2023年3月16日木曜日

備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (4)

ところで「老い」のような水準は、現象学的分析においては扱いづらいもののようである。現象学が通常扱う意識の水準で「疲労」とか「倦怠」が取り上げられることはあるが、それらはせいぜいが過去未来方向の把持を含めた「幅をもった現在」の意識の相関者である「中核自己」の水準であるのに対し、「老い」は生活世界の住人である「自伝的自己」に関わるもので、両者は区別されるべきように思われる。管見では、アルフレッド・シュッツの生活世界の構成についての分析では、「時を経ること」=「老いること」が取り上げられていることを確認している。例えば、既に「老いの体験」と「老いの意識」の区別について参照した『社会的世界の意味構成』の第2章では、「私が年老いていく」事実と「老いの認識」について、フッサール現象学の時間論を参照しつつ述べた後、第3章 他者理解の理論の大要 の第20節 他者の体験流と私自身の体験流の同時性(続き)において、生きられた「同時性」を「共に年老いるという事実」(同書邦訳, p.143, 原文傍点)に見出し、それに基づいて第4章 で社会的世界の構造分析が展開される。C.社会的直接世界 (同書邦訳, p.224以降)で我々関係についての考察が為され、「しかし直接世界的な社会関係において年老いるのは1人私だけではない。我々はともに年老いるのである。」(同書邦訳, p.237, 原文傍点)とされるのである。なおリチャード・M・ゼイナー編『生活世界の構成:レリヴァンスの現象学』でもその最後の部分(第七章 生活史的状況 のE.時間構造)で、「時を経るという体験、つまり幼児期、青年期、成人期から衰退期を経て、老年に向かうという推移の体験」(邦訳:那須壽・浜日出夫・今井千恵・入江正勝, マルジュ社, 1996, p.246)をもっとも根本的な体験のひとつとして挙げており、「われわれは時を経るということ、これがわれわれにとっては最高度のレリヴァンスをもっている。それが、動機的レリヴァンス体系の最高次の相互関係、つまり人生プランを支配しているのである。」(邦訳同書, p.247)という指摘が見られる。勿論、このシュッツが取り上げる「年を経ること」=「老いること」は、時間論的には「推移」一般と関連づけられていることから窺えるように、特にダンテの定義する「老年」における「老い」の固有性をとらえたものではなく、従って、ここでの考察にとっては出発点を提供するものに過ぎないが、狭義での現象学的分析の対象である「中核自己」とは異なる「自伝的自己」の水準にフォーカスしている点、プロセス時間論などで「知「生成」と対比して論じられる「推移」の経験、つまり「超越」における被把持であり「自己超越=死」と「生成」とがリズムを刻むという不連続的・エポック的な時間把握へと接続可能である点、更には「老い」が本質的にポリフォニックであるという認識への展開の可能性を含み持つ点で極めて有効な視座を提供していると思われる。(更に追記。『生活世界の構成:レリヴァンスの現象学』における「時を経るという経験」が登場する箇所には編者による注が付けられているのだが、その注は、シュッツの別の論文「音楽の共同創造過程」への参照を求めている。ここでもまた音楽の体験が取り上げられていることに留意しよう。)

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 「老い」は通常二次的、複合的、派生的概念と見なされているのではないか。老いはファーストオーダーの事象ではなく、ある種の複合・ベクトルの合成の結果と見なされる。生成に対するのは死であり、老いではないと見なされてしまう。死と老いとを区別しないことは、生成の側に本来は存在する差異を蔑ろにすることにも繋がってはいまいか?

 自伝的自己の老いについては、だが、それでもいいのでは?ポリフォニーは単旋律の複合ではない。ポリフォニーをより単純な要素に還元することはできない。そうすればカテゴリーミステイクになってしまう。ここでもシュッツの指摘に耳を傾けるべきだろうか?『生活世界の構成 レリヴァンスの現象学』の第一章の序言において、シュッツは「対位法」を比喩として取り上げているのである。

「(…)私が念頭においているのは、同一楽曲の流れのなかで同時に進行している、独立した二つの主題間の関係についてである。それは簡単に言えば対位法の関係である。聴衆の精神は、いずれか一方の主題を辿るだろう。すなわち、どちらの主題であれ一方を中心的主題とみなし、他方を副次的主題とみなすだろう。中心的主題は副次的主題を決定しながら、それでもなお構造全体の入り組んだ構成のなかで依然として優位であり続ける。われわれの人格の、そしてまた意識の流れのこの「対位法的構造」こそが、他の文脈で自我分裂の仮説と呼ばれているもの―何らかのものを主題的に、それ以外のものを地平的にしようとすれば、われわれは自らの統一ある人格の人為的な分裂を想定せざるを得ないという事実―の系をなしている。主題と地平の区別が多少なりとも明確であるようにみえる場合、それを他から切り離して考えてみれば、そこには人格の二つの活動が存在しているにすぎない。そのひとつは、たとえば外的世界における諸現象を知覚する活動であり、他のひとつは「労働すること」、すなわち身体上の動きを通してその外的世界を変化させる活動である。だが、されに詳細に探究してみれば、そうした場合でさえも、精神の選定活動に関する理論は、領野、主題、地平といった問題よりもより一層複雑な問題群のための単なる題目―すなわち、われわれがレリヴァンスと呼ぶように提案している基本的な現象のための題目ーであるにすぎないということが明らかになるだろう。(…)」(リチャード・M・ゼイナー編『生活世界の構成:レリヴァンスの現象学』, 那須壽・浜日出夫・今井千恵・入江正勝訳, マルジュ社, 1996, p.41, ボールド体による強調は原文では傍点。 )

 シュッツの上記の指摘は、「老い」固有の事情についての指摘ではなく、寧ろ生活世界の構成一般についての指摘であるけれど、自伝的自己に関わる限りにおいての老いは、そうした次元に関わる限りにおいて、本質的に対位法的なものではないのか?「老い」の意識は、相対的なものである限りで、他者を必要とするのではないか?「老い」はポリフォニック、対話的なものではないか?それと細胞老化・個体老化という生物学的な意味合いでの老いとは区別されるべきではないか? ボーヴォワールの『老い』においても、第二部 世界ー内ー存在(邦訳同書下巻)において、「老いとは、老いゆく人びとに起こること」(p.331)であるがゆえに「老いという問題については名目論的観点も観点論的観点もとることができない」と主張されるのは、「自己の状況を内面的に把握し、それに反応する主体」(ibid.)としての「年取った人間」としての「彼がいかに彼の老いを生きるかを理解しようと試みよう」とする限り当然のことであろう。そもそもボーヴォワールの分析は、『自我の超越』や『存在と無』といったサルトルの現象学的分析に依拠しているから、シュッツの立場との接点があるのは当然だが、「老いとは、客観的に決定されるところの私の対他存在(他者から見ての、また他者に対するかぎりにおいての、私という存在)と、それをとおして私が自分自身にもつ意識とのあいだの弁証法的関係なのである。」(邦訳同書下巻, p.334)という規定は、シュッツのいうレリヴァンスとしての「対位法的構造」と、少なくとも事象の側としては極めて近しい水準のものを対象としているとは言い得るだろう。如何にも『存在と無』における他者のまなざしに関する議論を彷彿とさせる、「老い」の発見における他者のまなざしの役割の強調も、それが身体の経験の枠組みの中で捉えられる限りにおいて、直接的な他者の視線であったり、鏡に映った自己を眺める自身の視線に還元されてしまうように見えたとして、それのみに尽きてしまうわけではあるまい。勿論、「老い」において生物学的次元・生理学的次元を無視することはできないが、そこに還元してしまえるわけではない。ボーヴォワールの言う「普遍的時間」とは、実のところ普遍的ではありえず、生物学的時間・生理学的時間、そしてそれらと同様、天体の運動のような次元に基盤を持ちつつも、社会的関係によって構成された「暦」のような時間の重層のそれぞれの切断面に老いの経験の契機が孕まれているのであって、さながら冒頭の私の経験は、ボーヴォワールの記述においては、第六章 時間・活動・歴史 の中における「私は、私が為した(作った)ところのもの、しかもただちに私から逃れ去って私を他者として構成するところのもの、である。」(邦訳同書下巻, p.441)という規定に照らした場合の(残念ながらボーヴォワールの場合とは異なって)或る種の欠如の感覚(要するに、何も生み出すことなく馬齢を重ねるという認識)に起因するものであったということになろうか。

(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)

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