおける 「高い知性への賛美」の引用は明らかだろう。では、変わったのは楽曲の構成原理として「歌曲」を直接埋め込むような 緩やかな楽章構成を止めた点、あるいはもっと単純に人間の声を用いず、器楽のみを用いた点なのだろうか。 答えははい、とも、いいえとも言えそうだ。それでは当初は交響詩であったとはいえ、こちらはアダージェットではなく 「花の章」を持っていた純器楽作品である、後の第1交響曲との違いはどこにあるのだろうか。第4交響曲が擬・古典的な 相貌を備えていることはしばしば言われるが、それと第5交響曲の「古典」に対する姿勢とは、どう違うのか。しばしば 言われる「苦悩から歓喜へ」という内容の純器楽的な実現を主張するなら前者との、くだんの「高い知性への賛美」の 引用を梃子に、それを疑わしいものとみなして「メタ音楽」的な距離感を見出す解釈なら後者との突合せがそれぞれ 要求される筈である。もちろん、第5交響曲が新たな出発を告げる作品であることは明らかなのだが、では、 そこで達成されたものは何なのか、達成されなかったものは何なのか、そしてそれらは今日のコンサート・レパートリー上、 マーラーを代表する作品となったこの第5交響曲の受容において、結局この作品がどのように受け止められているのか、 実際のところはあまり判然とはしない感じが付き纏うのだ。マーラーは第5交響曲第2部のスケルツォを「呪われた音楽」と 呼び、その理解の困難を預言したそうだが、それはどうやらスケルツォだけの問題ではなさそうだ。少なくとも私にとって、 第5交響曲は、少なくとも第4交響曲程度には得体の知れない、捉えどころのない音楽なのである。別段、 初期の「角笛」交響曲群、中期の「絶対」交響曲群という区分に異を唱えるつもりはない(最終的にはその区分は 「説明」のためには妥当なものだろう)が、いっそ第4交響曲と第5交響曲をひとくくりにして、「過渡期の作品」と 名づけてみたらどういう展望になるかしら、といったことを思わないでもないのだ。その両隣には、非の打ち所のない あの第3交響曲と第6交響曲が聳えているではないか、、、

第5交響曲の位置づけを考える上で、一見取るに足らないような些細なことであるけれど、それなりに注目すべきこととして、 この作品の初期の出版譜では、ソナタ形式を採る第2楽章の呈示部にはリピート記号が付けられていることが確認できることが ある。私が参照しているのは1904年のPeters版(9015)だが、p.48から始まる第2楽章冒頭から呈示部終結の練習番号9番 からの5小節の移行句を経たp.65の146小節の前までを反復するように指定がある。1964年に出版された協会全集第5巻では この反復は削除されている。この点以外にも夥しい管弦楽法の変更や演奏指示の差し替えなど、協会全集版で見られる稿態とは 大きな違いがあり、その比較には興味深いものがあって研究もされている。アルマの回想での記述もあって一般には寧ろ管弦楽法の 改変の方が興味の中心にあるようだが、呈示部反復の変更についてもすでに1905年の時点でノットナーゲルが注目していることが フローロスの著作において言及されている。ちなみにフローロスはこの変更自体については自らコメントすることなく、ノットナーゲルの 証言を引用して済ませているが、マーラーの他の作品における呈示部反復の扱いを思い浮かべて、それらと比較してみることによって この作品のおかれた位置というのを窺い知ることができるのではないかと思われる。

良く知られているようにマーラーの交響曲のうち、呈示部反復の指定があるのは第6交響曲第1楽章と第1交響曲第1楽章だが、 後者は第5交響曲の場合とは逆に初期の稿態では呈示部反復がなかったものに後から追加が行われているという点に留意すべきである。 逆に創作の初期の段階では呈示部反復があったのに途中で削除された例としては第9交響曲の第1楽章が知られている。 第9交響曲はマーラーの生前には出版も演奏もされておらず、遺された楽譜の完成度については未完成とは呼べないまでも、 隅々まで推敲されて仕上げられた状態とは言い難く、それゆえ初演時にあたっては困難があったようだが、第5交響曲の場合にも 初演と同時に出版された後も執拗に改訂が為されたことを思えば、第5交響曲の場合と第9交響曲の場合との間の隔たりは 無視することはできないにしても、全く断絶を認めることもまたできない相対的なもので、そこには或る種の連続性が認められていいように 思われる。

フローロスの引用するところによれば、ノットナーゲルは1905年に出版された分析の中で反復記号が取り除かれた事情について "(er) deutlich die psychologische Unwahrheit empfand, die in diesem Stadium der Stimmungsentwicklung in einer Rückkehr zu den bereits 'erledigten', überwundenen Stimmungen gelegen hätte". と述べているようだが、同時代人でありマーラーと書簡のやりとりも あったノットナーゲルのこの発言がマーラーの意図にどの程度添ったものであったかはともかく、フローロスがそれに続けてアドルノやシュミット、 シュポンホイアーの所説を引きながら指摘するソナタ形式からの逸脱の契機と合わせて考えれば、恐らく最初はソナタ形式から出発しながら そこから逸脱していった第9交響曲第1楽章の生成と並行するベクトルがこの楽章にも働いていたことは疑いないだろう。その一方で、 楽章の後半に「突破」が発現する点では共通する第1交響曲第1楽章には「後から」呈示部反復を追加したことを考えれば、 丁度中間におかれた第5交響曲の構想がマーラーの作品に通底する形式と内容の緊張関係に曝されていること、しかも第4交響曲から 始まった古典回帰、伝統的な交響曲形式への回帰が第6交響曲に至る中間点にこの作品が位置することが単なる時系列の問題としてではなく、 実質的なプロセスの中で確認できるのではないか。実際、第5交響曲と第1交響曲との比較はこれ以外にも興味深い論点を提供する。 ある意味ではマーラーは第5交響曲をもって、それまでの経験の蓄積をもって第1交響曲を再検討し、再構築したといっても良いのではと さえ思える。葬送行進曲に「嵐のように激動する」楽章が後続する点もそうだし、こちらは「後から」追加されたらしいアダージェット楽章は 交響詩「巨人」を第1交響曲に改訂する途上で葬ってしまった、あの感傷的な「花の章」の代補であるかのようだ。 (口の悪いクレンペラーがアダージェットを何と言ったかを今一度思い起こしても良かろう。) 実際、ロンド・フィナーレの末尾は第1交響曲であれば寧ろ第1楽章の末尾に対応していると感じられ、 ここでかつては「交響詩」として、些か散漫でぎくしゃくしたかたちでしか提示できなかったものを、熟達した技術をもってより緊密に提示 しようとしているのだが、その代償として劇的な頂点は第1部におかれてしまい、全曲の中間に置かれたスケルツォを軸にまるで第1交響曲を 倒立させたかのような第5交響曲は、まるで喪われてしまってもう取り戻すことのできない第1交響曲が備えていたある種の「質」に対する ノスタルジーであるかのようにさえ見えてくる。

更にそうした第5交響曲と第1交響曲の関係をマーラーの大規模交響曲作品(「嘆きの歌」と「大地の歌」を含めたいので、あえてこのような 言い方をすることにするが)の系列の中で眺めるとき、第5交響曲が第1交響曲の「折り返し」のような作品であることは自然に感じられる。 というのも、次の第6交響曲はある意味では「嘆きの歌」の位置にある再出発の作品であり、それ以降、「嘆きの歌」から第5交響曲までの 道のりをまるで反復するかのように第6交響曲から第10交響曲までの作品が書かれたかに見えるからである。勿論、そうはいっても、 それは単純な繰り返しであるはずはない。繰り返しであると同時に裏返しの関係にあるような対応が見られるように感じられるのである。 ここでは詳述しないが、嘆きの歌-6, 1-7, 2-8, 3-大地の歌, 4-9, 5-10という対応を思い浮かべていただければ、言わんとすることの輪郭は 想像していただけるのではないかと思う。これは単なる不正確な喩えに過ぎないが12音技法の音列のO/I/R/IRという関係との連想でいけば、 第1交響曲がOであるとすれば第5交響曲がR、第7交響曲がI、第10交響曲がIRであるといった具合である。

*   *   *形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの)

第1楽章(葬送行進曲〔中間部を含む二重変奏〕)主部A(行進曲)「正確な歩みで、厳格に、葬列のように」134cis
主部B(トリオ)「少しゆっくりと」3560
変奏A1(行進曲)「曲頭と同様に」6188
変奏B1(トリオ)「再び少しゆっくりと」89154-As
中間部C(突発)「急激に速めて、激情的に、荒れ狂って」155232b
変奏A2(行進曲)「気づかぬように最初のテンポへ戻る」233262-cis
変奏B2(トリオ)「重く」263316-Des
経過部317322
中間部C(トリオ)「同じテンポで」323376a
変奏A3(行進曲)「少しゆっくりと」377392
経過部「重く」393400
エピローグ(A)401415cis
第2楽章(ソナタ形式)呈示部主部「嵐のように激動して、きわめて激しく」164a
経過部6573
副次部「著しく遅くして(第1楽章葬送行進曲のテンポで)」74140f
展開部経過部「ただちに最初のテンポで141145a
主部動機展開「厳格な拍子で」146174
経過部175188
モノディ「ゆっくりと」189213es
副次部「中庸のテンポで(呈示部と同様に)」214253
主部動機展開254265
第1楽章変奏B(引用)「ただちに再び著しく遅くして(第1楽章葬送行進曲のテンポで)」266287H
主部動機展開「ただちに速めて、しかしまだ曲頭ほど速くなく」288315As
コラール暗示「ペザンテ(ただちに長く延ばして)」316322A
再現部経過部「ただちに最初のテンポで」323325a
主部326355-e
副次部「少し遅くして(だれることなく)」356427-f
主部・副次部動機展開「重々しく」428463es
コラール「ペザンテ(ただちに少し長く延ばして)」464519D
コーダ経過部「ただちに最初のテンポで、曲頭より少し遅くして」520525d
主部「ペザンテ」526556
結部「中庸に」557576a
第3楽章(展開部を伴うスケルツォ)主部導入「力強く、速すぎずに」13
第1楽段415D
第2楽段1626
第3楽段2739
第4楽段4059h
第5楽段6072B-D
第6楽段7382
第7楽段83107g-fis
第8楽段108120F-D
第9楽段「再びよどみなく」121130
移行部131135
第1トリオ第1楽段「少しゆっくりと」136150B
第2楽段151173
主部導入部174176
第1楽段「最初のテンポで」177188D
第2楽段189200
経過部(フガート)201240-f
第2トリオ第1部分「遅くして ゆっくりと」241269-g
第2部分「少し控え目に」270307
第3部分「中庸に」308336
第4部分「よりよどみなく、しかし中庸に」337388
第5部分「急がずに」389428
展開部第1トリオ・主部動機「中庸のテンポで」429461F-f
第1トリオ・主部動機「だれずに」462489
再現部導入部490492
〔第1楽段〕「最初のテンポで」493504D
〔第2楽段〕505516
〔第3楽段〕517526
〔第4楽段〕527543
〔第5楽段〕544562
第1トリオ563578
第2トリオ579632-a
主部・第1トリオ「力強く(最初のテンポで)」633699G-D
第2トリオ第2部分「遅く」700763
(民謡引用)(720)(733)
コーダ「ただちに最初のテンポで」764798
「さらに速めて」799819
第4楽章主部A「非常に遅く」138F
中間部B「よりよどみなく」3971-Ges-E-D
再現A「最初のテンポで(モルト・アダージョ)」72103F
第5楽章(ソナタ化されたロンド)導入部「アレグロ」→「少し遅くして」123D
呈示部主部1(ロンド主題)「アレグロ・ジョコーソ 新鮮に」2455
フーガ部1/1「同じテンポで」5699
フーガ部1/2「グラツィオーソ」100135
主部「ただちに最初のテンポで」136166
フーガ部2「同じテンポで」167190B-D-Fis
副次部1「グラツィオーソ」191233H
エピローグ「急がずに」233240
展開部導入「よどみなく」241272
フーガ部3/1273306G-D-A
フーガ部3/2「同じテンポで」307336C
フーガ部3/3「急がずに」337372H-Des-D
副次部2「グラツィオーソ」373414
エピローグ「急がずに」415422
フーガ部4/1423440B
フーガ部4/2「同じテンポで」441454D
フーガ部4/3「急がずに」455460C
経過部「次第に切迫して」461496-D
再現部主部3「ただちに再び曲頭のように(最初のテンポで)アレグロ・コモド(ただちに)」497525
フーガ部3526580B-C
主部4581622As-A
フーガ部4623630G
副次部3631686
経過部「次第に切迫して」687710F-C
コラール711748D
コーダ「アレグロ・モルトかつ最後まで切迫して」749791

*   *   *

形式の概略:第3楽章と第5楽章のみ(de La Grange フランス語版伝記第2巻Oeuvres composées entre 1900 et 1906)

3. Scherzo スケルツォスケルツォ139A,A'(ヨーデル)D
4047B(フガート), B', B''
4882/TD>A, A', A''h, B
8392B, B'd
93135A, A'
トリオ1136150トリオ1B, Des, etc.
151173トリオ1、トリオ1', トリオ1''とともに
スケルツォ174200A
201240B(フガート), B', B''D, F, etc.
トリオ2241307トリオ2, B'', A'とともにc, g
308336トリオ2(展開), B''とともに、ピチカートでd
337428トリオ2(展開), B''およびAとともに, トリオ1とトリオ1''f
429461トリオ1(展開), B, トリオ1', トリオ1''とともに
462489ストレット、A,A',B'
スケルツォ490526再現:A, A' (トリオ1, B''とともに)D
527531B, B', B''
532562A, A'
トリオ1および2563578トリオ1(fff)
579632B, B' (トリオ2とともに)'D, f, a
633647スケルツォ, トリオ1, AG
648661ストレット, A, Bg
662699トリオ1(BとA'とともに)'D
コーダ700744トリオ2とBの変形a, F
745763トリオ2, ピチカートでd
764819ストレット, B'', B, ついでA, B'', トリオ1'', トリオ2, A


フィナーレのシェマはBernd Sponheuer, Logik des Zufalls : Untersuchungen zum zum Finalproblem in den Symphonien Gustav Mahlers, Schneider, Tutzing, 1978による

5. Rondo-Finale ロンド-フィナーレ1235つの断片よりなる導入(ファゴット、オーボエ、ファゴット、ホルンとクラリネット)
2455Allegro grazioso:主要主題(A)D
56135Sempre l'istesso tempo, ついでgrazioso:第1フーガ・エピソード(B)
136166A tempo subito :A
167190Sempre l'istesso tempo, ついで「急がずに」:第2フーガ・エピソード(B1)B, D
191252Grazioso:主題C(アダージェットから引用)H, B
253372第2フーガ・エピソード(B1), 307小節で行進曲エピソードを伴う延長G,D,A,C,Aes,gis,D
373422Grazioso:主題C(C1)D
423496第3フーガ・エピソード(B2)B,d,D,C,D
497525「突然冒頭のように」:AD
526580第4フーガ・エピソード(B3)B,c,C
581622「気付かれないように少し抑えて」:Aの変形(A1)Aes, A
623710主題Cの変形(C2)G,Es,d,etc.
711748「切迫して」;「非常に切迫して」;Pesante:コーダ(B4)、コラールD
749791「Allegro moltoで最後まで切迫して」,コラールおよびロンドの他の主題の要素

(2009.1.31, 2009.8.14 この項続く。)

2008年12月13日土曜日

フローロスのマーラー論第3巻中の第7交響曲第1楽章331小節のシンバルについてのコメント

フローロスのマーラー論第3巻中の第7交響曲第1楽章331小節のシンバルについてのコメント(Constantin Floros, Gustav Mahler III : Die Symphonien (1985) p.191, 邦訳(英訳からの重訳)『マーラー 交響曲のすべて』, 前島良雄・前島真理訳, 藤原書店, 2005, p.249)
Mahler überschrieb den eigentlichen Sonatensatz Allegro con fuoco - eine Bezeichnung, die sich nicht nur auf den ersten Hauptthemenkomplex bezieht. Symptomatisch für den überaus feurigen Charakter weiter Strecken des Satzes ist ein Detail der Instrumentation: die Becken ertönen wohl nirgends so oft bei Mahler wie in diesem Allegro con fuoco. Takt 331 schreibt Mahler sogar beim Beckenschlag "mit Feuer" vor!

 マーラーは事実上のソナタ楽章にアレグロ・コン・フォーコと名づけたが、これは最初の主題群のみを表しているわけではない。楽器編成の内容は、長く引き伸ばされたこの楽章の性格が「強烈な」ものであることを予示しているようだ。他のどの作品よりも頻繁にシンバルが用いられており、331小節目でシンバルを打ち鳴らす部分では、マーラーは「燃え上がるように!」とさえ書いている。

フローロスのマーラー論の上掲部分を備忘のためにここに記録しておくのは、フローロスがこの後「超長調」(Über-dur)に言及しつつ参照しているアドルノがラッツにあてた1960年5月30日付け書簡において、まさにフローロスが 上掲部分で述べている第7交響曲第1楽章の331小節のシンバルについて、ラッツに対して照会をしているのを見つけたからである(Reinhold Kubik & Erich Wolfgang Partsch (hrsg.), Mahleriana : Vom Werden einer Ikone, p.82を参照)。 1960年といえばアドルノがマーラーについてのモノグラフを出版した年だが、アドルノは自著にとって重大な意味を持つことを強調しつつ、当該箇所が古いスコア(49ページ)では"mit Feuer"となっているのが、ラッツが会長を務め、編集をしていたマーラー協会 全集版においては"mit Teller"に変わっていることに関連して、それが単なる誤植なのか、それともマーラーが後にそのように修正したのをラッツが採用したのか、いずれであるかを問い合わせているのである。

私はアドルノのその文章を読んだ時に、反射的に、そう言えばそのことに言及した文章があったなと思って、アドルノの文章をまずはモノグラフ、ついでウィーン講演と順にあたってみて、そうした記述が見つけられないことに当惑した。別の誰かが 言及していたのを勘違いしていたのかと思い、詮索しているうちに、それがフローロスのコメントであることに思い当たり、確認をして備忘のために今こうしてその事実を記録しているのである。

ところでアドルノの照会についてのラッツの返答は掲載されていないので知るべくもないが、実際のところはどうであったのだろう、と思い、手元にある第7交響曲のスコアやファクシミリを調べてみたので、その結果についても書き留めておくことにしたい。 まず音楽之友社刊行のフィルハーモニア版のリプリント(改訂版と銘打たれている)はラッツ編集のマーラー協会全集と同様"mit Teller"が採られている。アドルノの言う「古い版」とおぼしきDoverのリプリント版ではまさにアドルノが 言及している49ページに"mit Feuer"と記されているのが確認できる。一方、ラッツの編集方針に批判的であったことで知られるレートリヒ校訂のEulenburg版はといえば、こちらもまた"mit Teller"を採用している(p.74)。 レートリヒの版は1962年1月に出版され、1960年に刊行された協会全集版を踏まえたものであることがレートリヒの序文に記載されている。

それではファクシミリはどうであろうか。確認したところでは明らかにマーラー本人は"mit Teller"と記入していて、アドルノの照会への答は「"mit Feuer"は単なる誤植である」が正しそうである。"mit Teller"であれば単なる奏法の指示であり、 周辺に頻出する撥で打つ奏法と区別するために注記したものに過ぎず、"mit Feuer"なら主張できるような、そして実際フローロスがしているような、表現とか意味に関する読み込みをするのは明らかに勇み足であったことになる。 もっともこのことは単に傍証としては用いることができないというだけで、フローロスの主張の本筋の妥当性とは一応は区別すべきではあろう。マーラーのスコアの指示の中には、「影のように」とか「嘆くように」といったようなものもあるけれど、 実はそれ以上に演奏上の細かい指示が多く、特に私にとって印象的なのは、指揮者に振り方の注文を事細かにしていることだろうか。「まだ2つ振りで」とか「気付かれないように2拍子に移行する」とかいう指示はマーラー自身が指揮者であり、 自作の初演を行った経緯を物語る。(それを裏付けるように、マーラー自身が演奏することのなかった「大地の歌」「第9交響曲」にはそうした指示がほとんど現れない。)

ともあれちょっとした偶然で判明した本件は、実証的なアプローチを採り自筆譜にもかなりあたっているらしいフローロスとしては珍しく、自筆譜はおろか新しい出版譜の照合すら行わずに古い版のスコアのみにより論旨を組み立てたケースのようなので 備忘として残しておくことにしたい。(2009.12.13)

作品覚書(12)嘆きの歌

「嘆きの歌」を作品1である、とマーラー自ら語ったのはよく知られた話だが、この作品が マーラー自身にとって気になる存在であり続けたのは確かなようだ。これまた有名な、 ベートーヴェン賞への応募と落選の逸話の細部には実はマーラー自身による脚色が含まれる ようなのだが、いずれにしても、その落選の後も、全ドイツ音楽協会の会長であり、 当時のマーラーが己が属している陣営の代表者と考えていたに違いないフランツ・リストに 楽譜を送って評価を請うたりもしている。リストの返事は色よいものではなく、特に マーラー自作の歌詞に疑問を呈する内容であり、マーラーは再度、「嘆きの歌」を しまいこみ、時期を窺わざるをえなくなる。

その時期は、マーラーが王室・宮廷歌劇場監督としてウィーンに戻ってようやく 訪れた。だがマーラーは、ようやく訪れた機会に、「嘆きの歌」を改訂した上で 初演したのである。1880年の初稿では3部構成であったものを、第1部の 「森のメルヒェン」をカットして2部構成とし、歌手も含めた編成をより「現実的」な ものにしたのだ。出版もされたこの形態が、永らく「嘆きの歌」の確定形態と見做されて きたが、「森のメルヒェン」を含む初期稿も喪われたわけではなく、ようやく近年、 初期稿での演奏が可能になったのはまだ記憶に新しい。

マーラーは同時期にオペラの企画を幾つかしているが、どれも実現せず、結局、その後行った ヴェーバーの「三人のピント」の補作のみが残った。そのかわりこのカンタータは自ら「作品1」と呼ぶ、 思い入れのある作品で、彼自身の認識の通り、ここにはマーラーの個性がはっきりと現れているのは 確かなことだと思う。私にとって興味深いのはマーラーのジャンルの選択で、その出発点がカンタータで あったのは注目されていいように考えている。結局彼は交響曲と歌曲のみを作り続けたが、 交響曲には歌曲楽章が取り込まれたり、合唱が用いられたりと声楽的な要素が進入し、 一方で歌曲は連作形式をとることにより、ソロ・カンタータ、さらには交響曲の構造を備えるようになる。 前者の到達点は、実質的にはカンタータである第2部を持つ第8交響曲であり、後者の到達点は これまた実質はソロ・カンタータである「大地の歌」である。その一方で後年「標題音楽」的な側面を 「撤回」した結果、わかりにくくなっているけれども、交響曲のうち少なくとも最初の2曲は、ジャンル上の 揺れを示している。第1交響曲が2部5楽章からなる交響詩として初演されたのは現在では良く知られているし、 交響詩「葬礼」は、もともと交響曲の冒頭楽章として書かれた楽章が経た紆余曲折の一齣に過ぎないかも 知れないが、それでも一旦はそのような形態が考慮されたという事実がなくなるわけではない。 同時進行的な視点からすれば、第2交響曲が「交響曲」として完成した時点あたりでようやく彼は 「交響曲」を選択したのであって、どんなに破天荒な形態をとっても第3交響曲は最早交響詩ではなく、 「交響曲」として構想されたし(とはいうものの、1896年夏の時点では、第3交響曲もまた「交響詩 パン(牧神)」と 名付けようといったマーラー自身の発言がバウアー=レヒナーの回想録には記録されていることは、第3交響曲について 語られるときには決まって言及される各楽章の標題のプランの変遷とともに銘記されるべきだろう。邦訳p.123参照)、 その余禄というか、補遺とでもいうべき起源を持つ第4交響曲では古典派交響曲の擬態が生じていて、 ベクトルは、本来交響曲というジャンルでなくても良かったかも知れないものを交響曲という形式を借りて 実現するという方向性を持っているのである。

そうしたマーラーの道程の出発点、まだその後自分が交響曲作曲家になるという自覚が明確に あったとは到底思えない時期の作品として「嘆きの歌」を捉えたら、一体どのような展望が得られるのだろうか。 さすがにこの曲を「交響曲」と見做すことはマーラー自身はしなかったし、それには勿論、正当な理由も あるのだが、そうしたマーラーにはまだあった理屈すらなくなって、今度は「交響曲」というジャンルの定義が 極限まで曖昧なものとなってしまった今日の視点で「嘆きの歌」を捉えたら、一体どのような展望が得られるのだろうか。 ソナタ形式こそ採らないものの、第1部を含めた構想ではイ短調で始まりイ短調のトゥッティで終わる調性配置を持つ この作品は、同時期の歌曲との素材の相互利用という点なども含めて、マーラー初期の「交響曲」というジャンルに 到達する道程の出発点たるプレ交響曲とでもいうべきものとして考えることができるのではという気がしてならないのである。 (2008.12.13, 2010.5.5)


形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。初稿第1部、決定稿第I,II部からなる折衷版による)
初稿第1部<森のメルヒェン> 序奏「ゆっくりと、夢見るように」125a-c
「より速く」2669-f-Des-D
「マエストーソ~より快活に~etc.」7087
「激して」88114b-Es-B
「優しく」115126Es
詩節第1節「非常に優しく」127149G
第2節「落ち着いて、夢見るように、少しゆっくりと」150192E-C-e
第3節193241A-F
第4節「より快活に」242302f-e-es-as-f
第5節「より快活に」303368F-B-Es-As-C-f
第6節「より動きをもって」369419c-a-C
第7節「非常に中庸に」420463F
第8節464519f-d-es-b
間奏「非常に落ち着いて」520567Ges-es
第9節「ゆっくりと」568605Cis-a-fis
決定稿第I部<吟遊詩人> 序奏「非常に控え目に」148c
4992C
93125F
詩節第1節126175es
第2節「テンポはやや荘重に、殊にリズミカルに」176248Es-B-Ges-b-cis
第3節「テンポI」249331des-f-F
第4節332390es-D-c-es
第5節391506As-Es-as-c
決定稿第II部<婚礼の出来事> 序奏「激しく動いて」112B/b
「少し速くして」1335es
詩節第1節3694B/b-fis-cis-C
(遠くに置かれたブラス・オーケストラ)(79)(92)
第2節95133-fis/Fis-H
第3節「非常にゆっくりとして」134213-E-
(<森のメルヒェン>回想)(150)(170)
間奏(<吟遊詩人>の冒頭部)213252As
第4節「非常に控え目に」253316cis-f-c
(遠くに置かれたブラス・オーケストラ)(302)(316)
第5節「常に同じテンポで、少し速めて」317356cis
第6節「よりゆっくりと」357422a
第7節「テンポI」423510