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アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)

2024年6月24日月曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及(1984年版原書p.56, 邦訳(高野茂訳)pp.113-4)
Auch die Einleitung zum ersten Satz der Dritten entwurf er und erzählte mir davon: "Das ist schon beinahe keine Musik mehr, das sind fast nur Naturlaute. Und schaurig ist, wie sich aus der unbeseelten, starren Materie heraus - ich hätte den Satz auch nennen können: 'Was mir das Felsbebirge erzählt' - allmählich das Leben losringt, bis es sich von Stufe zu Stufe in immer höhere Entwicklungsfromen differenziert: Blumen, Tiere, Mensche, bis ins Reich der Geister, zu den 'Engeln'. Über der Einleitung zu diesem Satz liegt wieder jene Stimmung der brütenden Sommermittagsglut, in der kein Hauch sich regt, alles Leben angehalten ist, die sonngetränkten Lüfte zittern und flimmern. Ich hör' es im geistigen Ohr tönen, aber wie die leiblichen Töne dafür finden? Dazwischen jammert, um Erlösung ringend, der Jüngling, das gefesselte Leben, aus dem Abgrund der noch leblos-starren Natur (wie in Hölderlins 'Rhein'), bis er zum Durchburch und Siege kommt - im ersten Satz, der attacca auf die Einleitung folgt."

 彼は《第三交響曲》の第一楽章への導入部の構想もまとめ、それを私に話してくれた。「それは、もはや音楽というものではなく、ただ自然音だけ、と言ってよい。生命のない硬直した物質から――僕はこの楽章を、「岩山が私に語ること」と名付けてもよかろう――生命がしだいに身を振り離し、一段階ごとに、花、動物、人間といったより高度な発展形態に分化していって、最後に精神の領域、つまり「天使たち」にまで達する過程には、人をぞっとさせるものがある。この楽章の導入部には、ふたたびあの夏の熱気、息をつくものもなく、すべての生き物が動きを止め、太陽に酔いしれた空気が震え微動する、じりじりとした夏の真昼の灼熱の気分がみなぎっている。僕には、それが心の耳で鳴っているのが聞こえるけれども、どうやってそれに相応する実際の音を見出したらよいのだろう?そこでは、若者の縛られた生が(ヘルダーリンの『ライン』におけるように)まだ生命のない硬直した自然の底しれぬ深みから、救済を求めて嘆きを声をあげる。そして、導入部にすぐに続く第一楽章になって若者は解放され、勝利を得るのだ。」

マーラーがヘルダーリンを好んでいたのはアドラーの言及(Guido Adler "Gustav Mahler", 1916のp.43)から始まって、ヴァルターの回想 (邦訳第2編「反省」第3章「個性」p.192参照)やアルマの回想と手紙に含まれる書簡(1901年12月16日)でも証言されているが、 彼自身の証言として具体的な作品に言及しているのは、上に掲げた1896年夏のアッター湖畔シュタインバッハでの第3交響曲についての言葉と、 同じくバウアー=レヒナーの回想にある1893年7,8月のアッター湖畔シュタインバッハでの 「ワグナーの偉大さ」についての言葉のようである。言及されている作品はいずれも讃歌「ライン」で、「ワグナーの偉大さ」の方は第4節の'Das meiste nämlich vermag die Geburt, und der Lichtstrahl, der dem Neugeborenen begegnet'「つまり、生まれと生まれたばかりのときに出会った光線が、大部分を決めてしまうのである」が実際に 引用されている(1984年版原書p.33, 邦訳p.57)。
実を言えば、上に掲げた箇所は1923年版においては(wie in Hölderlins 'Rhein')という括弧に括られた補足の部分が欠けていることがわかる(1923年版原書p.40)。 この欠落の理由は定かではない。一方Dike Newlinによる英訳版の注ではマルトナーがここの部分で参照されているのは第2節の「冷気みなぎる淵より、 /救いを請い求める声を聞く。/大声でわめき、母なる大地に訴えるは、/ひとりの若者、、、」'Im kältesten Abgrund hört / Ich um Erlösung jammern / Den Jüngling, ... ' であることを述べている。ヴァルターの証言によれば、「ライン」は「パトモス」と並んでマーラーが特に好んだとのことだから、バウアー=レヒナーの回想で2度までも「ライン」に 言及するのはヴァルターの証言を裏づけていることになろう。特に上掲の部分は自作の第3交響曲第1楽章にちなんでの言及であるだけに、非常に興味深い。 第3交響曲におけるニーチェの影響は、第4楽章においてツァラトゥストラに含まれる詩が用いられていることもあって頻繁に言及されるが、ヘルダーリンの圏の中に それを置くことは、一層興味深いように感じられる。第3交響曲の音調が全体としてヘルダーリン的であるかどうかはおくとして、アルニム・ブレンターノとニーチェを、 デュオニソスとキリストを結ぶ不可視の結び目としてヘルダーリンを考えるのはそれほど突飛なこととは思われない。なお、フローロスのマーラー論第1巻では マーラーの精神世界を体系的に提示することが目論まれていて、ヘルダーリンについても手際よくまとめられている(II.Bildung のpp.58-9)。
 
ちなみにマーラーのヘルダーリンへの傾倒、とりわけ後期讃歌に対する評価が、ディルタイの「体験と詩作」(1905)やいわゆるゲオルゲ派による「再発見」、 更にはヘリングラート版の刊行(1913~1923)に先立つことは注目されて良いだろう。勿論「子供の魔法の角笛」の編者でもあるブレンターノやアルニムをはじめとする ロマン派の作家によるヘルダーリンの評価は 既になされていたし、シュヴァープ等による詩集の刊行は1826年(第2版は1842年)であるから、そうした流れの中でマーラーがヘルダーリンを発見したとしても 不思議はないのだろうが。実際、ド・ラ・グランジュのマーラー伝の1894-1895年の項(フランス語版第1巻p.495, 英語版第1巻p.303)には、フリッツ・レーアに対して、 アルニムとブレンターノの全集とともにヘルダーリンの作品集を送るよう依頼したという記述があるし、アルマの遺品の蔵書には1895年9月30日付けの序文を持つ 2巻本のヘルダーリン全詩集(コッタ社刊)が含まれている。(Perspective on Gustav Mahler 所収のJeremy Barham, "Mahler the Thinker : The Book of the Alma Mahler-Werfel Collection", p.85参照。ただし後者は序文の年月日からみて、前者とは別にアルマ自身が持っていて、マーラーがアルマへの書簡で言及したものと 考えるのが妥当だろう。)マーラーのヘルダーリンとの出会いがどこまで遡るかは最早はっきりしないのであろうが、少なくとも第2交響曲を完成させ、第3交響曲を 手がける時期にはマーラーはヘルダーリンに親しんでいたようだ。ド・ラ・グランジュの記述によれば、上記のレーアへの依頼は丁度第2交響曲のフィナーレに取り組んで いた時期にあたる。なおアルマ宛の書簡ではもう1回、1907年7月18日付け書簡でヘルダーリンの名前が、 今度はモムゼン、ベートーヴェンの書簡、ゲーテやリュッケルトとともに現れる("Ein Glück ohne Ruh'", Nr.212, p.325)。
 
ところで第2交響曲のフィナーレの歌詞がクロップシュトックの詩にマーラーが大幅な追補をしたものであることは良く知られているし、マーラー自身、それを「自作」のものであると 作品を仕上げている最中のベルリナー宛書簡(1894年7月10日)で述べているほどだが、その中の有名な一節"sterben werd'ich um zu leben"に関してヘルダーリンに ちなんで些か気になることがあるので書きとめておくことにする。マーラーは第2交響曲について後に1897年2月17日付けのアルトゥール・ザイドル宛の書簡において、 聖書を含むあらゆる文学書を渉猟しつくした挙句、ビューロウの葬儀で歌われたクロップシュトックに霊感を受けて終楽章を書き上げたと語っている。これだけ 読めば、その渉猟はビューロウの葬儀でクロップシュトックの詩に触れる以前となりそうだが、「自作」の詩が、つまりクロップシュトックの詩への追補が行われたのは、 まさに上に触れたレーアへのヘルダーリン作品集の送付依頼があった時期と考えるのが妥当であろう。以下の指摘において、マーラーがヘルダーリンを無意識的に 引用したとまで主張するつもりはないのだが、それにしても時期的な一致もあり、ザイドルの書簡における「渉猟」、ただしここではクロップシュトックの詩にいわば 導かれて「自作」の詩を書き上げる過程における読書の対象のうちにヘルダーリンが含まれていた可能性を示唆するように思われるのである。
 
「ヒュペーリオン」第2巻第2部のあの「運命の歌」を含むベラルミンに宛てた長大な書簡にはディオティーマからヒュペーリオンに宛てられた最後の手紙の長大な 引用が含まれるが、その中に「わたしたちは生きるために死ぬのです」(Wir sterben, um zu leben.)という言葉がある。続けて神々の世界では「すべてが平等」で 「主人も奴隷もいない」と語られ、その少し後にはヨハネの黙示録への暗示もあるこのくだりは、第2交響曲のフィナーレとぴったりと重なるわけではないが、 マーラーが色々な人に対して語ったと伝えられるプログラムの内容と呼応するところが少なくないように思われる。この程度の類似は他にもあるかも知れないし、 いわゆる実証的な裏づけはないわけで、これらをもってヘルダーリンのマーラーに対する影響を云々しようとは思わないが、マーラーにおける「復活」「再生」に ついての考え方、のちにはゲーテの「ファウスト」第2部を用いて再び展開される考え方の、控えめに言っても地平を形成しているとは言えるだろう。否、ヒュペーリオンの 結末、更にはそれが遠くまだ幽かに予見する1806年以降の、スカルダネリの署名を持つものを含んだヘルダーリンの後期詩篇の風景は、こちらもまた 第8交響曲を超えたマーラーの後期を、とりわけシェーンベルクが(フローロスの指摘によれば、マーラーがヘルダーリンに対して用いた言い回し"Ganz-Großen"を シェーンベルクが今度はマーラーに対して用いている)プラハ講演で「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを受けとめるところまでには 熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」(酒田健一訳、「マーラー頌」p.124)と述べた第10交響曲の世界を寧ろ示唆しているとさえ 言えるかも知れないと私には感じられるのだ。(2010.11.23)

アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.226, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.228)
... Unter tränen bat er sie, daß er, falls ihm etwas zustoße, neben seiner kleinen Tochter in Grinzing begraben werde. Er wolle eine einfaches Begräbnis, keinen Pomp, keine Reden. Er wolle einen einfachen Grabstein und nichts solle darauf stehen als der Name » Mahler «. » Die mich suchen, wissen, wer ich war, und die andern brauchen es nicht zu wissen. «

…彼は泣きながら、自分にもしものことがあったら、グリンツィンクの墓に眠っている娘のかたわらに埋めてほしいと言った。葬式はごく簡単でよい。はでに騒いでもらいたくない。弔辞もいらない。飾りけのない墓石を一つ立てて、そこに《マーラー》と刻むだけでよい。「私の墓をたずねてくれる人なら、私が何者だったか知っているはずですし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はありませんからね。」 

最後のマーラー自身が言ったものとして記録された言葉は有名だろう。ご存知の方も多いと思われるが、墓石についての彼の希望は入れられ、 分離派のヨーゼフ・ホフマンのデザインによる墓石には、彼の名前のみが刻まれている。行列と弔辞の方はどうだったろうか? マーラーがここで拒絶したのは、 ウィーンでは伝統のある、大勢の市民が行列をつくるような類の葬儀のことのようで、その意味では希望はかなえられたと言って良い。

死の四日後の5月22日に雨の中で行われた葬儀に参加するには入場許可証が必要で、近親者のみが参加したとのことだ。 それでも数百人が参加したようで、雨の中に列をつくって並ぶ人々の写真を幾つかの文献で見ることができるし、入場許可証は英語版の書簡集で 見ることができる。埋葬のシーンをシェーンベルクが描いた油絵「マーラーの葬儀」も残っている(新潮文庫の船山隆『マーラー』にカラーで掲載されている他、 モノクロでなら岩波新書の柴田南雄『マーラー』でも見ることができる)。 シェーンベルクのOp.19のピアノ曲集はシェーンベルクのほぼ唯一のミニアチュア様式の作品として著名だが、この曲集は6曲目のみが1911年6月17日に 書かれていて、繰り返し響く和音が葬送の鐘を模していて、マーラーの葬儀の印象に由来するものとの解説が柴田南雄『マーラー』にある。

更に彼は同年出版の『和声学』をマーラーの思い出に献じ、1913年にプラハであの有名な講演を行うというかたちで、故人への追悼の気持ちを 示していくのである。(2007.5.18マーラーの命日に)

アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.137, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.129)
Oft sagte er: » Ich bin dreifach heimatlos : als Böhme unter den Österreichern, als Österreicher unter den Deutschen und als Jude in der ganzen Welt. Überall ist man Eindringling, nirgends "erwünscht". «

彼はしばしばこう言っていた。「私は三重の意味で故郷のない人間だ。オーストリア人のあいだではボヘミア人として。ドイツ人のあいだではオーストリア人として。全世界のなかではユダヤ人として。どごに行っても招かれざる客、ぜったいに《歓迎される》ことはない。」 

この言葉はマーラーの評伝の類ではおなじみの、あまりに有名なものだが、実はその典拠はというとアルマの「回想と手紙」が唯一のものらしい。そしてこの言葉が出現する 「回想」における文脈というのは、あの1907年の出来事を語る章の冒頭で、或る種の寄り道というか息抜きとして紹介されるマーラーの若き日の出来事を語る中でなのである。 指揮者マーラーの最初の「任地」はバート・ハルの夏季劇場であったのだが、そこで知り合った人間を冬になってヴィーンに戻ってから訪問したら門前払いを食らった。 それをマーラーは自分がユダヤ人だからだろうと思った、という話に続いて上記の言葉が紹介されるのだ。その間にはアルマ自身によるコメント、門前払いの理由は 単に「夏場の付き合い」というのはそういうものだからに過ぎないのでは、という意見が挿入されている。
深読みしようというのではないが、この言葉が独り歩きした時に持つことになる重みを思えば、その典拠における文脈は些か意外な感じもある。何しろ、マーラーに この言葉を言わせるのに相応しいエピソードは他にも幾らでもあるわけだし、1940年に出版されたアルマの「回想と手紙」自体の出版時の状況―それは序文でアルマ自身が語っているし、その時期に、そしてそれに続く数年にヨーロッパのユダヤ人がおかれた状況について知らない人はいないだろう―を考えると、私には手に負えないような微妙な問題をそこに読み取る人ももしかしたらいるかも知れないとさえ思われる。アメリカへの亡命を余儀なくされたアルマが、わざわざこの時期に、ユダヤ人であった最初の夫の「回想と手紙」を出版したことそのものが、ある種のプロテスト、意思表示であったのは確かなことなのだから。アルマが序文を書いたのは、そうした逃避行の途上のサナリー・シュル・メールでだったこと、そしてこの本がアムステルダムで出版されたことを確認しておくのも意味のあることだろう。
だが私個人としては、そうした背景や意味合いの詮索はおいて、とにかく、この有名な言葉が登場する文脈を私自身が忘れずにおくために、ここに典拠とともに紹介しておこうと思った次第である。(2008.2.10, 2.11補筆修正)

妻のアルマ宛1904年2月1日付け書簡にある進化論に由来するマーラーの言葉

妻のアルマ宛1904年2月1日付け書簡にあるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.226, 白水社版邦訳pp.276-7)
"Mein Geliebtes!
Also gestern im "Liebesgarten". Die Aufführung war sehr gut und durchaus eine Bestätigung meiner Eindrücke bei der Lecture. Ich habe keinen neuen Gesichtspunkt gewonnen. Meine Ansicht über Pfitzner ist die gleiche geblieben. Große Stimmungskraft und sehr interessant in Kolorit. Aber zu gestaltlos und verschwommen. Gallert und Urschleim, immer zum Leben drängend, aber in der Entwicklung gehemmt. Die Schöpfung gedeiht höchstens bis zu den Weichtieren. Wirbelthiere können nicht entstehen."(...)

 かわい子ちゃん!
  きのう『愛の花園のばら』を上演した。演奏は上出来だった。総譜を読んだときの印象がそっくり確認されたかたちだ。これはと思うところはどこにもなかった。私のプフィツナー観はいままでと少しも変わっていない。きわめて情緒的で、音色もなかなか多彩だ。しかし曖昧模糊としてつかみどころがにあ。ゼラチン質か原形質のようなもので、たえず生命への衝動にかられながら、たえず進化が阻止されている。いくら発達してもせいぜい軟体動物どまりで、脊椎動物にはとてもなれない。(…)

ここで話題になっているプフィッツナーの歌劇「愛の花園の薔薇」は、アルマがマーラーに働きかけて宮廷歌劇場でのウィーン初演を実現したという経緯が「回想」の方で語られている。 1902年のクレーフェルトでの第3交響曲初演の折にプフィッツナーがマーラーを訪れ上演を懇願したのが発端で、その後1904年2月にマンハイムとハイデルベルクをマーラーが訪れた折に 1月31日にマンハイムで行われた上演を聴いた感想を翌日ハイデルベルクからアルマに書き送ったのが上掲の書簡である。ここでの評価は否定的だが、アルマの働きかけにより1905年4月に マーラーがこの歌劇のウィーン初演を行うことになる経緯は「回想」の1905年の章に詳しい。

だがここで私がこの書簡を採り上げるのはプフィッツナーの歌劇を話題にしたいからではない。そうではなくてマーラーが評価をする際に用いた進化論に由来するレトリックの方が 興味深く思われたからである。進化論は21世紀の今日でもキリスト教圏では未だ議論の対象のようで、極東の島国から眺めるとそれはそれで些か意外な感を抱くのだが、 ダーウィンの「種の起源」出版からまだそんなに時を隔てていない1904年の時点で、よりによって音楽を評するのに進化論の比喩を用いるのはマーラーが持っていた思想的背景の 反映に違いない。今日の視点からすれば何でもないような言い回しかも知れず、私自身、子供の頃にこの書簡を読んだ時にも特に気を留めることもなく通り過ぎてしまったのだが、 例えば上掲の書簡の続きで言及される第3交響曲を肴にマーラーの世界観を論じようとするのであれば、1世紀の年月がもたらす遠近法的な歪みに無頓着でいることはできないだろう。 マーラーが読んだとされるフェヒナーやロッツェ、ハルトマン等は当時勃興しつつあった実証的な自然科学の知見と観念論的な思弁との折り合いをつけようと試みたが、それはその時代が 要請したものであって、今日それに当時と同等の意義を認めるのは困難だろう。マーラーも彼なりの仕方で共有し、その音楽にも刻印されているそうした思考のベクトルは 今日でもなお喪われた訳ではないだろう(実際、同じベクトルを持つ主張が今日的な文脈で繰り返されるのをそこかしこで見ることができるだろう)が、展望は自ずと変わっている筈だし、 それに対して無自覚でいるのは当時のマーラーが抱いていた関心のベクトル性の深さとは相容れないことだろう。

21世紀の今日に生きる人間が1世紀も前の立ち位置に無媒介に立てる筈がないというのに、その音楽についてはコンサートホールやCDでいとも容易くアクセスできるが故に、 実際には「幽霊」でしかないかも知れないものをまるで生きているかのように錯視してしまうことが、そうしたことの原因になっているのかも知れない。 実際そのようにして子供であった私もまたマーラーの音楽に出会い、その人を知っていったのである。 だが厄介なのはそのこと自体ではない。マーラーは紛れもなく過去の人であり、その音楽はどのようにしても今日書かれる音楽ではあり得ないにも関わらず、マーラーが生き、その音楽が 産み出された「圏」は、寧ろ現在とあからさまに地続きなのだ。文脈から切り離して接することができる程は遠くはなくて、それゆえに寧ろ遠近法的な倒錯が厄介さを増しているのだ。 ウィーン宮廷歌劇場監督であったマーラーは当時の文化的な風景の中においても中心に位置づけることができることもあり、19世紀末ウィーンの文化の中に彼とその音楽を位置づけようと いう試みが為されてきたが、それがマーラーと今日の距離を適切に測るのに必ずしも資した訳ではないのは、それがマーラーの音楽同様、ある種の流行現象となり、まるでそれが 自分達の時代のものであるかのように喧伝されると距離感は喪われてしまった経緯に明らかだろう。

その厄介さは時間の次元だけにとどまらない。アウトサイダーであったマーラーの音楽を、更に外側の極東の島国から眺めた時の展望は単なる外部からの視点であるとは言い切れない。 端的な例が「大地の歌」であって、この場合には李白や孟浩然、王維の詩に対する日本人の距離感が更に加わるから一層ややこしいことになる。例えばアドルノの視点と同じ位置に 立つことは、少なくとも私にはできない程度に漢詩は自分の中に埋め込まれてしまっている。件の世紀末ウィーン文化史にしてもそうだが、漢詩が極東の島国において持ちうる意義は、 かの黄昏の地におけるそれと同じである筈はない。だがそれでは相変わらずマーラーを理解できていないのは一体どちらの側なのかということになれば、あちらとこちらで誤解の様相は 異なるとはいえ、誤解の程度はお互い様なのではないか。お互い様といえば、漢詩について西欧人以上に今日の日本人がわかっているというのだって甚だ怪しいかも知れないのだ。 最初に採り上げた進化論の受容に関しても恐らく例外ではなく、マーラーも含めた彼の地の人々の躓きがかえって腑に落ちない程抵抗感なく受け入れることができているのだろう。 だがこうなるともう、自分独自の展望があるのだとしか言えない気にもなってくる。距離を測る作業、自分の立ち位置を確認する作業などいいから、自分なりの聴き方、 受け止め方をすればいいではないか。そもそもこのことに気付く以前にお前はマーラーの音楽にどっぷりつかってしまったではないか、というわけだ。勿論、年季の入ったマーラー・フリークを 誇るのも考えものだ。遠ければ細部は判別できないが、近ければ今度は全体が見渡せない。結局のところ、存在するのはそれぞれの立ち位置に応じた展望の違いだけで、 それらに優劣をつけることなど出来はしないのではなかろうか。存在するのは関心の深さ、共感の深さ、衝動の大きさだけなのではないか。

確かにそうなのかも知れない。そもそもが、一体何を根拠に同時代に生きる他の誰と私が視点を共有しうるというのか。程度の問題をなかったことにしてしまうのは明らかに極論だが、 過去の異郷に生きたマーラーと私との距離が、同時代の誰かと私との距離以下に原理的になりえないというのは一体どのような抽象的な空間なり場なりを想定してのことなのだろう。 ある相空間においてはマーラーは私の隣人なのだ、とどうして言えないのだろうか。例えばプフィッツナーはマーラーの音楽との接点を見出せないとアルマに対して語ったらしいが、 私は、それが思い込みや視界狭窄に基づくものであったにしても、マーラーの音楽との接点が見出せずに困った経験はない。だが同時代に同じ文化圏に生きた同業者プフィッツナーと マーラーとの距離と私とマーラーとの距離とはそもそも同じ尺度でなど測れないし、比較することにも意味はないだろう。結局、どのような空間を設定するかに依るのだし、 実はマーラーについて語ることとは、そうした空間の定義の作業そのものの一部なのではないか。「私にはこのような風景が見えます」と語ること。語りの衝動は、 その人が見た風景の素晴らしさや不思議さに由来する。それはまた「自分に与えられた素材と手段を駆使して世界を構築すること」に他ならない。 マーラーなら同意してくれることと思うが、世界は認識されるのではなく、構築されるものなのだ。もっと言えば純粋な認識というのは言葉の上の抽象に過ぎず、 それは構築と切り離してはあり得ない、つまり認識と構築は同じことなのだ。そしてそれは勝手気儘な仕方によってではなく「ある声」に従うことによって、 その世界の法則を明らかにすることによってしか為しえないのだ。

なお、この書簡は1995年に出版された"Ein Glück ohne Ruh' : Die Briefe Gustav Mahlers an Alma"ではpp.182-3に収められていて、上掲の1940年版とは若干の異同があるが、 ここで採り上げた主旨の上からは大きな問題はないので、ここでは初出の1940年版に従った。(2009.12.5, 2024.6.24 邦訳を追加。)

証言:クルト・ブラウコプフのマーラー伝の最終章「マーラーの伝記を書くことの冒険(Das Abenteuer einer Mahler-Biographie)」より

クルト・ブラウコプフのマーラー伝の最終章「マーラーの伝記を書くことの冒険(Das Abenteuer einer Mahler-Biographie)」より:(原書1969年版p.307、翻訳:『マーラー 未来の同時代者』, 酒田健一訳, 白水社, 1974, p.413)
Ich habe mich auf dir Niederschrift der vorliegenden Biographie mehr als dreißig Jahre lang vorbereitet. (...)
Meine Liebe zu Mahler war nicht beständig. Es gab Jahre, in denen ich mich von Mahlers Musik abwandte. Die so gewonnene Distanz, teils aus einem Mißverstehen Mahlers, teils aus veränderten Neigungen herrührend, erwies sich zuletzt als nützlich, denn sie förderte das Verständnis für das Schwanken der Gunst des Musikpublikums. (...)

筆者はこの伝記を書くにあたってその準備のために三十年あまりの歳月を費やした。(…)
筆者のマーラーへの愛にも起伏がなかったわけではない。マーラーの音楽に背をむけた時期もあった。しかしこうして得られた距離ーー一部はマーラーを誤解したこと、一部は自分の傾向に変化が生じたことによるのだがーーは、結果的には有益だった。なぜならそれは音楽大衆の人気の変動という現象を理解するのに役立ったからである。(…) 

ブラウコプフのマーラー伝は、幾つかの意味合いで極めて重要な位置を占めていると思われる。直接マーラーを知る人たちの、生き生きとはしているが、思い込みや 誤り―場合によっては、故意に近いものも含めて―が含まれる証言とははっきりと一線を画して、資料に関する批判的で実証的な検討を行い、とりわけ 社会学的な視点からマーラーを描き出すそのアプローチは、今なお示唆に富んだ部分を多く持っているように感じられる。
だが、それよりも何よりも個人的には、その伝記の最後に来て、ここに引用した文章を初めて読んだ時の驚きは忘れられない。30年という年月に圧倒されたことも そうだし、マーラーに接する姿勢の紆余曲折にも率直に触れられていることに、或る意味で心打たれたのだ。
勿論、ブラウコップフは感傷的な気分でこうした文章を書いたのでない。最初の文章の後に続くパラグラフでは、楽譜をピアノで弾きながらマーラーに入り込んで いった世代と、優れた演奏によるレコードを聴くことができる世代との受容の仕方の違いに言及し、次の引用文の後には、音楽学者と音楽社会学者の アプローチの違いへの言及がある、といった具合で、この章もまた、後書きなどではなく、音楽社会学者とのしての自己の立場を踏まえた論述の一部なのである。
けれども私個人としては、30年前に思い立ったテーマ、しかも必ずしもずっと関心の中心であったわけではないテーマについて、それでも結局 こうした成果が生み出されたことに、率直に感銘を受けるのである。翻ってみれば、年月の経過だけはすでに決して劣らぬ長さになりつつあるとはいえ、 私には一体何ができるのか?私は別に伝記を書こうとしているわけではないし、それよりも何よりも、このような第一級の業績と己を比較するのも おこがましいかも知れないが、それでもやはり他人事とは感じられない。 私も受け取るだけは、本当にたくさんのものを受け取ってきた。何ができるかはわからないが、何もせずに終わらせることはできないように感じている。(2007.5.22, 2024.6.23 邦訳を追記)

2024年6月17日月曜日

「パルジファル」から「子午線」へと過ぎ越す「応答」としての第9交響曲(2024.6.17更新)

パルジファルの音楽は、それが現実に場を持たない感じがしない。 第1幕の前奏曲からして、それは既にあまりに現実的な空間を浮かび上がらせる。 それは具体的な現実の歴史の中の出来事ではなく、その中に場所も時点も 持たない。それは過去に起きた歴史的出来事の再現を企図しているのではない。 にも関わらずそれはひどく現実的で、まるである可能世界で「現実に」生じた、 あるいは生じつつある出来事のようだ。これは「ありえたかもしれない」出来事 なのだろうか。

劇場での上演という制約のためなのだろうか?音楽だけを聴いても その音楽は、ひどく現実的なものに聞こえる。神話的な空間での 出来事にも関わらず、登場人物は現実の身体を持つ「生身の人間」であり、 アムフォルタスにせよ、クンドリーにせよ、その苦悩はひどく人間的なもの、 あまりに人間的なものであり、その感情はいわゆる「この世ならぬもの」の 息吹からは遠い。神話的で、或る意味で図式的でありながら、少しも 現実的な感情を逸脱しようとしない。寧ろ、現実的な筋書きを持つ オペラが、そらぞらしくわざとらしく感じられる(ごく単純に、人は普段そのように 歌ったり、振舞ったりしないものだという白々しさの感覚に囚われる)のに対し、 ここでは演劇的なもののもつ空々しさは、或る意味で巧みに帳消しに されているという見方もできるだろう。(パルジファルの筋書きだけを取り出して 映画をとったときのことを考えてみればよい。むしろそちらの方が現実離れ した感じを与えるのではないだろうか。)科白が歌われること、音楽が 常に物語の背景に流れ続けていることは、ここではまるで当たり前であるかの ようだ。逆に、音楽を介して、ある可能世界の現実が成立しており、 音楽を介してしか、その世界の出来事を理解可能なかたちに翻訳することが できないかのようだ。

それに対応するように、「聖金曜日の奇跡」は少しも奇跡のようでない。 それは寧ろ、ごく普通の四季の循環のプロセスにおける出来事に対する 価値付け、解釈の結果のようであって、劇場の舞台の上で如何なる 奇跡も現実には起きないように、音楽もまた如何なる奇跡をももたらさない。 それはごく普通に或る瞬間に、この世において生身の人間が見るであろう 風景のようだ。

時間論的に未来完了的な構造を備えていることとの関連について言えば、 ここでは前奏曲で予示されてしまった「音楽的出来事」が展開されるだけであって、 新たな何かが到来することはない。「再現」はここではベクトル性の深みを欠き、 どこか遠くに来てしまって、後戻りが利かないという感覚は希薄だ。 全ては起こるべくして起こった。仕組まれており、偶然やゆらぎのもたらす、本当の 意味での「新しさ」がここには欠けているのではないか? 寧ろそれは、かつて起きたことの反復、これからも永遠に繰り返される出来事の 提示のように感じられる。 物語のプロットは非可逆的性を備えているようであるにも関わらず、それは 反復されうるように感じられる。同じものがそっくりそのまま繰り返されるのだ。

色々な演出での色々な時点と場所におけるパルジファルの上演は、演出家が 如何に差異を意図し、オリジナリティに取り憑かれていたとしても、結局は同じものの 繰り返しにしかならないよう予め定められているかのようだ。しかしそれはある意味では 当然で、演出を替え、衣装を、舞台装置を替え、歌手を、オーケストラを、指揮者を 変えても、音楽そのものは変わらない。ここでは音楽が全てを生じさせる根拠なので、 所詮はそうした変化は、或る種の展望の相違、視点の相違に過ぎない。 ある春の日が、別の一日と気温も湿度も、光の調子も、何一つとして全く同一と いうことはないのに、結局は同じ春の一日に過ぎないと感じられるのに近い感覚がそこにはある。

こうしたあり方を指して「神話的」と呼ぶのであれば、これはまさしく「神話的」であり、 神話そのものと言っても良いようにすら思われる。 この作品が成功しているのか、失敗しているのかは、そこに何を求めているかによるだろう。 しかし、どちらにしてもこの作品が極めて完成度の高い、優れた作品であることは間違いがない。 ある見方をすれば、これは恐るべき力を持った、あまりにうまくできた、完璧な成功作であろう。 この作品を、或る種の頂点、極限と見做すことは不当なこととは思えない。

「舞台神聖祝典劇」というジャンルの創出企図にも関わらず、舞台の上で、あるいは 音楽の裡で起きる出来事は、あまりに強い実在感を備えすぎているし、想像される意図 からすれば意外なことかも知れないし、人が期待するものからしてもそうかも知れないが、 超越的な契機を欠いているようなのだ。一言で言えば、その音楽は聴き手を 「どこか別の場所」に連れ去らない。勿論、パルジファルの物語の空間は、虚構であり、 現実ではない。そしてこの音楽が聴き手を、物語の空間に、虚構の中に誘う仕方が 如何に完璧で、如何にその力が強力かについては既に述べた通りである。 だが、それは「どこか別の場所」が備えているべき「他性」を欠いているように思われる。 彼方から到来するものの息吹に欠けている。

恐らくはベクトルの向きが逆なのだ。予め虚構の時空の中で繰り広げられる 物語は、現実が彼方からの息吹によってこの世ならぬものに変容する一瞬を 持ち得ない。変容する瞬間のもつ「突破」のベクトル性の深みもまた持ち得ない。 どこかに裂け目があって、そこから何かが到来するという構造がここにはそもそもないからだ。 皮肉なことに、ある意味でこの音楽が完璧なだけ、もしかしたら作者の企図の実現の 度合いに関して、例外的な程までに成功しているがゆえに、その出来の良さの分だけ、 「他性」を、「超越」のもつ受動的な構造を、作品自体は決定的に欠いているのだ。 作品の内側においては、ある仕方では「超越」のもつ受動性が示されているという見方も 可能だろうが、それは皮肉にも逆の意味を帯びてしまいかねない。このような仕方で 受動性が提示されてしまうと、それはそれで一面的なものとなり、本来はその背後に 働いている契機が、恰も否定されてしまうかの如き誤解を生じかねない。もっとも ワーグナー自身にしてからが、もともと本当にそう考えていたのであり、だからここには 「誤解」などなく、寧ろ私の側に「誤読」があるか、控えめに言っても、無い物ねだりを しているだけなのだという意見はあるだろうし、それにも一理あることは認めざるを得ない。

だが音楽はそもそもすべからくそうしたものではないのか、という問いに対しては、 そうかも知れないが、必ずしもそうとは限らない場合もあるように思える、と言うほかない。

私が経験した限りにおける「パルジファル」において生じていると私に感じられた上のような事態を ベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」で導入した「一次過程」について、 「冗長性とコード化」の夢の中のコミュニケーションに関するくだりを補いつつ照合してみると、 「パルジファル」に関して、それが現実に場を持たない感じがしない、というひどく回りくどい言い方を 私がしたのは、ベイトソンが夢の特性として指摘している性質故ではないだろうかというように思える。 それは直説法的ではない。まさに「ありえたかもしれない」ものの提示であり、ある「パターン」の提示、 ホワイトヘッド的な永遠的客体の無時間性を備えた、括弧入れされた提示なのではないか。 だからそれは、何度でも、変形されつつも、同じ「パターン」として提示されうる。 「パターン」の不変性を担うのが、ここでは「音楽」であるというように私には思える。

更にベイトソンはフロイトが夢を「夢の作業」による加工・変形を経た二次的なものであるという考えを、 或る種の転倒と見做している。 だが、「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」と いうベイトソンの定義に忠実にあろうとしたとき、既に意識を備えた有機体である人間の、その意識が己の 構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとしたとき、そうした転倒は避けて 通ることのできない経路なのではないか。あえて自分の背後を覗こうとした意識が受け取るものは、 自分自身を含む精神の「幽霊」なのだということに気づくことはないのか。 そしてそういった意識と無意識の関係が原理的に抱える問題に気づいた意識は、 ベイトソンの言う「魂の部分間の統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を 「無意識」とする精神の多重レベル間の統合」を企図したとして その企図が破綻を運命づけられている場合もまたあるのではないか。

ベイトソン自身、「目的意識対自然」においてその統合の困難について語っている。 単に意識を融解させて無意識的なものを噴出させるのではなく、統合を企図したとき、 既に予め分裂している状態で生じるのは、ポリフォニーであり、幽霊との「対話」による 超越の試みではなかろうか。「世界を構築すること」としての交響曲創作は、そうした統合の 試みであり、マーラーは生態学的心理学的な意味合いでの拡張された「心」のあちらこちら (それは自分の内部の無意識かもしれないし、外部の環境かもしれない) からの声に耳を澄ませ、それに形式を与えようとしたのではないか。

それゆえ破綻を宿命づけられた超越の試み自体を定着させた作品があってもいいし、 それは見方によっては壮大な「失敗作」と断定されもするのだろうが、そうした作品に よってしか聴き取ることのできない音調というものがあるだろう。 未来完了的な音楽の構成法という点では表面上は共通しているにも関わらず、 「どこか別の場所」の端的な非在を告げつつ、そうすることで「どこか別の場所」を 浮かび上がらせるような作品というものがある。それはツェランがある詩篇で戦慄すべき 簡潔さで言い当てたように、どこにもない傷をもここから取り去らねばならないといった 現実から発して、時間を通って、だが、誰に届くかもわからず壜に詰めて投じられると いった作品のあり方に、こちらはこちらで正確に対応した内実を備えている。 それは作品の中で「対話」を志向し、作品そのものもまた「対話」を志向する。 「虚構」を「虚構」と指し示し、裂け目から垣間見たものが幻影に過ぎなかったのでは ないかという懐疑にさいなまれつつ、そうした裂け目の彼方を目がけてなおも発せられる 予め挫折を運命づけられたかのような作品によってしか告げられない超越の様態がある。

アドルノはマーラーの第8交響曲における否定的な契機の欠如を批難する。 だが、マーラーが「パルジファル」であれば第2幕に対応するような場面を第8交響曲に含めなかったのは、1曲全体が「突破」の瞬間を押し拡げたものであるかの如きこの 作品にとっては当然のことであり、そうすることで得られたであろう芸術的な成功は、 そうしなかったことで得られた「応答」としての切迫、パウル・ツェランが「子午線」で語ったような、「探しあてらるべき場所の光に 照らされての―どこにもない場所=ユートピアの光に照らされての」「みじめな生き物」としての 「人間」の「場所(トポス)の探索」のぎりぎりの試みの持つこれ一度きりの切迫を 損なってしまったであろうことを思えば、どちらの側に私が与するかは明白である。 聴く者は、自分がどこにいるのかが一瞬わからなくなって恐慌に陥るかも知れない。 「ありえたかもしれない」世界を克明に、あたかも現実のように示す芸術の傍らに、 「ありえない」場所を浮かび上がらせる営みがある。

それを思えば、マーラーが1883年に聴いた「パルジファル」への「応答」が、 第9交響曲であるということ(この点はアドルノが「『パルジファル』の総譜に寄せて」で指摘している。本ブログの記事「アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及」を参照)は、一見すると矛盾しているかにさえ見えるマーラーの 内的な一貫性を示していると考えることができるだろう(アドルノの側についてもまた、本ブログの別の記事「アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及」で触れているように、ツェランに宛てた書簡の中で、よりによってマーラー・モノグラフの第9交響曲に関する箇所を自己引用していることを指摘していることを以て、ここでの「子午線」への過ぎ越しへの企てが筆者の恣意ではないかという疑念に対して答えておくことにしよう)。全く異なる色彩と音調を備えた 風景の中で聴き手は逍遥し、未来完了的な主題構成法も、移行の機能も、 鐘の響きも全く異なるものに変容させられていることに気づく。否、それが「パルジファル」の エコーであることにそもそも気づかないということだっておおいに有り得るし、それで構わないのだ。 モンサルヴァートの春の野辺での聖金曜日の奇跡の代わりに訪れるのは、ドロミテの地で "Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、 菫色などの色彩に変化する現象であり、太陽が沈んでいくある夕べの対話の一刻である。 そうであってみれば、そうした「山中の対話」(ただしこちらはエンガディンにおいてだが)を語ったもう一人の小さなユダヤ人のことばが、 そこでの消息をこの上もない正確さで告げていたとしても、何の不思議もない。私如きが 付け加える言葉は最早ない。だから私はここで沈黙し、もう一人の小さなユダヤ人に 語らせることにしよう。

(...) Erst im Raum dieses Gesprächs konstituiert sich das Angesprochene, versammelt es sich um das es ansprechende und nennende Ich. Aber in diese Gegewart bringt das Angesprochene und durch Nennung gleichsam zum Du Gewordene auch sein Anderssein mit. Noch im Hier und Jetzt des Gedichts - das Gedicht selbst hat ja immer nur diese eine, einmalige, punktuelle Gegenwart - , noch in dieser Unmittelbarkeit und Nähe läßt es das ihm, dem Anderen, Eigenste mitsprechen : dessen Zeit.

Wir sind, wenn wir so mit den Dingen sprechen, immer auch bei der Frage nach ihrem Woher und Wohin : bei einer »offenbleibenden « , » zu keinem Ende kommenden «, ins Offene und Leere und Freie weisenden Frage - wir sind weit draußen. Das Gedicht sucht, glaube ich, auch diesen Ort. (...) (Paul Celan, "Der Meridian")

(…)この対話の空間の中で、はじめて、語りかけられるものがかたちづくられます、語りかけられるものが、語りかけ名ざす「わたし」のまわりに集まってきます。しかもこの語りかけられたもの、名ざされることによっていわば「あなた」となったものは、この現前の中へおのれの別のありようをも持ちこむのです。詩の「ここ」と「いま」においてなお――たしかに詩自身はつねにこのただ一つの、一度かぎりの、そのたびごとの現前しかもたないのですが――このような直接性と身近さの中においてなお、このものはみずからの、つまりわたしたちにとっては「別のもの」の、ひたすら固有なるものをともに語らしめます――すなわちその時間を。

 このようにして、わたしたちが物事について語るとき、わたしたちはつねにそのものたちの「どこから」と「どこへ」をも問いかけているわけです――これは、「未解決にとどまる」「決して終わることのない」問いかけ、そして、ひらかれたもの、うつろなもの、ひろびろとしたものを指向する問いかけです――わたしたちははるか外へ出てしまっています。詩もまた、この場所を求めるのだ、と思います。(…)(パウル・ツェラン、「子午線」、飯吉光夫編・訳、『パウル・ツェラン詩文集』、白水社、124~5頁 )

(2012.12.15公開,17加筆. 2023.12.6 ツェラン「子午線」の引用部分の邦訳を追記。2024.6.17改題の上、自他の文献の参照を追記)

2024年6月6日木曜日

マーラー祝祭オーケストラ第23回定期演奏会を聴いて(2024年5月26日 ミューザ川崎シンフォニーホール)

マーラー祝祭オーケストラ第23回定期演奏会
2024年5月26日 ミューザ川崎シンフォニーホール

プフィッツナー 音楽的伝説『パレストリーナ』第1幕への前奏曲
マーラー リュッケルトによる5つの歌曲(私の歌をのぞき見しないで, 私はやわらかな香りをかいだ, 真夜中に, 美しさゆえに愛するなら, 私はこの世に忘れられ)
マーラー 第10交響曲(デリック・クックの補筆による演奏用バージョン)

井上喜惟(指揮)
蔵野蘭子(アルト)
マーラー祝祭オーケストラ

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 半年前に井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラによる「嘆きの歌」のコンサートに立ち会うべく、2020年の新型コロナウィルス感染症の流行以降初めてコンサートホールに出かけた時に、既に感染症法上の分類が変更されて半年が過ぎていて、ホールに向かう途上の鉄道の混雑と駅の雑踏は旧に復していたように記憶していますが、今回、半年ぶりに再びコンサートに赴くべく土曜日の昼頃にミューザ川崎のある駅に向かいました。インバウンドの旅行客の増加のせいか、一層激しくなったように感じられた混雑に狼狽し、そちらこちらで聞かれる咳の音に心を驚かされつつ、普段その中に逼塞している環境との余りの違いに対する戸惑いの儘にコンサートホールに到着し、携帯電話に着信がないことを確認してから電源を切り、自分の座席を確認して開演を待つ間、自分がその場に相応しくない存在のように感じられるとともに、自分の現在の精神的・身体的状態が、これから接することになる演奏を、それに相応しく受け止めることができるかどうか、耐えきれなくなって途中で席を立ちたくなってしまうのではという思いに囚われていたことが鮮明に、生々しい感覚とともに思い起こされます。

 この日のプログラムには冒頭にプフィッツナーの「パレストリーナ」前奏曲が含まれていましたが、そもそもプフィッツナーの作品といえば、数十年前に1曲だけ、FM放送で確か若杉弘さんの指揮で「キリストの小さな妖精」の序曲を聞いたことがあるだけ、「パレストリーナ」についてもそれがブルーノ・ヴァルターやトーマス・マンに支持された「代表作」であるという断片的な知識のみしかない状態で接したので、何かをコメントする資格などなく、いつもの通りに有識の方に委ねることとして、以下ではマーラーの作品についてのみ感想を記しておきたく、まずは最初の曲の後、休憩を挟むことなく引き続いて演奏された「リュッケルト歌曲集」について記したく思います。

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 実は私は、実質はソロ・カンタータとも連作歌曲集とも見做されうる交響曲「大地の歌」を別にすれば、マーラーの「歌曲」の実演に接したことがこれまで一度もありませんでした。私の場合にはそもそもコンサートに赴く機会自体がほとんどないため、接する機会がない理由にはなりようがありませんが、それでもなお交響曲に比べて管弦楽伴奏の歌曲の演奏頻度は、その価値を思えば不当と感じられる程低いことを感じます。勿論そこには恐らくそうならざるを得ない様々な理由があるわけで、まず演奏会を企画する側からすれば歌手を招かなくてはならないという問題がありますが、同じソリストを招くにしても、それなりのスケールとポピュラリティのあるレパートリーを多数擁し、大向こうを唸らせるような名人芸の披露によって集客の効果さえ期待できる協奏曲とは異なって、歌曲は基本的にはピアノ伴奏でリサイタルで演奏されるスタイルが標準であり、管弦楽伴奏版は或る種例外的な位置づけになってしまうのは避け難く、数多あるレパートリーの中から管弦楽伴奏歌曲が数の限られた公演プログラムの中の一曲として選択される機会はどうしても限定的なものにならざるを得ません。また歌曲には当然ながら歌詞があり、歌詞が聴きとれて理解できることが聴取の前提となる点も敬遠される理由になっているかも知れません。管弦楽伴奏歌曲に対して西洋音楽史上の或る時期のコンサート需要に応じて生産された製品であるという見方を採れば、一世紀の後、そのニーズは最早極めて限られたものになっている上に、文化的伝統が異なる地球の裏側では、そもそも「歌曲」というジャンルを受け入れる素地が極めて限定されたものでしかないというのが実情なのかも知れません。必ずしも「歌」が駄目というわけではないのは、ポピュラー音楽の分野を見れは明らかですし、クラシック音楽においても、例えば「オペラ」については稍々違った状況のように感じられますが、ここでは、歌曲と交響曲の作曲家であるマーラーの作品において、その交響曲の受容の度合いを思えば甚だしくバランスを欠くと思えるほどに歌曲が取り上げられないこと、それを考えれば、前回のカンタータ「嘆きの歌」の上演同様、今回の「リュッケルト歌曲集」についても、マーラーの名を冠するオーケストラの矜持を示す、意義深い企画であることを一言記しておきたいように思います。私個人について言えば、この「リュッケルト歌曲集」は、交響曲を含めても、マーラーの作品の中で最も身近に感じられ、演奏の録音を通じて、或いは楽譜を通じて、更にはMIDIデータの分析といった仕方も含めて、繰り返し接し、親しんできた作品であり、聴く頻度だけ取れば、歌曲集の中でも飛びぬけて高いだけではなく、交響曲と比してさえ勝るとも劣らない作品でしたから、まずこの作品の実演にようやく接することができたことに対し、更にそれが自分が居る同じ空間の中でリアライズされるのに立ち会うという経験そのものに対し、喜びもひとしおのものがありました。

 「リュッケルト歌曲集」は「さすらう若者の歌」や「子供の死の歌」、或いは「大地の歌」とは異なって連作歌曲集ではなく、「子供の魔法の角笛」に基づく歌曲がそうであるように、個別の歌曲を一まとめにしただけなので、曲順が決まっているわけではないし、そもそもが5曲まとめて演奏しないといけないわけでもありません。更に言えば、マーラー自身が管弦楽伴奏版を作成したのは4曲だけ、作曲の経緯からしても他の作品とは区別される「美しさゆえに愛するなら」は、その経緯に相応しくピアノ伴奏版のみで、管弦楽伴奏版は他の編曲者による後補になることから、この歌曲集を取り上げるにあたっては、非常に多様な選択肢がありえることになります。例えばマーラーが1905年1月29日にこの歌曲集の管弦楽版の初演を行った時には、(当然ながら)「美しさゆえに愛するなら」を除いた4曲が、「私はやわらかな香りをかいだ」、「私の歌をのぞき見しないで」、「私はこの世に忘れられ」、「真夜中に」の順番で演奏されています。それに対してこの日のプログラムでは、マックス・プットマンが管弦楽版を作成した「美しさゆえに愛するなら」を含めた5曲全てが取り上げられ、「私の歌をのぞき見しないで」 「私はやわらかな香りをかいだ」、「真夜中に」、 「美しさゆえに愛するなら」、 「私はこの世に忘れられ」の順番で演奏されました。当然のことながら演奏の順番というのは作品解釈の一部であって、正直に言えば、私個人が選択するであろう順序と、この日の演奏順序は異なるものでしたが、接してみると調的配置の面でも、物語的・心理的な流れからも自然な排列であり、しかも後述するような印象が残ったのは、偏にこの順序によるものではないかと考えられ、蒙を開かれる思いがしました。

 「リュッケルト歌曲集」の管弦楽は交響曲に比べれば遥かに規模の限られたもので、寧ろ室内管弦楽の嚆矢と見るべきで、その書法は中期の交響曲よりは寧ろ「大地の歌」の中間楽章に繋がるような、時として工芸品を思わせるような、繊細で微妙に移ろう色彩を備え、管弦楽伴奏であるにも関わらず、外に向かって広がっていくよりは内面に沈潜していく傾向が強いと感じますが、ーー岡田暁生先生は、この「リュッケルト歌曲集」を「ユーゲントシュティール・リート」というジャンルを開拓した作品と規定されていますが、これは卓見であると考えます(「ユーゲントシュティールと世紀末の作曲家たち」参照、『キーワード事典 作曲家再発見シリーズ マーラー』, 洋泉社, 1993, 所収)ーー、この日の演奏は、豊かな色彩感はそのままに、移ろいゆく響きの流れの豊かさが印象的で、隅々まで良く歌って非常に雄弁でさえあり、それがしばしば歌曲というジャンルをはみ出て寧ろオペラの一場面を思わせるようなスケールの大きな劇的な盛り上がりを示す点でユニークな演奏であったと感じました。そうした管弦楽の動きは勿論、歌手の歌唱スタイルに反応したものであって、一つ一つの言葉に込められた感情、ニュアンスも驚く程に多彩であり、通常の歌曲の歌唱であれば、或る種の抑制の中でフォルムを崩さないことを優先して表現されるものが、この日の蔵野さんの歌唱においては、呟きや囁きに近い弱音から、大きなコンサートホールに響き渡るような強靭な節回しに至る迄、驚くべき多彩な幅を持ったものであった点が強く印象に残りました。またこれは色聴という私個人の体質に固有のものなので一般性はないかも知れませんが、管弦楽ならではの調性の変化に対応した色彩の変化が録音で聴いた時に比べて、比較にならない程鮮やかなのには驚かされました。具体的に記述すれば、透明感のある、柔らかな光がたゆとう第1曲、曲頭の零れ落ちるような緑色が中間部分で第5曲を思わせる暖色系に変化した後、末尾でふっと元の色に戻るコントラストも鮮やかな第2曲、色彩よりも明度の変化に勝り、闇の暗さから眩い蒼天の輝きに至る第3曲、同じく色彩の点ではニュートラルで、途中に微妙な陰影を交えて、だが全体としては一貫して晴朗な第4曲、そして、聴き手を包み込むような暖色系の穏やかな光の中で中間部の色彩の微妙な変化が美しい第5曲というのがそのアウトラインになるでしょうが、実際の細部の色彩と輝きの移ろいの微妙さは文字通り筆舌に尽くし難いものがありました。

 それと同時に、数十年の長きに亘り聴き続けて親しんできたにも関わらず、この実演に接して初めて思い至ったこともあります。それは特にこの曲集の中では、特に第5曲(「私はこの世に忘れられ」)が体現している「孤立」のことで、それは一面において第3曲(「真夜中に」)のような、実存的な単独者性と隣り合わせでもあるのですが、それでもそこでの「真夜中」は、例えば第3交響曲第4楽章の「夜」とは異なって、虚無に陥っていく傾向のものではなく、それは寧ろ交響曲の世界では猛威を振るう「世の成り行き」の最中に穿たれた異空間であって、特に第5曲では外部からは遮断されたその内部は親密さと安らぎに満たされているのですが(丁度、第6交響曲の世界を裏側から眺めているような感覚もあります)、それが望まれていはしても実際には実現しないがゆえに夢想され、希求されるものではなく、たとえ儚く仮初のものであるにせよ現実のものであって、確かにその中に主体が住まって安らっているというリアリティが今回の演奏を通じて強く感じられたのが印象的でした。

 それでふと思い浮かんだのが、アルマの回想録の1903年から1906年までの期間が「輝かしい孤立」と名付けられていたことで、マーラー自身がアルマとの生活をこのように呼んだことに由来するとアルマは一連の章の冒頭に記しています。アルマとの生活が必ずしも穏やかで安らぎに満ちたものではなかったことは既に良く知られていて、くだんのアルマの回想もまた、その背後に数多くの言い落しがあることが明らかにされており、そしてその葛藤の最大のものが第10交響曲の創作の背景の一部を為しているというのは余りに有名なことですし、実は「リュッケルト歌曲集」のうち、アルマへの私信としての性格を持つ「美しさゆえに愛するなら」以外の4曲は、1901年11月のアルマとの出会いに遡って、その年の夏に書かれたものなので、伝的的事実に符合を見つけようとする類の試みはここでもあっさり頓挫することになるのですが、それでもなお、「輝かしい孤立」の中で、自分の出生や生い立ちに纏わる様々なしがらみから離れ、職場のいざこざや人間関係の軋轢からも離れて、ひとときであっても自分の価値観の中で生きることができることがもたらす深い慰藉と静かな喜びの気持ちが極めて直截な形で伝わってくるように感じられ、強く心を打たれたのでした。

 「輝かしい孤立」という言葉は、これは邦訳だけ見ていると気付かないかも知れませんが、原文は英語でSplendid Isolationであり、それが英語であるからには、直接には当時の大英帝国の外交政策を「栄光ある孤立」と呼んだことに由来するのでしょうが、その由来の側の政策の後日の歴史的評価が割れることも、マーラーのアルマとの生活についての後世の評価が割れることも、ここでは主要な問題ではないと考えます。また同様に、この歌曲集の持つ雰囲気にユーゲントシュティル的な自閉への傾きを感じ取り、そのあざといまでの人工的で工芸的な繊細さに或る種の閉塞や自己中毒の危険を嗅ぎ付けるといった方向性の指摘にも首肯できる面があるとは思います(例えば、典型的なユーゲントシュティル様式によるツェムリンスキ―の傑作「メーテルリンク歌曲集」についてであれば、躊躇することなく私も同意することでしょう)が、それでもなお、そうした「孤立」抜きで「世の成り行き」をやり過ごすことなどできないし、マーラーの創作においては、若き日には微睡みの夢の中にしかなく、そしてその後の作品においては、「大地の歌」、第9交響曲においてそうであるように、再び、最早それが現実のものではないという(否、ことによったら、一度も現実のものとなったことはないという)認識を伴った苦々しい回顧という形をとる他ないにせよ、ここでは(錯覚のようなものであれ)一時それが現実のものであると感じられたということ、そしてそのことが作品に刻印されているということ(とはいえ、それは自伝的作品ということではなく、寧ろ世界との関わりの様態、認識の仕方の反映と考えるべきなのですが)の方に一層の重きをおきたいように思うのです。何よりも実感として、この日の「リュッケルト歌曲集」の演奏に接した時に、「世の成り行き」に翻弄され、弱りきって疲労困憊し、乾ききっていた自分の心の中にどっと暖かなものが流れ込んできたように感じられ、自分が長らく離れ、忘れかかっていた大切な何かがふと姿を現したのに接したような、救われたような気持ちになったというのは紛れもない事実ですし、その効果は音楽を聴いている瞬間だけ錯覚を引き起こすような刹那的・一時的なものではなく、或る種のモードの切り替えを駆動し、「この世の成り行き」に立ち返った後においても知らぬ間に別の軌道に乗り移っているというようなものなのです。こうしたことを私が感じたことがこの日の演奏の客観的な質にどれだけ関わるかは判断がつきかねる部分もありますが、事実として書き留めて置きたく思います。更に付言するならば、「真夜中に」を挟んで、後半に「美しさゆえに愛するなら」を持ってきて「私はこの世に忘れられ」で結ぶというこの日の演奏の排列がそうした感じ方に影響したのは間違いないことで、これが先に、排列の物語的・心理的な合理性と述べたことの実質に他なりません。かくして井上さんの解釈の下、このコンサートにおいてマーラーの音楽が自分に手を差し伸べてくれるのを経験したということを、感謝の気持ちとともに証言しておきたく思います。

*   *   *

 15分の休憩を挟んで、後半はデリック・クック補筆による5楽章版の第10交響曲。別のところでも述べたように、第10交響曲のクック版はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2014年6月15日に同じミューザ川崎シンフォニーホールで行われた第11回定期演奏会で取り上げられており、今回は10年ぶりの再演だったのですが、私自身、この10年前の演奏に接しており(その感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会を聴いてという記事として公開)、今回は2回目となります。初めて実演に接した「リュッケルト歌曲集」に比べると、その点については遥かにリラックスした気持ちで演奏に接することができた一方、冒頭記した、自分の精神的・身体的コンディションが作品を受け止めるに十分なであるかどうかについては全く自信がなく、恐る恐るという感じで、第1楽章アダージョ冒頭のあの有名なヴィオラのパート・ソロを聴き始めることになりました。結論から言えば、演奏者の凄まじい集中力に引き込まれて、一気に最後まで聴き通してしまったというのが実態で、演奏の充実は、終演後のオーケストラの皆さんの感極まったような、それでいてどこか晴れ晴れとした表情に尽くされていると感じられ、こうした素晴らしい演奏に立ち会えたことの幸運を強く感じつつ拍手をしました。その一方で、そうした達成を目の当たりにして、自分がプログラムに寄稿した文章が色褪せたものに感じられ、自分の文章が如何に非力で無力であるかを痛感せずにはいられませんでした。そうしたこともあって、公演プログラムに寄稿させて頂いた文章も含め、第10交響曲について既に記事として公開している内容を繰り返す愚を犯すことは避け、拙いものになることは承知の上で、とりあえずは今回の公演の印象のみを書き留めておきたいと思います。更には、印象に残った細部については列挙に暇がないとは言うものの、今回の演奏について言えばそうした細部を取り上げることの必要性を強く感じないことから、そうすることは必要で相応しい別の機会に譲ることとして、全体的な印象だけを記して感想に替えさせて頂きます。また同一指揮者・同一オーケストラにより同一曲の再演ということであれば、前回の演奏との比較というのが関心事の一つになると思いますが、前回が10年前のことであり、その公演の記録はyoutubeでも公開されていて、いつでも何度でも接することができるとはいえ、当日に演奏会場で受けた印象や感じたことをもひっくるめての比較を行うことには困難が伴うことから、基本的には今回の公演の演奏から受けた印象に絞って記すことにさせて頂きます。(前回との比較ということでは一つだけ、第4楽章末尾から第5楽章冒頭にかけて連打されるバスドラムは、今回もまた前回と同様にステージ上のパイプオルガンのパイプに程近い客席の高いところに置かれ、丁度マジェスティック・ホテルの高層階から通りで行われた葬儀を眺め、大太鼓の音を聞いたマーラーやアルマとは上下関係が入れ替わって、その音はどこか遠くの上の方から降ってきてステージの上空の空間自体が振動しているかのように客席に降りてきて、会場全体に響き渡ったことを備忘のために記しておきます。)

 今回の演奏の全体的な印象を一言で言えば、聴き手を圧倒する、演奏者の凄まじいばかりの集中力と、細部に拘って響きのバランスや音色を磨き上げるよりは音楽の流れを重視し、恣意性を排した自然なテンポ設定で作品の大きな構造を浮かび上がらせるとともに、各パートが表情豊かに歌いきるといった点にその特徴があったように感じます。勿論、第10交響曲のような長大な作品の場合、集中が疲労との応酬の関係にあることは避け難く、この公演においても特に作品の終わりに近づくにつれて傷が目立つことがなかったとは言えませんが、そうした点を指摘すること自体が場違いでナンセンスなことであると感じられる程に、まさに一期一会と形容するに相応しい、燃焼力の高い演奏であり、何者かが降りて来たかのような奇跡的な瞬間も幾度となくありました。10年前の演奏では個別の細部に立ち入れば、まだ些か手探りのようなところがないとは言えなかったのに対して、今回は完全に曲が手の内に入ったかのような、自在で表現意欲が迸る生気に富んだ演奏で、全体を俯瞰してのコヒーレンスの高さが際立っていたように思います。

 前回同様、今回の演奏でも使用された演奏用バージョンを作成したデリック・クックは自分の作成したバージョンを(他の一部の補筆版作成者のように)決定的で、改変の余地のないものとはせずに、自分のバージョンに基づいて更に独自の改変を施したオリジナルなバージョンを作成することに対しても否定的ではなかったようですし、実際に既にそうした実例も幾つか存在しますが、今回の演奏は基本的にクック版のスコアをそのまま忠実に実現する形で行われました。そしてそのことを踏まえると、より自由に加筆を行っている他の補筆バージョンに比べてしまうと控えめで、稍々もすれば禁欲的で響きが薄いという印象を受ける瞬間がないとは言えないクック版を楽譜通りにリアライズしているにも関わらず、特に近年のマーラー祝祭オーケストラの備えている、芯のあるずっしりとした手応えを感じさせる響きによって、輝きに満ちて雄弁とさえ感じられるものになっていることに驚き、圧倒されました。管弦楽の全てのパートが凄まじいばかりの集中力をもって演奏された結果として、マーラー固有の対位法的な線の絡み合いが鮮やかに浮かび上がり、普段より聴きなれている筈のディティールのそこかしこで、こんなにも雄弁で意味深い表情が込められていたのかと気付かされ、驚くこともしばしばでした。またこのことにはステージの上での対抗配置の採用、すなわち第1ヴァイオリンの反対側に配置された第2ヴァイオリンやヴィオラといった中声部の充実が音響的な幅をもたらし、第1ヴァイオリンのすぐ向こう側に配置されたチェロやバスのパートの安定が奥行に豊かさをもたらしていたことも大きく与っていたと思います。

 テンポの設定が他の解釈に比べた時にユニークな印象を受けるのはいつものことですが、今回特に感じたのは、各楽章に含まれる複数のテンポ間の相対的な関係の設定が、オーケストラの各パートが歌いきるという観点からみても合理的であるということで、更にそれに加えてテンポが常に流動し、時として渦を巻いてうねるような効果を生みだしており、リズムの有機性が際立ち、頻繁に生じる変拍子の交替によって音楽にドライブがかかって聴き手をも引き込んでいくような強い身体性を帯びたものとなっていました。

 総じて指揮者の井上喜惟さんがクック版のスコアから読み取った第10交響曲という作品の持つ複雑さ、豊かさが余すところなく提示され、しばしばクック版に物足りなさを感じてか楽器法に手を加えるようなことが行われ、或いはクック版とは別に、より雄弁で饒舌なバージョンが作成される例も今や数多くありますが、そうした改変や異稿を不要とするような説得力に満ち、クック版の持つポテンシャルが(狭い私の聴取経験からすればこれまでに経験したことのない程に)発揮された稀有な演奏であったと考えます。そしてその結果として、現実には未完成のまま遺されたにせよ、マーラーの全作品の頂点に立つことになったであろう、この第10交響曲のありうべき姿が、デリック・クックと彼を助けたゴルトシュミット、マシューズ兄弟の補筆作業と、井上喜惟さん率いるマーラー祝祭オーケストラのリアリゼーションとの時と場所を隔てた共同作業によって十全に提示された演奏であったと認識しています。

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 コンサートに出かけることは、人によっては日常生活の一部であるかも知れないし、非日常的な例外的な出来事かも知れません。それはその人がコンサートに出かける頻度や、個別の公演が持つ意味合いに依って変わるでしょうし、公演の持つ意味合いというのは、演奏される曲目、出演する演奏者から始まって、公演の日時(平日の夜か、休日の昼間か)、公演会場となるコンサートホール、或いは例えばそのホールと自宅との位置関係といった、一見したところ些末に至る迄の様々な条件を介した、その公演とその人との関わりの様相に応じて様々でありうるし、それらの条件に応じて、そもそもそのコンサートに出かけるかどうかの取捨選択がまず行われるに違いありません。そしてそうして選択されたコンサートから受け取るものについても、上述のような聴き手一人一人が持っている諸条件に加え、例えば座席の位置、客席の埋まり具合といったものがその場で鳴り響く音響を受け取るのに少なからぬ影響を及ぼすでしょうし、その時の聴き手の心理的な状態、体調といったものに聴取の経験は容易く影響されてしまいます。聴き手は演奏を評価し、ことによったら点数付けをさえする神のごとき評価者ではありません(それは「音楽の聴取」とは別の何かで、その別の何かであればAIで置き換えることも可能でしょう)。聴き手は限りなく多様なパースペクティブのうちの一つに過ぎず、背後にある自分が受取るものの由来を知ることはできないし、聴取の脈絡もまたコンサートが行われるその場所と時間に限られるわけではなく、その外に果てしなく広がっているのであり、聴き手はそうした中で自分の能力の限界の範囲で出来事に立ち会う他ないのです。

 このような自明のことを延々と書くのも、まずは私にとってこのコンサートの持つ意味が事実として例外的なものであったからで、更には、このコンサートから自分が受取ったものが特殊個別的な自分の状況に強く拘束されたものであることをまず何よりも感じずにはいられなかったからに他なりません。例えばこの公演が平日の夜だったり、土曜日であれば現在の私が出かけることは叶わなかったでしょうが、それだけではなく、このコンサートの前日、当日の午前中にトラブルがあって、その経過によっては出かけることを断念せざるを得なかった可能性もあり、幸いにしてコンサートに出かけてから戻る迄の時間は平穏であったものの、その後もコンサートで受け取ったものに向き合う余裕がないまま、こうして10日程の日々が過ぎ去ってしまいました。私を「忘れて」はくれない「世の成り行き」との関わり合いの中で断片的された空き時間を縫うようにして、こうして感想を書い継いでいる今も尚、自分が遭遇した出来事の例外性を記録し、証言するのに相応しい状況とは率直に言って言えないと感じ、今や自分がその場で垣間見たものから場違いな程にまで隔たって、自分のキャパシティを超えたものを抱え込んで了っているという感覚から逃れられずにいます。未だそれを受け取るに相応しい程には熟していないばかりか、そもそも自分はそれを受け取る資格を始めから持っていない、無縁な存在なのではという疑念から逃れることも困難なようです。そうであれば、いっそのこと向き合うことそのものを断念してしまえば良いという考え方もあるでしょうし、実際にそうした思いが去来しない訳ではなくとも、今度は自分が受取ったものの重みがそれを受け取った事実を証言しないで済ませることを許しません。とりわけてもマーラーの音楽は、「世の成り行き」の中で落伍し、打ち捨てられた人々に対して手を差し伸べる音楽であり、その投壜通信を拾う名宛人としての権利が私には確かにあると思うことができる稀有な存在なのです。しかも第10交響曲が私が彷徨う岸辺に辿り着くには、他の作品にはない紆余曲折があり、仮に私が投壜された手紙そのものを拾っても、判じ絵か暗号文字の如きそこに自分宛のメッセージを読み取ることなどできなかったでしょう。そうした事情もあって、どんなに拙い仕方であっても、受け取ったものの価値に比して取るに足らないものであっても、それが起きたことを証言するのは、或る種の出来事の経験に関して言えば、立ち会った者に課された義務なのだということを常々感じてきましたが、そのことを今回のコンサートについて程強く感じたことはなかったように思います。私が消え去っても、私が受取った作品は私を超えて存続するし、恐らくは前回同様、今回の演奏記録も収録され、いずれは前回同様youtube等で公開されて共有の財産となり、或る種の永続性を獲得することになるであろうとは思いますが、それに留まらず、当日会場に居たて、私を含めた聴き手の一人一人が異なるパースペクティブの下で経験したこともまた損なわれることなく何らかの形で存続して欲しいと願わずにはいられません。なぜならば、それらの総体が「音楽」に他ならないからです。

 前回の「嘆きの歌」の公演もそうでしたし、今回の公演でも改めて、私にとってそれは、娯楽としての消費であれ、所謂教養としての「音楽鑑賞」であれ、そうしたことを目的として演奏会場に赴くというよりは寧ろ、例えば現代日本の作曲家・メディアアーティストの三輪眞弘さんが仮構する、消え去った何者かを追悼し、記憶するための儀礼により近いようだということをはっきりと感じました。そしてそのことが、私にとっては、アドルノがヘーゲルを参照していうところの「世の成り行き」をやり過ごすためのほぼ唯一の「抵抗」の拠点であるということもまた、強く認識しました。我々はミームの存続のための媒体に過ぎず、シェーンベルクは第9交響曲に関して作曲者を「メガフォン」に喩えましたが、作曲家のみならず、演奏者、聴き手もひっくるめて、「音楽」に関わる我々全てを通して他の何者かが語るという点が重要なのであって、マーラーが「音楽」を世界のようにすべてを包括するものでなくてはならないと語ったことの少なくとも一面は、こうした認識に繋がっているものと思います。マーラーは自分の営為を、愛読したゲーテ『ファウスト』第1部の地霊の科白を引用しつつ「神の生きた衣を織ること」であると述べたことがありますが(1896年11月18日にハンブルクからリヒャルト・バトカに宛てた書簡)、マーラーが遺した作品がそうであるように、このコンサートにおけるその作品の演奏もまた、「神の生きた衣を織ること」と喩えるに相応しく、語り継がれるべき出来事であったと確信しています。そのことをここに証言するとともに、そうした達成を実現した、まずはマーラーその人と、とりわけても第10交響曲についてはデリック・クックと彼の補作を支援した人々(更にもう一度、「輝かしい孤立」をマーラーその人とともに生き、没する直前に、まるで遺言のようにクックの作業に対する支持を表明したアルマのことも今一度思い起こしましょう)、そして井上喜惟さんのもとに集った演奏者の皆さんに対して感謝の言葉を記してこの稿を終えたいと思います。(2024.6.6公開, 6.7加筆)