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2007年5月12日土曜日

大地の歌について:ヴェーベルンが1911年にベルクに宛てた手紙より

大地の歌について:ヴェーベルンが1911年にベルクに宛てた手紙より(Wolfgang Schreiber, "Mahler", Rowohlt, 1971, p.168, 邦訳『大作曲家 マーラー』, 岩下眞好訳, 音楽之友社, 1993. p.249)
Ich spiele noch oft das « Lied von der Erde ». Es ist unglaublich schön. Es ist nicht zu sagen.

私はあいかわらず、しばしば『大地の歌』を演奏します。この作品は信じられないほど美しい。それはまったく筆舌に尽くし難い。 

ヴェーベルンがベルクともども熱烈なマーラー・ファンで、寧ろシェーンベルクの方が弟子に影響されて「改宗」した感じすら あることは良く知られているが、上記の文章は、大地の歌の1911年11月20日のミュンヘンでの初演にあたってのヴェーベルンの 反応の一部であろう。一連の手紙は、ヴェーベルンがベルクに初演を一緒に聴こうと誘う手紙(10月30日付け)から始まって、 初演に先立ってアルマ・マーラーに楽譜を見せてもらった喜びを告げる11月18付けのシェーンベルクへの手紙、そして11月23日付けの、 ケーニガー宛てとベルク宛の手紙まで続く。翻訳でその幾つかを読むことができるようだが、どうやらどれも断片的なようだ。 上記はシュライバーの評伝の巻末の「証言」に収められたものだが、そのどれに繋がっているのか、あるいは別の手紙の一部なのか 判然としない。(2007.5.12 執筆・公開, 2024.8.11 出典・邦訳を追加)

2007年4月30日月曜日

はじめに:マーラーについて、私は一体何をしようというのか?(後半)

(承前)―やれやれ、また話が逸れた。結局、マーラーについて一体何をしたいのか、そうやって撒き散らすものに対して、どう責任をとる つもりなのか、答える気はないんだな? そもそも、何でマーラーじゃなくちゃいけないんだね。100年も前の、全く異なる環境に生きた 人間のした事が、お前の問題とやらにどう関わるというんだ。気質も能力も違えば、世界観だって違うだろう。せめて時代がもっと 近ければ、問題意識の共有とかもありうるだろうに、それをわざわざ自分の問題に引きつけるなんて、どこかですり替えでもしない限り 無理なんじゃないのか?

―確かに、マーラーの時代と現代では意識について得られている知識の量も違えば、見方も異なっているのは確かだ。進化論にしても 同じ事で、マーラーの時代には許されていた空想の入り込む余地はずっと少なくなっている。意識の問題は、もはや哲学の問題では なくなっているんだ。恐らくは幸いなことにね。やっと机の叩き合い以上の議論ができるようになってきた。(それでも、屁理屈をひねり 出しては話をまぜっかえそうという、哲学者はいるみたいだけどね。)でも、意識の成立の機構がわかったとしても、意識「からの」展望は なくならないし、意識「にとっての」問題は残るんだよ。クオリアはなくならないんだ。自分がどんなに儚く、しかも制限されたものだとしても、 それをまるまる幻想だと言うべきではないんだ。フッサールの現象学が、意識が自分の背中を、自分の基盤を覗き込むことができると 考えていたとしたら、その思い込み自体は幻想だと言って良い。意識は「ほぼ」おまけみたいなものだろうよ。でも、意識は現にある。 だいいち、こうした議論をやっているのはまさに意識じゃないか。自分の権能について幻想を抱くべきじゃないけど、でもまるまる なかったことにするわけにはいかない。或る種の宗教はこうした考え方自体を問題視するのかも知れないけど、僕はそうは思わない。 マーラーの音楽は、それが如何に大きく暗黙のものとなった技能や、無意識的な様々な活動に依拠しているとしても、それでも 意識なしには産み出されなかったと思うよ。意識は極めて受動的に「書きとった」のかも知れないけど、マーラーの音楽には、 書きとらされた意識がはっきりと読み取れると思うんだ。しかもマーラーは、自我の全能性に対する懐疑を持ち合わせていた。 うまくいえないけど、マーラーの場合に限って言えば、こうした問題は、音楽のいわゆる標題、単なる素材じゃない。音楽の構造 自体がこうした問題の構造をある仕方で写し取っているんだと思うよ。
勿論、そうした事態が唯一マーラーだけにおきていると考えているわけではないし、問題意識としてはもっと今日的な仕方で 向き合っていると思える音楽もある。例えば三輪眞弘、クセナキスの方が意識というものに対する距離のとり方としては 現代的だし、いわゆるパラダイムみたいな部分で暗黙のうちに共有している部分が大きいんだろうと思う。あるいは晩年の ショスタコーヴィチの方がマーラーより遥かに醒めていて徹底しているかも知れない。個人的な気質みたいな部分だったら、 ヴェーベルンの方が遥かに身近だと思ってる。
でも、事実として僕にはマーラーの音楽がすっかり染み付いている。今更脱ぎ捨てるわけにはいかないくらい、それは言ってみれば 身体化されているんだ。出遭った時期のせいもあるかも知れない。それは結局偶然の為せる業かも知れないけど、いずれにしても マーラーの音楽は、僕の中に埋め込まれちゃっているんだ。音楽を聴くことは単なる娯楽なんかじゃない。一方で意識的な知識や 習得、教養の涵養にも留まらない。単なる感覚的な刺激の受容でもない。それは世界に対する反応の様式を、認識の方法を学ぶこと、 自分の回路のなかに引き込んでマップするといった側面があるんだよ。ある抽象的な水準での身体の様態の(変換を伴う、でも何か同型性を 保っているはずの)伝達、「感受の伝達」のものすごく複雑なバージョンが音楽を聴くことで起きているんだ。すべての音楽がそうだとは言わないし、 音楽一般になんか僕は興味ない。でもマーラーの場合には、自分の経験に照らして、そうなのだと言えると思うよ。
確かに何で今更マーラーなんだって、僕だって思わないでもないよ。今やCDだって単純に枚数を計算しても50枚と持っていない。 それでも作曲家別に考えたら、まだ1,2を争う量だ。僕は出不精なんで実演はもうほとんど聴かないけど、それでも交響曲は過半の曲の 実演を聴いている。第1交響曲ハンブルク稿の日本初演にだって立ち会った(ひどく「鳴らない」演奏で、あんまり楽しめなかったけどね)。 ひどい劣等比較だけどね。楽譜だって全ての作品のものを持っているわけじゃないけど、それでも被覆率は圧倒的に高い。 専門の研究者なら必ず読んでいるであろう文献だって、全然読めていないだろうけど、それでも既読文献の数や、 手元にある文献の数からいけば、他とは比較にならないくらい多い。要するに、他の人たちと比較してどうかはおくとして、 自分の持ち札のなかでの相対的な比較では、それが劣等比較にすぎなくても、マーラーが一番「まし」なんだよ。
ほとんど全ての作品を満遍なく聴いているし、繰り返し聴くし、思い浮かべることもできる。これまた被覆率は圧倒的だ。まあマーラーは 作品数が少ないから、というのもあるけど、でもマーラーなら交響曲だけじゃなく、歌曲だって同じように接している。もっとも編曲の類には 関心がないけれど。引用されている譜例を読んだときに、それがどの曲の何処の部分なのか同定して、頭の中でその部分を流すことが できるといった程度のことさえ、それなりの確実さと網羅度をもってできると言える自信があるのは辛うじてマーラーだけなんだよ。 あるいはまた、作品の成立史、伝記的な事実、そればかりか真偽の怪しいエピソードの類に至るまで、 マーラーの場合ほど頭にきちんと叩き込まれているケースは他にはないし、いわゆる作曲家論、作品論の類にしても、あくまでも相対的にまし、 というだけにせよ、マーラー以上に知っているといえるのはないんだ。
今時点での「意識的な」距離感からいけば、マーラーは決して一番身近な存在じゃない。寧ろ距離感を感じているのも確かだ。 けれど、その音楽が、人物が自分の「身についている」度合いからいえば、マーラーはやはり特別なんだ。だからこそ「番外」扱いにしているんだ。
主観的な価値、というのはそういうことをひっくるめてのことなんだ。自分の脳の中にしまいこまれているものを、外に引っ張り出して形にするとして、 一番意味がありそうなのは、結局、マーラーにまつわる経験なんだということだと思う。何度も言うけど、それ以上の理由はないんだ。客観的に見て どうであろうと、今の自分にとってそれが必ずしも無条件に具合がいいことではなくても、結局、それが自分にとっての問題なんだ。 どういう結論になるのか、そもそも結論が出るのかもわからないけど、でも、決着をつけなくてはと思っている事柄なんだよ。あるいは或る日、突然、 どうでもよくなってしまう瞬間が訪れるかも知れない。でもまあ、その日が来るまでは少しずつやっていくつもりでいるよ。少なくとも今の時点ではね。 それ以前に、どれだけ時間がとれるのか怪しいものではあるけれど、、、

―お前の個別の事情なんかどうでもいいんだよ。一体そんなものに誰が興味を持つんだ。そんなものは公共性を持ち得ないし、どうあがいても 学問には辿り着かないぞ。お前の様な態度は、結局のところ消費者の問題に過ぎないものへの居直りじゃないか。お前は150年も前にヘーゲルが 美学講義で、お前みたいな姿勢に対してどう言っていたか知らないのか?

ーそれは、「... しかしそうした研究が進展することはない。なぜなら感受というものは不確かでぼんやりとした精神領域だからである。感受されるものは、 もっとも抽象的な個々の主観性という形につつみこまれたままなのであり、したがって感受の相違もまたまったく抽象的で、事柄自体の相違ではない。  ... 感受の省察は、主観的な情動とその特殊性の観察で満足するのであって、単なる主観性やその状態をほうりだしてまで、事柄に、つまり 芸術作品に沈潜・没頭することはないのである。」というやつのことだろう? いや、ヘーゲルの言っていることにまるまる同意できないわけじゃないよ。 寧ろ、ヘーゲルの言ったことは認めた上で、それでもそうした感受抜きに、一体音楽について語ることができるのか、音楽の持つ力について証言できるのか、 と聞いてみたいんだよ。丁度アドルノは、この部分を「新音楽の哲学」の中で反主知主義をチャイコフスキー―アドルノではいつも悪役扱いだが―をだしにして 揶揄している部分で引用しているね(邦訳、渡辺健訳、p.22、上掲の引用も邦訳に従った)。アドルノはそれとは別に聴取の類型論―これまた「エリート主義」の廉で 批難を浴びることの多い、問題あるものだが―も提示していて、その中でまたもやチャイコフスキーを引き合いに出しながら、「自分の本能を解き放って くれるのが音楽なのだ」というような「情緒的聴取者」を分類している。勿論否定的な価値付けとともにね。「教養消費者」「良き聴取者」「エキスパート」というふうに 続くこの類型の価値のスペクトルを眺めていてふと思い浮かぶのが、その「エキスパート」に関してアドルノは、今度はヘーゲルの見解に誤認を認め、―この2つの議論を 単純に重ね合わせていいのかどうかには議論があるかもしれないけど―必ずしも手放しで上述の類型論での価値のスペクトルを是認しているわけでは なさそうだということだ。(アドルノが嫌いな人なら、またいつものやり口か、と腹を立てることだろう。)  結局アドルノは、そもそも享受美学というのに―それが「趣味」という主観的、あるいは間主観的なものに依拠するようなものである限りは― 懐疑的だったんじゃないかと思えるけど、でもアドルノの個別的なもの、主観的な経験に対する態度や、彼が芸術に見出していた働きなり、 力なりを考えた場合、アドルノの創作の極への偏重には疑問が残ると思うんだ。つまりアドルノの周囲にあった享受美学が抱える限界を、 享受そのものの限界と混同すべきでないし、それが理論的には途方も無く厄介なことは明らかでも、やはり享受の極でおきていることに 一定の―通常の社会学の概念では測りきれない―価値を認めるべきなんだと思う。実際アドルノもまた、そのように考えていたふしはあるようだしね。
結局のところ作品は読み解かれることを欲してはいないだろうか? 壜に手紙を封じて海に投じるのは、それが何時か誰かに拾われて読まれることを期待してのことだろう。(マーラーその人の、作品の価値に対する自信と それが理解されないことへの不安を思い浮かべてもいい。彼はやはり、自分ではない他者の誰かが理解してくれることを望んでいたのではないか。 更にはマーラーの場合には、一方で、作品は作者の成長の過程の抜け殻に過ぎないという主旨のことも言っている。いまここでは作品に限定して 話をするけど、この発言もまた最後にはきちんと取り上げる必要があると思っている。マーラーは作品創造について十分に意識的・反省的でもありえた ―自分が創作している最中はそうではなくとも―し、そのことは考慮に入れるべきだろう。) 作品の価値を決定する必須の契機として、理論に受容者を招じ入れることの危険とは裏腹に、作品は受容者を待ち望んでいるんじゃないか。 作品それ自身が生き残り、引き継がれ、再生産されることを望んでいるのではないか?要するに「星座」は解釈者の視点を前提としているんだ。 ならばなぜ作品において創作の極のみが偏重されるんだい?勿論、解釈者を固定してしまうことはいわば論点先取であり、その意味で受容者を「前提とする」 ことへの抵抗は首肯できる。でも星座は解釈者の立つ位置によって、そのすがたを変えるんだよ。否、時が経てば、元の星座の見分けすらつかなるなるだろうよ。 そもそも解釈者の視点なしに星座というのを考えることはできないんだ。所詮は理念の関係とて、プラトン的なイデアの世界の住人ではありえない。 だからアドルノのテルミノロギーで星座というのは言いえて妙であって、アドルノの立場はその意味で、自分の立っている歴史的文脈に自覚的なものには 違いないんだよ。しかし、そうであってみれば、創作の歴史的文脈への理解なしには作品の正しい理解がありえないとする立場において、創作の極への偏重は、 結局のところ作品の自律性を、解釈の恣意性への危険への予防線と引き換えに損なってしまうことになってしまうんじゃないだろうか。
勿論、だからといって一気に何でもありになると言いたいんじゃないよ。ヘーゲルの批判はそれでもなお有効だ。極端な言い方をすれば、例えば、 マーラーの音楽を聴くことで僕の脳内のニューロンの初期状態がこうであったものが、このように変化しました、というのを一度限り記述することになんか、 勿論意味は無いさ。結局はニューロンの活動だとしても、ここでの主題は心理学実験ではないのだから、「神経美学」とでもいうべき水準まで還元するのが 適切な記述レベルだとも思わないしね。ヘーゲルの時代に比べれば、ヘーゲルの時代には知られていなかったレベルがはっきりとしてきた今日においては、 感受はヘーゲルが言うほど不確かでぼんやりとした精神領域というわけではないだろう。だけど、ここでの適切な記述レベルに関して言えば、 事態は多分そう進展はしていないだろうね。 つまり君の言うとおり、僕のやりたいことは、今の手持ちの道具立てでは公共性を持ち得ないし、どうあがいても恐らく学問には辿り着かない。 「個別的なものについての学」というのは不可能なんだ。それは認めるよ。そしてそれでいいと思っている。学問の見かけのもとに趣味の押し売りをやったり、 結局は事柄には辿り着かないどころか、それをかえって見えにくくさえし兼ねない知識を、消息通ぶりを発揮して振り回したりするよりはましだと思うよ。
そもそも、僕のことはおいても、マーラーの研究の進展には「素人くささ」が付き纏ってきた、というのが客観的な評価なのだろう。 アドルノなんか専門の音楽家、音楽学者、音楽社会学者などからしたら、赦し難い越権行為の連続だろうし、 ド・ラ・グランジュの伝記研究も、ミッチェルの生成史研究も、「学問的には」手続き上必ずしも厳密とは言えない、という話を聞いたことがあるよ。 僕個人としては、彼らの研究に垣間見えるマーラーに対する気持ちを感じ取るのは決していやな経験ではないけどね。あのクルト・ブラウコプフですら、 後書きで個人的な述懐をしているけど、それを読んだとき僕は胸が一杯になった。そもそも、彼らがどれだけの年月をかけて著作を産み出していることか。 それは確かにきちんとした計画に沿って整然と、効率よく、採算性を考慮して進められる学問研究じゃないだろう。手際よく数週間で1冊の本を書き上げる のにも能力と蓄積は必要だろうけど、その人の半生をかけて書き上げられたものにも、かけがえのない重みを感じるよ。
そうした第一線の研究はおいても、マーラーを語るときには皆、自分のマーラー経験を語る衝動を抑え難く、それが或る種の儀式―多分、精神分析的な説明が つきそうな―になるというのは良く言われているし、実際、本当に皆、第一線の研究者も、市井の愛好家も、そうした衝動には忠実に見える。 これこそ、ちょっとした驚異じゃないかな。まるでアウトサイダー・アートみたいじゃないか。多分そこには何かがある。少なくとも、マーラーの音楽には、個別的なもの、 主観的な経験のかけがえのなさを救い出そうとする何かが含まれているんじゃないかな? そうしたことの方が、まるでこの100年の進化論をはじめとする自然科学の 進展とそれによる世界認識の変化なんか存在しないかの如くの、黴の生えたような、それこそ「不確かでぼんやりとした」世界観や宇宙観にマーラーを縛り付けて おこうとせんばかりの、標題についての議論なんかより、僕にははるかに重要に思えるんだよ。勿論、マーラーの音楽はアウトサイダー・アートではないし、その音楽が アウシュビッツ、ヒロシマ、ナガサキを予言している、などというような立場は、これまた受け容れ難い。マーラーが預言者である、とか現代社会のある側面を先取り している、という言い方もされるけど、これまた首肯しがたいものを感じるんだ。結局それは、ある時代という文脈の限定性を、マーラーが生きた同時代から、 論者の語る時代に移動させているだけで、論法は大して変わっていないような気がする。結局、マーラーを持論を述べる題材にしているだけで、マーラーの 音楽そのものについて語っているとは思えない。
そうではなくて、もっとマーラーの音楽そのものに寄り添った経験、最初は個別の、取るに足らない、ヘーゲル的には「抽象的な」経験の方が大事だし、そして、僕もまた、そうした経験を語りたいという衝動に逆らおうとは思わない。そしてその上で、時間が許す限り、 自分の経験から作品と人の両方に向けて進んでいきたいんだ。方法論があるわけでもなし、まあ、大した成果は自分でも 期待していないけど、止めてしまうわけにはいかないんだ。繰り返しになるけど、そのようにマーラーの音楽が誘っているんだよ。

―まあ勝手にすればいいさ。どれだけ時間がとれるかだって、動機付けの強さ次第だろうに。最初からそんな予防線を張っているところを みると、先行きは期待できそうにないな。せいぜい優先順位をつけて、あちこち寄り道せずにやることだ。お前みたいにキャパシティのない奴の場合にはことさら、「強さは狭さの応酬」なんだろうから、、、

(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)

はじめに:マーラーについて、私は一体何をしようというのか?(前半)

―マーラーについての情報なら、すでに巷に溢れている。そもそも、マーラーはお前が初めて出会ったときのように、説明を要するような 存在ではもはやない。四半世紀の間、お前が「世の成り行き」にかまけている間に、すっかり風景は変わってしまったのだ。 だから、今更マーラーについて、お前がやるべきことなんかない。ましてや、かつてと異なって、マーラーはお前のアイドルではないだろう。 あの盲目的で、近視眼的な、自分勝手な思い込みや共感は、けれども何かをマーラーに対してしようとするときに、必要な愚かさ だったかも知れないのだが、お前には既にそれは残っていない。マーラーが如何に例外的な才能と能力の持ち主であったか、 さらには自分とどんなに異なる気質の持ち主であるか、今のお前にはよくわかっているだろう。
お前はマーラーの音楽の演奏者・解釈者ではないし、マーラーを研究分野とする音楽学者でもない。今のお前と比較するのは 始めから無意味だが、かつてのお前程度の「フリーク」だって、マーラーの場合であれば、世の中にそれこそ数限りなく居るし、 これからも出てくるに違いない。もっと熱心なコンサート・ゴーアー、もっと熱心なレコード・CD蒐集家、アマチュアであっても 自分でマーラーの演奏に参加する能力と時間を持った人間、そうした多くの人間が居るというのに、一体お前は、マーラーに ついてこれから何をしようというのか?
話をWebに限定してもいいだろう。それにしても既に、何と多くのサイトでマーラーが語られていることか。お前如きが付け加えるべき 何かなど残っているのか?一体、何がしたいんだ?


―何か新しいもの、価値のあるものを付け加えることができるという確信があるわけじゃないさ。自分が何か特別に寄与しうるものを 持っている自信もない。でも、価値については考えないことにしたんだ。少し前のことになるけど、クラシック音楽について自分の書いた コンテンツを読み返して、そのうちあるものを破棄し、その後検索サイトのキャッシュを探して復元したり、ということを繰り返した時期があった。 キャッシュが残っているのも我慢できずに、自分の書いたページに対する削除依頼を出したこともあった。(効果はなかったようだけど。) 手元にあるバックアップは勿論、最初に消してしまったわけだ。実のところ、復元しようと思ったときにはもうキャッシュも残っていなくて、 記憶に基づいて改めて書き直した記事もあった。よく覚えていないものについては、それだけの価値がなかったのだ、 ということで諦めることにしたりもした。以前に書いたときほど うまく書けずに、再構を断念したものもある。でも僕は不徹底な人間なんで、そういうことにもじきに飽きてきて、ある時、 公開したものを撤回するのは止めよう、そのかわり、今残っているもの以外のことは考えないことにしよう、更に、残ったもののうち、 どれを凍結し、どれを拡張していくか、その場限りのものであってもいいから、方針を決めようと思ったんだ。
若干の手直しはすることはあっても、原則としてもうこれ以上関わらないために、言ってみれば「決着をつけるために」書いた文章 というのもあるんだ。それらは最早不要なものだけれど、不要なものとしてそこに残っている必要があるみたいなんだ。 それに気づかなかったのが、不毛ないたちごっこの原因の一つだったらしい。
一方で、まだ書くことが残っていることがはっきりしているものもあった。勿論、こんな判断は、いつ反故になるかわかったもんじゃない。 けれど、とにかく、「決着をつけるためには」まだ書かなくてはならなさそうだ、と思えるものがあった。その2つを区別したとき、 マーラーは後者の側に残ったんだ。要するにマーラーは、未解決の問題なんだよ。価値という点でいけば、専ら主観的な価値だけ しか考えていない。別に他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、自分の嗜好を押し付けたいわけじゃないんだ。他の人が マーラーに接する際の参考にして欲しいと思っているわけでもなし、何か他の人の知らない恐らくは有益な情報を提供しようと 考えているわけではない。

―これまた随分な言い様だね。専ら主観的な価値のみが問題だというなら何で公開するんだい? そんなものは気が済むまで こっそり書いて、引き出しにしまいこむなり、燃やしてしまうなりしてしまえばいいだろう。お前の言い分は到底額面通りには 受け止められないよ。実際には、そんなに謙虚で控えめに考えているわけではないんだろう? 正直に言ったらどうなんだ?

―いや、主観的な価値が問題だとしても、書くことは孤立した営みでは困るんだ。迷惑千万かも知れないけど、それは 自分の手を離れる必要があるんだ。それもまたコナートゥス・エッセンディなのかも知れない。 それが利己的だというなら、それでも仕方ないよ。(贈与がコナートゥスの様態だとか言ったら、レヴィナスはどういう顔をするだろうね? この問題は、多分見かけほど―そしてここでこのように皮相なかたちで扱われているほど―には単純な問題ではないのかも知れないね。 レヴィナスだって、多産性のようなかたちで問題をきちんと言い当てているし。けれどもここはレヴィナス的な倫理を主題的に扱う場じゃない。) でも、寧ろマーラーが自分にとって他者であることがはっきりとわかった今なら、その分だけはっきりと、他者から受け取ったものは、他者に渡すべき なのではないかと、そう問うてみることができると感じている。もちろん、収支は大幅な入超だ、ということになるのかも知れない。 主観的な価値が問題だ、というのは、その収支で計量できる価値においては、自分が手渡すことができるものがどんなに貧しいもの、 限りなく無に近いものであっても、それでも、受け取ったからには、自分から手渡す何かがあるべきだと思う、ということなんだ。 その何かは、実際には僕の脳の中にしまいこまれて、生命活動が止んだ日にそのまま無に帰してしまっても別にどうということはないかも知れない。 どっちでも世の中にとっては違いはないのかも知れない。それは仕方のないことだよ。でも、僕が受け取ったものは、作った人間が「神の衣を織る」 つもりで作り上げたものなんだよ。たとえ自分は「神の衣を織る」ことそのものには与れなくとも、せめてその衣について語ることくらいは したいんだよ。自分の目にした貴重なものが、自分の脳の中だけに記憶され、自分の死とともになくなってしまうのが嫌なんだよ。

―それについてなら、心配はいらない。何もお前が残さなくてもマーラーの作品は残る。別にお前が何かしなくてはならないことなんかない。 繰り返しになるけど、もう今はお前がマーラーに出会った時代ではないんだ。こんなに「流行る」とは思わなかったけど、でもどっちみちお前が 何かしたからこうなったわけじゃないしな。いや、お前がマーラーに出会った時代には、マイケル・ケネディではないが、すでにポットの湯は 沸騰寸前だったんだよ。そもそも、その後のナチスの影も含め、反ユダヤ主義の問題があったとはいえ、マーラーは同時代においてすら 少なくとも「話題の中心」ではあったんだ。ほっとけば流砂に埋もれてしまうお前のような存在とは訳が違うんだよ。とにかく、いずれにしても 現時点ではこれ以上マーラーについて何を言っても後出しジャンケンみたいなもんだ。

―それはわかってるよ。だから主観的な価値の問題だと言ってるんだ。でも、マーラーの作品の価値が自分と全く無関係だとは 思わないよ。寄与度としてはどんなに取るに足らないものであっても、無関係ということはない。そもそもマーラーの価値というけれど、 それを認めない人だって、いつの時代にもきっといるんだし、そもそも、マーラーなんか知らない、という人だってたくさんいる。 それどころか、寧ろそっちの方が多いんじゃないかな。マーラーの価値を自明で磐石のものと考えるのは、ある価値観を共有する 環境の下でのみ有効に過ぎない。その範囲は時間的にも空間的にも限定されていると思うけど。勿論そんなこと言ったら、 マーラーに限らず何でもそうだということになるかも知れない。実際その通りなんだ。マーラーを擁護し、批判するというけれど、 それが問題にされる世界というのは、実際にはちっぽけなものだ。マーラーなんかなくたって全然困らない世界の方が遥かに 大きいんだよ。別に自分のことを棚にあげているわけではないよ。マーラーですらそうなのだ、と言ってもいい。いずれにしても その価値は全然自明じゃない。

―おいおい、一体何を言い出すんだ。お前は一体誰に向かって何をしようというんだ。謙虚さはどこへやらで、今後は 十字軍気取りかよ。だいたいそんなこと誰も頼んでないし、マーラーだってそんなこと期待しちゃいないだろう。 さっきは主観的な価値と言っておきながら、随分とこれはまた大風呂敷なことを言うものだ。 それでいて他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、何か他の人の知らない情報を提供しようと考えているわけではないと 言うのだから、全く矛盾も甚だしい。いい加減にしたらどうだ?

―それを矛盾と言うなら、そうかも知れないな。けれど僕が言いたいのは、自分の価値観を他人に押し付けて、無理やり同意を 求めたりはしなくない、でも、自分が価値を認めるものについて、沈黙したまま墓の中に持って行くことはしたくない、ということだけなんだ。 つきつめればこの2つは矛盾するかも知れない。所詮はミームの生存競争なんだろうからね。謙虚なのは見かけだけで、それはミームの 纏う詭計ではないかと言われれば、そうかも知れないという他ない。少なくとも進化論的ゲーム理論のような枠組みではそういうことに なるんだろうね。
ところで、マーラーについては、例えばそうした(必ずしもダーウィン的なものに限定されない)進化論的な考え方(マーラー自身もその音楽も その中では1つの個体に過ぎない)と、マーラーの音楽の内容(つまり音楽自体が、そうした考え方についての或る種の反応なんだ) とが触れ合うんだ。もっと言えば、マーラーの音楽こそ、意識のパラドックスの最も端的な現れの一つなんじゃないかな。 僕にとってマーラーが未解決の問題だ、というのは、一つにはそういうことが含まれているんだ。マーラー自身、(人はただちに第3交響曲に まつわる議論を思い浮かべるだろうけど、)ダーウィンの時代の人間だし、ニーチェは勿論だけれど、単にドイツ・ロマン派的な自然哲学に 親しんでいたというのに留まらず、それ以上に自然科学への関心がとても強く、フェヒナーやロッツェを愛読していたくらいで 進化論的な発想は馴染みがないものではなかったようだし、一方で、不滅性の問題―それは普通には寧ろ、「魂の救済」とか「宗教」 の問題と見做されるのだろうし、実際、マーラーその人の文脈ではそう言ってしまってもいいんだろうけど、僕は出来ることなら一旦 そうした文脈を括弧入れして、自分の生きている時代の文脈、あるいは自分が育まれてきた環境の文脈に置き換えたいんだ―は 彼の中心的な問題であり続けた。人と音楽とは勿論区別しなくちゃいけないけど、マーラーの場合、結局、別々に論じることは できないし、マーラーの音楽は、それを安易に素材としての標題と結びつけるのは問題だけど、さりとて意味を無視して形式だけ 論じることを音楽自体が拒否しているのも確かなことだ。いや、それを一般的に論証するのは無理かもしれない。でも僕にとっては そうだ。僕がマーラーの音楽を聴いて受け取ったものは、入り口では生理的・感覚的・情緒的な反応に過ぎなくても、どこかでそうした 概念的なものと結びついている。個別事例でいいんだ。私の場合、であって、それが一般性を持たなくたっていい。所詮は一般性 なんて程度問題なんだし。でも、「私は確かにこうしたものを受け取った。それは決して無ではない。」ということを、示したいんだよ。 勝手な言い草かも知れないけど、マーラーの音楽がそのように誘っているんだ。

―相変わらずの飛躍ぶりだな。全く目が眩んでしまう。マイヤー言うところの「絶対的な表現主義者」の立場に共感を覚えていると 言う割には、お前の言うことはいつもいつも作品そのものとは懸け離れた話ばかりじゃないか。それでフローロスについて否定的に 考えているなどとよく言えたもんだ。所詮は音楽の享受者でしかないくせに、背伸びをするのも程ほどにしたらどうなんだ?

―確かにそれはその通りだよ。僕は音楽の創作の現場にいるわけじゃないから、そこでなら可能な、生産的な継承というのは 無い物ねだりだ。でも、だからといってマーラーの作品を完結した過去の遺物としてしか扱えないとは思わない。こんなことを 言ったら不遜の謗りは免れないだろうけどね。
フローロスのやり方でひっかかるのは、彼が「それは確かにマーラー自身が考えてメモ書きしたことだ」とか、「この手紙で 彼自身が言っている」「誰それに語ったという証言が残っている」という実証性を免罪符にして、結局は素材に過ぎなかったり、 あるいは極めて不正確な歪みをもった譬えに過ぎないものを、作品の内容そのものと同一視してしまう危険がある点なんだ。 前島さんのいう標題Aへの経路として標題B,Cがある、ということが常に意識されていればいいんだけど、フローロスの議論は 時々、前島さんほどはその点が峻別されていないように思えるしね。そもそも、前言語的な標題Aって、一体何なんだろう。 それをあえてまだ、―混同の危険を冒してまで―、標題と呼ぶ必要があるんだろうか。結局、言語で議論を行っていて、 標題B,Cが持っているバイアスを除去して、標題Aをいわば「還元」することなんか、できるんだろうか。それを可能にする には、標題B,C以外の別のものを持ち込むなりして遠回りをする必要はないんだろうか。何か、ちょっと人工知能における 「表象」の問題に似ている気もするなあ。
でも実は、本当の問題は、標題Aを認めたとして、それは依然として作者の意図の、作品にとっては素材の水準に留まって、 作品に実現されている内容には辿り着かないことに対して無頓着なことではないかな。勿論、作者の意図は重要だし、 それがある作品の魅力をかなりの部分規定してしまうことは否定し難い。でも、意図されたものだけでは十分じゃない。 だって僕が聴きとって惹きつけられたのは、その作品の内容なんだ。マーラー自身、意識的な意図を超えて「書きとらされている」 という証言を何度となくしているけど、作品の内容は、作者の意図と一致しない。勿論、不等号がどっちを向くかは場合による んだけど、マーラーのような天才の場合には、いつも作品が意図をはみ出しているんじゃないか、だからこそ、時代の制約を 超えた価値を持ちうるんじゃないだろうか。アドルノの観相学や精神分析的な読解がいつも妥当だとは思わないよ。恣意におちいってしまう 危険は大きいだろう。だけど、それらはそうした「言外」の部分を取り出そうとしているわけで、そうしたアプローチもまた、意義があると 思うけどね。要するに、作品そのものが問題なんだし、記号論的三分法でいう作品のレベルの中立性は理論的な仮構である ことを思えば、寧ろそうした恣意の危険は避けて通るべきではないと思う。少なくとも僕は、自分が受け止めたものに忠実でありたいと 思うしね。「客観的な」マーラー評価は、どこかの偉い音楽学者や評論家の先生の仕事で、僕には関係ない。
もちろん標題B,Cを実証的に跡付ける作業が全く無価値だとは思わないし、そうした実証性は、資料的な価値は十分にあるから、 それはそれで大事なことではあるんだろうけど、フローロスのようなアプローチだと、(まあ彼自身、実際にそう言っているんだけれども) 19世紀に書かれた交響曲は、マーラー「に限らず」、軒並みフローロスのような標題的な分析が可能であるということになってしまう。 もっとも、これをきちんと考えるには、翻訳されていない第2巻あたりで展開されているらしい、「性格」についての議論から辿ら なくちゃいけないだろうね。それが標題にどうつながっていくのか、フローロスが意味論をどのように根拠付けるのかがわからないと、 フローロスの「方法」については判断できない。その意味では―まあ、売れないだろうから仕方ないけど―第3巻だけが 翻訳されているのは、残念なことだと思う。上でも触れた前島さんの解説はとても立派なものだけど、それがフローロスのやっている こととどう関わるのかがわからないと、読者は戸惑うんじゃないかな。あるいは、安易な読者なら、前島さんの説明を読んで、 それがフローロスの主張(の代弁)であると見做して先に進んでしまうんじゃないかしら。どうせなら、ついでにフローロスの議論では 前提がどんなものであるかというのを、第1巻、第2巻の内容を要約する仕方で説明してもらえればよかったのに、と思うよ。 その要約があれば、安心して第3巻を読むことができるわけだしね。でも、これまた今ここで僕が言いたいこととは関係ない。 音楽学の方法論は、音楽学者とか音楽評論家が批判しあって改良していけばよくて、僕なんかが口出ししてもしょうがないしね。
とにかくフローロスの方法論が一般的な妥当性を持つとしたら、例えばブラームスとマーラーを隔てるものもないし、マーラーが あんなに苦労して差別化しようとした、シュトラウスとマーラーを隔てるものもなくなってしまうんじゃなかろうか。 もしそうだとしたら、別にそういうアプローチの仕方そのものを否定するつもりはないけど、それならそれで、寧ろマーラーなんかより、 「絶対音楽」であるはずのブラームスの交響曲とかを分析した方が面白かったんじゃないかな。そうでなきゃ、色々と道具は持ち出したけど、 結局景色は大して変わらない気がするしね。
でも、だとしたら少なくとも僕はそんなアプローチには全く興味はない。別にマーラーの意図を尊重してというわけではなく、 僕が救い出したいのはマーラーの独自性だからだ。「そんなものはないんだ。結局、マーラーだって時代の子であって、彼がやろうとしたことは、 その時代の人間は多かれ少なかれ思いついていたし、気づこうと気づくまいと、実際にやっていたことなんだ。」という声が 聞こえてきそうだけど、僕はそれには、たとえそれが身の程知らずだろうと、抗弁するつもりだよ。だって、僕は他ならぬ マーラーの音楽に惹きつけられたんだから。欲しいのは時代の一般的な傾向なんかじゃなくて、差異の説明なんだ。
同じことは、社会的・文化的な背景を強調する立場に対しても言える。19世紀末のウィーンの状況を知ることは、 マーラーを理解するのに大切なことだというのは否定しないし、そうした文献にあたることはとても興味深いことだと思う。 でも僕が惹かれたのはマーラーであって、19世紀末のウィーンの方じゃない。はっきり言って19世紀末のウィーンには寧ろ 反撥の方を覚えるくらいだ。それよりなにより、時代がこうだったから、という説明は、結局のところ、いつまでも僕のマーラー 経験には辿り着かない。
それよりかは例えばシェーンベルクのプラハ講演でのあの第6交響曲アンダンテの旋律の分析の方が、よほど僕の経験を 的確に説明してくれるように思えるんだ。もちろん楽曲分析なら何でもいいというわけじゃない。一例をあげれば、楽曲分析としてはマイヤー的な 手法を批判的に継承し、時間性の分析としてはフッサールやハイデガーの現象学を援用するという触れ込みのグリーンの分析は、その着想はとても魅力的なのに、 結局のところ不毛なものに思えてならないんだ。そこでは分析の手法はいわばアリバイに過ぎず、結局言われていることは、 分析の手法とはほとんど無関係にも言いうるようなこと、しかも更に悪いことには、ほぼ空虚な主張に過ぎないのではなかろうか。 どうやら彼は、ハーツホーンのプロセス神学の研究もしているらしいから、ホワイトヘッドのプロセス哲学の道具立てだって 知っている筈なんだけどフッサールやハイデッガーに言及しているところを読むと、随分と不可解なことが書かれていて 理解に苦しむ部分も多い。現象学的な時間論とグリーンがマーラーの交響曲について言いたいこととどう関係あるのかよくわからないし。 だいたい音楽学者が「音楽の現象学」とか「音楽の時間論」と言うときって、どうして現象学者の言葉の引用とか、 本来別の目的で為された旋律の分析のような断片的な議論の敷衍や、音楽作品の享受ではなくて音響知覚のレベルが 適当なような一般的な議論しかしないんだろう。音響学でも心理学でもなく、音楽の現象学を名乗り、あるいは 「音楽的時間」というのを殊更に主張しながら、~ではない、~でもない式の言い方ばっかりでちっとも固有の水準に ついての話は出てこないし、しかも個別の音楽作品という具体的な分析の素材が幾らでもあるというのに、個別の分析は ないか、あっても一見したところ奇妙に素朴な形而上学的な議論になったりして、ちっとも現象学的でなかったり、、、
(ちなみに、ホワイトヘッドの「過程と実在」における概念装置と、現象学的な記述との比較というのには随分昔に興味を 持ったことがあるよ。現象学的な記述にはその立場に由来する「影」がいつもつきまとっているし、ホワイトヘッドの道具立てはエラボレイト しなくてはいけないだろうけど、でもこうした事柄を記述する暫定的な出発点としては、そんなに見当外れだとも思わない。 今だったら、神経科学的な知見によってホワイトヘッドの記述にある肌理の粗さを補完することが考えられるし、現象学は それ自体を意識の自己記述(というか「虚像」の構成)の様相として、捉え返すことができそうに思える。そして、マーラーの ような音楽作品には、やはりそうした「影」が映りこんでいるように思える。だから、現象学と対比するのは、ことマーラーに 関しては決して見当はずれというわけではないんじゃないかな。別に構造主義的歴史学みたいに、あるいはアドルノの観相学の ように、現象学理論とマーラーの音楽が同じ社会的・文化的環境の反映で、或る種の同型性を持っている、というような ことを言おうとしているわけではなくて、もっと端的に、マーラーの音楽のありようが、「意識」の音楽だ、ということでいいんだけど。)
だいたい時間論といいながら、その時間分析のスキーマは随分と貧しくないだろうか? 因果性と自由意志の2つだけで、それを繰り返し用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として 無意味なことが起こるんじゃないかな。特に第8交響曲や第9交響曲については宗教的なテーマが前面に出てくるから、 彼の独擅場なんだろうけど、首を捻ってしまうな。「変容した意識」というのを繰り返し言うけど、変容の内実が語られなければ それは空疎だ。単に違うといっているだけで何の説明にもなっていないんじゃなかろうか。もし「変容」という言葉の宗教的コノテーションに よりかかった含意をそこに読み取るべきなのだ、というなら、それは結局、現象学や楽曲分析の結果じゃない。その「変容」とは どんなものであるのか、第8交響曲や第9交響曲の時間性の特異性―それ自体は、僕も否定しないよ―を記述する言葉を 見つけるのが課題だったんじゃないのか。
他にも、因果性の話題のところで、意識の話をしていたかと思えば、物理学における未来の事象の予測が出てきたり、 それがサルトルの「自我の超越」に結び付けられたりと、目が眩むような議論の展開が結構ある。あるいはマーラーの音楽と シュニッツラー、クリムト、クラウス、ハイデッガー、サルトルとの間にアナロジーが成り立つとか言われても、この名前の並びを見れば、 その程度のアナロジー(僕には極めて粗雑で、危ういものに見える)が一体マーラーの音楽の時間構造の理解にどう寄与するのか、 どちらかといえば怪訝な気持ちになるんだけどね。
実のところ、マーラーの音楽そのものについてグリーンの言っていることをとれば個別には首肯できる部分も結構あるんだけれど、 それを敷衍して意味や解釈のようなレベルになると途端に言っていることが怪しくなって、おしまいに他の哲学者の概念や文学作品、 美術などを持ち出してきて、アナロジーをやりだすと、今度は解釈の方が一人歩きしだして、こちらは全くついていけなくなる、 というのの繰り返しだ。少なくともグリーンは個別の作品の具体的な分析をやっていて、それは大変に貴重なものだし、グリーンの注目する フレーズの不均衡の問題や不完全なクロージャの問題は確かに重要な観点だと思う。だけど、そのレベルでだって、マーラー独自の 時間構造の特徴とでもいうべきものがちっとも浮び上がってこないように思えるし、それでいて聴取によって構成される構造のレベルの 議論をいきなり表現内容の話と結びつけるのはそもそも無理があるんじゃないかな。どうやらグリーンにとってはそれはmetaphorical exemplification という概念で正当化されているらしいんだけど、実際のグリーンの議論に関しては、全然納得できないな。
もう一言言えば、グリーンは自分の説の独自性を主張するのに、様々な論者の意見の批判をするんだけど、もし彼が音楽を 現象学的に分析しているんだとしたら、その批判の仕方はおかしいように思うな。批判するより、どうしてそうした(グリーンの 立場からは)「誤った」説が出てきてしまうのかの説明をすべきなんじゃなかろうか。仮に誰もグリーンが分析したようにはマーラーの 音楽を受け止めていないんだとしたら、それはグリーンの分析の正しさよりは寧ろ誤りの可能性を示唆する証拠にならないだろうか。 結局、一体グリーンが何をやりたいのか、何を言いたいのか、判然としないんだよ。これはすごくがっかりした。結構期待していたんでね。 まあ僕の頭が悪くて、しかも彼の目も眩むばかりの博学にはついていけないので、彼の主張の素晴らしさや独創性が理解できないだけかも 知れないけれど。

―おやおや、今度は楽曲分析に対する批判か。よくそんな偉そうなことが言えるものだ。それじゃあ、一体お前は何を言えると いうんだ。実際には他人の言っていること、やったことに難癖をつけるだけで、自分では何もしていないじゃないか。どうせ 自分では大したことも言えない癖に、どうやって責任をとるつもりだ。

―いや、それはもっともな批判だと思うし、実際、的を射ているよ。本当のところ、だからといって自分が画期的な分析の 方法を思いついたわけでも、マーラー研究に貢献しうる何かを持っているわけでもないんだ。だから批判する資格なんか 自分にはないのは承知している。自分が言っているのが単なる愚痴だというのもわかっている。でも、立派な研究が自分の 体験を素通りすることに違和感を感じるのは事実で、それを偽っても仕方ないだろう。所詮僕は研究者じゃないから、 方法論の批判が最後には自分に降りかかることになるのは避け難い。でも、おかしいと思うのを言うのだって、まるきり無駄では ないだろう。やっていることの不毛さへの批判は甘受するよ。その上で、自分に出来る仕方で自分の体験に忠実であること、 自分の体験を或る種の記録として残すことくらいしかできそうにない。それの価値については弁解はしない。それを決めるのは どんなにつまらない、僕の書いた文章のようなものであれ、そのきっかけとなった、比較を絶する価値を持つことは疑いようの ないマーラーの音楽であれ、いずれにせよ作者ではないんだ。別にジャンケレヴィッチ式の事実性に立て籠もって、価値の差に 立ち向かうつもりもない。(だいたい、あんな論法は何の慰めにもならないんじゃないかな。いや、あの本を読んだときには、 それなりに感心もするかも知れない。でも実際に、どの人称のでもいい、「夜」が来るのを経験すれば、、、) そう、ナチスの足音に怯えることのない幸福な時代であっても、貴賎を問わず、アドルノが「夜」と呼んだものは、レヴィナスが 指摘している通り、結局のところ誰にでもやってくるんだ。勿論、当然、僕の上にもだ。 正直に言うよ。最後はそれに尽きる。
マーラーがこの上もない天才的な仕方で為しえたことは、つまるところ、儚い存在に過ぎない意識の、主体の擁護ではないだろうか。 有限なものを無限にすることはできない。けれどもそれぞれの可能な仕方で不滅性に(到達することは不可能でも)漸近することは できるのではなかろうか。けれどそのときそれは最早、私ではなく、意識ではありえないだろう。 いずれにせよ「私」とは異なったものに委ねるほかないんだ。もし魂とは、そうした「異なるもの」の呼び名であるというなら、 僕はそれをまで否定するつもりはないよ。
こんなことを言ったからといって、勿論これは結論ではないんだ。寧ろ、これこそマーラーの音楽が呼び起こした問いなのではないか と思うんだ。同じことの繰り返しになるけれど、結局のところ、それは僕にとって未解決の問題なんだよ。恐らくは 決着がつくような代物ではないかも知れないけど、そうとわかっていても、少なくとも今しばらくは関わらざるを得ない、、、
だってそうだろう、同じ人間が、あの第8交響曲と第9交響曲を書いたんだよ。こんな矛盾があるだろうか。マイケル・ケネディは、 「実験」と見做すことでそれを理解しようとしていたように記憶しているけど、本当にそうなんだろうか? それでいて、そうした 分裂、懐疑を否定することができないとも思えるんだ。寧ろ、それは誠実さの証ではないだろうかとすら思えるんだよ。 どちらもそのときには正しかったのかも知れないしね。もしそうなら、第10交響曲のフィナーレの姿を、クック版のおかげで 垣間見ることができたからといって、それが結論ということにはならないかもしれない。いつでも否定される可能性はあるのだから。 でも、彼にとってはあれが結論だった、ともまた言いうるんだ。そして更に、音楽の上での結論と、その人の生涯の軌跡の上での 結論の関係が被さってくる。確かに所詮は他人の人生で、関係ないといえばない。でも、音楽がつきつけるものを無視して しまうことはできない。少なくとも我が事として引き受ける仕方では考えてみざるを得ない、あくまで僕の個人的な受け止め方だけどね、、、(以下、後半に続く。)

(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)

2006年9月30日土曜日

マーラーの音楽へのアプローチについての架空の問答

―歴史的なアプローチとは異なったアプローチ。音楽の構造を捉える別の仕方?

作曲者は歴史的に拘束されている。だから、創作にあってはアドルノが指摘するような力学が存在する。 だが音楽は残る。残って享受される音楽は必ずしも創作時の力学における作用の記憶をすべて保持しているとは限らないし、作曲の姿をそうした記憶に基づいてのみ解釈する必要も無い。出来上がった音楽は、静的な構造(生成論的に扱わないと言う意味で)を持っている。その構造の動態を記述したり解析したりすることも可能だ。その際、記述レベルの問題があるから、要素に還元するやり方は成功しないだろう。(物理的な音響のレベルetc.)ここでも適切な記述言語を見つける事が必要なのだ。その言語では、「個性」のようなものを区別できる必要がある。自然言語はかなり有効だが、多分、万全ではない。(Husserlにおける、3つのレベルの最後のレベルが自然言語のレベルだ。)「形式分析でも標題の記述でもない」はOKだが、アドルノの途が唯一では勿論ない。また観相学を全く別の目的で(創作極における基層の発掘の考古学ではなく)別の言語でやることは可能な筈だ。

―現象学は?そのつもりではなかったのか?

その通りだ。現象学的なアプローチが可能であると考えていた。GreeneのMahler : Cosciouness & Temporalityを読もうとしたのはそのためだ。だが、アナロジーやメタファーを超えるような記述言語としての実質を如何にして備えることが可能なのか、問題視することはできるだろう。現象学は狭義には、意識に現れたものについての構造や条件を探求するものだろう。とすると、音楽を対象とすると、創作の極で創作行為の最中に生起している事象についての記述か、あるいは演奏者や享受者が(勿論、創作者と同じ人格であっても良い)作品を聴くという行為の最中に生起している事象についての記述になるだろう。 前者について、内観を方法論としてやるというのは、(あなたが、件の大作曲家「である」というなら別だが)方法論的にはナンセンスだろう―もっとも「普遍的な方法論がある」とあくまで主張するなら論理上は別だが―。だとしたら、後者についてのみが私には可能だ。 志向的対象として(いわば理念的に)音楽を考えるというのはインガルデンの受容美学の基底に存在する立場だろう。だが、一般に聴取の(音楽であるかを問わない)現象学を目指しているのでも、はたまた音楽一般の現象学を目指しているのでもないのだ。(そうした一般を目指す試みはうまく行かない。定義で躓いて、先に進まないのだ。)

―理念的対象としての音楽?

私の内側に、享受のときに起きている事象。確かにある音楽がもたらす固有の「効果」というのは存在する。クオリアの問題にも通じる。音楽を対象とするときクオリアというのは、非常に複合的な事象で、あたかもそれを単独で扱える単位として捉えることが出来るかの様に扱うことが無理なことに気付く。もし、クオリアを単位としたければ、それはここで問題にしているものではない。区別すべきだ。

文化的に何重にも規定された対象ではあるが、例えば脳の活動と意識との距離に比べれば、そこから先は大したことはない、とも言える。そこから先は可塑性が個別性を可能にする、といえるからだ。享受は伝達である。(ただし単純な伝達ではない。Whiteheadの言う感受の意味では、享受は複合的な感受だ。)こちら側に(大まかには脳に)或る種の写像が行われるのだ。その過程で生じる変換の始端と終端には大きなぶれがある。(例えば、演奏の享受形態―コンサートホールで、CDで―の多様性、そして聴き手の脳の内部状態、私とあなたの違い、私もまた移ろってゆく、、、)だが、変換の過程で保存される構造があるだろう。構造の存在までは一般的だが、具体的な構造自体は個別的だ。勿論、切断の与え方は幾通りもある。ここでは暗黙的に「私」と明示的には作品を固定した切断を与える。作品と言ったが、作曲者を、とただちに言い直すべきだろう。そして、作品―これは相対的には扱いやすいかたちをしている、少なくとも現象学的な対象として扱えるだろう―とその作者との関係は必ずしも明らかではない。ここでは、作品間で保存される構造を見つける事がやりたい事だろう。(その保存される構造が、作者の個性と言うわけだ。)勿論、ここでは作者当てのコンテストをやる事が目的ではないから(クラスタ分析や、自己組織化マップにより、特徴ベクトルによる分類をし、それを作曲者の名前のラベルと対応付けられるようにしようと試みているわけではない。)、その構造が他の作曲家の作品にも出現することは考えうる―作者の名前はあらかじめ明かされた上で、その構造を探索するものとする。だが、無論のこと、発見された構造は作曲家の独自性を証するものであればある程良い。つまり「個性」を、自然言語とは別の記述言語で記述したいのだ。更にその「個性」は、動的に、享受の際に感じられるクオリアの記述でもあって欲しい、という訳だ。印象批評は前者により、記号論的アプローチや音楽の形式分析は―道具として用いることは出来るだろうが―後者により、充分な手段ではない。
アドルノ的な批判理論は、創作の極の構造の記述に、実際のところ限定されていて、ここで目指している特性には―少なくとも直接には―貢献しえない。また「音楽の現象学」式の一般的なスキーマは、具体的な事象についての具体的なモデルを提示しようとする試みには、やはり直接には貢献し得ない。せいぜい議論の枠組みを作り、探求に見通しを与えるくらいのものだろう。

音楽は多様で、音に対する姿勢と言うのも多様だ。だが結局自分にとって関心のある領域は「自我の音楽」のいわば周縁部分ということになるだろう。これは価値論的な優劣の問題にはあらず、ただ単にそうした創作と、そうした創作の享受に、私が意義を感ずるということだ。音楽家は音「について」思索することも可能だろう。「自我の音楽」とて、素材に対して全く無頓着という訳にはいかないから、音についての思考も含まれるだろう。だが、自我の音楽の無自覚な前提―「内容」についての確信―を私は否定したくない。自我の音楽を論じるにあたって、その「内容」を否定してしまったら、それは、その音楽の持つ特性の有意味なモデルではないだろう。「個性」はそれ自体「内容の否定」という形も取りうるが、そういったレベルよりも一つ下のレベルで「内容」にあらわれた個性、で良いのだ。-というより、そちらの方が探求は困難だろう。勿論、今のところ「内容」の定義は曖昧で充分だ。それはいわゆる「標題」ではない。その内容こそが、件のモデルに表現されていれば良いのだ。内容を通り過ぎてしまえば、価値論的な領野は閉ざされてしまうだろう。音楽の認識論、時間論というのがあっても良いが、私は時間一般の構造には興味が無い。時間を主題的に扱ってしまうと、具体的な話ができなくなる。時間を議論するのに好適な音楽というのもあるだろう。抽象的な音の構造や、音の知覚を主題的に扱った音楽もまた、あるが。
ただ、そうした音楽では充分なレベルは「自我の音楽」では不十分になる。多分、記述の水準が異なるのだ。勿論音と音との関係でしかないのはわかっている。問題はそれが、何故、「自我の音楽」たりうるかではないか。しかもここでは「自我の音楽」の成立の一般的条件を問題にしている訳でもなく、その個別のモデルが作りたいだけなのだ。だから時間一般の理論というのは、ここではやはり答えそのものではない。

―どのレベルをモデル化の対象とするのか?

勿論、脳内事象をモデル化することはできない。創作と聴取(勿論演奏も)の極での事象を直接扱うことは、少なくとも現時点での私には出来ない。論理的には、いずれは可能になるかも知れないが。とすれば、いわゆる中立レベル、一見ただの楽曲分析をすることになるようにも思われる。実際、個性があるとしたら、とりあえずマーラーのような時代の作曲家ならまずは楽譜に記載されたうちにあると言って差し支えない。
アドルノの分析は明らかに創作の極に重点があるが、しかし、結局のところ楽譜を手がかりにして考えていくしかない。寧ろ楽譜の手前の素材(伝記的事実を含む)の分析なしでそれを行おうとしている様に思える。マーラーの場合には、素材の次元での情報も多く、また言うべきことも多いから、一般にはそうなる。しばしば見られるように、分析、記述とはいいながら、実際には聴取の印象を書いていることがほとんどであるしかないなら、楽譜のこちら側については更に当てに出来ない。マーラーの場合、ショスタコーヴィチの場合ほど暗号解読ゲームの傾向は強くないが、そのかわり一見して明示的なプログラムの紹介―何しろ、分析が必要な程の豊かな構造がある訳ではないから―になるか、ショスタコーヴィチよろしく、アイロニーの有無、パロディー性の有無についての論争になるか(作者の意図という正解を探すクイズ)であって、これらのいずれをもアドルノがとりあえず拒否したのはもっともな事だ。
だが、アドルノの分析の道筋も、決して自明のものとは言われえないだろう。アドルノ自身がマーラーの弟子筋の―マーラー(―シェーンベルク)―ベルク―アドルノという―系譜に連なって、作曲の心得のある人物であるからと言って、マーラーの作品の創作の極で起きたことが透明に認識できることが保証されている訳ではない。アドルノの評価の恣意性は、楽譜を手がかりにして言いうるモデルと、アドルノがしばしば結論づける価値論的な位置づけとの間の連絡が透明でない限りは、決して免罪になることはないだろう。その作品が歴史的文脈で「どのように機能するか」という事になれば、享受の極へと問題が送り返されかねないのである。(受容の問題そのものではないか。)
勿論ここでも受容の問題は消滅したということはない。(そもそもアドルノ自身が、マーラー論のまさに冒頭から始まって、何度も受容について、「世間の」評価について言及しているではないか。)マーラーの音楽をnegativeに評価する人はいるだろうし、ここで問題にしたいのは、そうした評価が誤っている、ということの論証ではない。だが、だからいって、価値論的中立を装ったり、主張することもしない。そもそも、楽曲の分析自体、「客観的」ということはありえない。それは必ずしも自明ではない構造や規則性を明らかにすることにより、結局その分析対象を弁論するapologieなのだ。
では、楽曲分析とは何が違うか、といえば、言語が違う、記述のレベルが違う、ということになる。楽曲分析のdeviceは多く、特にマーラーの場合なら、(調性分析を含む)和声学であり、楽式論であろう。これは言ってみれば、脳の生理学的な水準での記述に相当する訳だ。勿論、生理学がそうであるように、和声学も、それの機能や意味をも捉えようと試みていない訳ではなかろうが、それにしても、マーラーの音楽のように、公理論的であったり分析的な方法論で特定のパラメータに集中して作曲を行っている(この場合にはパラメータの張る空間は簡略化されうるだろう)わけではない場合、パラメータ空間の次元の高さにより、各次元の要素の和が全体の適切な記述になり得ない、という問題は起きそうである。
またしても、音楽一般について語るのではないので、では次元の数の閾値は?とか、他のどの作曲家が同じ分類に入るのか?とか、歴史的な位置づけ、流派との関係は?といった問いには答えようとはしない(それをやるのは、少なくとも、今、手に負えるようなレベルの難しさではないと考える。無理だし、やるつもりもないのだ。)あくまでマーラーの場合に、そうである、という前提で議論をしよう。無論、これは作業仮説に過ぎない。うまく行かなければ不適切として撤回されるべきであり、その前提の当否は作られたモデルの適切さ、有効性によって判断されるべきなのである。ア・プリオリに論理的に正しい、などということはない。これは一般理論ではなく、個別の現象のモデルだからである。むしろ自然科学的なアプローチが適切なのだ。

―形式分析は無効?

形式分析は全く無効だという訳ではない。少なくとも、個別の「この」マーラーのケースについて言えば、それは寧ろ必要なことでさえある。言ってみれば、脳内をモデル化するにあたって、生理学的な知見が最低限必要であるようなものだ。だが、何故IXの1やVIの4の様な楽章の形式分析が分析者によって異なった結果になるのだろう?それは多分、分析手段が対象(つまりマーラーの音楽)にぴったりとしていないからなのではないだろうか?形式分析の手段は、或る種の図式であって、それと逸脱を起こしている現象との距離を(ただし定量的、というわけには行かない様だ)記述することしかできない。(勿論、それを目的にやるのであれば構わないし、そうした距離を測る作業は必要ですらある。)
楽譜は?楽譜は、理念的対象としての音楽を想定すれば、不完全な記録手段に過ぎない。記録手段という点では、ある奏者(それが作者自身であるようなケースを考えよ)の演奏の記録と変わるところはない。-「本人」が書いたということを除けば。楽譜が読めず、LPレコードが一枚しかない様なケースを考えよ。それでも、音楽の経験は可能だ。否、寧ろその方が、―特に、演奏者を除けば―多いのではないか?楽譜が読めない聴き手を排除する理由は全く見当たらない。多様な演奏は、だが、別の誰かの作品と誤認してしまうような決定的な幅を持つことはない。ここでは音楽一般の話をしている訳ではないので、とりあえず、その不変性を支えているのは、楽譜であるといって良いだろう。不完全だろうが、それを単なる伝達の手段とするのは、実は転倒を含んでいると言わなくてはならないだろう。事実上、それが(この場合は)音楽なのだ。ただし、それはdecodeされる必要があって、なおかつ、それは、人間が百人と集まった管弦楽という媒介によるdecodeが要求されているのだ。(勿論、シンセサイザの様な手段による再現も、考えられない訳ではないが。また、他者による、あるいは作曲家自身による、管弦楽版/ピアノ版の並存にも注意。あるパラメータのみ置き換える。それ以外は不変性が保たれる。)

―或る種の価値論的転倒?

これは~についての作品であるとか、特徴を2つか3つの形容詞で要約して事足れりとする評言よりも、作品の経過によりそって、ここは何の表現云々と「翻訳」をする類の標題音楽的解釈の方が作品の変換としては意味がある場合もあるだろう。~について語っている、という文脈無しで、つまり語られる対象を知らない聴き手にとって、前二者のような要約(?)はほとんど内容を持たない。
歌詞の問題、歌つき交響曲というのは、少なくとも作者の意図の次元では、種が半ば明かされているようなものだ。ただし、歌詞はあくまで素材に過ぎないには違いないが。それにしても、ある歌詞に音楽をつけた途端、音楽にまとわりついてしまうものというはあるだろう。例えば、それがあからさまな皮肉やパロディであったとしても。少なくとも「~について」のレベルでは間違いなく語ることができる。

だが、歌詞により文脈が与えられているからといって、例えば大地の歌、VIの中間部分の経過を言語に翻訳することができるだろうか? 物理的な数分間の持続を文章の長さに対応させる、といった類のやり方はナンセンスだ(ナレーションではないのだし、、、)しばしば葬送の歩みと語られる。 だが、それは、歌詞からすれば不適切な近似だ。別れはあっても(まだ)死は無い。しかもその歩みの後、「友を待つ」場面がやってくる。 「模様」ということを言いうるなら、これは道行なのだ。だが、どういったところで、曲の細部を言語に翻訳することは難しい。
あるときは月が小川に映る描写であるにも関わらず、描写に近づき、また遠ざかる、ということだろうか。少なくとも三味線の手のように「記号化」されている訳ではない。(バロック時代や古典期ではないのだ。)
感情の表現、xの表現ということで19世紀の音楽が手にした拡大は実に驚異的だ。いずれにしても歌詞は解釈の流れを作ってしまう。伝記的事実なしに作品を聴いたら?マーラーのある意味では素直なところは、年齢相応だ、ということだ。だが、そうした時間軸を作品自体から定量的に抽出することができるだろうか?
(2006.9未定稿, 2025.1.16 改題)

2006年4月3日月曜日

近藤譲を通して見たマーラー

近藤譲が武満徹について書いた文章でマーラーに触れている。それはマーラーをジェスチュアの音楽の典型として捉えるという見解であって、 そういう視点では武満の音楽もまた、マーラーと同じ範疇に属するというような主張ではなかったか。私個人としてはその文章での主題であった はずの武満の音楽に関する当否よりも、マーラーの音楽の捉え方の方に関心を覚えたのを記憶している。 一つにはその指摘は大筋において正しく、それをジェスチュアという言葉に端的に集約した鮮やかさのためであり、それと同時に、実はマーラーの 音楽の個性なり固有性なりがあるとするならば、それがジェスチュアの音楽でありつつ、それを踏まえた上でそこからずれていくという点に存するように 思われ、その限りにおいて違和感を感じたからでもあり、そして何より近藤譲の音楽は、そうしたマーラーや武満に対する批判的な姿勢から 生まれているという主張が潜ませてあるように感じられたからである。実際には私は近藤譲の音楽の熱心な聴き手とはいえないし、その音楽の 比類ない質の高さには瞠目しても、身近には感じられない。にも関わらず、あるいはそうした親近感のようなものも含めて、近藤譲の音楽を通して マーラーを眺めた場合の展望には示唆的なものがあるように感じられてならない。

近藤譲の音楽を初めて聴いたときの印象は、それがこれまで聴いた音楽よりは、寧ろ抽象絵画に近いというものだった。音による抽象的なコンポジションとしての作曲。何かを表現しようとしたり模倣したりしようとするのではなく、構築することなく、音を並べ、組み合わせ、編み上げることによって生まれる抽象的な質そのものを享受する経験。西欧の音楽が蓄積してきた、それなりに強力な、いわば「手垢のついた」パターンに依拠することなく、音どうしの関係をオリジナルなやり方で作り上げていく。それが目的であったのかどうかはともかく、音のパターンが感情や情緒、気分を表現するための記号として機能することは避けられる。思想や人生観(なんなら、世界観でも宇宙観でも、、、)を伝えることもまた、意図されていない。ある文化的な伝統への帰属や、東洋と西洋の出会いといったことも問題になっていない。それらはある伝統の中で機能する語法なり、楽器なりを記号として使用することによって可能になるのだが、ここではそうしたレディメイドの記号の体系を利用することは避けられていて、そのような場合には素材であったり媒体であったりする音の動きは、余計な意味付けをされることなく聴き手の前に現れることができるし、自由に振舞うことができるようだ。

音と音の関係を見つける作業は、予め与えられた方法によらずにその都度手探りで行われるのだろう。既存のパターンに従うことはないから、それは創作の過程においても、結果として出来上がった作品を聴取する過程においても、或る種の冒険であり、新しさの経験が、発見がある。だが、繰り返される冒険はあてのない彷徨ではなく、試行錯誤は局所的には極めて論理的に一貫した意図をもって行われるので、結果的に、そうした試行を繰り返した後には確固とした方法が浮び上がることになる。法則性も語法も、そうした冒険の軌跡を後から眺めたときに現れるのだ。

勿論、こうした方法論自体がある文化の産物であることは事実だし、完全に無色透明な立場というのはありえない。近藤譲の音楽は、もしそれを音楽史的な観点で分類するのであれば、アメリカのケージ達の、なかんずくフェルドマンの実験主義の立場の正当な継承と徹底として位置づけられるだろう。だが、その立場が「実験的」なのは音と音の関係を扱う際のスタンスに限定されるようだ。音響面についていえば、異化効果としてであれ単なる新奇な音響としてであれ、特殊奏法に対するこだわりはあまり感じられないし、いわゆる電子音楽よりは伝統的な楽器を人間が演奏する際の奏者間の関係性への関心が勝っているようだ。音楽が制作される現場の制度に対する態度についても、制度的な問題を主題とすることはなく、寧ろそうした制度を所与としてその枠組みの中での可能性を追求する職業的な作曲家としての姿勢が意識的に選択されているようにうかがえる。作品リストを見ればわかるとおり、その作品はほとんど何らかの委嘱に応えるかたちで作曲されていて、おおむねコンサートホールという場所でコンサートという形態の枠組みの中で演奏されることを目的としており、そのことは作品の長さや楽器編成に端的に現れている。作品概念についての姿勢も含めて、結果としての作品のありようは実験音楽の中では寧ろ保守的といっても良いかもしれない。絵画にたとえれば、普通の絵具を用いて普通のカンバスに描かれた作品で、その実験性は描かれた内容にある、といった感じか。

音と音との関係を、伝統的な型によらずに探求する姿勢から産み出される音響は、ややもすれば現代音楽にありがちな、貧血症におちいった無味乾燥で退屈なものに聴こえてしまうかも知れない。しばしばアイデアの新規性に大きな価値をおかれがちで方法論やコンセプトで差別化しようとする前衛音楽の行きかたは、結果としての音楽の貧しさをどうすることもできない場合が多い。あるいは行為自体に価値がおかれ、あまつさえ失敗自体に価値を見出す立場すらありうるだろう。だが私見では、近藤譲の音楽はそれらには該当しない。寧ろ結果としての作品に定着された音楽の疑いようのない豊かさ、作品を聴く経験の新鮮さと興味深さが、その冒険の成功を告げている稀有な例であるように思われる。それを完成度と呼ぶこともできるかもしれないし、そういう言い方をするのであれば、完成度は高いのだろうが、時折、職業的な作曲家が大量の注文をこなす際に陥いるとして非難されるある種の自己模倣と似たような印象を覚えることもあっても、いわゆるマニエリスムとは無縁で、行き止まりの感じを受けることはない。それぞれの作品はその都度のとりあえずの結論であり、どこか安定し、定着しきれないような動性を帯びているように見える。その点は実験という言葉にいかにも似つかわしいが、それでいて決して中途半端な感じを受けることはなく、寧ろ、風通しの良さに通じているように感じられる。 1曲聴けば後は同じの金太郎飴ではなく、紛れの無い個性の刻印はあるけれど1曲1曲がすこしずつ異なっていて、次がどうなるのかが楽しみなのだ。まるで、予想もつかない何かが起きることはないが、どこに行くかはわからないという、作品の内部構造におけるの音と音の間の関係に似たような関係が作品と作品の間にも働いているかのようだ。それゆえ私には、近藤譲の音楽が今後どのように展開していくのか、興味が尽きることはなさそうに思える。

一方で、もしその姿勢を批判するとしたら、どのような立場からが考えうるだろうか。 例えば以下のような見方が可能だろうか。

近藤は美を再定義して、作曲する己自身にとっても「謎」であるものを美と呼ぼうとする。彼の音楽の抽象的な音の空間は、本人にとってもそれ以外の聴き手にとっても「謎」だ。しかもそれは通常音楽の持つ音楽外的なものへの参照、行為へのいざないの側面を、あえて遮断したものだ。ここでは音を手段とするのではなく、自由に振舞わせよう、音固有の価値を尊重しようという精神が存在する。だがそれは、ある種の自閉ではないか。音を手段とすることの拒否は、音を目的とする、芸術の自己崇拝によくにた構造をもたないか?もっともここには神秘主義もなければ、超越への衝迫もない。音楽を啓示の媒体であり高度な認識への道、手段と見做しつつ、同時に、啓示される超越的なものの表現、認識されるべき当の対象そのものの現れと見做す自己中毒もないのだが。そしてまた彼は美的な判断を作品以外のものに拡張することの危険を説く。確かにそれは危険だし、倫理的に許されないという主張は正しそうに見える。だが、それは結局美的なものの囲い込みではないのか?本当に、音楽は、美は倫理と独立の価値を持つのか。ここでは音楽をする行為の倫理性を問うこともまた禁じられているのではないか。その姿勢は美を自閉させ、結果的に倫理的に不適切な場面で美的な価値判断がなされてしまうような倫理と美学の分離の補強をしていることにはならないのか。

近藤の音が響く空間には、音の自律性を尊重する聴き手しかいない。そしてその聴き手というのは、トータルな意味での人間ではない。それは人間のある一部分。断片化された耳だ。世の成り行きの喧騒から遮断された防音室で響く音楽。だから、あるとき聴き手は、退屈する。それは近藤の音楽が退屈だからではない。人間は気が散りやすい動物なのだ。常に、自分が埋め込まれた環境のあれこれに意識を向けてしまう。もともと彼は音だけが存在する世界に生きているわけではない。だから遮断は時折うまくいかない。知覚はもともと環境世界についての情報を与えるものであり、反応を引き起こす信号の如きものではないのに、そうした側面を遮断するためにわざわざ環境を設定しているように見える。その環境の枠が曲であり、だからこれは認知実験に似る。それを聴く人間も抽象化されて「耳」に、あるいは実験の効果を測定する装置に還元されるかのようだ。実験音楽という呼称もむべなるかな。

確かにそれは、近藤の音楽だけの問題ではない。いわゆる西欧のクラシック音楽はコンサートホールで聴くようにほぼ決まっていて、結局のところ近藤の音楽はそうした伝統に属している。コンサートホールはいわば公的な防音室だ。そこでは演奏者がステージの上で作曲者の指示に従い音楽を演奏する。聴き手はそこに入るためにはお金を払い、音楽が始まって終わるまで沈黙を守り、身じろぎせずに狭い座席で己れを耳に還元し、終われば拍手をするきまりになっている。そこでは様々な時代の色々な美的価値観に基づく音楽が演奏されるが、結局のところ、音楽が提供される場の性格が、そうした多様性を超えてその音楽を性格づけてしまう。そうした防音室の中の経験が、その外の成り行きとどう関わるというのだろう。そこで提示されるのが「謎」であるのは、それが文脈をはぎとられ、外部の環境から遮断され、意味を剥ぎ取られていることの裏返しではないのか。 (実際には私が「謎」に向き合うのは、コンサートホールよりは寧ろ、自宅で、CDに収められた録音を聴きながらの方が遥かに多いのだけれど。) その「謎」はスフィンクスとは異なって、謎を突きつけられた人間を脅かすこともない。美術は美術館の中に、音楽はコンサートホールの中に隔離されて純粋培養される。それらは独自で固有の価値を持つものとされる。そうした考え方の極北が、抽象化された音や色彩、形態の組み合わせ。それは別に何かを変えるわけではない。いつもの風景の中に収まる。

だが、批判はある意味ではたやすく、制作の営みの行く末を見極めることは困難だ。また、こうした批判が想定できるにも関わらず、私にとってその音楽を聴き続けることを促す何かが、その音楽にあるのは確かだ。そして、結局のところ私もまたそれを、さしあたり「謎」と呼ぶほかないのである。

さて、そうした検討の上でもう一度マーラーを振り返ってみた場合の展望はどうだろうか。「謎」という点ではマーラーもまた私にとって「謎」ではあるが、 その理由は全く異なる。マーラーの場合の謎は、その人と音楽の関係のそれであり、寧ろ人間の営みの結果たる作品に析出したマーラーという人間の 姿勢なり態度に関する謎なのである。人間としてのマーラーを作品と区別して考えることは、作品を通じて人間についての 外挿を行う姿勢の持つ危険性に引き比べれば一見したところ遙かに優れた態度に見えて、実際にはありもしない分離を仮構し、 現実には不可分のものであった両者を抽象することに起因する具体性の履き違えの誤謬を犯しているのである。否、その音楽と人間との 結びつきそのものが「謎」の一面に他ならないのだ。

一方で、コンサートホールという制度への依存や音楽の自律性の尊重という点では、実際にはマーラーと近藤は決して疎遠な存在ではない。 勿論その音楽の実質は大きく異なる。要するに近藤の音楽は何かを表現しようとしているわけではなく、音自体の振る舞いに関心が集中しているのに 対し、マーラーにとって音楽は、そういう意味では決して自律的な存在ではなかったようだ。マーラーの音楽は音楽に纏わりつく脈絡やら文脈を 拒絶しない。しかしそれに対して意識的である点では近藤と一致していて、マーラーの場合はそうした脈絡に対する意識が音楽の中に投影される ことで、その音楽に微妙な陰影をもたらしているようだ。それはある意味では「世界観」音楽なのかも知れないが、マーラーの場合にはそれは 少なくとも出発点においては本人の意図ではなかったことに注意すべきだろう。音楽が先にあって、脈絡は後から析出されていくかのようなのだ。 シェーンベルクはプラハ講演において、第9交響曲を念頭においてメガフォンに喩えたが、第9交響曲のみならずマーラーの音楽にあって作曲家は音楽が現実の領域に 進入するための媒体であるかのようだ。音楽が「世界観」を作曲家が表現するために利用されるのではない。世界観の方が作曲家を媒体にして 音楽として己を実現していると言ったほうが良い。だからマーラーの音楽を典型的なロマン派の世界観音楽と見做したり、こちらもまた毎度おなじみの 標題音楽と見做す議論は、マーラーの場合を扱い得ないように感じられてならない。マーラーが音楽を世界と見做し、作曲を世界の構築と 見做した発言は、「文字通り」にとられるべきなのだ。世界観の表明、標題・プログラムの実現が問題なのではない。文字通り音楽によって 世界を構築することが問題であり、標題は常に後付けの不完全で色褪せた説明に過ぎない。

だからマーラーをジェスチュアの音楽であると捉える考え方に関してはこのように言いたい気がするのだ。確かにそれはジェスチュアの音楽だが、 私が関心があるのは、そのジェスチュアの背後にある意識の働きがその音楽に自らの影を落とすその有様なのである、と。「意識の音楽」という のはまさにそうした捉え方が可能な類の音楽のことである。そこでは対象自体ではなく、対象に対する態度、対象に接する経験の側に 注意が移動している。いわば反応や経験の情態性の記述が中心になる。無論、音楽を外からそのように読み取ることは一般に可能かも 知れず、近藤の音楽に対してすら可能かも知れない。だが近藤の音楽は、それが成功しているが故になお一層、生の経験や意識は 音楽の外部にあるのだ。それは意識の音楽ではない。

勿論、「意識の音楽」であるかどうかと作品の出来不出来は全く独立の事柄だ。だが、どちらにより一層興味があるかと言えば、私個人としては 興味は「意識の音楽」の側にある。その意味では近藤の音楽は、ちょうど自分の関心を裏から批判的にあぶりだすような位置づけにあるのだろう。 一方で、一旦音楽の内側からは表現や感性のごときものを徹底して排除した上で、もう一度人間の営為として音楽を捉えるようなアプローチも 可能であり、そういった方向にはこれはこれで強い共感を覚えている。そこでは「人間」そのものも相対化されていて、それゆえ他ならぬ人間の 営みとしての音楽は、その音楽が埋め込まれる脈絡や音楽の外部に対する価値といったものをもう一度改めて引き受け直さざるを得ない。そこでは 聴き手すら耳に還元されることはなく、音楽をトータルな仕方で受け止めざるを得なくなる。かくして一見したところ懸け離れた存在である 筈の三輪眞弘の音楽とマーラーの音楽は、私の中では不思議な感じで、だが明確なかたちで同居しているのである。 (2006.4.3-8 / 2008.6.21)

2005年11月5日土曜日

「はじめに」の撤回された異稿(2005年11月版)

何かについて語ることはとても難しい。その対象について余程知悉しているという確信無しに迂闊に書いてしまえば、後悔することになるのは明らかである。一方で、人は愛するものについて語り損なうとも言われる。実際に、よくわからずに強い印象を受けた時に書いた内容、それはいわば決め付けや思い込みに過ぎないのだが、それでもそれが後で知った事実と結果的に整合しているという偶然も決して珍しいことではない。

私はマーラーに対して、はっきりとした両価感情を抱いている。知っている、という点において、私の貧弱な経験の裡の相対的な比較に過ぎないとはいえ、マーラーの音楽以上によく知り、親しみ、馴染んでいるものは(ジャンルを超えても)ないと言ってよい。経験が人間の自己を形成する、という言い方が文字通りに受け取られるのであれば、マーラーの音楽は、まさに「私の一部」であると言って良い。勿論これは程度の問題であって、他の様々なものたちも、それぞれの度合いで「私」を構成しているのであって、別にマーラーの音楽だけに質的な飛躍を含む特権的な何かがあるわけではない。けれども量も一定の度合いを超えれば質に転化する。いや、このこと自体、Webで知る限りでも多くの方に起きていることのようだし、「マーラーと私」を特権化しようという意図は全くない。客観的に、統計的に見れば、とりわけマーラーのようなある種の「毒」を持った音楽については良く起きることが、私の場合にも起きたというに過ぎないのであろう。他の人には容易に嗅ぎ付けられるらしい、その「毒」というものに、どうやら私は全く無頓着であったし、基本的には今でもそうであるというのが、なによりの証拠に違いない。

しかしいずれにせよ、一旦そのように自分の一部になってしまったものを引き剥がすことは決して容易ではない。一時期私はそのようにしようと試みた。それは丁度、自分がある種の妥協として選択した職業に幾ばくか馴れ、それとともに、その妥協によって自分が喪ったものの巨大さ(私のような、能力の乏しい人間にとって、手に負えないという意味での相対的な大きさだが)に思い当たるようになった時期だった。内容こそその人間の能力と、置かれた環境に応じて様々であろうが、誰もが、偉大な天才ですら迎えるある種の危機の時期だったのであろう。(ちなみに「天才」マーラーにもそういう時期はあった。ちょうど第1交響曲と、後に第2交響曲の第1楽章になる交響詩「葬礼」の時期がそうだと思う。もっとも彼が遭遇した状況と私のそれとは全くといっていいほど接点がないのは勿論である。)その時期まで私は、マーラーについて書きたいという希望を持っていて、それ以外の研究の真似事はほとんど断念していたにも関わらず、一時期、大学時代の恩師に対して自分の企画を送って指導をお願いするようなことさえした。アドルノのような経験と知性とをもってのみ可能であるようなそうした企てに研究を断念して世間に出てしまった私が無謀にも取り組むなどという暴挙は、正統的な現象学者・倫理学者である恩師に受け入れられる筈も無く、沈黙による拒絶という回答を得ただけだった。(それでも寛容な師はその拒絶を詫びてくれさえしたのだった。)それを機に当時所有していたマーラーに関するすべての音源と楽譜・書籍を処分した。(引き取ってもらった古書店の店長が、初対面にも関わらず、惜しくは無いのかと念を押してくれたのをはっきりと覚えている。)自分の一部を切り捨てるそうした決断は大きな虚脱感と幾ばくかの苦痛によって報復を受けたが、それでもそれから数年間は寧ろマーラーの音楽を懼れて遠ざけていたのである。それはある程度成功したとも言えるし、こうして今現在は再びその音楽を聴くようになっているのであれば、失敗したというべきかも知れない。禁煙の類との類比でいけば明らかに失敗だろうが、しかしこうした事象の場合には、そうした事実自体が持つ意味というのは確実に存在する。要するにかつてのように私はマーラーを聴くことができなくなっているのに否応無く気付かざるを得ないのである。

いわゆるその「禁忌」を解くきっかけが何であったかを正確に想い出すのは難しい。その後、ある時期に、自分の貧しい、そして年を追うごとにますます貧しくなる精神生活に業をにやして「棚卸」を行ったことがあって、音楽についてはCDと楽譜を徹底的に整理した(その整理を生き延びたCD、楽譜はほとんどなく、今持っている僅かなそれらのほとんどは、その後、吟味の上で再び入手したものである)のだが、その時に、最早マーラーが自分にとって、ある種の疎遠さを帯びた他者として存在していることに気付いたのだったと思う。そして整理してみると、自分の中に(抑圧された形であれ)棲み続けている数少ないものの一つで、それをとってしまえば結局自分の中には何も残らないような気持ちに囚われたのを記憶している。小人閑居して不善を為すのことば通り、生活の糧を得ることに追われる合間にふと訪れる凪の時期になると、憂鬱が自分を強く支配する傾向が徐々に強まり、それが耐え難くなったことに追い立てられるようにして、それまで封じてきたものに再び向き合うことになったのだった。異郷の地の、時間的にも隔たった過去の天才。自分とは全く異なる環境に生きた、自分には及びもつかないような才能をもって、指揮者として自分には及びもつかないような世俗的な成功を収め、その上で世紀を隔てたこの僻遠の地で聴かれ続ける音楽を残した人間に、かつてはあれほど親しみを感じていたのが信じ難く思われた。その一方で、その音楽が自分に対して力を持つことを確認せざるを得なかった。(それには、かつては不思議な偶然で聴くことのできなかったバルビローリの演奏を聴くことができるようになったことが与っているのかも知れない。)

結局、否定も執着のある種の様態であるということに過ぎず、一旦飲み込んでしまったものを全く無いものとするのは所詮は不可能である、という当たり前のことに気付くのに、頭の悪い私は随分と時間をかけねばならなかった。おまけに、そうした時期をおいてみて、実は自分の一部として取り込んだその音楽が、実際には自分の基本的な資質にとって必ずしも親和的なものではなく、寧ろそれは、ある種のないものねだり、自分と正反対のものに惹かれる側面が強かったらしいということにようやく思い当たったのである。全く物分りの悪いにも程があると呆れられそうなものだが、いずれにせよ、そうして長い時間をかけてようやく、一つの他者として、しかも精神的にはもっとも馴染みの深い、それでも限りなく自分とは隔たった他者としてマーラーの音楽に接することができるようになったと感じている。

そしてこうした状況に至ってなお、驚くべきことに(多少は自分でも呆れはしたのだが)自分にはまだマーラーの音楽について語りたいという気持ちと、書くべき内容が存在することが明らかになった。マーラーについて書くことは、それが必ずしも自分に近しい音楽ではないにも関わらず、自分について語ることになってしまうことへの懸念、そして、結局のところマーラーの音楽の「毒」に中てられ続けているのは確かなようなので、「人は愛するものについて語り損なう」の愚を犯すことになりはしないかという懸念はある。けれども、自分をある意味では裏切って生活の糧を得ることにその時間の大半を費やすことにしてしまい、そしてそこから抜け出すことができない愚かで平凡な人間にとって、そうした対象でなければ、その残された時間を費やす意味などありはしないのであろう。ますます時間は減り、今や休日すら蚕食されつつあり、意識の裡のどこかでは常に仕事のことを意識せざるを得なくなってしまっている状況で、残った時間を何に使うかは決定的に重要なことだ。こんな無益なことに時間を費やすなら仕事をした方が生活の足しになるのでは、あるいは家族や親のために時間を使うべきなのではないかという気持ちも強い。とはいっても、こうしてマーラーについて書くことがどういう意義を持つものであるかについて更に考えてみたところで、下手な考え休むに似たりということになるだけだろう。こちらの意義についてなら、そんなことを考えるくらいなら仕事をするなり家族や親の相手をするべきなのははっきりしている。幸いなことに意義ある内容についてなら、マーラーほどの偉大な人間についてであれば、例えばWebにおいてすら、今や幾らでもアクセスすることが可能である。つまり、ことマーラーに限れば自分のWebページの「客観的な」存在意義の欠如について思い悩む必要は初めからないのである。そうであってみれば安心して自分のために書くことができるのだと思えばいい訳である。願わくばこうした取るに足らない文章もまた、マーラーが遺した偉大なミームの存続と伝播の一端を担わんことを。たとえそれが存在するという事実性のみでしか寄与できないとしても。そしてまた願わくば、マーラーが語った「神の衣を織る」ことに、ほんのわずかでも寄与せんことを。

実際のところ、何も価値のない、何も意義あるものを生み出すことのできないものは、何も遺さずに消えてしまったほうが良いという気持ちに抗することは難しい。私の父はそういう意味ではとても厳しく、潔い人間だった。その死の後で、こうしたWebページを続けるべきかについては迷いがないわけではない。そもそも暫く前から、例えば自分が生活のためにしている仕事の成果物に自分の署名をする必要のないことに、安らぎすら感じるようになっている。それを思えばこのWebページもまた、いずれ他の文章同様に消去することになるのかも知れないが、その一方で、そうした出来事の後でこうした文章を書いているのもまた事実なのだ。マーラーの音楽にはそういう側面があると私には感じられる。マーラーの音楽は生きるための勇気を聴き手に与える類の音楽なのだ。通常、厭世的な音楽ということになっている晩年の作品がとりわけそうなのだと私は思う。そうした力は、未完成の第10交響曲の全曲(私が聴くのは専らクック版である)を筆頭に、第9交響曲、大地の歌において、他のより「肯定的」と考えられている作品にまさって感じ取ることができると私は思う。否、晩年の作品だけでなく、それ以前の、第6交響曲と「子供の死の歌」を頂点とする作品も含めてマーラーの音楽全てがそうした音楽なのだ。自分に近しい者の最期が近いことを認識した時の絶望により相応しい音楽、そして喪の音楽、喪に相応しい音楽は他にもあるだろう。また、そうしたことに対して超然とした態度をとることを教えてくれる高い品位の、あるいはそれ自体超然とした音楽もまた、あるだろう。だが、それらに勝って、マーラーの音楽は、死を引き受け、それを無化することなく、その上で行き続けることを示唆してくれる音楽だと感じている。(2005.11.5)

2005年8月31日水曜日

(自)意識の音楽・自我の音楽:マーラーを聴くこととはどういうことか

音楽を聴くということは、一体どういうことなのだろう。 私がマーラーの音楽を聴くとき、何が起きていると考えれば、その音楽に惹きつけられる理由が わかったり、あるいは、自分がそこで感じているものを説明できるだろうか。

勿論音楽には色々な聴き方があり、誰の作品を誰が聴くかによりそれは違っていてよい。 ある聴き方というのは、あるタイプの作品にのみ適用可能だろう。また、同じ音楽に対して 様々な聴き方が可能だろう。 だから、ここではマーラーを私が聴く場合に限定して考えてみよう。

手がかりは、音楽の認知を含めた知覚を一般に、それだけを取り出して考えることをしないことにある。 本来知覚は目的もなしに行われるものではなく、目的指向的行動としての行為の基礎として捉えるほうが 自然なのだ。これは、アフォーダンスと呼ばれるものに近い。音楽は、行為の機会としての情報として 捉えるべきなのだ。人間は、環境に埋め込まれて生きている。常に具体的な状況に含まれ、それと相互作用をしている。 知覚は環境としての世界を構成する具体的な文脈としての部分的状況の把握だが、 それは常に環境へのフィードバックとしての行為による文脈への関与と関連付けて捉えなくてはならない。 それは認識と行為を切り離して論じるべきでないということだけでなく、認識と行為を別のものとして、 かわるがわる直列に交代する系列として捉えるという考え方さえ、場合によっては不十分である可能性が あるということだ。寧ろ、知覚とフィードバックは同時並行的に行われていると考えた方が良い。

このように考えたとき、表象の認識を聴取のモデルとするのは適切ではないし、クオリアは受動的な 質ではない。音楽を聴くことも含めて、知覚というのを受動的な経験と見做すべきではない。 知覚というのは、身体的な振る舞いの可能性の感受であり、世界にコミットする信念として 技能のかたちで含まれているものなのだ。従ってクオリアは、行為へのいざないの ベクトル性に他ならない。

そこに主観性の構造が移されているというのは、主観のある世界への関与の仕方が、 命題のかたちを経ることなく、音の構成によって、写し取られているということになる。 それを享受すること、そのパターンを自分の内側に形成すること、つまり 世界への関与の仕方を受容することが、音楽を聴くことなのだ。

音楽を聴いて、何故そのように感じたのか、そう感じることが可能な仕組みの如何にしての レベルでは、音楽の形式やその認知の問題が出てくる。 その表現が如何にして可能なのかは、音楽固有の問題だし、それには技術的な側面が関係するだろう。 だが感じた内容は、それとは別だ。それは複雑で単に音楽の範囲にとどまらない広がりを持ったものだ。

その限りで、演奏の具体的な技術の問題は、とりあえずはここでは寧ろ 捨象する方がいい。勿論、何らかのかたちで関係してはいるが、とりあえずは別の問題なのだ。 音楽が、何かを伝える、表現する、と言われるのは、音楽家の技術的な問題の次元とは とりあえずは切り離して考えることができる。手段と目的の二分法を一時的に採用するということだ。

聴取する人間が、埋め込まれている環境としての具体的な文脈には、文化的なレヴェルもまた 含まれるのは明らかである。音楽の聴取を考える時に音の知覚や認知を独立して扱うのは、 あくまでの作業仮説としてのことでなくてはならない。文化的な文脈は実際には聴行為に 深く入り込んでいるために、かえってその依存の度合いを測ることが困難で、しばしば ある立場を絶対視することに繋がる。音の知覚や認知を文化から切り離しうるという 立場が仮説を超えて主張されれば、それは科学主義という名のドグマなのだ。

従って音楽によって表現される内容については文化的な問題があるだろうが、その一方で それは音楽の形式のそれとは分けて考えるべきだ。例えば、表現されたものとしての死の問題や 生の行路での世の成り行きとの関係は、表現の媒体とはとりあえずは別の問題だ。 死生観の洋の東西の違いはあるかも知れないし、その基盤となっている文化の総体の中には、それを表現 している音楽の形式や楽器が含まれているかも知れないが、それでも、表現された 生き方の姿勢は、表現媒体の違いを超え、文化を超えて共通している部分を 認めることもできるだろう。それを保証する地盤としては、例えば生物学的な共通性を 想定しても良いかもしれない。

認知モデルのメタファーは、行為へのいざないの類型を表したものとみなすことができるだろう。 抽象的な思想や、具体的な事物や出来事を音楽自体が表現しているというのは 正しくない。それは音だけでは無理で、文化的な文脈が必要だ。標題であったり、 プログラムノートであったり、演奏される機会であったり、あるいは、より端的には歌詞が、 音だけではせいぜい、認知モデルのメタファーレベル止まりの表現を、具体的に文脈づけする。 (歌詞と音楽のどちらが優位かはここでは問わない。そもそもそれは作者の意図の次元の 問題に過ぎないことも多い。どちらが優位であっても、音が表現する行為へのいざないを 具体的に意味づける役割を歌詞が果たすのは変わりがない。)

このように捉えられた聴取は、美とは関係ない。美学はここでは問題にならない。 美は、こうしたことに付随する別の次元の価値の問題だ。だから享受の側面においてすら、 芸術を美に還元してはならない。 また、聴くことを方法論の検証や楽曲分析のような知的な作業と同一視してはならない。 観賞や認識といったレベルに切り取ってしまってはいけない。 聴くこともまた、行為へのいざないなのだ。それは認識の仕方、より一般に世界へのコミットの仕方の 変化へのいざないなのだ。

ここでいう行為へのいざないは、作者の意図とは別の次元の話だ。むしろそれは、 知覚の志向性の基本的な性質に由来する、基本的な次元の話なのだ。 勿論、読み手の解釈の多様性も当然、別の次元の話で、それは多くの場合、 知覚のレベルで受け取ったものを、特定の具体的な文脈に結び付ける作業なのだ。 どのような技法で作られているか、どのような構成を持っているのかを分析する 作業とも別なことは明らかだ。そのような知的な聴き方は、知覚自体ではなく、 知覚の構造の反省的な認識(を伴った知覚)であって、ここでいう音に対する 反応というレベルでの知覚ではない。

例えば実験音楽は、少なくとも意図としては、音により何か別のものを表現しようとは していないし、従って、聴き手が音の知覚を、何か別のものに関連付けして意味づける ことを望んでいない。こうした立場は現実には、寧ろ特殊で例外的なものだ。 なぜなら、通常人間は、文化的なものを含めて様々な文脈の中に埋め込まれている ものだからだ。従って、知覚を自分が埋め込まれた文脈に沿って意味づけしようと する態度の方が自然なのだ。それは寧ろ特殊な操作を必要とする。一般には 或る種の認識がそこに忍び込むことは避け難い。裸の知覚をそのまま認識する ためにはある種の還元の操作が必要だ。

いわゆる絶対音楽というのは、音の構築の自律性を主張するから、一見この立場に近いと 言える。だが、それは知覚のごく基本的なレベルでの価値付け(或る種の感情や 気分など)を禁じているわけではない。単にそれをより具体的な生活世界の 特定の事象に結びつけることを禁じているに過ぎない。 知覚のもつごく基本的な志向自体は遮断されているわけではない。 しかも絶対音楽はそうした志向を美という次元で回収しようとする。 そのことは逆に「美」を感覚的な快さのレベルに回収することになる。

一方、実験音楽の立場は、美という価値の次元を拒絶する(少なくとも「美」を 感覚の次元に回収することは拒絶する)ことは勿論だが、 知覚の基本的な価値付けすら括弧いれして、知覚のあり方そのものの変更を 促そうとしているのだといえる。ただし、これは本来知覚や認知が持っている具体的な 目標指向的な性質からはかけ離れている。まさに抽象化して形式的な枠組みそれ 自体を問題にするのだ。随伴的に情緒的、気分的な反応を惹き起こすことは あるだろうが、通常の音楽とは異なって、それ自体が目的なのではない。 いわゆる「表現」はここでは断念されていたり、拒否されていたりするのである。 その意味では絶対音楽とは中途半端な抜け道をもった概念で、寧ろ実験音楽の方が、 絶対という言葉に相応しいのではなかろうか。

マーラーのような音楽は、そういう意味では歌詞がついたものや標題がついたもので なくても理念的な意味での絶対音楽ではない。まず、それが美という次元に価値を おいていないのは明らかであるように思える。一方で作曲者の意図のレベルにおいても、 それは単なる知覚に随伴してしまう感情や気分の表現にとどまらないだろうし、 マーラーの場合には、その意図を作品が裏切ることなく(それが恐らく優れた作品の 定義なのだろうが)聴き手には、そうした感情や気分の背後にある、より意識的な 世界へのコミットの姿勢が伝わるからである。要するに、ここでは単なる情緒や気分の 表現が意図されているのではないし、実際に聴取において起きているのも、その レベルにとどまらない。そうした情緒や気分を自覚する自己言及的な過程自体が 「表現」の対象になっているのだ。

私は、そうした自覚的システムの過程を表現することが意図されている種類の 音楽を、(自)意識の音楽、あるいは自我の音楽と呼びたい。それは行為へのいざないとして 情緒や気分が生じる過程をシミュレートすることができるだけの系の複雑さを前提としているが、 まさにそうした自己言及的な自覚のシステムのことを一般に自意識と呼ぶからである。 勿論、音楽が皮肉や自己韜晦を表現することができるのは、そうした能力を前提にしている。 引用、パロディが問題になるマーラーの音楽の特徴は、自我の音楽の特徴である。 そうした特徴は、しばしば文化依存であると言われるし、実際に個別の解釈は文化的な文脈の 方向付けの上でなされるのだが、そうしたレヴェルとは別次元の、音楽を聴取するシステムの 形式的な構造の水準で、それは保証されているのだといえる。無論、そうした自己言及的な システムが高度に発達し、音楽の聴取の類型として可能であることそのものが、ある文化に 固有の事象なのかも知れないが、必ずしも創作がなされた具体的な文化的な文脈なしでも、 言い換えれば、特定の解釈が与えられない曖昧な状態でも、二重言語性を感じ取ることは 可能なのである。

(ここまで述べたことは、ショスタコーヴィチについてもほぼ当て嵌まるだろう。実は この文章は最初ショスタコーヴィチに到達することを念頭において書き始められたのだが、書き終えてみると、 寧ろマーラーについて語っているということ気づき、結局マーラーについての文章として公開することになった。 ショスタコーヴィチとマーラーとの間には、様々な点で大きな違いが存在するけれども、 意識の音楽という点ではまさにマーラーの後継者であると言いうると思う。 少なくとも私はそのようにショスタコーヴィチを聴いている。)

従ってマーラーの音楽を聴くことは、単なる耳の快楽の追求ではないし、感覚的な美の探究でもない。 娯楽でも気晴らしでもない。一方で知的な遊びでもない。それは自我の世界に対する態度の 感受であり、それは聴き手の行為に影響を及ぼすような類の出来事なのである。
(2005.8作成, 2007.6.14補筆・修正して公開, 2021.1.31改題)