2023年3月16日木曜日

備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (11)

 ところでマーラーの晩年はいつから始まったのかという問いについては、作品における「後期様式」と対応付ける答え方が一般的だろう。(それは結局、アルマの「3つの運命の打撃」の前と後という見解を受け入れることになる。)だが、「老い」の始まりは?彼が「老グストル」になったのはアルマと結婚して以降だ。すると第5交響曲を分水嶺として、第6交響曲以降は「老い」の意識の裡で書かれたという見方が成り立つことになる。そこにはまだ「後期」の死の影はないけれど、「老い」の意識は確実に存在するとは言えないだろうか?だがそれはアドルノ=ジンメルの言う「現象から身を退く」こととイコールではないだろう。その意味合いでは作品における「後期様式」を第8交響曲を分水嶺にして、『大地の歌』以降におくことは間違いではない。寧ろそれらを「死」とあまりにも性急に結びつけることが問題なのだ。そこにあるのは第一義的には「老い」であり、一人称的な「死」についての認識は、寧ろ前提・背景、せいぜいが素材に過ぎず、実質ではない。ましてや「死」一般ということならば、マーラーにおいてそれは作品1たる『嘆きの歌』以来、ずっと扱われてきたのではなかったか?それを考えるならば、「老い」を主題化して取り上げることでマーラーの後期に関する誤解や矛盾の幾つかは解消するのではないか?

 もう一つの伝記的・実証的な資料。1907年夏のマーラーより宮内卿モンテヌオーヴォ侯への書簡と、それに対する返信である1907年8月10日ゼメリング発の宮内卿モンテヌオーヴォ侯よりマーラーへの書簡。アルマの言うところの「三つの運命の打撃」の一つであるウィーン王室=宮廷歌劇場監督辞任に関わる書簡で、後者は後任者ヴァインガルトナーの前任地プロイセン劇場総監督によるヴァインガルトナー解任によりヴァインガルトナーが1908年1月1日よりマーラーの後任となることが確定したことを告げるとともに、前者の中でマーラーが希望していた年金、補償、更にマーラー没後の妻への年金支給の件につき、皇帝から許しが出たことを告げる手紙であり、アルマが回想録に付した書簡集の中で過半を占めるマーラーからアルマ宛の手紙とともに幾つか収められているマーラーとアルマ以外の人間との間で交わされた書簡の遣り取りの一つである。この書簡の往復によって、マーラーがウィーン王室=宮廷歌劇場監督を辞して後、老後の備えとともに、自分の死後の準備についても怠りなかったことを窺い知ることができる。特に前者のマーラーの書簡からは、マーラーが冷静で現実的な交渉者であったことを如実に窺わせるに足る。尤もマーラーが劇場とのやりとりにおいて、人によっては「策士」「策略家」という形容をする程に、職を辞するにあたっても衝動的に辞めてから次を探すなどもっての外(とはいえ、そうしようと思えばそうできる程の稼ぎはあった筈なのだが)、常に事前に次の契約を獲得していたのは若き日からの常であって、だからその点について特殊な訳ではない。特にこの遣り取りの中での2点目の補償について等であれば、例えばハンガリー国立歌劇場を辞する際にも、残された契約期間に受け取れたであろう額が支給されることを求めて認められたりした経緯もあるわけだが、ここでは第3点目として自身の死後についての項目が挙がっている点でマーラーが「老後」「死後」を見据えていたこと、ということは即ち、マーラーの「老い」についての意識に基づく行動を、はっきりと、かつ客観的な事実として告げている。

(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)

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